koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

ルドルフ・ケンペの忌日に6

2010年05月11日 22時04分33秒 | 音楽

明け方妙な夢を見た。
中古レコード(つまりLP)を漁っているという夢で,青地のジャケットで中央に色鮮やかな菜の花が咲き乱れる1枚を見つけた。
ブラームスの第3交響曲+悲劇的序曲。
演奏は,ルドルフ・ケンペ指揮ベルリンフィルハーモニー。
高校生の頃,買いに行ったら(多分)タッチの差で売り切れていたという代物である。
当時1,200円だったが,高校生にとってLP1枚買うというのは一大イヴェントであったから,見つけて金策して買いに・・・というプロセスを辿ったものである・・・。
ジャケットの状態も極上,ついでに紺色の襷まで付いている・・・と喜んだら目が覚めた・・・。
そして,今日5月11日がケンペの忌日だと気が付いたのは,午後に車中で同曲のCDによる演奏を聴いている最中だった・・・。


ルドルフ・ケンペ(1910.6.14-1976.5.11)。
ドレスデン近郊ニーダーボイリッツに生まれ,チューリッヒに没したドイツの名指揮者である。
過去5年に渡ってこの日は,彼の残した演奏について語ってきたが,今年もこの日がやってきた。
以前ここで述べた曲目は,ドヴォルザークの「新世界」に始まり,ブルックナーの第8,ブラームスの第2,R・シュトラウスの交響的印象「イタリアより」と続いてきた。
・・・で,今朝方の夢により,今年述べるのはブラームスの第3交響曲に決定した・・・。勿論,ベルリンフィルハーモニーとの旧盤で,私の夢にまで出てきたLPは,多分1973年頃に再発売されたAA5082(東芝EMI セラフィムベストシリーズ)であり,手元にあるTESTAMENTからの復刻CDによると,1960年の1月19~23日にベルリンのグリューネヴァルトキルヒにて収録とクレジットされていた・・・。
 

ブラームスの残した4曲の交響曲はいずれも傑作であるが,その中で規模的に小さいせいか最も人気がないのが,おそらく第3番ヘ長調と思われる。
第1のような韜晦と勝利であるとか第2のような牧歌的な雰囲気,さらには第4のような悲劇的でラプソディックな要素・・・といったものからは程遠く,ヘ長調で書かれててはいてもブラームス故にすっきりしない。
しんねりむっつり,日が差さずにうじうじ・・・といった感じの曲である。
壮大な盛り上がりとか劇的な終結とは全く無縁で,曲自体が解放よりも沈潜へ向かう・・・といった内容なので,実は私は大いに気に入っている。


第1楽章冒頭,金管が五度の和音でコラールを鳴らすが,ケンペの演奏は内声部を強調するのか木管のユニゾンが絶妙なバランスで聞こえる。
3小節目からそれを受けて立つ弦楽の分厚い響きは,さすがベルリンフィルである。
総じてテンポは速めであるが,せかせかした感じは全く無い。
9/4拍子の主部に入ると,控えめでありながら艶やかさも感じさせるクラリネットのソロに魅了される。
吹いているのは名手カール・ライスターであろうか。
そのメロディを受け継ぐヴィオラの見事なユニゾン!!
ブラームスの交響曲はこうでなくては・・・。


私が買い損ねたLPのジャケットはドイツの(多分)春の野の情景であったが,この第3交響曲は明らかに秋の交響曲だと思う。
それも色づいた木々の葉がそこはかとなく儚げに舞い落ちる晩秋の・・・。
中欧の諸都市(例えばブラームス縁のウィーンとかハンブルク)の色づく街路樹の下を,そぞろ歩きするのに相応しいのが続く第2楽章であろう。
北国の鉛色の曇天の下,時折薄日が差し込む黄昏時のような情趣が,終わり7小節の金管の緩やかなコラールと,それに絡む見事なオーボエのソロ(ホリガーか?)に感じられるのはこの演奏ならではである・・・。


続く第3楽章は,イングリッド・バーグマン主演による1961年の仏映画「さよならをもう一度」(原作はサガンの「ブラームスはお好き」)で使用されて有名になったらしいが,典雅にして幽玄とも云うべき雰囲気が漂う。
本来は舞踏楽章たる第3楽章にメヌエットでもスケルツォでもない三拍子を挿入することで,緩抒楽章の前楽章とAliegroの次楽章への見事な橋渡しが為されるのがロマン派の作曲家たるブラームスの真骨頂であろう。
この楽章をねっとりとやられるのは私の趣味ではないが,ケンペはすっきりとした表情の中から時折美しいソロを明滅させるように演奏するので,速めのテンポながら無機的・即物的な印象は全く無く,自然にブラームスの感じたであろう情感が無理なく表出されるようだ・・・。


そして万感の思いを込めたような終曲が来る。
悲劇的な展開は,やがて激しい闘争心として青白く燃え上がる。
スコア52小節からの弾力的にして決然たる進行は,いつ聴いてもじわじわと熱いものが込み上げてくるこの曲の白眉とも云うべき場面であるが,第1ヴァイオリンとホルンのユニゾンがこれ程絶妙なバランスで響いた例を私は知らない。
ホルンを強奏させて圧倒的な効果を上げていたのがケルテス指揮ウィーンフィルの演奏だったが,ケンペの演奏はまさにその対極にある。
そしてその主題が回帰する再現部(194小節目から)ではほんの僅かホルンを強調するあたりが実に心憎い・・・。
緩やかなコーダに宿ったのは死の影なのか安息なのか,聴き手のイマジネーションに委ねられるものと思うが,終わり3小節,ヘ長調の四度音程を下から支えるティンパニのF音がくっきり聞こえ,何とも言えない安定感を終結にもたらしている。
曲を知り尽くした指揮者の名人芸・職人芸とはこういうものなのだろう・・・。


ケンペが残した第3には,晩年にミュンヘンフィルを指揮したこれまた味わいに富んだ佳演が残されている。
その演奏比較を・・・とも思ったが,紙面も尽きようとしている(・・・というか,それをやってしまうと今日のエントリがどれ程の分量となるのか皆目見当が付かない・・・)。故に,今宵は今一度ケンペがベルリンフィルから紡ぎ出したカラヤンとは全く違う音楽に虚心に耳を傾けたいと思う・・・。

「さがすべきではない。めぐり合うべきである。さがすということは,意識的な小細工を意味する。めぐり合うのは,作曲者とその音楽に対する献身の結果である。」 
 ルドルフ・ケンペ (尾埜善司 訳 同著「指揮者ケンペ」より)
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