せせらぎせらせら

日々思うこと

思い違い

2008-08-16 | ぎらぎら
社会にモラルの欠如を見出すのは、単に自分の美学と大衆の美学とがズレてしまっていることによる思い違いか。

それを肌で感じたとき、奮起して声を上げるべきか憮然として口を閉ざすべきか。

いずれにしても、滑らかに迎合できるほどの器用さはまだない。

20代後半とはそういうことに大いに思い悩むお年頃だ。

なりふり構わず自己の存在を叫ぶ蝉たちのイノセントな姿が悩める脳にはとても心地好い。夏はそれ自体が巨大なカタルシスだ。

大衆の美学をモラルと呼ぶならば、モラルが欠如しているのは確実に自分の方だし、思うがままに周囲を変えたいと考えることが人類の犯してきた数々の過ちの根底にあることは明白だ。

ただただ願わくば、いつのときも大衆に“美学”の意識があらんことを。



グローバリゼィションももちろん好い。
が、嘗て日本人の特徴とされた内省の慣習が失われることは、日本文化の崩壊に直結するだろうね。間違いなく和の心は内省の上に育まれてきたのだから。

自分の名前よりも国の名前を大きく背負った選手が必死に戦う姿を見れば、やはりなんとか勝ってほしいと願うのももちろん人情だし大切なナショナリズムだが、自らを制するよりも相手を制することに重きを置くような、もはや日本文化とは呼び難い競技を見てチクリと心が痛むようなナショナリズムもあってほしい。

とは言え、崩壊する文化や加速する若者の晩熟化に代表されるような一見すると憂うべき現状さえも、ポジティヴに長いスパンで見れば国家規模で大器晩成の過程に入った証であるようにも思える。

序破急ならば守るべきものの崩壊もまた重要なプロセスだ。



社会のホメオスタシスに期待すればこそ、何事も別段憂うべくもない。

まぁ、神不在の国で“神の手”に期待するのも可笑しな話だが。

無神論者の立場から、僕はそれを“せせらぎ”と呼んでおこう。