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学ぶ沖縄戦6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む/少数派

2022年06月06日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第6回 
日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

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米軍の攻撃でがれきと化した首里城の城壁=1945年5月撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.太平洋戦争末期の沖縄戦で日米両軍の戦いはどういう経過をたどったのか?
A.米軍は1945年3月26日に沖縄本島の西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には現在の読谷(よみたん)村や嘉手納(かでな)町あたりの沖縄本島中部の西海岸に上陸しました。日本軍の攻撃はほぼなく、この日のうちに約6万人もの兵士が「無血上陸」しました。その後、米軍は沖縄本島を南北に切り離して進攻します。これに対し、日本軍は4月6日以降、九州などから航空機による米艦船への大規模な特攻作戦を開始。戦艦「大和(やまと)」も海上特攻に出撃しましたが、7日に鹿児島県沖で撃沈されました。沖縄の日本陸軍第32軍は沖縄本島中部の高地に陣地を構え、米軍に応戦しました。

4月中旬以降、約40日間に及ぶ一進一退の激戦が現在の宜野湾(ぎのわん)市、浦添(うらそえ)市などの一帯で繰り広げられましたが、米軍は戦闘を制し、5月中旬には首里(しゅり)城(現在の那覇市)の地下に掘られた第32軍司令部に迫りました。日本軍は既に多くの戦力を失っていましたが、沖縄本島南部に撤退して徹底抗戦する方針を選びました。米軍の日本本土上陸までの時間を稼ぐためだったとされますが、この撤退が大きな被害を生みました。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(1992-96年)毎日新聞
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Sankoub
次号/7・辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」
前号/5・沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容

Akahatatop

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