「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、
無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b
信仰の父と呼ばれるアブラハムについて語られたものですが、あなたの信じる神様は
どのような方でしょうか。交通安全の神様、学問の神様、商売繁盛の神様など、神様も
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、
無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b
信仰の父と呼ばれるアブラハムについて語られたものですが、あなたの信じる神様は
どのような方でしょうか。交通安全の神様、学問の神様、商売繁盛の神様など、神様も
イザヤ書9章1節から7節までを朗読。
2節「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。
クリスマスと言うと、たとえクリスチャンでなくても楽しい、愉快な時というイメージが定着しています。「クリスマス、ああ、悲しい」と思う人はいない。子供の讃美歌に“うれしい 楽しい クリスマス”と歌う讃美歌がありますが、「クリスマスはうれしいもの、楽しいときなんだ」と思っています。確かにプレゼントをもらったり、クリスマスのための特別な集まりがあって、楽しいと言うならばそうだと思います。
あるとき、子供たちに、なぜ、イエス様がお生まれになってうれしいのか、楽しいのかと聞いたら、「だって、誕生日だもん」と。なるほど、イエス様がお生まれになった誕生日をお祝いする。子供たちが自分の誕生日は何月何日だといって楽しみに待つ。そして、普段と違ったごちそうを食べたり、ケーキを食べたり、プレゼントをもらうのも大きな動機付けかもしれません。自分にとって楽しいこと、うれしいこと、何かもらえるからということがあります。では、イエス様がお生まれになって、うれしい楽しいクリスマスだと、なぜそのようなことが言えるのだろうか。二千年も昔、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったイエス様が、私たちにとってそんなに喜ばしいことなのだろうか?他人様の誕生日に便乗して、こちらも楽しんでいるような感じがします。
クリスマスは、私たちにとって大きな恵みの時だと言われますが、しかし、イエス様のご生涯を考えますと、そう手放しでは喜べない。お生まれになった経緯を考えても、両親とも望まなかった出産です。お母さんであるマリヤさんは「そんなもの、嫌です」と言ったのです。それでヨセフさんも「これは離縁しよう」と心ひそかに決めておった。だから、イエス様の御降誕を考えてみると、そんなに喜べることではない。マリヤさんは初めはそうだったのですが、ご存じのように御使から「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ:1:37~)と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と、その事態を自分のものとして受け入れました。そのとき、心が180度変わったのです。それまでは憂いと心配と不安と恐れでどうにもならなかった彼女の心が、そこでガラッと一転したのです。そして、「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」(ルカ1:48~)と、エリサベツさんの所へ訪ねて行ったマリヤさんが喜び感謝して自分の身の幸いを歌ったのです。では、マリヤさんになにか秘密の約束があったのでしょうか。どこかの大金持ちが「この子を産んだらお前にこういう物をやるよ」とか、生活を保障されたとか、そのような話は何もないのです。だから、周囲の状況や条件は全く変わらない中で、彼女の心が変わっていく。そして、あのベツレヘムの馬小屋で男の子を出産するのです。それとても、時期が悪いと言えば悪い。自分の家ではなくて、しかも旅先でありながら宿屋でもありません。そこは人口調査のために多くの人々が里帰りをしていましたから、どこもいっぱいだったのです。彼らはやむなく納屋と言いますか、家畜小屋で出産する羽目になりました。考えて見ると、どこに喜べることがあるだろうかと思います。ところが、そこへ東方の博士たちがはるばる苦しい旅を続けてやって来て、イエス様を礼拝する。また野宿していた羊飼いたちもイエス様の所へ来る。どうしてそんなことになるのだろうか。「いや。それは神の子が人となってくださったからよ」と。だって、イエス様に何か後光が差していたというわけではありません。イエス様の周りにヒラヒラ蝶々のごとく天使が舞っておったという話もない。実にありふれた、私たちと全く変わらない人間となったお姿ですから、それを「神の御子」だと認めることは、どうしてもできない。もし、私がその場に居合わせたら「可愛いお子さんですね」ぐらいは言うかもしれない、お世辞で。しかし、それ以上の何者でもないのです。御子でいらっしゃるイエス様が人となって、この世に下ってくださったのですが、そのことはまだ何にも分からないのです。
イエス様の生涯を見てください。三十数年の地上の生涯を歩んで来られましたが、お父さんのヨセフさんがいつ亡くなったのか分かりません。ある時期からお父さんのことを聖書では触れていませんから、恐らくいなかったのだろうと思います。イエス様が十字架におかかりになるとき、そばにいたのはお母さんのマリヤさんだけですし、カナの婚宴の席にいたのはお母さんだけであって、お父さんが来ていたという話はもちろん書いていませんから、恐らくイエス様がまだ若いころ、二十代か十代の後半か分かりませんが、これは想像ですよ、病気か事故かで早く亡くなられた。イエス様には兄弟がいました。後に、その一人、ヤコブは弟子になり、ヤコブ書を書いたのはこのイエス様の弟です。何人かの弟たちもいましたから、家族の中でイエス様は長男でした。だから、マリヤさんはこのイエス様を大変信頼したのです。殊に息子さんがいると頼りにします。九州の人は特に息子を大切にします。しかも長男というのは頼りがいがあるというのです。だから、イエス様はマリヤさんから大層信頼されていました。ところが、どういうわけか30歳ぐらいになったときに、何か息子の様子がおかしい。新興宗教にかぶれたのか、突然のごとく家を出て行って行方知れずになる。そして、仲間を集めて宗教らしいことを始めてしまった。だから、家族の者は訳が分からなくて、とうとうイエス様は気違いかもしれない、気が狂ったかもしれないとまで思ったとあります(マルコ 3:21)。ところが、マリヤさんはイエス様がお生まれになったとき、博士たちがやってきたり、羊飼いがわざわざ馬小屋を訪ねてきたことを「心に留めておいた」(ルカ2:19)と、聖書に書かれています。だから、マリヤさんにとっては、イエス様がどういう御方であったかよく分かっていた。でも周囲の人には分からない。だから、イエス様が何か新しいことを始められたことについても、マリヤさんはこれは神様がなさることだと思っていたに違いありません。だからカナの婚礼の席にマリヤさんもまたイエス様もそこにおられました。これはイエス様が神の子として、救い主としての公(おおやけ)の生涯、公生涯の始まり、一番最初の出来事なのです。ですから、イエス様が家を飛び出して訳の分からないことを始めたその最初に、カナの婚宴の出来事があるのです。そのところで、マリヤさんはイエス様を大変信頼したのです。「この息子は、親も放ったらかしてあちこち歩き回って、放浪してしまって、親や家族の面倒ぐらい見てよ!」というような思いはない。長男としてイエス様に対する大変な信頼があった。ぶどう酒がなくなったときもイエス様の所へ来て「ぶどう酒がなくなってしまいました」(ヨハネ2:3)伝えています。そして全面的に信頼して「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と、僕(しもべ)たちに指示をしています。それほどにマリヤさんはイエス様を信頼していた。イエス様が神様の約束の子であることを確信していた。それはそのとおりです。ところが、多くのほかの人にはそれが分かりません。イエス様は誤解され、ついにはあのゴルゴダの十字架の死を迎えます。普通の親御さんだったら、これはたまりませんよ。そうでしょう。33年ちょっとのときですから、34歳になっておられたかもしれませんが、自分の息子が無実の罪で捕らえられて、死刑の宣告を受ける。文字どおり刑場であるゴルゴダに連れて行かれる。その現場にお母さんであるマリヤさんは立ち会うのです。何となく風の頼りにそういう話を聞いたという程度ではない。目の前で我が子の苦しむ姿を見つつ、ついに息を引き取られたイエス様を取り下ろすところに立ち会う。そして墓に葬ります。こんな悲劇の生涯を送る人が生まれたからといって、どうして私たちがうれしい楽しいクリスマスと言うのだろうか?イエス様がお生まれになったのは不幸の始まりですから、悲しまなければならない事態かもしれない。
ところが、実は「本当にうれしいこと」「感謝」と言うしかないのです。イエス様がお生まれになった、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったという、そのことだけを切り離して、私たちはクリスマスと言いますが、そうではない。イエス様がこの地上にお生まれになったことは、それから後のあの十字架の死、そして葬られてよみがえり給うた主のご復活に至るまでの一切を含めて実はクリスマスなのです。「いや、復活のことはイースターでまたやるのだから、別個にしといてもいいのではないだろうか」という話ではないのです。イエス様のこの地上に来てくださったご目的は何であったか?それはご自分の全生涯を通して、私たちすべての者の罪をあがなうものとなり、私たちに喜びを与え、楽しみを与え、私たちをして神様に感謝し、褒めたたえる者に造り変えるために、この世に来てくださったのです。
9章2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」とあります。「暗やみの中に歩んでいた民」、あるいは「暗黒の地に住んでいた人々」とは誰か。これは昔の人ではない。今の私たちです。私たちが暗黒の中に、暗やみの中に住んでいたのであります。「いや、そんなはずはない。ちゃんと電気はつくし、昼間も窓を開ければ明るいし、太陽は消えてはいないし、一度も暗い所を歩んだことはない」と思います。確かにそのとおりで、それは外側のことであります。大切なのはなぜ喜べないかということです。私たちの心に闇があるからです。私たちが闇の中に、暗黒の中に住んでいるから、どんなこともうれしくない、楽しくない、喜べない。すべてが怒りであり、憤りであり、何一つ感謝ができない。これが暗やみの中に住んでいる人の姿です。それは決して外側が明るいとか、電気があるとかないとか、外灯が夜ついているとかついていないとか、そんな話ではない。私たちの心がいつも不満であり、あるいは何か絶えず苛立っているような心、そういう私たち。だから、もう一つ開いておきたいと思います。
エペソ人への手紙2章1節から3節までを朗読。
これは私たちの姿であります。この地上にあって、この世にあって生きている私たち、かつてはこのような生き方をしていたのであります。今、こうして救いにあずかって、そのことを忘れていますが、改めて覚えておきたいと思います。ここに「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた」とあります。私たちは暗黒の中に住んでいた。暗やみの中に歩いていた。言うならば「咎(とが)と罪とによりて死にたる者」(エペソ2:1文語訳)ということです。それは、私たちが造り主でいらっしゃる真(まこと)の神様を畏(おそ)れる心がなくなり、神様から切り離されて、人が自分の力と知恵とわざで生きようとする。言うならば、自分を義とし、自分を神としていく、これが罪と咎(とが)とに死んだ状態であります。神様を畏れることをやめてしまう。そして、自分の欲得、情欲、様々な肉につける、この世のことに心が支配される。そして、それを追い求めて生きていた。だから、2節に「この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」と。この「不従順の子ら」とは、神様を認めない者たち、そういう者たちの中に働いている肉につける霊、悪の力によって人は支配されている。人間は神様に造られ、神様を褒めたたえ、感謝賛美して、喜んでいるべき者が神様から切り離されて、不安と恐れと苛立ちと憤りとつぶやきの中に日々生きている。そこには神様を畏れる思いがありませんから、心は闇です。そして、その闇から生まれてくるすべてのわざは悪です。その闇の心からは何一つ善いものは出てこない。
近ごろ、よくニュースでお聞きになるように、「世界恐慌」という、アメリカの金融不安から世界中にその不安が波及してきました。とうとう日本もその大波をかぶっています。百年に一度あるかないかの大事態だと政治家も経済学者もいろいろな関係者が言います。そんなのは当たり前なのです。なぜかと言いますと、それは人の悪の心、罪なる心から生まれてきた結果だからです。簡単に言いますと、アメリカはサブプライム問題という金融問題を起こしました。これは言うならば、かつて日本で何年か前に「ホリエモン問題」堀江さんという人が株か何かで人をだますようなことをした、それから「村上ファンド」というのがありましたね。この人も何か変てこりんなことをやって、巨額な資産を作り出しましたが、言うならばバブルなんです。泡なんです。アメリカがやったのは、その堀江さんや村上さんの手口を世界規模でやったのです。実体のない、ただファンドと言われる一つの紙切れを売り買いすることで利益を稼ごうとした。そこには実質的な何の品物も動かないままにお金だけが、巨額なお金だけが積み上がっていくのです。そのいちばんの発端は人の貪欲(どんよく)です。本来、自分が汗水流して働いて、仕事をして、その仕事の対価として何がしかの報酬をもらうのが、本来の人間の経済活動です。それは神様が私たちに与えてくださった労働の恵みです。このことはマックス・ウェーバーという人がはるか昔『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本を書きまして、そこで語っていることです。本来、人はそのように地道で真面目にこつこつと生きることが聖書に基づいた生き方だった。ところがアメリカはだんだんと信仰から離れていきました。今はもうキリスト教国とは名ばかりで信仰はありません。あるのは何かと言いますと、貪欲と言う欲の塊です。そして、それが生み出した今のこの実態、そのために一生懸命に朝から晩まで働いていた労働者が首を切られるのです。この年末の寒空に住む所も食べる物もなく放浪してしまう事態は誰が生み出したか。人の心の闇なのです。本当に気の毒としか言い様がない。休みなく、生産ラインで流れ作業の中で、機械の一部分になりながら油まみれになって朝から晩まで働いて、夜勤をし、頑張っていた人が、ある日突然「もう、お前は首だ」。そうなるのは、経営者にも経営者なりの理由があります。しかし、その元をたどっていけば、根本のところが私たちの心にある貪欲であり、神様を畏れない闇の心から出てきた仕業なのです。そのような仕組みを賢い人は分かっていたはずです。「これは今に破綻するぞ」と警告した人もいましたが、しかし、人の思いは正しい生き方を離れて神様を畏れない者となった。それがいまの私たちです。だから、アメリカの金融家たちを「あいつらは貪欲な連中だ。あいつらがこの問題の元凶だ、元だ」といくら非難してみても、それは解決しないのです。恐らくこの事態はやがて収束するに違いない。すべてのものが全部はぎ取られて、上げ底になっていたものが全部取り払われて、実態といいますか、これだけというものに最終的には収束するでしょう。ところが、それで事は終わらないのです。なぜならば、人の闇は消えない。再び、その闇を追い払うためにバブルが膨らんでいくに違いない。だから、人は同じことを繰り返しやるのです。そのいちばんの根本は私たちの心に常に闇が覆っているからです。
2章3節に「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」と。私たちもかつては、そのような肉の欲、自分の貪欲、強欲といいますか、情や感情、そういうものに支配されて、神様のことを忘れて突っ走っていた時代があります。そのころの私たちの心はどうであったか?ばら色だったかというと、そうではありません。いつも不満であり、あいつが悪い、こいつが悪い、こうでなければ嫌だとか、ああでなければいけないと、怒り、憤り、つぶやく思いが絶えず心を支配して、それが心を覆っていた闇なのです。ところが、そのような私たちを、もう一度、その闇から救い出して、闇に住んでいる者の中に、歩んでいた者に「光が照った」と、先ほどのイザヤ書にあります。その光となってくださったのがイエス様です。イエス様は私たちにとってどういう意味での光でしょうか。まさに心の奥底にある神を畏れない自己本位の闇、それを取り除く御方として、私たちが神様から切り離された罪の結果、喜べない、感謝できない、望みのない、ただ憤りと怒りと自己弁護といいますか、自分を義とする思いで常に悶々(もんもん)としている私たちの罪のために主は生まれてくださった。
エペソ人への手紙2章12,13節を朗読。
かつては、イエス様のことなど知らない。ましてや神の民ではなく、そういう国籍もなく、約束された様々な神様の祝福とも縁のなかった私たち。ところがこの13節に「キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなった」。イエス様はあのゴルゴダにご自分の命をささげてくださって、「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と、ご自分の命をささげて、心の闇のために、ご自分が神様の呪いと刑罰を受けてくださった。それによって、私たちの内に新しい光を与えて、私たちが神様にはばかることなく近づくことができる、遠慮なく神様を「天のお父様」と呼ぶ新しい関係を作り出してくださった。これは、私どもの本当に大きな恵みだと思います。天地万物の創造者でいらっしゃる神様を私たちが祈り求めて、神様の前に近づけること、こんなことができるわけがない。神様は創造者、私たちは被造物、造られたもの。その私たちがこのように、どんな所にいても、台所の隅であろうと、あるいはベッドの中であろうと、あるいは車を運転していようと、どんな所でも祈ることができる。「天のお父様」と呼びかけることができる。こんな素晴らしい恵みってないですよ。神様にお祈りをするなら、ちゃんと礼服を着て、よそ行きを着て威儀を正して祈らなければ祈りを聞いてくれないなどと言われたら、私たちは何もできない。たとえパジャマ姿であろうと、背広にネクタイの姿であろうと、神様の前に祈るどんな祈りも一つとしてむなしくならない。こんな関係に誰がしてくださいますか。神様はそうやってイエス・キリストのゆえに、ただイエス様が私たちの罪を負うてくださったゆえに、はばかることなく近づくことができる。
だから、そのあとの14節以下に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。私たちの心にある闇を取り除いて、私たちが光なる神様の中に交わりを持つ者と変えてくださいました。それをしてくださるのはイエス様以外にないのです。そして、イエス様は死んで葬られなさった。しかし、それでお終いではない。よみがえって、約束のごとく、今も「インマヌエル・神われらと共にいます」(マタイ1:23)。神様が私たち一人一人と生きてくださる。だから、私たちはうれしいのです。だからこそイエス様の誕生は喜ばなければおられないのです。それが誰のためでもない、私の闇のような心、愛のない冷ややかな冷めきった私のために、今日も「父よ、彼らを赦し給へ」と、よみがえり給うた主は祭司、執り成し手となって、ご自分の血を携えて赦してくださる。その大きな恵みの始まりがこのクリスマスです。このことを私たちは感謝しましょう。ただにケーキを食べられる、プレゼントがあるからうれしいのではなくて、いやそんなことはもうどうでもいい。私の心をいま神様が赦し、清めてくださる。そうなると私たちはどんなことでも、これが神様からのものとして感謝して喜んで受けることができるでしょう。どんな事情、境遇、事柄に置かれていても「これも神様が主でいらっしゃる。その御方が私のために備えてくださったことです」と言うことができます。
だからお読みになったと思いますが、先月の「活水」誌に柘植先生が書かれたメッセージ“栄光の杯(さかずき)”でしたか、何かそのようなタイトルでしたが、イエス様が十字架におかかりになられる前にゲツセマネでお祈りなさいました。その前にイエス様が「この杯はわたしが受くべきもの」とお語りになられた一節をとらえて、柘植先生が病気をなさって、伝道者としてもうこれ以上のことはできないと、周囲の者から「先生、もう休んでください。もうお体を大切にしてください」と、いろいろな声が聞こえてきて、先生も「やはり皆さんがそう言うから、そうかな」と思ったというのです。ところが、聖書をもう一度読んでおったときに、主の杯を受ける。イエス様がゲツセマネで「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ 26:39)と祈ったのですが、しかし、ついには「みこころのままに」と一切を委ねて、神様の与え給う杯を飲み干す。いま自分に与えられている杯は何かと?いまこの病弱な体を抱えながら、主の御用のためにと召された私の使命はどこにあるか。そのとき先生は「これは主から与えられたこと、この病も主のもの、私のからだも主のもの。私がただ自分の体を大切にと思うことよりは、神様の御心に従うことが最善にして最高の生涯であることをもう一度教えられた」と証詞しておられます。
私たちの日々の生活はすべてそれです。自分の思わない、願わないことが起こっても、そこでもう一度、イエス様の十字架を仰いでご覧なさい。主がどんな大きなご愛と恵みをもって、私をあがなってくださったか。本当に罪を赦し、闇を取り除いて、光の中に私たちを引き入れてくださった神様は、私のすべてを握ってくださる、支配してくださる。そのうえで「この道を」と備えられたものであるならば「喜んで、主よ、お従いします」。そこに私たちの光に生きる歩みがあるのです。そのとき心に賛美がわいてくる、喜ぶことができる。主に従う御霊による喜びに満たされて、感謝賛美する生涯へと歩むこことができます。
時間がありませんから詳しいことはまた回を改めますけれども、もう一度初めのイザヤ書9章2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。ここに「暗やみの中に歩んでいた民」あるいは「暗黒の地に住んでいた人々」といいますのは、誰か遠くの人ではありません。今日、いま私たちの心の闇を取り除く。自分の心にある闇とは何なんだろうか?許せない思い、受けいれがたい事柄、あるいは苛立ち憤っていること、不安と恐れで失望落胆していることがあるでしょうか。そういうことが私たちの心に重くのしかかっているとするならば、その闇を取り除く御方、イエス様が私たちのあがないとなって十字架に命を捨てて、父なる全能の神様に私たちを結びつけてくださったのです。その神様に目を留め、マリヤさんのように「わたしは主のはしためです」と、神様の大能の手に飛び込んで、自分を投げ出して主に握られる者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。