ローマ人への手紙14章1節から9節までを朗読。
8節「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。
イエス様の救いとはどういうことか、繰り返しお話しているところですが、もう一度そのことを振り返ってみたいと思います。イエス様を信じて、私たちはいったい何が変わるのか?
ある方からそのように尋ねられたことがあります。「先生、洗礼を受けてイエス様を信じたら、私の生活はどのように変わりますか」と。私は「ほとんど変わらないと思う」と言ったのです。「住んでいる家も違わないだろうし、あなたの顔がきれいになるわけではないし、着ている洋服が変わるわけでもないし、何も変わらないと思うよ」と。すると、その人はがっかりして「じゃ、洗礼を受けるのをやめます」と言われた。私は「なるほど、そういうこともあるのかな」と思いましたが、その方はイエス様の救いを間違えて理解していました。救いとは、私たちの願いがかない、世の中にあって私たちが誰よりも豊かな生活ができるという、そのようなことをイエス様が約束してくださったのではありません。イエス様を信じて、私たちの生き方、生きる目標が変わるのです。イエス様を知らなかった時代は、ひたすら自分中心の生き方をやっていた。自分の夢を実現し、自分の願いを実現し、自分の思いを遂げたいと、そのような自己実現、いい意味でいうならば自分を完成することを願う。これが私たちの生き方でした。だから、今申し上げたその方も自分の夢を実現したいためにイエス様の救いを求めたのです。
ところが、イエス様の救いはそれとは正反対なのです。ご存じのようにイエス様は十字架に死んでくださいました。これはイエス様を信じる人がすべて自分に死ぬことの証詞でもあります。イエス様が十字架に死んでくださった。「これは有難い。私は死ななくてよかった」という意味ではありません。イエス様が十字架に死んでくださったことを信じるのは、「私もイエス様と一緒に十字架に死ぬことだ」とパウロが言っています。イエス様が私たちに代わって十字架に死んでくださったから、「私は死ななくてよかった。私はこのままでよかったのだ」というのは大間違いです。私は十字架にはかかってはいないけれども、十字架に死んでくださったイエス様を信じることによって、自分が死んだのです。自分のために生きる人生、自分の夢を実現する、自分の欲望を満足させる生き方ではなく、もっと違った生き方、イエス様のような生き方をするためです。イエス様は神の子でしたが、父なる神様によってこの世に遣わされました。「ピリピ人への手紙」に「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」(2:6)とあります。そして、あえて人の世に来てくださった。それは父なる神様の御思いに自分を委ねることです。そして十字架の死にまで従順に従われました。十字架の死は父なる神様が御子イエス様に求められたことでした。十字架におかかりになる前にゲツセマネの園でイエス様が父なる神様に祈りました。その時「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ 26:39)。そういって、神様の御心に自分を委ねた。言い換えると、それは自分がそこで死ぬことです。だから、イエス様の十字架はゴルゴダの丘に立てられた十字架で始まったのではなくて、既に神の位を捨ててこの世に来てくださったこの事実の中に、イエス様はご自分を捨て、死んでいたのです。それは死なないとできない。自分がしたいとか、楽をしたいとか、もうけたいとか、自分を楽しませたい、自分の思いを遂げたいのなら、イエス様はいつまでも神の位におられて、父なる神様に「神様、わたしはそんな所へは行きません。あんな人間の世の中なんか、わたしは嫌です」と言えば終わりです。ところが、イエス様は父なる神様が求めるところ、その願いを知り、思いを知って、それに自分を委ねた。自分の思いを捨てたのです。そして人の世に来てくださいました。その時からすでに始まっていたのです。だから、クリスマスで「うれしい楽しいクリスマス」といいますが、それどころか、既に十字架の生涯だったのです。だから、イエス様を信じる者は、イエス様が父なる神様にご自分を捨てて従われたように、私たちも自分を捨てて、イエス様に、あるいは、イエス様を遣わしてくださった父なる神様に、私たちが従う者となること、これが救いです。だから、救いにあずかって生きる目的は、父なる神様に私たちも従い行く者であると信じて生きる。
コリント人への第二の手紙5章14,15節を朗読。
15節に「彼がすべての人のために死んだのは」とあります。「彼」とは主イエス・キリストです。イエス様がすべての人々のために死んでくださった。それは「生きている者が」とありますが、これは私たちです。私たちが「もはや自分のためにではなく」、自分の利益や自分の夢を実現し、自分の願いを求めてではなく、「自分のために死んでよみがえったかた」、私のため、皆さんのために死んでよみがえったイエス・キリスト、イエス様のために生きるためです。だから、いまイエス様の救いにあずかって、私たちの生きる目的が変わりました。私は主のために生きる者、神様のために、イエス様のために生きる者となったのです。そのとき、自分のしたいこと、自分の願いは捨てなければならない。いや、それどころか、死んでしまったのですから、自分はないわけです。私たちのすることなすこと、ことごとく主のためにです。このことを絶えず自覚していなければ、それはできません。ただ漫然と昨日の今日、今日の明日とだらだらとトコロテンのような生活をしていては、救いにあずかった喜びや手応えを感じれないのです。「私は救われたやろうか、どうやろうか、何やらよう分からんが、取りあえず教会には行っておこう」というのは、もったいない話です。「イエス様が救ってくださった」と、救いの恵みを自分のものとして握る。毎日毎日事あるごとに、私たちは自分で「神様、あなたは私をあがなって、買い取ってくださった。神様、あなたのものとしてくださって、私はいま主のために生きているのだ。私は神様のために今日も生かされているのだ」と自覚してください。これがまず第一の大切なことです。
「家族もいなくなって、年を取って老人所帯、一人っきりの所帯で自分のためにだけ生きているようですが、それはどうなりましょうか?」と尋ねられる。朝起きて誰もいない、独り住まいだから「今日は自分の好きな物を食べておこうか」と、自分のために生きているように思うかもしれませんが、それは大きな間違い。主が今日も私を生きる者としてくださった。今朝もこうして食事をすることができるのは、神様が「あなたは生きよ」と、生きることを求めているから、それを感謝して頂くのです。だから、「ほかに文句を言う人がいないから、今日は気分が悪いから昼まで寝ておこう」と怠惰になりやすい。自分のためではなく、主のため生きるのですから、「主よ、今日は何をしましょうか」と、独りであってもすべきことはいくらでもある。自分のためのようですが、自分のためではなくて、主のためしているとしっかり自覚する。だから、主のために食事をし、主のために朝起きて元気に主を賛美し、感謝し、主を喜ぶ者となるのです。だから、イエス様の救いにあずかったことをしっかりと信じて、主のために、キリストのために、神のために生きる者とされる。これが救です。
15節に「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」とあります。主婦の方で、家族のために食事のしたく、掃除洗濯、買い物やいろいろなことをする方も、これは息子のためとか、娘のためとか、あるいは主人のため、奥さんのため、誰のため彼のためというのではなく、主のためにさせていただく。主が私にこのことをさせなさるのだから、主の前に果たすべき責任がある。だから「ローマ人への手紙」8章に「わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」といわれています。「自分の家族だから、私の子供だから仕方がない、私が面倒を見なければいけないから、世話をしなければいけないからしているのだ」というのなら、これは肉のために果たしているだけです。そうではなく、主がこの家族を私に託してくださった。預かった家族のために、私は主に対して果たす責任がある。神様に対してこのことをさせていただくのだと、どんなことにも徹底していきたいと思います。これは自覚しなければできません。「これは主のためにさせていただこう」「このことも主のために、主がいま私に願っていることだ」といつも自覚して、出処進退、歩み方をきちっと神様の前に正していきたい。そうでないと、私がしたいから、嫌だからという、感情や情欲に支配されやすい。その結果、大抵はつぶやきばかりです。「こんなにしてやったのに有難うの一つもない」とか、「お礼の一つもない」とか、「こんなに世話をしたのに、電話の一本も掛けてこない」と言われる。「うちの息子はどうしているのでしょうかね。先生、電話一本してきません」と。「では、あなたからしたら?」と言ったら、「親からどうしてするんですか!」と。「あなたが心配なんでしょう」。「いや、心配だから向こうがすべきだ」。「だったら心配しているあなたがしなさい」と言ったら、「それはできん。親のこけんにかかわる」と。自分が生きているから駄目です。主のためにしていない。相手が喜ぼうと喜ぶまいと、どうしようと、そんなことはどうでもいい。「神様、あなたに従ってこのことをさせていただきましたから、感謝です」と、喜べばいい。それですべて事はおしまい。それから先のことは神様がなさることです。これを決めないために、ズルズルと、つぶやき、納得できない、フラストレーションがいつも心にある。
「ローマ人への手紙」14節2節以下に「ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」。ここに「野菜だけを食べるとか、食べない」という話があります。当時、ユダヤの人々の中に菜食主義の人たちがいました。肉食を一切しない、それを戒律として守る人たちです。そうではなくてもっと自由な人たちもいた。
今の世の中でもそうですね。それぞれの人々の違った生活習慣があります。日本人であってもそうです。地域が変わるだけで、コロッと変わります。こんな狭い日本でも人の生活の仕方は千差万別。地域によって味付けが違う。琵琶湖の辺りから東の方と西の方では味が変わる。白味噌文化と赤味噌文化というのがありますね。おうどんのおつゆも九州は比較的色が付かない。ところが、私は名古屋に行きましてびっくりしました。うどんは平べったいうえに真っ黒な汁。「いったい食べられるものかな」と思って、まわりを見ると皆おいしそうに食べている。しかし、それに慣れると美味しい。両親の所へ来て、おうどん屋さんに入ると、うどんが全部見えている。「これは食べれるのかな」と一瞬ちゅうちょしました。こんなことでも、大違いです。
だから、3節に「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない」とあります。ともすると、私どもはそのように人のしていることや、人の生活行動と自分とを比べて、その違いによって人を非難したり、批判したり、あるいは褒めたりくさしたり、いろいろなことをする。ところが、ここで「それはしてはいけない」と。実はもっと根本なところで、私たちの救いは一人一人個人のものです。他人のことではない。だから、聖書を読んで救いにあずかるのは、家族の誰かではない。息子や子供でなく、「私」なのです。そんなことを言うと、「偏狭なことを言うなぁ、皆恵んでやらなければいかんじゃないか」と言うけれども、神様が皆を恵んでくださるのであって、私は恵むことも何にもできないのです。私は神様に仕える者として選ばれ召されて、皆さん一人一人が神様から選ばれ、救いにあずかって、神様の御心に従う者として立てられている。だから、一人一人全部違う。神様の前に私たちは一人で立たなければならない。家族みんなそろって一緒に地獄へ行きましょうとか、一緒に天国へ行きましょうとはならない。天国へ行ってみたら「あら、私一人か」と思うかもしれません。「そんなことだったら、私は地獄でいいです。家族と一緒に」と言う人もいますが、信仰は全く個人の問題なのです。一人一人が神様のために生きる者とされているのです。同時に、私たちがそのように自覚していなければ駄目です。私はイエス様に救われて、自分が生きているのではなく、キリストのために、主のために、神様のために生きる者であることを徹底して自覚する。今日、このことをしているのは主のためにしているんだと信じていくならば、隣の人が別のことをしていても「あの人もまた主のためにそれをしているに違いない」と信じることができます。しかし、自分が人のためにしていると「あの人、ちょっとおかしいんやない」と言う。ここがいちばん肝心なところです。私たちは、一人一人が神様の前に立っていることを忘れてはならない。そして、あの人もこの人も、実は神様が責任を持っていらっしゃるのです。
親だから子供は私の願いどおり、計画どおりに育てようとしますが、それは大間違い。確かに養育していく間は、親が監督し、育てます。だからといって、一人の子供、人格のある人としての存在は神様が責任を持っている。これを認める。これは大切なことです。それをしないものですから、他人も自分も一緒くたになって、まるで餅がくっついているように分からなくなってしまう。そうなると、いよいよ泥沼に入ります。だから、私たちはきちっと自らを律すると言うか、絶えず自分を神様の前に置くことです。私は主の前に果たすべき責任がある。それと同じように、AさんもBさんも皆それぞれが神様からの使命に生きているのだと認めなければならない。自分は神様の前に、主のために、と生きているのに、「どうもあいつはそうではない」とか、「あれは間違っているぞ」というのは、神様の領域を侵す越権行為です。だから、人のことをあれこれ言うのは、神様の領域を踏み破っていくことです。
4節「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」。「その主人」とは神様です。神様が彼を立てている、彼を知っている。イエス様をまだ知らない人を見ると「あの未信者!」とか「あの人はまだ神様を信じない」と、まるで不道徳な人のようなことをいいますが、それは大きな大間違いです。そんなことを言えた柄ではない。まずもって自分自身も罪の中に生きていた者です。いま憐れみをもって救われたのです。もう一つは、神様が私の名を呼んで「あなたはわたしのものだ」とあがなわれ、私が主のものとなっているのと同じように、神様はすべての人を救ってくださっている。すべての人のために、イエス様は死なれたのです。
「コリント人への第一の手紙」8章7節から13節までを朗読。
ここにも食べる、食べないとあります。「食べたり食べなかったり、そんな食物のことどうでもいいじゃないか」と思うかもしれませんが、これは一つのたとえです。食べる食べないではない別の事柄で、同じように人を裁いている。そのことが語られているのです。ある人はこれが正しいと思う、ある人はそれはいけないと思う。それはそれでいいじゃないかと、パウロはいっている。その人については神様がご存じで、神様がそれを導かれる。この人には神様が備えた事柄がある。ところが、その人が「こうすることが正しいのだ」と言われて、仕方なしに言われるようにしたら、それは神様のなさるわざを途中で妨害しているというのです。
ここに「偶像への供え物」ということがあります。おじいちゃん、おばあちゃんの所は仏教で、仏壇にお供え物をする。お盆のときに、到来物と、持ってきた物を全部取りあえず、「これは仏さんに」と、その前に置きます。しばらくしたら「この果物を食べましょう」「このお菓子を食べましょう」と、仏壇から持ってきて食べる。クリスチャンはそれに抵抗を覚える。日本は異教徒といいますか、キリスト教でない世界ですから、いろいろな事でぶつかることがあります。しかし、他の人たちを批判することは、神様の前に罪を犯すことになる。もし、無理やりに「そんな偶像を拝むことは悪いことだから、あなたたちやめなさい!」と言って、食べているものを取り上げても、彼らは仕方なしに従うかもしれないが、彼らは神様に従ったのではなくて、人の言う事に従っただけです。神様に任せる、神様のお取り扱いの中に彼らもあるのだと認める。私たちの信仰はタフでなければいけない。目先の重箱の隅をつつくような信仰ではなくて、神様がすべての事を今も統べ納めている、ご支配しているのだと自分自身を含めて認めなければ、その事は言えません。これが神様を神様としていく大切なことです。となると、私たちは他人のことを何にも言う必要がなくなる。神様が全部知っておられる。だから、いつも主の前に自分を置いていくとき、人のあれこれを見なくて済む。気がつかないうちに人のしていることなすこと、それこそはしの上げ下ろしから茶わんの持ち方まで気になる。そうなったとき、私たちの思いが神様から離れている。
11節「するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである」。これはいいお言葉ですね。あの人この人のためにも、キリストは既に救いを全うしてくださっている。ただ、その人がまだ知らないだけなのです。そのことに心を向けない、あるいはイエス様が自分のために死んでくださった、救ってくださったことにまだ気がつかないのは、その人の問題であって、私たちの問題ではない。だから、私たちがその人を説得して、何とか救いにあずからせてやることはできない。これは不可能です。しかし、神様はご存じなのです。では、私たちはどうするか。その人が救いに早く気がついてくれるように、神様が早くその人たちに思いを与えてくださるように、祈る以外にない。また、これがいちばんの近道です。
だから、よく家族の救いについて尋ねられますが、これは神様が家族一人一人の責任を持っているのであって、あなたが持っているのではない。つい「親だから、子供たちを私の目の黒い間に」と、そのようなことを言われた方がいます。「神様はちゃんと『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』(使徒 16:31)と約束してくださっているから、いいではないですか」と言いましたら、「先生、ではいつそうなりますか?」と。「いや、あなたが召されたあとだって、神様は祈りにちゃんと答えてくださる」「それでは遅すぎます」と言う。「どうしてですか? 」「私は目の黒いうちにそれを見たい」と。ところが、それを見ないままに召されました。その息子さんは東京にいるのですが、今は聖書三昧の生活をしていらっしゃる。先だって同窓会があるからといって来られました。お母さんがこんな息子さんを見たら大喜びをすると思う。息子さんは高校生時代に教会に導かれたのです。その息子さんによってお母さんが信仰に導かれました。お母さんが召されたあと、毎日御言葉のメールを大切に繰り返し読んで、そして聖書を読んでいる。この間も「お母さんがいるときあなたがこのように教会に喜んで来てくれるようになっていたらよかったのにね」と言ったら苦笑いをしていました。私たちは自分のものでない。家族も主のものだと認めていかなければ、自分が主のものであるとはいえません。
もう一度初めの「ローマ人への手紙」14章5節に「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と。「各自は」、一人一人が確信を持って立つことです。その確信とは、主のために生きている自分であることです。ここに「日を重んじる」という考えがありますが、日本でもよく言われます。「結婚式をしてください」と言われ、「いつごろしましょうか?この日なら空いていますが」というと、「ちょっと待ってください。先生、カレンダーを持って来ます」と、カレンダーを持って来なくても分かるはずだと思うのですが、何を見るかというと、大安だとか仏滅だとか、友引だとかを見ている。「先生が言われる日は仏滅ですが」と言われる。私が「じゃ、この友引の日にしようか。友引なら縁起物だからいいじゃないね。葬式の友引は嫌がるけれども、結婚式だったら今は独身者が多いから友引でみな来てもらったら」と。日柄が気になる人がいます。でも、ここにあるように、それぞれの人がそれを大切にするのであって、頭から「そんな馬鹿げた」とは言えません。相手の人が「どうしてもこの日に」と言ったら、「何とかその日に合わせてやりくりをしましょう」と言います。だからといって、何でも相手の言うとおりにするとは限りません。一つ一つその時、その時で、神様の導きに従わなければいけない。なぜならば、主のために生きているわけですから。だから、時々「先生は一貫性がありませんね」と言われる。「私の家内にはああ言って、今度、私にはこんなことを言って、違うことを言っている」と。「それはその時神様が言わせなさったことだから、神様に文句を言ってちょうだい」と言っている。私どもは何もかも神様任せです。
だから、7節「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」。「だれひとり」です。一人一人、どんな人も自分のために生きているのではない。また死ぬのも自分のために死ぬのではなくて、8節「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」。生きるにしても死ぬにしても、何にしても「主のために」、この一点をいい加減にしてしまったら、おしまいです。私たちは主のために生きる者として召された者です。ですから、どんなことにも、いま私がしているのは誰のためでもない、イエス様、あなたのためにこのことをさせていただきます。ここへ導かれたのは、主よ、あなたがこのことを備えてくださったからですと、堅く信じていきたい。と同時に、周囲の人、どんなに親しい人、家族であっても、その人にはその人に対しての神様の導き、ご計画がある。主のものだということです。私の息子ではなくて、主の息子です。主のため、主がそのことをしている。だから、私たちはそのことについて決して口を挟むわけにはいかない。ただ主を見上げて、私だけが主に仕えるべき者であって、周囲の人たちにはそれぞれに神様が求めることがあるに違いない。
だから、教会でもそうです。教会だからといって、これをしなければいけない、あれをしなければいけないと、決まったことは何もありません。皆さん一人一人が神様の前に導かれるところに従って生きていただくこと、これがすべてです。どんなことも祈りつつ、私は主のものなのだ、私はキリストのものとされているのだとしっかり自覚してください。と同時に、この人も主が救ってくださった。この人のためにもキリストは命を捨ててくださったのだ。それを信じたら、失望することはありません。どんな状態を見ても「大丈夫、神様が責任者なんだから。神様、どうぞ、あの人も憐れんで、この人も恵んでください。この人も救ってください」と、祈ればいいのです。「主よ、私はあなたのために生きている者です」と、心からこのお言葉「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」に従い、主の所有とされていることを確信しましょう。そして、しっかりと主に果たすべき、神様に対して果たすべき責任をまっとうしたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。