いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(274)「忠実な僕の生涯」

2014年07月29日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネの黙示録2章8節から11節までを朗読。

 

 10節「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。

 

 パウロやペテロなど神様の霊に満たされて地中海沿岸の各地に、イエス様のよみがえり給うたこと、神様の大きな救いが完成したことを伝えました。その結果、いたる所にイエス様を救い主と信じるクリスチャン、イエス様の救いにあずかった人々が集まって教会を作っていました。神様はヨハネに霊を注いで、キリストの霊によって神様の御心を主だった当時の七つの教会に与えました。昔の教会だから私たちと関係がないように思いますが、実はそうではなくて、それぞれの教会にあてられた神様のメッセージ、御心は私たちに対する御思いでもあります。私たちもこの地上にあってイエス様の救いにあずかった者として、神様の民として、生かされています。しかし、私たちの信仰生活には戦いがあります。次から次と、いろいろな問題や事柄に遭って信仰が試される、揺さぶられます。私たちの心はいろいろな思い、世の中の様々な習慣や仕来り、そういうものが私たちの神様に対する真実な思いを損なおうとして絶えず働いてきます。そして、いろいろと間違った道へ踏み出そうとしやすい。不信仰に陥(おちい)ったりします。私たちの具体的な心の状態、信仰の状態、日々の歩み方のどこに注意をすべきか、七つの教会に対して神様が語られたのです。この七つの教会にあてられた神様の御思いは、いろいろな側面から私たちの信仰生活のあり方に光を照らしてくれる、あるいは目を向けさせてくれるものです。

 

2章1節にあるエペソの教会には、4節に「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と語られています。エペソの教会は神様に忠実に従い、品行方正でどこにも非の打ち所のない教会でしたが、しかし、残念なことに心がなかった。することはそつなくきちんとしてはいるけれども、その思い、動機が神様に対する喜びと感謝、ご愛に応答する心がなかった。だから、エペソの教会に対して「あなたは初めの愛から離れてしまった」と指摘されました。これはエペソの教会ばかりではありません。私たちもそうではないでしょうか。イエス様の十字架によってあがなわれ、ひとり子を賜うほどの限りない主のご愛によって愛された者です。汚れた者、滅び行く者、失われていた者が、一方的な神様のひとり子を賜うほどの大きなご愛に触れて、感謝して新しいいのちに生きる者と変えられた。ところが、1年たち、3年たち、5年、10年、何十年とたってくると、いろいろなことで私たちの心は初めの喜び、感動が消えてしまう。だから、エペソの教会に対して「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と。これはエペソの教会ではなく、私のためです。

 

エペソの教会にしろ、スミルナの教会にしてもそうでありますが、スミルナの教会には、9節に「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」と語られています。スミルナの教会は貧しくて、しかも様々な困難に直面していた。しかし、そのような目に見える境遇、置かれた状況は大変厳しい環境ではありましたが、しかし、彼らは何とかして神様の御心に沿いたい、主の救いに応えて、イエス様のご愛に応えて、何とか救いを全うしていきたいと願いつつも、やはりくじけます。時々スランプに陥る。これは私たちもそうでしょう。私たちも新年聖会で恵まれて、「よし、今年も頑張ろう」と、始まって二ヶ月たちましたが、もういい加減スランプに落ち込みかけている。「去年と変わりがないな」となりやすい。だから、ここで神様はスミルナの教会に「あなたがたは確かにそうやって苦しい困難によく耐えているけれども、だから、立派だよ」と言われない。神様ははっきりと「あなたはちょっとスランプに落ち込んでいるね」という意味で言っているのではなく、「もうそれは分かっているから、そうではなくてもう少しこうありなさい」と勧めているのです。スランプに落ち込んだから、信仰がだらけてしまったから、あるいは迫力がなくなった、自分に力がなくなったと、それを責めるわけではありません。私たちはそのように弱い者です。けれども、絶えず初めの愛に立ち返り、もう一度力を与えられていくこと。旧約聖書を読みますと、モーセもそのような時があったのです。信仰の人モーセと言われていますが、あまりにもイスラエルの民が言う事を聞かないし、わがままなことばかり言うから、彼は嫌になった。神様に祈りました。「神様、あなたは私に『この民を指導せよ』と言うけれども、この民は誠に言う事を聞きません。もう私は結構ですから、早くわたしの命を取ってください。このお役はお返しします」とお祈りをしているところがある。私はそこを読むと「モーセもそうか」と、我が意を得たりと思いますが、だから「それでよし」というわけではありません。神様はそれでもなおモーセをなだめて、励まして、その使命を全うさせてくださいました。

 

エリヤもそうでしょう。カルメル山でバアルの預言者450人と対決をしました。1対450の戦いをやり、大勝利を得ました。「火をもって答える神を神としましょう」「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」(列王紀上18章)と格好のいいことを言って、勝利しました。そのとおりに、神様は火をもって答えて一気に焼き尽くした。ところが、その後イゼベルという后(きさき)が「エリヤなんか生かしておかん。私の目に入ったら一瞬に殺してやる」といううわさを聞いた途端、シュンとしょげた。そして、スタコラ逃げ出して、途中、“れだま”の木の下に座って、「神様、私の命を取ってください。私はあなたの期待されるような人間ではありません。何もできませんから」と言ってふて寝した。すると、神様はちゃんと御使を送って、水とパンを備えて彼を励まし、力づけて、それから元気づいて神の山ホレブまで行った。そこで初めて神様の臨在に触れるのです。信仰の人エリヤですらもそういうことがあります。だから、私たちは余程気をつけなければいけないと思います。サタンはいつでも私たちの心を神様から引き離そうとしてきます。いろいろなうわさを聞かせたり、人の言葉をもって近づいたり……。

 

先だっても、ある姉妹が集会にちょっと遅く、終わりがけに来られた。「先生、申し訳ありません。今日は早く来ようと思ったのだけれども、どうしたんでしょうか、私は喜んで集会に行こうとすると、出かける直前になって必ずいろいろなことが起こるんですけど、これはサタンなんでしょうか?」と言われました。そのとおりで、私たちが「さぁ、今日は礼拝に行こう」と用意をしていると、電話が掛かってくる。しかもどうでもいい電話で長電話。乗るバスに遅れてしまう。30分は遅れるでしょう。断ればいいんだけれども、それがまた断りにくい。相手はしゃべり続けて口を挟む間がないことがある。さぁ、出かけようと思って、ホッと玄関を降りたら、足をくじいて、「あ痛!」となる。そこにサタンがいつも働くのです。私たちが何かしようと思うことを阻害しようとする力、これはサタン、殊に神様に近づこうとすると、サタンは激しい力で私たちを引き離そうとしてくる。だから、皆さん気をつけていただきたい。のんびりだらんとしていたら気がつかないうちにサタンにさらわれてしまって、「今日も礼拝は休み」「休み」「休み」「休み」、一ヶ月休みとなってしまう。常に私たちは警戒していかなければなりません。

 

スミルナの教会に、神様は、9節に「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」。いろいろな苦しみの中に置かれるが、10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。必ず苦しみがあると、イエス様は言っています。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。このときも「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。今申し上げましたように、サタンは私たちが神様に従おうとする思いを壊そうと、いろいろな仕掛けをしてきます。「見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている」と。それはサタンの働きであって、「ためすため」とありますが、私たちを試みようとしてやってくるものです。だから、私たちはそこでしっかりと踏みとどまること。

 

 10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。私たちは「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう」といろいろなことを恐れます。恐れると私たちの心は弱ります。そこへサタンがスッと忍び込んで、私たちを信仰から遠ざけます。神様から私たちを引き離そうとします。だから、「そんなことを心配するな」と神様は言われる。「まだ今日は元気だし、今日は悪いところはあるけれども、それはそれで今差し障りはないし……」と安心はしているが、どうですか?「来年の今ごろは生きているだろうか」と思っているでしょう。また「この元気がいつまで続くだろうか。寝たきりになるかもしれない。半身不随になるかもしれない。ひょっとしたら認知症になるかもしれない」と、いろいろなこれから受けるかもしれない困難があるではないですか。言うならば、苦しみが待ち受けている嵐の中に、私たちはどんどん突き進んでいるのです。だから、できるだけ考えないようにする。忘れっぽいのは幸いですが、しかし、こればかりは忘れられない。毎朝起きるたびに五体満足かと思って、点検して、「よし、よし、これで今日は大丈夫」とひとまず安心。

 

私たちはいろいろな中を通ります。それはサタン、悪魔が試みようと、試そうとしているのです。だから、そういうのを恐れないで、しかも「あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」と。私たちが受ける苦しみは「そんなに長いものではない」と言われる。それはそうですよ。もう70年も80年も生きてきて、これから10年苦しんだって、80年に比べれば短いものです。でしょう?ところが、10年も苦しむと思うと、それまでの80年はなかったごとく、「私は生まれてからズーッと苦しんでいる」ように錯覚する。この10日というのは、10年であるかもしれない、30年であるかもしれない。あるいは文字どおり10日であるかもしれない。そういう方もいらっしゃいます。「あら、具合が悪い」と寝込んだら、10日目に死んでしまった。これは幸いなことですね。私たちはこの「10日」はどのくらいの期間であるかそれは分かりませんが、「いずれにしてもそんなに長いものではない」と神様は言われる。私たちの人生、よくて70年、せいぜい80年とあるじゃないですか。80を超えた人は言うならば期限切れです。だから、これから先少々苦しみがあっても感謝していく。これが私たちに求められていることです。ここに「苦難にあうであろう」とおっしゃいます。しっかり覚悟しようではありませんか。「いいです。どんな苦難でも受けて行こうじゃありませんか」。

 

その後に「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」とあります。この地上でいつまでも死なないで、生き続けるのではない。必ずその終わる時が来ます。終わってから後、私たちに約束されていることがある。それは永遠のいのちの生涯です。ここにありますように「いのちの冠」、神様から勝利を得させていただく。神様の報いにあずかる時が来る。この地上にあって、サタンが様々な苦しみをもって私たちを試みてきますが、その約束を信じて、サタンの誘惑に勝利する。イエス様の命によって、十字架のあがないにあずかり、私たちは神様に仕える者、僕として生きる者とされている。だから、私たちは自分のために生きるのではなく、死んでよみがえった方のために生きる生涯(Ⅱコリント 5:15)、言うならば、キリストのもの、主のものとして生きているのです。そうすると、生かしてくださる主に対して果たすべき責任がある(ローマ 8:12)。私たちはこの世にあって肉にある責任を果たすわけではありません。親の情であるとか、感情だとか、あるいは肉親の血のつながりだとか、義理人情など、そういうことにくっついているかぎり、私たちは主のものとは成り得ない。それどころか、そんなものに結びついているから大切なものまで失うのです。そうではなくて、私たちは常に主のもの、キリストに、主に仕える僕として、この地上に置かれているのです。この地上にあって神様の御心に仕えていくこと、このことをしっかり覚えておきたいと思います。「『御心に仕える』って言ったら、明日から私の生活はどうなりましょうか」と言われる。「御心に仕える」とは、いま私たちが置かれている、遣わされた所、いま置かれた生活、与えられた問題やいろいろなことの中で「いま、このことを神様が私に託されたのです」と、それを受け止め直し、神様から頂くことです。生まれた時から、この世のしがらみ、仕方がない抜きようのない関係、これはもう親だから、子供だから、娘だからという関係の中にいますが、しかし、それを清算して、御破算にして、今は神様がこの親というか、この人を私のものとして託されたと受け止めていくこと。これが主の御心を行うことです。その中で私たちは自分の生活、自分の身の回りも含めて、主のために、主の御心はどこにあるか、思いはどこにあるかを絶えず問わなければならない。自分の感情、好き嫌いや、自分の損得利害に引き回されるのではなくて、一つ一つ主がいま私にこのことをさせてくださっているのだと知ることです。

 

私の家内の母がいまホームに入っているのですが、母親と娘という関係は難しいですね。お互いがお互いを思いやるがゆえに傷つける。こういうのを「ヤマアラシ症候群」と心理学で言われます。ヤマアラシはとげがありますから、愛して相手にできるだけ近づこうとすると、むしろお互いに相手を傷つける。だから、ある程度距離を置くことを勧めています。でも、どうしても生まれてから長年親と娘という関係できていますから、その肉にあるつながりがなかなか消えないですね。離れているといいのです。離れていて、時折電話をすると、母も「お世話になるね。大変だね、もう来なくてもいいよ、忙しいんだろうから」と。それで風邪でも引いていようものなら、すぐ電話が掛かってきて「大丈夫?」と聞かれるから「大丈夫、大丈夫、お母さんは?」と、そのときの親子の会話を聞いていると「何と麗しいことか」と思います。ところが、いったん顔を合わせると、「どうしたの!」「何で!」と声がとがってきます。「あれ買ってきて」「いや、そんなものはない!」と、相手のことを思わない。「これにしときなさい!」と「いや、私はこっちのほうがいい!」と、あめ玉一つでも義母は「このメーカーのこの名前のあめを買ってきてくれ」と言う。どこのスーパーでも同じものを置いているわけではない。私はあちらこちらを見て回ったのですが、ありません。「お母さん、これ誰からもらったの?」「誰か知らんけれどもお土産にくれた」「その人どこの人?」「関東から来た人」、向こうでは有名なのでしょうが、九州ではない。義母は「いや、これでないと」と言う。だから、娘もやはり言われると気になる。私は「もう、断りなさい」と、「お母さん、無かったからあきらめて」と、私は言う。ところが娘は気になる。そして、行く先々でその物はないかと探す。そして探した挙句無いから「こんなにして探したけれど、お母さん、残念だけど無かったね」と言えばいいんだけれども、自分の探したその労力を相手が認めてくれない腹いせがありますから、「無かったわよ!こんなにまで私は探したのに!」と言う。すると「私は頼んでないわよ!」と、売り言葉に買い言葉。「肉の思いは死である」(ローマ 8:6)とあります。だから、私はいつも家内にも言うのですが、「親と思わないで、神様がこの人を世話するようにと頼まれたのだ。だから、あなたは神様に果たすべき責任があるのであって、お母さんのためにしてやることは何にもないのだよ」と言う。「分かった、分かった。じゃ、これからお母さんと言いません」と。下手に「お母さん」と言うから、お母さんに対する余分な期待や、様々な子供の時からの感情のしがらみがあるから、むしろ名前で呼ぶのが、他人行儀な様だけれども、距離を置くことができます。そうやって、神様からのことと受け止めなおす。これが私たちに今求められていることです。親子関係でもそうですね。殊にそうです。他人との関係でもそうでしょう。私は主のもので、神様のために生きる者とされている。そして、神様に仕える場所として今置かれている、それぞれ遣わされた家があり、家庭があり、地域があり、社会があるのです。そこで私たちは主が何を求めているかを悟り、忠実に従うものとなるのです。

 

 マタイによる福音書25章14節から21節までを朗読。

 

これはタラントについてのイエス様のたとえ話ですが、ある主人が遠く旅立つために財産を預けたというのです。5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれ3人の僕に預けました。留守の間に、5タラントを渡された人はすぐに出かけて行って、商売をして、更に5タラントをもうけた。2タラントの人はまた2タラントをもうけた。1タラントの人はそれを自分のうちに持ち帰って土の中に埋めたのです。やがて時が来て、ご主人が帰ってきました。清算することになった。20節以下に「5タラントを渡された者が進み出てもう後5タラントを差し出した。『ご主人様、あなたは5タラントを預けましたが、私は後5タラントをもうけました』」と言って差し出した。それに対してご主人は、21節に「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。「忠実」と言われています。「忠実」とはどういう意味でしょうか?ご主人が出かけるとき、最後に1タラントを預かった人は土の中に隠しておいたので、それを持って来ました。26節以下に「すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに』」。1タラントの人はそれを土に隠して、そのまま持っていて、ご主人が帰って来たから、「これが預かったものです」とお返ししたのです。私たちの感覚的にはどちらが忠実だと思われますか。預かった1タラントをそのまま忠実に持っていて、減らしもせず増やしもせず、きちんとそれを返した。何がいけないのか?「忠実」とはそういう感じがします。タラントを預けたとき、ご主人は「これで商売をせよ」とか、「もうけよ」と言ったわけではないと思います。しかし、それを預けたご主人の思い、ご主人は何を期待しているだろうか?と、ご主人の心、御心を悟ったのは5タラントと2タラントの人です。ところが1タラントの人は自分に対して「忠実」であったのです。預けられた1タラントを減らさない、増やさない、そのままに「忠実」に、言うならば自分の安全のためというか、自分自身の価値観、自分の思いに従って、それを大切にしたのです。その背後には、ご主人が過酷な人で減らしたり増やしたりすると、とんでもない言いがかりを言われそうだからと思ったでしょう。いずれにしても、彼は僕でありながら、主人の意図がどこにあるか、それをくもうとしなかった。これが26節の「悪い怠惰な僕」と言われる理由ではないでしょうか。ところがそれに対して21節には「良い忠実な僕」と言われています。私たちは今託されている、それぞれ遣わされている持ち場、立場、家庭、あるいは社会、職場、どんな所でも、そこで「神様がいま私をここに遣わしてくださっている。今、この家族、いわゆる肉にあっては家族ですが、神様が私に『負え』と、『担え』、『持ち運べ』と託してくださったならば、ここで、神様、私はどうするべきでしょうか?」と、神様の御心を求めて、その御旨に従うこと。これが忠実な僕の役割です。

 

ヨハネの黙示録2章10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」。私たちには苦難がないわけではない。確かにつらいことがあるが、そこで遣わしてくださった、私たちをあがなって永遠の御国の民としてくださった神様の御心はどこにあるのか、御旨は何なのかを絶えず求めて、主のもの、主のために生きる生涯、私たちを遣わして、それぞれの持ち場立場に置いてくださった神様の御思いに忠実に仕えていきたいと思います。従う者でありたい。しかも「死に至るまで」と。この地上の生涯で最後の息を引き取る瞬間まで、私たちは主のものと成りきって、主の御心に徹底して仕えていきたいと思うのです。そうするとき、心から主に仕えてきたと感謝ができるのです。

 

使徒行伝20章17節から24節までを朗読。

 

聖徒パウロがひとつの必要に迫られてエルサレムへ戻って行こうとしていました。しかし、エルサレムの町には彼の命を狙うユダヤ人たちの陰謀、たくらみが企てられていたのです。だから、多くの人々はそれを知っていましたから、パウロに「そこに行かないでくれ」と、「行ったらあなたは死ぬほかはないのだ」と一生懸命に説得するのですが、彼は頑として聞きません。かたくなに聞かないのです。しかし、使徒行伝にはそのときにも「聖霊に導かれて」「聖霊によって」と語られています。パウロはエルサレムに帰ることは聖霊の導きによるのだ、これは神様が求めていることだと、確信していましたから、どんなに危険であることを知っていても、それにおじ気づくわけにはいかない。そして、その途中で、エペソの教会の代表者を呼びまして、お別れの言葉を語ったのです。19節に「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」。私たちは主に仕える者として、僕として神様にあがなわれた民であります。私たちは自分自身の健康の問題もあります。年老いていろいろな障害の中にも置かれますが、そこで主に仕えていくのです。私たちは決してこの世にあって人のため、世のため、誰かのため、家族のために生きているのでも、自分のために生きているのでもなく、「今、この問題の中で、私は神様に仕えているのだ。そして、主が通れとおっしゃっているから、今この困難をも甘んじて喜んで感謝して通らせていただきます」と。ここが、いま私たちが忠実な僕となる場所であります。そのようにこのパウロも主にあって仕えたのであります。ここにありますように「数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」と。

 

更に23節に「ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ」。聖霊がパウロにこれからどんな困難が待ち受けているか、何が起こってくるか、どういう事態になるか、御霊が、神様の霊が彼に語っているのです。けれども「大丈夫だから行け」と。「そこへ行け」と神様が求めていることを彼は知っています。彼は自分の気持ち、自分の肉の思いを言うならば、そんな怖い、つらいことは避けて、他に行きたいと思うに違いない。しかし、パウロはそうはできない。なぜならそれは主がわたしに求めておられるから。神様が私を必要としてくださっている。

 

いま神様が皆さんを必要として、僕として立ててくださって、それぞれの所に遣わし、神様の御心を行わせようとしている。たとえそこに困難があろうと、あるいは死が待ち受けていようと、私たちはそれで躊躇(ちゅうちょ)するわけにはいかない。24節に「しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」。使命が終わったならば、それがどういう終わり方であろうと私はもう未練はありません。私は喜んで主のもとへ帰って行きます。どうぞ、そのように日々覚悟をして、どんな困難な中に置かれても、「私は『死に至るまで忠実』にと言われる神様の前に、主の御心にだけにしっかりと忠実に仕えていこうではありませんか。

 

ヨハネの黙示録2章10節に「そうすれば、いのちの冠を与えよう」、私たちに永遠の御国の生涯への望みを与えてくださいます。この生涯を終わって、神様のもとへ帰ることができる。主の約束をしっかりと心にとどめていきたいと思う。「あなたがたに必要なのは、忍耐である」(ヘブル 10:36)と言われています。耐え忍んで5タラントの人が5タラントをもうけたように、2タラントの人が2タラントをもうけたように、「ご主人の御思いはどこに?ご主人が求めていることは何なのだろうか?」と、絶えず心に求めつつ、祈りつつ、主でいらっしゃるイエス様の御声に、神様の御思いに応えていきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


7月28日 日々の聖言

2014年07月28日 | 日々の聖言

「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。

すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」歴下26:16 


一人の王様の致命的な失敗について語った一節です。事情・境遇に恵まれ、なにも心配がなくなり、

安泰だと思ったとき、人は高慢になり、神様にむかって罪を犯すようになります。昔も今も変わりませ

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7月27日教会学校聖言葉

2014年07月28日 | 教会学校聖言葉

「すべての道で主を認めよ。」
 箴言3.6
 
よく語られる聖言葉ですから、アーメンそのとおりと納得して終わってしまいそうになります。
 しかし、よくよく考えてみると、案外「すべての」道で主を認めていない自分に気付かされます。
 
自分にとって喜ばしいことは神様から来たものとして感謝するが、
自分にとっていやな苦しいことは神様から来たものと考えず、
 そのきっかけになったように見える現象、人、物が悪いと考えて、
つぶやき嘆きしているのではないでしょうか?
 
神様は、繁栄を創り、また暗きを創造する方です。
 悪いことも神様のお許しがなければ起こり得ないのです。
 
そう聞くと、ついつい優等生らしく、悪いことも無理やり喜ばなければならないような気がしてきますが、
 この聖言葉はそんなことを語っているのではありません。
 
確かにかん難を喜べる信仰が与えられるのは非常に喜ばしいことですが、苦しいものは苦しい、
その苦しいことも神様が起こしていらっしゃることを認め、神様に苦しいと訴え、
神様がなぜこのことを起こしていらっしゃるか神様に答えを求めて、
神様の御旨に出会うように、とこの聖言葉は語っているのです。
 
神様の御旨を知り、自分に対して抱いておられる深いご計画と愛を知る時、
無理などせずとも、喜びとその苦しいことに立ち向かう力が与えられます。
 
御旨を悟れるまで、神様と向き合い取っ組み合いをすることが必要なのです。
  
 (正野)


聖書からのメッセージ(273)「心を清くせよ」

2014年07月28日 | 聖書からのメッセージ

 詩篇73篇1節から16節までを朗読。

 

 1節「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。

 

 神様は私たちを恵んでくださる方ですが、恵みを受けるにはルールがあります。ただ闇雲に恵んでくださるというのではありません。「なんだ、神様、けち臭いな」と思われるかもしれませんが、これは当然なことだと思います。何の条件もなく、誰にでもどんなことをしても恵むという……、それだったら、神様の神様たることが分からない。神様が一方的に常に恵んでくださるのだったら、それは当然のことになり、感謝がなくなります。神様を尊ぶとか、敬うとか、神様を求めることをしなくなる。エデンの園で神様が「これを食べてはいけない」とか、「これに触れてはいけない」と、禁止を与えられたのも同じです。「エデンの園なら何をしてもいいじゃないか。許されているんだ」というのだったら、神様を敬うことがあるでしょうか。それだったら、神様はいないのと同じ、神様が何の役割も果たさない、神様たる価値、値打ちという言い方はおかしいですが、そういうものが失われる。ところが、「これはしてはいけない」と決められたことを守ることによって、初めて相手を尊び敬うことがはっきりします。だから、エデンの園で「このことはしてはいけません」と神様が定められたこと、それはもっと別な意味もあるわけですが、しかし、取りあえず、そういう禁止、ある条件、あるルールが決められて、それを守ることによって、相手を尊び敬うことが初めて成り立つ。だから、聖書のお言葉を私たちが守ることもまさにそこなのです。何をしても神様は許してくださる、愛なる御方だ。まさにそのとおりなのですけれども、しかし、それにも必ず秩序、ルールというものがあります。神様と人とはいくらどんなことがあっても、同じものには成り得ません。だから、人はあくまでも造られた被造物でして、神様はそれに対して造り主でいらっしゃる。この区別は厳然としてあります。そして、造られた私たちは神様を尊び敬うことが、実は私たちにとって恵みであり、祝福なのです。「そんなことを言われたって、そんな神様なんか私は知らんぞ」となれば、神様もまた私たちに対して「わたしもお前を知らない」とおっしゃるに違いない。

 

だから、ヤコブ書に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」(4:8a)とありますが、神様に近づくことは、神を神として、その方を尊び敬い、大切にすることです。そうやって大切にすればするだけ、神様は私たちに近づいてご自身をあらわしてくださる。神様は私たちを恵んでくださるのです。だから、「信仰は信じることであって、何もしなくてもいい」と、そのような誤解を招きやすいですが、信じたならば、それに伴って私たちは求められることがあります。だから、ただ単に神様がいらっしゃって、「何でもしてくださるのだから、私は勝手なことをしていい」という話にはなりません。

 

殊に、神様からの恵みを頂くには、1節に「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」とあるように、「正しい者」「心の清い者」を恵んでくださる。そう言われて、自分を振り返ると、内心「私は駄目だ」と思いますね。「正しい」なんて言われると、「私はどこにも正しいところはない。自己中心でわがままで……」と思っています。ここで言う「正しい」とは、新約に語られているように、主イエス・キリストを信じる者、義とせられた者です。だから、イエス様を信じて義とせられた者、「正しい者」というのはそういう意味です。自分が道徳的に立派であるとか、あるいは世の人々から見て品行方正で、どこにも非の打ち所がないと言われることではない。そうなると私たちは安心します。そのようなことはできもしませんし、欠けだらけであります。しかし、「本当にこんな私のためにイエス様はあの十字架に命を捨てて救いを与えてくださった。私の罪を赦して不義なる者を義なる者としてくださった」と、キリストの義をもって、神様の前に立つことができる。「正しい者にむかい」、また「心の清い者にむかって」とあります。「心の清い者」とは、一つ心になることです。一途(いちず)、という言葉がありますけれども、一筋に神様に対して思いを向けること、これが「清い」ということです。あちらにもこちらにもいろいろな思いが千々に乱れること、これは「清い」とは言えません。人との付き合いでもそうです。友達でも「あなたは私の無二の親友よ」と言いながら、こっちにも、あちらにも同じことを言う。それは「清い」とは言わない。「清い」とは一つになることです。だから、そういう者に向かって神様は「恵みふかい」。お金もあれば、友達もあり、自分の家柄もあり、学歴もあり、自分の才能もあり、「あれもできる、これもできる。でも、まだ足らんからひとつ、神様、よろしく、神様にも頼んでおこう」と、神様が多くのものの中の一つであるかぎり、神様は私たちに振り向いてくださらない。ところが、私どもが「あれもない、これもない、ただ神様、あなただけしか私にはありません」という心、神様に向かって心清く、一途(いちず)になる。これが神様からの恵みを受ける最大の道筋、ルールです。

 

この詩篇73篇を歌った人もそのような体験をしました。1節は73篇全篇にわたっての一つの結論です。自分の経験がこういうことを通して、このことに行き着いたというのです。「神は正しい者」、イエス・キリストを信じて、イエス様の十字架のあがないを信じて、罪の赦しを信じて、神様を呼び求める者となること。そして、心を一筋に神様に向けて信頼すること。これが私たちの神様の恵みを受ける道筋だというのです。ところが、この詩篇の記者も、実は初めからそのような状態ではなかったと語っています。2節に「しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった」。「足がつまずき、すべる」というのです。神様を信頼し、信じて神様にと心を向けてはいたのですが、日々の生活はどうもそう思う気持ちとは裏腹に、あちらによろめき、こちらにガタガタと揺れていたと言う。その理由は、3節に「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と。自分は一生懸命神様を信頼して、神様に恵んでいただこうと思っていながらも、ふと横を見ると、神様を知らない、神様を信じようとしない人々が景気良く、華々しく、血気盛んで、なんだかよさそうに見える。そのために彼は「ねたんだ」と。そういう人をうらやましく思った。あるいは、「何だ、あんな連中の、神様を知らないくせに」と言いながら、おれもああなりたいなと思う。そのような心が清くないと言いますか、神様だけに心が定まらない。そのあとの4節以下に「彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない」と。私たちも時にそういうことを思いますね。世の中の人々、街を行く人々、あるいはショッピング街に集まる人々を見て、「人生に悩みはないのかな」と思います。自分は「あれが心配だ。これは神様の前にどうあろうか、こうあろうか」といろいろ思っているが、見ると「みんな罪もない、何の思い煩いもない顔をして……」、まさにここに「苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく」、こちらは悩みが多くて、イエス様にすがらなければ、祈らなければおれないのに、あの人たちはいったいどのような生活をしているのかと。あのようになりたいものだと。しかも、その先7節に「彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている」。最近のテレビのいろいろな番組を見ていると、バラエティー番組など、人の挙げ足取りをしたり、ワーワーと自分たちだけが楽しんで、人の楽しんでいるのを見せられている時代ですが、彼らの様子を見ていると、まさに「高慢は彼らの首飾となり」、高ぶった思いが彼らの自慢になる。お互い自慢をし合う。また「肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている」と。本当にいったい何を考えているのやら、今の世の中を見ていると、まさにこのような状態です。でも、「何だ、あいつらは」と言いながら、うらやましいなと思う。そのような心が自分にあったと告白している。これはほかごとではない、誰のことでもない、私たちも時にそのようになりやすい。それに対して、13節に「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲(こ)らしめをうけた」。ところが、この詩篇の記者は一生懸命に神様を大切にと思いながら、まがりなりに信仰を持って、神様に信頼してきたのですが、心を清め、罪を犯さないように、神様に申し訳ない、御心に従うようにと、一生懸命に努力をして、あしき者たちとの交わりを断っておった。ところが、現実には自分が「ひねもす打たれ、朝ごとに懲(こ)らしめをうけた」。次から次へと、自分だけに災いが起こってくる。自分の生活には心配事がある、自分は病気になる、健康を失う。「何でやろう、私ばかりがこんなに……、町の人を見てご覧なさい。元気そうにしている、それでいて神様を恐れることも知らないくせに」と思うのです。皆さん、自分が病気をしてご覧なさい。そのようなひねくれた心になりやすい。私自身もそのように思いました。自分が病気をしたとき、町を歩いていて「どうして僕がこんな病気になって、あの人はならないのだろう、この人はならないのだろう」と。こちらは一生懸命「神様、あなたに信頼しているのに、イエス様の救いにあずかったというのに、こちらばかりが病気が続いて」と、そういうことになる。だから、私たちはこの詩篇の記者のことを笑えません。「ひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」。これは誠に正直な話であります。

 

しかし、17節を読みますと、「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」と。そのように多くの人々をうらやましく思い、11節に「彼らは言う、『神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか』と」。言うならば「神様なんか、どこにおるか」と言って、それでいて何の懲らしめも受けることなく「その身はすこやかで」、富が増し加わっているのを見ると「畜生!」と思う。そこが私たちの大きな試みなのです。「いったい、どうしてなんだろうか」と考えたけれども「そんなことはよく分からない」というのが、16節「しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた」と。「どうしてこんなだろうか。私は一生懸命に神様を敬って信仰に励んでいるのに、あれは悪くなる、こちらも悪くなる。こんなひどい目に遭う、どうしてやろうか」と一生懸命に考えようと思ったけれども、とても頭が回らない。考えるのにもくたびれる。仕方がないなと思った。ところが、そのあと17節「神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」。神様の思い、神様がなさるわざの最後を彼は聖所に行って、神様の御前に出て、神様から教えられた。そのことを悟らせていただいた。18節「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥(おちい)らせられる」と。神様は決して彼らを放っておく御方ではない。気がつかないのではない、報いなさる御方、必ずそのことの結果を出させられる。18節「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる」。「なめらかな所」、つるつるに滑る滑り台のようなところに彼らを置かれて、一瞬にして滅びへと投げ込まれるというのです。だから、19節に「なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」と。神様が彼らに抱いてくださる御思い、すべて神様に背いた者たちは必ずその結果を受けるのだ、神様の裁きにあうことを知ったとき、この詩篇を歌った人は目が覚めた。ああ、そうだった、自分はいたずらに一生懸命に身を慎んで、何とか神様に一心になろうと思いながら、つい周囲に目を向けると心が乱れる。ところが、そういう者であっても神様は許しを与え、また憐れみを注いでくださる。神様を離れて勝手な生き方をしているかぎり、その最後は滅びであることを知ったのです。私たちもそうであります。

 

ですから、20節に「あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである」。神様が「目をさまして」、「いったい何をしているのか!」と彼らを見て、彼らに対してきちんと報いをなさるとき、20節に「彼らは夢みた人の目をさました時のようである」。今まで夢を見ていてハッと目を覚ましたとき、「え!いったい私はどこにいるのだろう」。我々もそのような経験がありますね。いい夢を見ていて、フッと目が覚める。まだ見ておけば良かった。「あら、私はどこにいるのかしら、私の部屋かしら」と。ここに「夢みた人の目をさました時」という、その幻滅のような「やっぱり、私は現実、年取った自分である」ことに気がつく。夢の中の自分は昔の元気なときの自分であったりします。そして、目が覚めて、その夢がパッと消えて、現実の自分の部屋を見たとき「私はまだこんな所にいるのか」と幻滅を感じる。そのような思いに彼らはなるに違いない。そのあと21節以下に「わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」。そのことを知ったとき、彼は「自分は本当に愚かだった。分かっていると思ったけれども知らなかった」。そこに「愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」。神様に対して、自分は身を慎(つつし)んで、神様を第一としてきたつもりであったが、しかし、その歩みたるや誠に「獣のような」、わがままな自己中心の欲望のおもむくままに生きていた者であったと告白しています。そのような自分ではあるけれども、23節「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる」。でも、神様、私はいつもあなたと共におりました。そして、神様、あなたは私の右の手を絶えず支えてくださったと。ころびつまろびつではあるけれども、その歩みたるや遅々たるものであり、右に左によろめき歩いていた自分ではあるけれども、絶えず主を求めてきた自分だと。このことを感謝したのです、喜んだ。しかも、その間、神様は絶えず私と共にいて私を支えてくださったと歌っている。24節「あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。神様は私に悟りを与えてくださり、神様の御思いを悟らせて、私をここまで導いてくださった。

 

私どもも、この詩篇の記者のように様々なことに心を奪われ、右に左にと歩みは誠にふつつかな者でありますが、しかし、神様は憐れんでくださって絶えず共にいてくださる、その神様は私たちを「栄光にあずからせられる」と約束しておられます。この神様に対する思いを、心をしっかりと整えて行きたいと思うのです。そのあと25節「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」。このとき初めて「私の慕うべき御方は、神様、あなた以外にありません」。あの人この人、世の人、いろいろなものを見ては、それをうらやましく思い、それをあこがれる思いがあった。しかし、今はその思いをすべて捨てて、私の心はただあなただけですと、心の清い者へと作り替えられていく。一筋に神様に委ね、思いを向けていくこと、これが私たちが神様の祝福にあずかる、恵みを受ける大切な道筋です。どうぞ、私たちもこの神様に心を一つにしていきたい。26節に「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」とあります。私たちもこの詩篇の記者と同じでありまして、「わが身とわが心とは衰える」、誠に年ごとにどんどんと肉体は衰えて、外なる人は滅びていきます。「しかし神はとこしえにわが心の力」、私たちにとって神様だけが私の心の力であり、また「わが嗣業」、私が受け継ぐべきすべてであると、告白しています。私たちもこの神様に対して心一筋になることです。真剣に心を一つに、ほかのものに頼らず、ただ神様、あなたのみですと、思いを一つにして、具体的に自分の生活を整えていきますと神様はそのように恵んでくださる。あれもこれもと、右往左往して、あちらこちらに目を留め、心が定まらないため、私たちは神様の恵みを受けることができない。だから、この詩篇の記者が歌ったように「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」。「神様、私はあなただけです」と、神様を第一にする。心を清める。神様、あなただけですと、神様を慕い、神様を呼び求めることです。そうすると、神様は私たちを恵んでくださる。そのために、本当に命懸けでないと駄目ですよ。片手間の趣味でやっては駄目です。私たちに求められている信仰生活は、私たちが全生涯と言いますか、命を懸けて神様に信頼すること、これが神様を第一にすることです。心を清くすることです。

 

歴代志下16章7節から10節までを朗読。

 

これはアサ王様の記事であります。アサ王様は若くして王の位に就きました。彼は大変敬けんな信仰を持った王様だったのです。彼は自分が王の位に就いたとき、国中にそれまでにはびこっていた偶像やほかの神々を拝む一切のものを取り除いたのです。清めた、潔くしたのです。宗教改革を行ったのです。そして、彼は先祖伝来この聖書に証しされている神様を神として、この御方を大切にすることにしました。彼が位に就いてから10年ぐらいしたとき、エチオピア軍が大軍をもって攻めてきました。それは一つの大きな試練でした。自分の国はまだ小さくて軍隊も少なかった。半分ぐらいだった。エチオピア軍は100万ぐらいの大軍で300の戦車を率いてやってくる。彼はまず神様に祈ったのです。「神様、あなたは力のある者を助けることも、力のない者を助けることも同じこと。私はあなたにより頼んで戦いに出ます」そう言って神様に信頼して、戦いに出ました。そのとき、神様は彼の信頼に答えて、力をあらわしてくださった。敵をすべて追い払ってくださった。その体験から彼は神様に対する姿勢をもっと徹底するのです。

 

歴代志下15章1節から7節までを朗読。

 

彼らがエチオピア人との戦いで勝利を得て帰って来たときに、神の人アザリヤ、いわゆる預言者がアサ王様の所へやって来ました。そして、今読みましたように、2節後半に「あなたがたが主と共におる間は、主もあなたがたと共におられます」と。これは、あなたが熱心に神様を求めるならば、神様もまたそれに答えてくださるというのです。まず私どもが真剣に神様に近づいて、神様を求めるなら、その熱意に応じて神様も私たちに答えてくださる。だから、思いを一つにして主を求めさえすれば、神様は私たちに答えてくださるのですが、私たちはどこかで中途半端なのです。「まぁ、この位でいいか。あの人よりも私は熱心だから、この人よりも少しは熱心だから」ぐらいに思う。これはもったいない話です。私たちが真剣に求めさえすれば神様は与えてくださる。だから、2節の後半に「しかし、彼を捨てるならば、彼もあなたがたを捨てられるでしょう」。神様は私たちが熱心に神様を求めて近づけば、神様もご自身をあらわし、力を与えてくださる。ところが、私たちが神様を捨てるならば、軽んずるならば、神様もまた私たちを同じように軽んじられる。私たちをそのように取り扱われるに違いない。

 

そのことを聞いてアサ王様は、ユダの人々を全部集めまして、8節に「アサはこれらの言葉すなわちオデデの子アザリヤの預言を聞いて勇気を得、憎むべき偶像をユダとベニヤミンの全地から除き、また彼がエフライムの山地で得た町々から除き、主の宮の廊の前にあった主の祭壇を再興した」と。彼は更にベニヤミン族の地域を徹底して清めたのです。これはユダとベニヤミンが一つになってエルサレムを中心にしたユダの国を造っていた。残りの10部族はサマリヤを中心に北イスラエルとなっていました。アサがユダの出身でありますから、王になったときユダの部族の地域は取りあえずきれいに清めて神様の前に高きところの偶像を取り除いたのですが、今度はベニヤミンの地域も改めてそれらの偶像を全部取り除いた。だから、ユダの国全部がベニヤミン族の地域もユダ族の地域もことごとくすべての偶像を取り除いて、神様に思いを一つにしたのです。そればかりか、10節以下に「彼らはアサの治世の十五年の三月にエルサレムに集まり、11 携えてきたぶんどり物のうちから牛七百頭、羊七千頭をその日主にささげた」。これはすごいことです。神様の前に燔祭をささげて「私たちのすべては主のものです」と、神様のものとして自分を置いたのです。12節以下に「そして彼らは契約を結び、心をつくし、精神をつくして先祖の神、主を求めることと、13 すべてイスラエルの神、主を求めない者は老幼男女の別なく殺さるべきことを約した」。厳しいですね。ここに「イスラエルの神、主を求めない者」、心を尽くし精神を尽くして力いっぱい神様を求めない者は、年寄りだろうと若かろうと、男女の別なく殺される、というのです。それを皆が同意するのです。約束する。まぁ、大変なことになってしまったが、しかし、アサ王様は必ず神様はそれに報いてくださると信じたのです。

 

その後、自分のお母さんであるマアカがひそかに偶像を拝んでいた。すると、アサ王様はそれを知って自分のお母さんの偶像を取り除いて、皇太后の位から落としてしまう。そこまで徹底して神様だけに心を向けたのです。そのために彼の治世35年にわたって戦争が一つもなかった。神様の祝福と恵みが豊かに注がれました。ところが、そのように恵まれたときに神様はもう一度試練を与えた。どうして神様はそんなことをなさるのか、と思うでしょう。それは眠りこけないためです。神様は時々思いがけないことをドンと起こしなさる。私どもが恵みに慣れて、「まぁ、いいか、このくらい。私はこれで幸せだ」と思っていたら、「お前はどこを向いているか!」と、眠りを覚まさせてくださいます。だから、そのときは感謝したらいいのです。そして、もう一度、自分の姿勢を再確認して、神様に対する思いを整えたら幸いなのですが、このときアサ王様はとんでもない失敗をします。35年間の太平楽と言いますか、恵みに慣れてどっぶりつかっていた。どうも心が鈍ってしまったのです。北イスラエル、同じイスラエル民族の10の部族が彼らを攻めてきた。イスラエルの民がユダの国を攻めてきた。そのとき彼は急いでスリヤの王様に金銀を贈って、イスラエルと同盟関係にあった大国スリヤにそちらをやめてこちらを守ってくれるようにと、頼みに行ってしまった。そのときに、16章7節に「先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、『あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので』」とあります。だから「スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった」。言い換えると、これからスリヤの王様にあなたは苦しめられることになるぞ、どうして私に頼まなかったのだと。しかも、かつて35年前エチオピアの大軍が来たときに、神様はあなたに答えてくださったではないか。アサ王様はそれを忘れていたのです。

 

私たちもそのような失敗をしますね。恵まれて事がなく、順調に物事がうまくいって「まぁ、いいか」と。熱心にお祈りをしていたお祈りもお勤めになるし、二回が一回、一回がゼロ回、三日が四日、四日が一週間、十日が一ヶ月、だんだんと間遠くなる。礼拝も来たり来なかったり、来たり来なかったり、来なかったり来なかったり……、となっていくでしょう。これが私たちのいちばんの失敗です。熱心に主を求めてご覧なさい。人の付き合い、あれがあるから、あの人から何か言われる、そんなことを思っているから、私たちは確信が得られないのです。

 

9節に「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」。ここに「自分に向かって心を全うする者」と言いますのは、一つ心になって、心が清い者となって主を求める人、そのような者はいないだろうかと、神様は絶えず目を凝(こ)らして見ている。だから、私どもが神様に向かって心を一筋に整えて、主を呼び求めていくならば、力をあらわされる、神様は私たちを恵んでくださる。神様の力を、神様のわざを、私たちを通してあらわしてくださるというのです。何が大切と言って、これが何よりも大切なことです。ハナニは「あなたは愚かな事をした」と、9節の後半に「ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」と。ところが、このときにアサ王様は、そのようなことを聞く耳がありません。ここで悔い改めて「ごめんなさい」と言えばよかったのですが、彼はとうとうその預言者を捕らえて獄に投げ入れた。とんでもないことをしてしまう。やがて晩年病気になりましたときに、何とありますか、12節に「アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた」。彼は神様に信頼するよりは人を頼みとした。私たちもこのような失敗をしないためにも、いや、それどころか、私たちは恵みにあずかる素晴らしい道筋を神様は置いてくださっている、その道を選ぼうではありませんか。

 

詩篇73篇1節に「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。神様のあがない、十字架のいさおしを信じて、十字架にすがりつつ神様を第一にして、神様の前に心を一つに、心を全うする者となっていく。「天にも地にも私の慕うべき御方はあなた以外にありません」と、神様にのみ心を向けていきたい。また主を求めていきたい。私たちの生活も、具体的なことも、目に見えることも見えないこともことごとく清くして、神様を第一に心と思いを整えていくなら、神様は必ず恵み深く、いつくしみ豊かな御方、憐れみに富み給う御方、豊かな許しを与えてくださる御方です。この神様の恵みをいよいよどん欲に求めようではありませんか。主の恵みを受けて生きようではありませんか。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


聖書からのメッセージ(272)「わが主、わが神よ」

2014年07月27日 | 聖書からのメッセージ

 詩篇50篇1節から15節までを朗読。

 

 7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。

 

 イエス様の救いにあずかる私たちは、神の子であると聖書に約束されています。かつてイエス様のことも知らない、神様も知らなかったとき、神様とは縁のない関係でした。当時は自分を信じたり、世の様々な仕来りや習慣、この世のものを神に代わるものとして信頼していた。しかし、それは人の生き方として正しい生き方ではありません。そこには平安がない、望みがありません。また喜びや安心がなかった。当然と言えば当然です。と言うのは、私たちは神様によって造られたもので、神様が私たちにすべてのものを備え、恵み、命を与え、生きることを許してくださっている。ですから、神様との関係が整わないかぎり、人が人として正しく生きることはできません。これがいま私たちの抱えている根本的な問題です。  

 

これは昔から変わらない人間の問題点、これを「罪」と言いますが、神様を忘れて、人が自分の知恵や考え、自分の力で生きていこうとするところに、私たちの限界、どうしても越えられない壁があります。そのため、私たちは大変苦しみ、悩みます。「何でこうならないのだろうか」、「どうして思い通りいかないのだろうか」「なぜ私が願ったように事が進まないのだろうか」と、絶えず欲求不満と言いますか、苛立ち、憤り、そのようなものが心に常にあります。そうすると、喜んでいいはずなのに喜べない。楽しいはずなのに楽しめない。喜べないのはあの人がいけないとか、こういう問題があるからだとか、この悩みがあるからと言いますが、決してそうではありません。いちばん根本の問題を解決しないことにはどうにも仕方がない。世間は、そこは不問にする、そのことを問わないで、現れた現象、目に見える問題や事柄だけを「ああしよう」「こうしよう」と、何とかやり抜けようとします。それによって、一瞬の間、「あ、これで良かった」と思いますが、すぐあとに揺り返してきます。「良かっただろうか」「悪かっただろうか」、いろいろな思いが錯綜して、心を暗くしてしまう。望みを失う。だから、いちばん根本は何といっても造り主を認めること、信じること以外にない。この造り主に立ち返ることです。神様に帰っていかないことには、そして、神様との正しい関係が回復されなければ、何をしても喜べない。心は変わりません。だから、「ヨブ記」に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(22:21)と約束されているのです。「神と和らぎなさい」と言っても、神様とけんかしたつもりはない。しかし、私たちの心に神様に対して無意識のうちに憤る思いがあるのです。「どうしてだろうか」「何でだろうか」「私はこう願っているのに、どうしてそうならないのか」と怒っている。その怒りの矛先(ほこさき)は、実は神様に向かっている。神様が私たちに事を定め、一つ一つのわざを起こしているのですが、それを認められない。神様に対する不信感がある。神様に信頼しようとしない、これは私たちが生まれながらに持っている原罪、罪です。「己が腹を神とする」と聖書にありますが、自分の思っていること、考えていることが「絶対正しい」という、これが大きな罪です。「絶対」という言葉を使うとき、自分が神になっています。なぜなら「絶対者」は神様以外にあり得ないのです。だから、人がすることには絶対的なものはないのです。「絶対」に対して「相対」という言葉を使いますが、人の考えること、すること全てあくまでも相対的です。「相対」とはいい加減という意味です。分かりやすく言うならば。その日その時でころころ変わる。ところが心のどこかで、「私が絶対正しい」「人が何と言おうと私はこのことが!」、「絶対譲らない、絶対!」と叫んでいる。そのとき自分が神になっている。その結果、心の平安を失う、安心がなくなる、苛立ち、憤る。何かに対していつも不満が心にある。そのような状態が実は私たちの現実だったのです。

 

そのような中から、神様との正しい関係に導き入れるために、神様はひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。己を神とする、どうしても抜きがたい私たちの罪をイエス様が担(にな)ってくださった。神様に楯突く私たちは、当然滅ぼされるべき者でした。しかし、ひとり子イエス様の十字架のご犠牲のゆえに、イエス様を信じる者を今は罪赦された者としてくださる。これは神様が私たちに与えてくださった救いの道筋です。だから、いま私たちはイエス様を信じることによって、神様との間に正しい関係を築く、罪を赦され、神様に最も近いもの、身近な者として受け入れてくださっている。だからといって、私たちの生活が変わるわけでも、現実の何か事が変わるわけではありませんが、私たちの心が変わるのです。いつも神様がいらっしゃることを信じ、「神様が私を、ひとり子を賜うほどの限りない大きな愛をもって愛してくださった」と信頼する関係に、私たちは置かれています。だから、いつでも「アバ父よ」「天のお父様」と呼ぶことができる関係に変えてくださった。

 

これは本当に大きな救いだと思います。というのは、もしこの神様を知らなかったら、今、自分はどんな心で過ごしているだろうか?生きてきた短い期間を考えても、もし私に神様の救いがなかったら、今はどんな気持ちでこの年を迎えているだろうかと思うと、背筋が寒くなるような怖さを覚えます。そう思いませんか?皆さん。多くの人々を見ていて、よく神様を信じないで生きておれるものだと思います。自分が弱い人間で、気も小さく、常に自分では何もできないものだから、神様にすがらざるを得ないのですが、これもまた幸いです。しかも、神様は罪を赦し、神の子供として自分のものとしてくださった。だから、いま私たちは神様を「天のお父様」と本当に親しく呼ぶことができます。「天にいますわたしたちの父」とイエス様は言われます。天地万物の創造者でいらっしゃる御方を、私たちが「お父さん」と言える身分にしていただいたのですから、これは大きなものです。私どもは、自分が今どういう恵みの中に置かれているのか知っておきたい。神様を信じる者となり、罪を赦され、遠慮なくいつでも神様の前に近づくことができ、呼び求めることができる。それどころか、神様のほうが「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)、どんなときでも私たちと共にいてくださるのだと、約束してくださっている。そんな大きな恵みの中に、私どもは今日も生きている。まずそのことをしっかりと確認しておきたい。

 

 その上で、7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」と言われます。ここに「わが民よ、聞け」とあります。そのあとの「イスラエルよ」と呼びかけられていますが、この「イスラエル」は私たちのことです。私たちはイスラエル人であるとか、民族的な意味でユダヤ人であるというのではありません。れっきとした日本人です。しかし、今はイエス様を信じて、信仰によって神の民・イスラエルとなったのです。ですから、旧約聖書にあるアブラハムを始まりとしたイスラエルの歴史は、信仰にあって生きる私たち、神の民の歴史なのです。私たちがどのように神様に仕え、神様に従うべきかが証しされていると考えていただいたらいい。ですから、「イスラエルよ」と呼ばれたのは、私に語られていることであり、皆さんに神様が語ってくださるのです。

 

神様が「わたしはあなたにむかってあかしをなす」と言うのは、自分が何者であるかをあらわす、自己紹介をするということです。「わたしは神、あなたの神である」と。神様が私たちに向かって「わたしが神、あなたの神であるよ」と言われます。考えてみたらちょっと異様です。親が自分の子供に向かって、「あなた、私があなたのお母さんなんだからね!」と言うようなものです。「知ってる?分かっているの!?私はあなたのお父さんなんだからね」と言っているわけです。ここで神様が「わたしは神、あなたの神である」と言わなければならないのは不幸です。そうでしょう。親が子供に向かって「あなたはどこを向いているの、私があなたのお母さんじゃない!」と言わなければならない状況があるとしたら、これは悲劇です。何か大変な問題がある。だから、神様がこのようなことを語っているのは、そのように言わなければならない状況があったのです。

 

それはイスラエルが、神様の選びの民、神の民でありながら、その神様を忘れてしまったことなのです。神様を大切なものとしていない。神様があえて「わたしはお前の神だよ」と言わなければならないのは、彼らがよそを向いていたのです。

 

デパートで買い物していると、小さい子が私の手を引っ張る。「何かな?」と思ってみると、お父さんを間違えている。気がつかないで引っ張っているのですが、私の顔を見て大慌てで手を離して飛び出していく。ちょっと離れた所にお父さんがいる。お父さんが何かに夢中になって気がつかないうちに、その子がお父さんでない人をつかんでいる。その子は慌てて走って行き、今度はお父さんの顔を見てギュッと手をにぎる。お父さんはびっくりして「どうしたんだ?」という顔をしている。自分の親を間違えるとは大変不安だろうと思う。

 

神様は懇(ねんご)ろに顧(かえり)みて、イスラエルの民を導いてくださった。そうでありながら、神様に対してどのような態度をとっていたか。8節に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と。ここで神様がイスラエルを責めているのは、いけにえが足らない、ささげものが足らないと言うのではない。「お前はちょっと最近ささげ物が少ないぞ」という意味で責めているのではない。それどころか「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。確かにイスラエルの民はきちんと神様の言われたとおり、定めを守り、するべきことをしているのです。だからお前たちのささげ物が足らないわけではない、それは十分にしているのはよく知っていると言う。9節に「わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない」。神様は、あなたがたから何かしてもらわなければならないような乏しいものではない。「雄牛も雄やぎもいらない。そんな物をお前たちからもらわなくてもわたしの物はいくらでもある」と言われる。そのとおりです。だから10節以下に「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである」。12節には「世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである」。神様に何か足らないから不足しているから、何かしてあげなければいけない。そんなことは何の必要もないと神様はおっしゃる。そのように何かが欠けているからあなたを責めているのではないと言う。

 

神様は何を求めておられるのか。14節に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」。感謝のいけにえを神にささげよ」、「ほーら、やっぱり神様は何かを求めているじゃないか」と思われますが、ここはそのような意味ではありません。「感謝のいけにえ」とは自分をささげることなのです。感謝の供え物として自分自身を神様にささげなさいということです。言うならば、私たちの心を、私たちの思いを100パーセント神様のものとしなさいと。神様に対しての純粋な思いを、清い思い、一途(いちず)な思いをわたしに向けてほしいということです。それから「あなたの誓いをいと高き者に果せ」と。これは、私たちが神の民、神の名をもって呼ばれる民であるという、その誓約、約束を私たちは受け入れたのです。

 

イエス様の十字架によって、神様と私たちの間の罪の壁が取り除かれ、私たちを神の民、神の家族、神の子としてくださった。これは契約です。親子関係は契約ではありません。自分の親を選んだわけではないし、いろいろな条件を見比べて、どの親にしようか、この親にしようか、こっちがよさそうだからこの人にしておこうと決めたのではない。ましてや、子供でもそうでしょう。いろんな子供の中から選んできたわけではない。生まれたのがこの子だった。あとになって、「どうも出来損なった」と文句を言いますが、といって捨てるに捨てられない。いわゆる血のつながり、肉親というややこしい関係がある。しかし、神様と私たちはそのような関係ではない。契約です。人生のいろいろな事で行き詰って、喜びを失い、平安をなくし、望みを失って、怒りと憤りとつぶやきの日々を送っていた私たちです。何とか救われる道はないかと願って、イエス様のところに来ました。イエス様の十字架を信じて、「あなたは私の神です。これからあなたに従います」と、神様との間に契約を結んだ。約束をしたのです。その証しとして、イエス様の十字架の血判、血をもって、私たちはその約束を受け入れたのです。洗礼を受けたとき、「私はあなたを信じ、これから生涯あなたに従っていきます」と告白して、イエス様の子供となった。神様の子供としていただいた。私たちははっきりと神様に約束したのです。もちろん、自分でどこか指を切って血判を押したわけではないけれども、神様のほうがひとり子の血を流して、契約の判、十字架をポンと押してくださった。私たちの体にはイエス様の血が注がれている。だから、ある意味で血縁関係なのです。といって肉にある親子関係とは違います。それは約束、契約ですから、お互いが約束を信じて履行(りこう)しなければいけない。私たちは「あなたを私の神とします。私はあなたの子供となります。私はイエス様と一緒に死んだ者です。もはや私が生きているのではありません。私のすべては神様のものです」と言ったではないですか。ちゃんと約束したから、ここで神様が「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とおっしゃる。あなたは告白したように今も生きていますか?「そう言えば、私が洗礼を受けたのはもう半世紀ぐらい前かな、ああ、懐かしいな、そういうことがあった」と懐古するだけになっている。洗礼を受けたのは勲章ではありません。勲章をぶら下げて、「昔はこんなだった、良かった」と。そうではない。今、あなたはその誓いに生きているか?「私は神の子供です」と信じて、神を神としているか。

イスラエルの民があの奴隷の生活から神様の力によって導き出されてカナンの地にまでも導かれた。更にそれから後、あのイスラエルという国を神様が造って、民の願いに答えてくださった。そして、神様のわざをあらわしてくださった。旧約聖書を読みますと、そこにたくさんの神様の恵みがあふれている。でも、彼らはそんなことを忘れてほかの神々に、世の様々な仕来りや習慣に流されてしまっている。では、神様の前に何もしないかというと、そうではない。「いけにえも、燔祭も」きちんと神様にはささげられている。形として神様の前に正しいことをしているけれども、その心がない。心がないのです。

 

ヨハネの黙示録2章1節から5節までを朗読。

 

これはエペソにある教会に神様が書き送った手紙の一節です。2節に「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」とあります。エペソの教会が神様の御心にかなうようにと一生懸命に励んでいる。いろいろなことを耐え忍んで、正しい歩み方を守ろうとしてきた。「使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」。なかなか品行方正、立派な教会だったのです。何一つ落ち度がなく、そつなく神様の前に励んでいる。ところが、神様は4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある」と言われる。神様が求めることがある。それは「初めの愛から離れてしまった」。心がない、愛がないじゃないか。どんなにそつなく、非の打ち所のない歩み方をしていようと、その心に信仰がない、真実な思いがない。ただ決まった一つの手順としてマニュアルに従って、それを後生大事に守っているけれども、そのすることに愛がない。初めの愛から離れてしまった。神様の救いにあずかって、喜び感激して、感謝して少しでも、何としてでも神様の御心に添いたいと心を傾けて、することは中途半端であっても一生懸命であったあのときのあなたの心はいったいどこにあるのか?今はなるほど、することは立派だし、きちっとそつなくできるし、何もかもパーフェクト、しかし、そこにはあなたのあの初めの喜びと感謝と愛がないではないか。神様が求めているのは、そのような外側のわざではなくて、あなたが私を神として尊び敬う心なのだ。

 

詩篇50篇7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。「わたしは神であるよ。あなたの神ではないか。それなのにあなたがしていることはなるほど『神様、神様』と言いつつ、言葉だけでその心がない」。神を敬い、尊び、神様を大事にする、神様だけという一途で純粋な思いが欠けてしまっている。これでは、神様を神様として生きることができないではないかという。

 

バレンタインデーになると愛する人にチョコレートを贈る。義理チョコというのがあるでしょう。まさに神様にも義理チョコをあげるようなものです。心がない。神様に義理○○では、これがいちばん良くない。神様は本命ですよ、皆さん。命を賭けて「あなたは神、私の神です」と答えきれるかどうか。だから、ここで神様はイスラエルの民に、7節「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。と、切なる思いをもって言われる。では、その神様に対して私たちはどのように答えているのか。どのように神を神としているのか?私たちの生活の中をもう一度見直してみる。そこにどれほど神を神とした歩みがあるだろうか?心があるだろうか? 「日曜日、今日は礼拝に行こう」。礼拝には出るけれども、教会の玄関を出ると同時に神様を忘れて、あとは自分が自分が、私が私が、あの人がこの人がと、世の中のことばかりになって、神様を忘れている。なるほどお祈りも欠かさないかもしれない。礼拝も各集会にも励んでいるかもしれない。言うならば「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。しかし、神様が求めているのは「感謝のいけにえを神にささげよ」。自らを感謝のいけにえとして、神様のご愛と恵みを心から感謝して、自分の一切を神様のものとしきっているか?時間も財も健康も家族も仕事も、これはすべて主のものですとはっきり神様に一切をささげて、主のものになりきっていくこと。そのあとに「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とあるように、あなたが「神の子供だ」、「神にあがなわれた民だ」と言うならば、その約束のごとくに、そのように歩んだらどうなのだ。これは、私たちに対する神様の切なる本当にやけるような思いです。私どもは事情や境遇が良くなると「もう神様はしばらくいいか」と。ちょっとどこかへ仕舞い込んで、何か事があったら……。時々そういう方がいます。近ごろ見えない、お電話をする。「近ごろお見えにならないが何かあったのですか?」「いいえ、先生、お蔭様で事が順調です」「教会にもいらっしゃい」「ええ、暇があったら行きます」と。そんなことでどうして神を神としていると言えるかと、神様は問われるのです。

 

15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」とあります。神様を第一にして悩みのときに、苦しいことがあったら、いつでもどんなときでも神様を呼びなさいと。なぜならば「私はあなたの神だよ」と。しかし、私どもは神様を呼ぶより医者を呼ぶ。あるいは神様を呼ぶより、息子や孫や何かに頼る。だから、神様は「わたしはいったいどうしたらいいのか?お前の神だけど何をしたらいい?」「いいえ、神様、用事があるまでちょっと待って」と、ほかのほうへ行く。これでは神様がどんなに悲しんでおられるか分からない。親でもそうです。人の親はできないことが多いから、子供から「お父さん……」と頼られても困る。「悩みの日に私を呼ぶな」と言いますよ。ところが、神様は「悩みの日にわたしを呼べ」とおっしゃる。人の親はできないけれども子供に悩み事があったら、まず「お父さん!」と電話をかける。ところが、うちの親は言っても仕方がないと言って、ほかのところへ行く。しばらくたって、ほかの人から「お宅のお子さん、こんなですよ」と聞く。「え!それは知らんかった」と、親が知らないうちに息子がほかの人には相談している。そうしたときの親の気持ちはどうですか?「できんかもしれないが、どうしておれに言ってくれなかったんだ」と。「うちの親に言ったって仕方がないから、先生に言います」と言ってくる。私は一応聞きますが、困ります。お父さんに会うと、言うに言われないし、息子が言わないのに私が勝手に言うわけにはいかない。「早くお父さんに言いなさいよ」と勧めます。

 

神様は「わたしは神、あなたの神だよ」と言われるのに、何か事があると、あの人この人と、いつまでたっても神様に来ようとはしない。神様は知っている、見ていらっしゃる。「今にわたしの所に来るだろう。わたしを呼ぶだろう」と。でもちっとも呼びもしない。「あんたには関係がない」という顔をしている。そして、いよいよどん詰まりになって、お手上げになって初めて、「神様!」と。「どうしてもっと早く言わないの」。そうでしょう。神を神としている心がどこにあるかと問われます。どうぞ、「私の頼るべき御方はあなた以外にありません。あなたは私の神です」と、神様に信頼して、何があっても、人に言わなくても家族に言わなくても、主には求めていく。神様に信頼する。これが恵みを受ける秘けつです。14節「感謝のいけにえを神にささげよ」、神様、私はあなたのものですと一切を主にささげて、「誓いをいと高き者に果せ」、私は、神様、あなたの子供です。だから、親に信頼するように、「あなたは私の神です」と告白しましょう。

 

詩篇63篇1節から4節までを朗読

 

詩篇63篇1節に「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる」とあります。これは表題に「ダビデの歌」とあるでしょう。ダビデは神様を何よりも身近な御方として信頼したのです。だから「神よ、あなたはわたしの神です」と言えたのです。皆さん、どうぞ、遠慮なくそのように告白しましょう。ところが、「教会の末席でいいですから、私も加えてください」「何をそんな遠慮深いことを……、そんなことを言わないでど真ん中に来なさい。あなたの神様でしょう」と言ったのです。「いいえ、皆さんの神様で、ちょっと私はお邪魔かもしれないけれども」「お邪魔だったら、もう来なさんな」と言ったのです。「あなたの神だ」と言われる。だから、遠慮なく「あなたはわたしの神」と答えましょう。ダビデは徹底してこの神様を「わたしの神」と言いました。欲張りです、人にわたさないぐらいの勢いです。そのくらいに神様を自分のものとして、身近なものとして、絶えずこの御方のそばに自分を置いていきたいと思います。これを神様は喜んでくださるのです。何ができなくても「お父さん」「お父さん」といつも慕ってくれることを神様は願っているのです。「何か物でも持って行かないと親に顔を合わせられん」と、そんな隔てがあり、距離があるから、いつまでも安心がない。だから、お祈りをするとき、信じて祈るのです。「神様。あなたは私の神です。私のことを知らないはずがない。この悩みがわからないはずがない」。どんなことでも祈ったらいい、求めたらいい。「あなたは私の神です」と、心を注いで、主を求め、信頼していくとき、神様は喜んでそれに答えてくださいます。私たちは足らないのです。遠慮深いと言いますか、「私の神ではあろうけれども、ちょっとそこまで言うのもですねー。何か厚かましくて」と、そんなに遠慮するぐらいだったらやめたらいい。私どもの頼るべき御方はこの御方以外にないのでありますから、「神様、あなたは私の神です」と答えていきたい。

 

詩篇50篇7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。神様が「わたしは神、あなたの神である」と、それに対して私どもも「はい、そうです。あなたは神、わたしの神です」と答える者でありたい。そして、全身全霊すべてを感謝のいけにえとして主にささげきって、主のものとなりきって、主の民である証しをはっきりさせ、その旗印を掲げて、いと高き者の民として、神の子として、その歩みを全うしていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。