「あなたがたはキリストのからだであり、
ひとりびとりはその肢体である。」第一コリント12:27
私達はキリストを介して結ばれた有機体です。からだには手があり、目があり、
足など様々な器官があります。全ての器官はそれぞれに与えられた役割を果
「あなたがたはキリストのからだであり、
ひとりびとりはその肢体である。」第一コリント12:27
私達はキリストを介して結ばれた有機体です。からだには手があり、目があり、
足など様々な器官があります。全ての器官はそれぞれに与えられた役割を果
「神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」
コリント人への第一の手紙 3.16
あなたは自分の命を尊いと思いますか?
尊いと思うなら、あるいは不要なものと思うならそれはなぜでしょうか?
もしも、自分の境遇、性格、容姿、財力・能力その他
人と相対的に比べられるもので尊卑を決めるのであれば、これほど不安定な価値はありません。
私たちは今、この聖言葉の通り、神の宮として神の御霊を宿しています。
自分自身が神の宮としてふさわしく見えようと見えまいと、
神様があなたを愛するがゆえに、神の宮としてくださったのです。
しかも、本来なら神の宮とするにはあまりに汚れているはずなのに、
あえてそのような者を選び、
イエスキリストの十字架をあがないとして
神の宮にふさわしく清めてくださいました。
あなたの価値は、
神様から受けている愛と宿している御霊とイエスキリストがささげられた命によって
裏付けられています。
もしも、自らの価値を見失いそうなときは、このことに立ち帰ってください。
決してこの価値が揺るぐことはありません。
(正野)
テモテへの第一の手紙4章1節から5節までを朗読。
4節「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。
この御言葉の前に「結婚を禁じたり」と「食物を絶つこと」とあります。旧約時代、イスラエルの人々は律法を守らなければなりませんでした。律法には、「これは食べていい」とか「これは汚れたものである」とか、「これは禁止すべきこと」、「これは勧められるべきこと」など、いろいろと決まりごとが細かく定められていました。それに従って人々は生活していたのです。ところが、イエス様はすべての律法の完成者、終わりとなってくださった。イエス様を信じる時、もはやそのような「ああせよ」とか、「こうせよ」とか、「あれをするな」、「これをするな」という、規定に従うことはいらない。律法から解放してくださったのです。律法は恐れと言いますか、そうしなければ罰を受ける、何かひどい目に遭うという怖さを伴います。しかも、それを守らなければ永遠の滅びに定められるとされました。律法に支配されたのはイスラエルの民だけではありません。私達日本人もそのような囚われた世界に生きています。先祖伝来の習慣、社会的な慣習、自分で作り出した価値観など、数多くの“縛り”の中にあって、常に何かを恐れ、周囲を気にして、見えない力に支配されて生きています。イエス様はそういう奴隷の世界から私たちを解放してくださいました。十字架の上で、「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)と宣言されたイエス様は、律法の終わりとなって、私たちに自由を与えてくださった。だから、もはやどんなものにもとらわれることはいらないのです。私たちに求められるただ一つの事、それは「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ 5:16)というこの一点です。言うならば「神様に従う」こと以外にないのです。神様に従う時、ルールや何か決まりを作って、それを守ると比較的楽です。これを守っていれば神様に従っていると見なされるのなら、それだけを最低限やっていればいいわけですから。ところが、そうなると、決められたことを守るのが目的になり、神様に従うことから離れてしまいます。神の御霊、聖霊は、私たちに「右に行くべし」、「左に行くべし」と絶えず語りかけてくださる。日ごとに、時々刻々語ってくださいます。神様は同じことを求められる方ではありません。神様の導き、御心は個人個人によって違います。あの人がそうしているから、私も同じようにするならば、神様に従うこととはならない。
教会に一人の、皆さんから尊敬される方がおられました。その方がする通りに、ほかの方々がまねをする。その方が持っている物をみんなが持ちたがる。その人が和服を着てきたら和服、洋装になったら洋装と、その人のするようにする。次第にしゃべり方まで似てきた時期があり、びっくりしたことがあります。そのように、信仰深い人の生き方をまねしておればいいかと言うと、そうではありません。神様が一人一人に必要なことを教え、また求められるとことがあります。そういう意味で御霊に従って生きる、神様を信じて生きるのは、極めて個人主義です。と同時に、一人一人の「個」というものがはっきりとする、明確になる生き方でもあります。日本の古来の“和を尊ぶ”とか、あるいは“出る杭(くい)は打たれる”というような、そういう発想は聖書にはありません。たとえ100人が反対しようとも「私にいま神様が求められていることは、このことです」と信じて生きるところに、信仰の道があるのです。みんながそうしているから私もそうしているという生き方ではありません。時には神様は同じようなことを求められることがありますが、だからといって、まねをすることではない。たまたま、この人にも神様が同じように導かれることがありますが、別の問題になったら、異なった道になるのは当然です。夫婦でも、親子でもそうです。だから、“共白髪まで”とか、「偕(かい)老同穴」と言って、一緒に墓の中までが理想のように言いますが、死んでから先までも一緒になんてあり得ない。信仰は個人のもの、一人一人です。他人と違っていても何の引け目はない。日本人のくせで、「あの人があんなにしているから、私もあんなにしようか」、「この人がこうしているからこうしよう」と、つい付和雷同、人に流され、人に付いて、まね事をしていることが安心と言う。それは信仰の世界とは大違いです。主と私、神様と一人一人との関係です。だから、こうやって同じ場所に来て、聖書の同じ箇所を読み、同じ話を聞いていても、神様が語られることは一人一人に違います。学校の授業のように、理解度を試す試験をして、同じ答えを求めることはできません。一人一人違って当たり前、当然です。「自分だけが何かほかの人と違うなぁ」と思って、「これはいかん」と言う。そうではなくて、もう一度、神様に問わなければならない。「私はどうすべきでしょうか」と。だから「教会だから、教会の言う通りにしよう」、「先生がそう言うから、皆それに従おう」と言うのもおかしい。大違いです。言われたことを、もう一度、神様の前に持ち出して、一人一人が、「いま私がこのことをどうすべきでしょうか」と問う。その結果、一人一人が選んだところがみんなと同じ方向になったなら、それは大きな喜びであり、感謝です。みんなと違っているなら、たとえ何を言われようと「私はできません」と、正直に神様の前に生きるということが大切です。一人一人が神様と結びついて、神様の導きに従って生きることが福音に生きることです。ところが、旧約時代はそうではなくて、あるルールが決められて、それを守ることに熱心になる。それを守ってさえおれば、神様に従っている。分かりやすく言うと、自分は地獄に行かないで天国に行けるのだという考え方をしていたのです。
ところが、今読みました3節の中ほどに、「しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである」と。人は勝手に「良い」とか「悪い」とか言うけれども、神様が造られたもので、悪いものはありえない。神様が備えられたものであるから、4節に「神の造られたものは、みな良いものであって」とあります。神様がこのことをしているのだと認める時、私たちはつべこべ言えません。神様がこうしていらっしゃるのに、私が「良い」とか「悪い」とか、そんな勝手なことを言えません。それは神様に対して盾突くことですから、「感謝して受ける」以外にありません。「これは神様がくださったもの、私に備えられたことです」と、感謝して受けることが大切です。感謝して受けるなら、4節「何ひとつ捨てるべきものはない」のです。どんなものも、どんなことも無駄になることはない。「捨てる」とはもういらない、こんなものは役に立たないとか、仕様もないものだとはならない。すべてのものを「感謝して受ける」こと。これがポイントです。ところが、私どもはなかなか「感謝して受ける」ことができない者です。感謝するとは「有難う」と言うことです。日本語で「有難う」「有り難い」ということでしょう。あり得ないことだと認めることです。こんなことをしてもらうなんて“あり得ないことです”というのが、感謝でしょう。神様からしてもらって「神様、申し訳ない、私はこんなことをして頂けるような者ではありません」と、認めることが感謝です。ところが、神様からしてもらって当然で、「こうしてくれて当たり前じゃないか」と思うから、「有難い」とは思えない。あり得ること、“こんなのは当たり前だ”というところに、感謝ができない問題点があります。どんなことでも、神様からして頂いている、神様が私に備えてくださったのだと。ところが、そう思わないのです。「いや、これは私が努力した結果得た、私が我慢してきた結果、私が一生懸命にやった結果としてこうなったのだ。こうなって当然。これだってまだ少ないぐらいだ」と。「まだ足らない」と、不足があり、不満がある。ここが問題です。4節「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受ける」と言われるのは、「神様が造られたものは全部良いものなのだから、感謝しなさい!」という意味です。「感謝したらいいじゃないか」と。ところが、私どもはそれができない。
ある方がどうしても感謝できない。それで苦しんでいます。というのは、結婚して何十年にもなるのですが、ご主人の実家との折り合いが悪くて、長いこと義理にあたる兄弟たちや、お姑(しゅうとめ)さんやお舅(しゅうと)さんから「自分はいじめられた」嫁である彼女は思う。「その中を耐えに耐えて、やっと今がある」と思っているのです。普段はそれを忘れて生活しているけれども、時々何かの切っ掛けでバッと思い出す。皆さんでもあるでしょう、言わないけれども。家族とか、親せきの集まりに義理で出かけたりすると、一瞬にして過去の十年か二十年か分かりませんが、憎しみがガーッとわいてくる。そして自分が被害者であったことを思うと、眠られなくなる、悔しくて。そして、生きることも力が抜けて、怒りと同時にガクッと落ち込む。そういうことを何度も繰り返しながら、どうしたものかと苦しんでおられます。そのような方にどう答えますか?「仕方ない、我慢、我慢、そんなことを言ったってもう過ぎたことだ」と。それで済むのだったら実に簡単ですが、なかなかそうはいかない。何と言うか。その時、与えられたのがこの言葉です。「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受ける」と。しかし、現実に受けたいろいろな仕打ち、そういう苦しかったことを思い起こすと、感謝なんて到底できない。では、どうするか? その受けたことを神様からの賜物として、素晴らしいプレゼントとして受け止める以外にないのです。それにいつまでもこだわっているかぎり、かかわりある人々に対する憎しみから、抜け出ることができません。そうではなくて、もう一度、過去から今まで、生まれてから今に至るまで何十年という年月をトータルで、ある一時期はそういう問題や悩みの中に置かれたかもしれないが、自分の人生を始まりから終わりまで全体を一つとして受け止める以外にないのです。生まれた時から、幼児期、少年、青年期、そして壮年期、またいま老年期という長い70年とか80年の人生をワンセット、トータルに評価しなければならない。ある部分だけを切り取って、この部分は嫌な時だったから、私の人生は全部駄目だという考え方をしやすいのですが、これは大きな間違いです。私たちの人生はこの世にオギャーと生まれた瞬間から、この地上で命を引く、「ご臨終です」と言われるその瞬間までです。それを神様が与えてくださったという視点に立たなければ、私たちは生きることができません。あの一部分、私の人生のあそこだけは消してしまいたいとか、あの部分だけは取り替えたい。しかし、そういうわけにはいかない。神様はそのすべてを造ってくださったのです。
美術絵画の歴史を見ると、殊に中世時代のいわゆる宗教画というもの、先だってもイタリアに行って見てきましたが、宗教画は平面的です。奥行きがありません。色彩も大体一面的ですが、それがルネサンス時代を経て、1500年代から1600年代を経て、ロマン派の絵になってくると、光と影の世界が出てきます。レンブラントだとかルノアールなんかのきれいな絵もそうですが、必ず明暗が大きな役割を果たしています。暗い部分と明るい部分とによって絵に奥行き、立体性が出てきます。これは絵画の歴史で極めて画期的な出来事なのです。その絵を見ていて、しみじみと教えられるのですが、暗い部分があって初めて明るい部分が際立つ。また明るい部分があってこそ暗い部分が必要なのです。人生を一つのキャンバスに例えてみるならば、明るい華やかな色合いの部分もあるし、暗い部分もあります。また青空に輝いた太陽の燦燦(さんさん)と照る部分もあれば、室内のしっとりとした色彩の部分もあるでしょう。私たちの人生を一つのキャンバスに描かれた絵と見てご覧なさい。そうすると、どの部分も欠くわけにはいかないのです。明るい人生でありたかったからと、画面いっぱい明るく、ブアーッと明るいばかりの絵だったら、これは何の味もない絵です。私たちを造って、人生を創造しているのは神様です。神様は素晴らしい画家ですから、一人一人の人生を一つのキャンバスに見立てて、そこに明るいところ暗いところ、色彩鮮やかな色とりどりの部分、また沈んだしっとりとした部分、光が斜めに差したところもあるという具合に、実に豊かな世界を神様は創(つく)り出している。
だから、今、読みました4章4節に、「神の造られたものは、みな良いものであって」とありますが、神様は私たちの人生を全体として、初めから終わりまでを一つのものとして創り出そうとしているのです。だから、ある部分だけが非常に嫌でたまらない、私にとって最悪だったと思うところも、実はそれは非常に大切な欠くことのできない、なければ意味がないほどの、人生にとって大きな恵みの時なのです。だから、そのことをまず認めること、それが大切ではないかと思います。
その次に第二は、「有難い」と思うことです。「有難い」は、私が本来もらうべきではなかった、そういうものを今頂いているのだと認めること。というのは、人生のある一部分に、「自分の人生でこれは嫌だ」、「こんなものはなければ良かった」と思うのは、「そんなものを私が受けるはずがない。不当な扱いだ」。「自分は一方的に相手から、周囲の者から親族の者からいじめられた。不当な扱いを受けた、許せん」。「そもそも私はそんな扱いを受けるような人間じゃないはずだ」と。言うなら自分を高く買いすぎているのではないか。「感謝ができない」時は、そういう時です。高慢になるとはそこでしょう。自分が何者かであるかのように思うと、不当な扱いに思える。「どうして、こんな扱い方をされて」という不満がある。ところが、もう一度自分はどういう者であったか、まずもって神様から顧(かえり)みられるべき存在なのかということです。
詩篇8篇1節から9節までを朗読。
表題にはダビデの歌と記されております。羊飼いであったダビデが一国の王にまで引き上げられた。彼は自分の受けた人生を破格な出来事、到底自分には似つかわしくない、分不相応な取り扱いを神様から受けたという喜びが生涯続いています。だから、3節に「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います」。神様のわざである天を見、星を見、大空を見、宇宙を眺めてみる時、その広大な測り知ることができない大きな神様が、誠に小さな取るに足らない、はかりの上のチリに等しい、あるかないか分からないような私たち一人一人に目を留めてくださっていると。ダビデはこの事を感謝し、感激しています。「あり得(う)べからざることがあった、有難い」と語っています。私たちはどうなのでしょうか?それほど一日一日を感謝感激して、「今日も命が与えられた。私は本来昨日で死んでおった者が、今日も生かされて地上で命を与えられている。神様、私は何と感謝したらいいのでしょうか」と喜んでいる方がどれだけいますか。今朝も起きるなり、「また今日も……、天気はいいけれども、何をするかしら。毎日が休日ですることはないし」と、そんなことを思って感謝の「か」の字もない。これでは何一つ喜べません。この時、ダビデは3節に「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います」。今日のように青空が広がって、秋晴れで澄み渡って、どこまでも続く天を仰いでご覧なさい、下ばかり見ないで。そして、こんな大宇宙を造った神様が私を今日も生かしてくださる。そこに目を留めたら、その後にありますように、「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」と言うほかありません。いったい私はどういう値打ちがあり、どういう価値があり、どういうところがあって、神様がわざわざ目を留めてくださったのだろうか。その事に思いを巡らすならば、何を言われ何をされようと、感謝以外にありません。私たちの心が神様の前にへりくだった謙そんな思いにならないから、「あいつがいけない」とか、「こいつが悪い」とか、「あんな仕打ちをされて私は不満だ」とか、「不当なことをされて……」とブツブツ暗い心を持って生きるしかないのです。だから、皆さん、この言葉にあるように、「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」と感嘆感謝しようではありませんか。こんな私を、どうして神様、今日も顧みてくださって、食べるもの、着るもの、生活する場所を与えて……!皆さん、そうでしょう。言えば不満はありますよ、いくらでも。「あれも足らない」「これも足らない」と。しかし、考えてご覧なさい。この世界には今日も食べるものがなく、住む所がなく、ひん死の状態に陥(おちい)っている人たちがいくらでもいる。また戦争や争い事の中に巻き込まれて、生きるか死ぬかという瀬戸際の中を生きている人もいるのですよ。それなのに神様は私だけを、皆さん一人一人を、今日も生きる者として、生活に事欠かない健康を与えてくださっている。どれだけ感謝しているでしょうか。もちろん「そう言われたからといってすぐ感謝できんわ」と思っているでしょうが、じっくりご自分でよくよく考えてください。そうすると、感謝して受ける以外にないのです。
ダビデは自分がこんな取り扱いを神様から受けてと感謝しました。彼はアブサロムに謀反(むほん)を起こされたり、あるいは自分が大きな失敗をしたり、いろいろな中を通りましたが、そのたびごとに神様の前に謙そんになるのです。「神様の前に自分が間違っていた」と。だからどんな仕打ちを受けても彼は神様を呪うなんて、そんなのはあり得ない。そもそも滅びて当然なのであります。私たちでもそうです。本来なら神様の怒りによってとっくに滅びているはずです。それなのに、今日も一方的な神様の憐(あわ)れみにあずかり、十字架のいさおしによって罪を赦され、今日も主を呼び求めることができ、祈ることができ、御言葉を聞いて喜ぶことができる。私たちの内に神様の霊を宿してくださって、顧みてくださる。こんな事がどうしてあり得る事でしょうか。これはまさにあり得ない、有難いことです。しかしそれを忘れる。そうなると、過去のいろいろなことを思い出して、「本来私が受けるはずじゃなかった」「私はあんな仕打ちをされるべきだろうか……、それは私だって悪いところはあろうけれども、あいつの方がもっと悪い」と、自分を義とする、正しいとする。ここに実は私たちの大きな神様に対する罪がある。
テモテへの第一の手紙4章4節に、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。私たちが感謝できないはずはありません。私たちがどんなに罪なる者であり、神様に対して何一つ許されない者であることを知るならば、どんな仕打ちを受けても当然です。それでありながら、神様は私たち一人一人に今日も目を留めてくださって、暗い、失望と絶望というしかないような状況の中にも置かれますが、それもまた神様の手の中にあるのです。それを信じるのです。
ペテロの第一の手紙2章21節から23節までを朗読。
これはイエス様のことについて語られた箇所です。18節から20節まで、悪いことをしてたたかれてもそれが何の手柄になるかと、良いことをしてなお苦しみを受けるなら、それを楽しみなさいと、その模範としてイエス様が生きてくださったとあります。主は罪のない御方ですが、罪人とされて、私たちのために命を奪われる。22節に「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」。義なる御方が不義なる者とせられて、ののしられ、苦しめられ、おびやかされて、十字架に痛み、苦しみの極みを味わって、息絶えてくださった。それほどまでしなければ赦されない私たち。そういう私たちのために今日も主は「父よ、彼らを赦したまえ」と執り成してくださっている。そのことに目を留めるならば、何に不平不満を言うべきことがあるでしょうか。何もありません。そうでしょう。だから「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに」、すべてを見ていらっしゃる神様に、「いっさいをゆだねて」行かれた。神様は私たちに地上の命を与えて、その生涯の終わる時まで、目を留めてくださっている。神様の知らないことはないのです。神様がご存じのうえで、私たちの人生を大きな絵としてキャンバスに描いておられる。どうぞ、神様の御手を信じて、しかも、神様は愛なる御方、愛をもって私たちを持ち運び、私たちを通してご自身の栄光をあらわそうとしてくださるのですから、何も文句を言うことはない。それどころか、感謝する以外にない。「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら」と言われるように、神様から頂いたものとして、感謝して「有難う」と一つ一つを受けていこうではありませんか。そうする時、「何ひとつ捨てるべきものはない」。
テモテへの第一の手紙4章4節に、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。私は数年前にがんを患ったとき、お医者さんから「これはがんですね」と言われて、ショックで、「どうして私が……」と思ったのです。「神様は私にこんなものを与えて!」と。「あの人だったら良かったのに」と、人のことを思ったりした。その時、教えられたのです。「そうではない。これも神様の賜物なのだ。感謝して受ける時、捨てるべきものはない」。そうなるまで2,3日、1週間ぐらい掛かったでしょうか。やはり悶々(もんもん)として、「どうしてこんなになったのだろうか、自分が悪かったのだろうか、誰が悪かったのだろうか、親の遺伝かな」とか、そんなことまで考えました。そのように思うのは分かりますが、いつまでもそこにいては駄目です。早くそこから抜け出ないといけない。「感謝して受ける」、神様の前に出た時に、「これは神様が私のために与えてくださった」。それから3ヶ月に一度の検診が続いています。モラトリアム(猶予期間)ですから、いつどうなるか、これは分かりません。しかし、それはそれで「感謝して受ける」しかない。今、そういう心境に神様が変えてくださった。また病を受けることによって、多くの人々を思いやることができるのです。だから、どんなことも無駄には終わらない。私は今、そのことを深く感謝します。
自分の過去、現在、未来、これからもどのようになるか分かりません。思いがけない、自分の願わない不当な扱いと思えるようなことを受けるかもしれない。しかし、どんなことがあっても、「神の造られたものは、みな良いもの」と感謝して受ける。「有難い」、自分はそんなものを受けるはずの者ではない。私はそう思う。「私のどこが悪くてこんな病気になったのだろう」と。そうではない。もっと大変な病気、いや、命を取られて当然である者が、この病で神様が許してくださったのなら感謝したらいい。私はそう思いました。「感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。どんなことも無駄に終わらない。それどころか素晴らしい神様の恵みが伴っていることを知っておきたいと思います。いつでも主の前にへりくだって、謙そんになって、「有難う」と、「そんなあり得ないことを私にしてくださった」と、大いに喜ぼうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。