腹が減ること

2008-10-28 09:15:30 | Weblog
まもなく11月だ。11月23日は今では「勤労感謝の日」であるが、元々「新嘗祭」(にいなめさい)という皇室の行事だった。要するにその年に採れたお米を神に感謝するための行事だった。

食べられることを神に感謝することの裏には空腹と飢えがあった。ごく最近まではそうだった。

小学校2年か3年頃、つまり太平洋戦争の末期の頃、食べ物事情が最悪だった頃のことだ。給食などは無かった時代である。誰でもがアルミの弁当を持参して登校していた。昼食の時間になると「徴発」という行事が毎日のように起った。「徴発」とは強い者が人民から物資を取り上げる行為のことである。小学校の昼食時の「徴発」とは、内容の貧しい弁当を持たされた生徒が豊かな生徒の弁当から目ぼしいオカズを取り上げることである。(もちろん担任の先生が居ない時にやるのだ)
私などは「豊かな生徒」に入っていたらしく、毎日のように「徴発」の犠牲となった。焼きタマゴとかシャケなどは彼らの好物だったようだ。さすがにメシまで取り上げることはなかったけれども。
そういうことをする生徒は我が町の特定の一区画に住む貧困層の子供であることは私も知っていた。だからキリスト教的理屈からすればそういうお気の毒な生徒に食べ物を分け与えるのは当然のことだったかもしれない。しかし、せっかくの美味しいオカズを取り上げられるのは不愉快だった。
皆が弁当を食べ始めると、そういう腹を減らした乱暴者は「チョーハツ!」と叫んで自分の弁当箱を片手に堂々と座席の間を廻り始める。富裕層たちも弁当箱を手で覆ったりして抵抗するけれども、それはムダだった。容赦なく箸を突っ込んでシャケなどを持って行くわけだ。!
乱暴で不合理な行為ではあったけれども、今思い返してみると何やら陽気な行為だった。貧しい弁当の故の陰にこもった雰囲気は感じられなかった。陽気に堂々と「チョーハツ!」なのだ。
これも今思えば彼らの屈辱感の裏返しだったに違いない。空腹に勝てなかっただけである。自分を支えるには乱暴な陽気さしかなかったのだろう。そして「チョーハツ」される我々にとってもその陽気さ乱暴さは救いだったはずだ。たとえば、逆に、小さな声を震わせて「そのシャケいただけませんか?」などと迫られたらずっと陰惨な思い出として今も残っていたに違いない。
「チョーハツ!」はそれなりに良い思い出であって、やった側もやられた側もそれぞれ人間を造る基礎になったように思う。

今はその貧困層の集まっていた地区はすっかり都会化して昔の面影はない。乱暴者たちは、その屈辱感をバネにして一生を築き、今頃はどこかで好々爺として暮らしているに違いない。

それにしても、腹が減ると人間は思い切ったことをするものだ。



最新の画像もっと見る