「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、
人間に定まっているように、…。」ヘブル9:27
全ての人に、例外なく与えられるもの、それが「死」です。どんなに長生きしても、
必ず死はやってきます。死によって、この世の全てのものが失われ、忘れられて
ホセア書6章1節から6節までを朗読。
3節「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。
ここで「主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」と勧められています。これは神様が喜んでくださること、神様が最も求めておられることです。6節に「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」と語られています。「神を知ることを喜ぶ」と、これが神様が私たちに願っている、求めていることです。
私たちはこの地上に命を与えられ、70年なり80年なり、あるいは長くて90年か100年そこそこでしょうが、この地上の生涯は何のためにあるのか? これについてはいろいろな言い方があります。神様を知らない世間では、人生、自分の夢を実現し、自分の願いを完成して、自己満足といいますか、「いい人生であった」と喜んで生涯が終われば万々歳、一つの事業が完結すると説明します。しかし、必ずしもそのようなことばかりにはならない。実際問題として、願いどおり思いどおり、自分の願うところ思うところが実現できる人生かと言うと、実際はそうではありません。思い掛けないこと、考えもしないこと、計画にもなかった事態や事柄、悩みの中、あるいはうれしいことももちろんあります。悲しいこと、楽しいこともありますが、そのような予期しない、自分では願わないことを体験します。いよいよ人生を終わる時に当たって、振り返って「おれはいい人生だった。もう思い残すところはない。あれもできた、これもできた、夢は実現した。100%オーケー」と言える人がどれほどいるでしょうか。恐らくほとんどいないのではないかと思います。「あれは良かったけれどもこれは悪かった」、「こっちはもう少しこうだったら良かった。ああだったら……」と、悔やむ思い、後悔する思いがあるのではないでしょうか。ですから、人生悲喜こもごもと言われるように、波乱万丈の人生を生きていく、その目的はいったい何なのか、何のために生きているのだろうかと考えざるを得ない。ところが、考えても結論が出ませんから、あまり考えないようにして、「取りあえず今日楽しくいこうではないか」というのが世間のあり方です。
では、クリスチャンにとって、この地上の生涯は何のためか?聖書にもその目的、生かされていることの考え方があります。その一つは「私たちは神様の栄光をあらわす存在である」ということです。これは確かにそのとおりであると思いますが、またそのほかに「私たちは神の証人」であると言います。神様の証詞をする者として、神様をあらわす者として立てられたのだとも語られています。そのほかにも幾つかありますが、今日一つのことを申し上げたいと思います。それは、3節「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。私たちがこの地上に生まれた時、神様のことを知っていたかというと、恐らく誰も知らなかったと思います。生まれた時に、「オギャー」と言う代わりに「ハレルヤ」と言った子は誰もいません。「オギャー」と泣いただけです。「神様」「神様」と言った赤ちゃんがいたら、これは大変な話題ですが、そんなのはありません。私たちも同様です。生まれてから一度として「神様がいらっしゃる」なんて考えたこともない、思ったこともない。親の許(もと)で育てられて、幼年期から青年期にかけて成長し、いろいろな悩みに遭い、人生というものを感じ始める。そのような時、私たちは迷ったのです。いったい何のために生きているのだろうか?また具体的な悩みや困難、思いも掛けない出来事や苦しみ、悲しみ、そういうものに出会って、自分の力ではどうにもならない。自分がどんなに頑張っても安心がない、平安がないことを悟ります。そして、いろいろなことを切っ掛けに、何か自分を超えた大きな力があるのではないだろうか。あるいはそういう話を聞き、人から勧められて、神様を知ると言いますか、聖書に出会う。あるいは教会に来る。そして、話を聞き、「なるほど、こういうことか」「神様という方がいらっしゃったのか。自分は今まで自分一人で生きてきた。自分の努力でやってきたと思ったが、そうじゃなかった。実はその背後に見えない神様の計りがたい御摂理、御思いがあって、この地上に命を与えられたのだ」と知りました。そして、その私たちは神様に対して大変な罪人である。神を知らないで生きてきたことを悔い改めて、罪を赦す御方、神のひとり子が遣わされて、私たちの罪のあがないとなってくださった。今や神の子である。私たちはこうやって神様の子供とされました。これで、事は終わったかと言うと、そうではない。洗礼を受けて「私はイエス様を信じて神の民となりました。神の子とされました」とは言ったものの、現実、実際の生活は、前と一向に変わらない。イエス様を信じたからといって、途端に金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の大邸宅に住むようになった人はいません。むしろ、イエス様を信じたためにひどい悩みの中に置かれて、家族から迫害を受け、親しかった友人から捨てられてという、そのような話もあります。だから、イエス様を信じて救いにあずかったこと、これは人生の一コマ、通過点ではありますが、人生そのものではない。では、私たちは何のために生きているのか?と。それはまさに3節の言葉に「主を、神様を知る」ということです。「私はイエス様の救いにあずかって、神様の子供とされて、神様のことは分かりました」。卒業してもいいぐらいと思っているかもしれないが、いやどうして、神様を知るとは並大抵のことではない。お互い人と人、相手を知ることも難しい。結婚して何十年、金婚式も終わって50年以上たったから、余程相手を知り尽くしているかと言うと、なかなかそうはいかない。そうでしょう。「自分の子供のことは私がよく知っている。私が腹を痛めた子だから、あの子のことは何でも知っている」と言われます。皆さんは知っていると思っているだけで、実は知らない。皆さんの知らない所で何をしているか分からない。今頃どこで遊んでいるか分かりません。何も知らないのです。分からないことばかり。限りある人を知るにしても、なかなか深く知ることができない。ましてや、神様を知るとなると、えらいことです。神様は私たちを超えた大きな……、この宇宙はどのくらい広がりがあるのか想像がつきませんが、その宇宙を超えて、すべてを支配している神様。私たちははかりの上のちりのようなものだ(イザヤ 40:15)と言われていますが、私たちは実に小さな無きに等しい者にすぎません。そういう私たちが神様を知るとは、一朝一夕になるわけではない。実に、私たちはそのためにこの地上に置かれている。私たちの人生は自分の夢を実現したり、自分の願いを完成するために生きるのではなく、実は私たちの造り主でいらっしゃる神様を知るための生涯なのです。人生を旅にたとえる方がいますが、旅だとするならば、それは神様に出会う旅であります。神様に会うことを求めていく日々であります。
だから6章1節に、「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」と言われていますが、これは誰が語っているかと言うと、もちろん神様です。ご自分でそのようにおっしゃっているのです。これはホセアという預言者を通して、その当時のイスラエルの民に対する呼び掛けでもあります。イスラエルの民はご存じのように神の民として選ばれ召された神様が愛する特別な民でありました。しかし、イスラエルの民は神様を忘れて自分勝手な道を歩んで行った。神様を捨てて、離れて行った。神様がどんなにイスラエルの民を愛してくださったか、そんなことはすぐに忘れてしまった。それで、神様は何とかしてイスラエルの民が自分の所へ帰ってくるようにと、繰り返し様々な手立てをもって呼び掛けてくださった。しかし、彼らは一向に聞こうとしなかったのです。
それで、神様はどうしたかというと、5章15節に「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う、6:1 「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。神様は「そんなに勝手なことをするのだったら、わたしは知らん」と。「知らん」と言ったとは書いていませんが、そういうたぐいであります。しばらく手を引く、言葉を愼(つつし)む、ものを言わない、手を出さない、見ておこうと。そのうち必ず痛い目に遭うだろう、苦しいことに遭うだろう、つらいことに遭うに違いない。そうした時に、「しまった。神様がいたのを忘れていた。さあ、もう一度主に帰ろう」と、そう言って神様の所へ帰って来るに違いない。これは神様の御思いであります。1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と。そうやって痛みを覚え、傷ついた者たちが神様を求めて帰ってくる。“苦しい時の神頼み”です。それで神様に戻ってくる。「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」と。痛い思いをした、つらい思いをした。それは神様が私たちをもう一度ご自分に帰らせてくださる大きな恵みだったのだと知る。しかも、「かき裂かれた傷を癒してくださる。打たれた所を包んでくださる御方だ」。神様という御方は、そうやって私たちを愛してやまない御方だと知るに違いない。2節、「主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる」。そうやって神様の前で生きる者としてくださる。これが神様の御思いであると同時に、そうなってほしいと願っていることです。言うならば、神様がどんなに私たちを愛しておられるか、神様が私たちに対してどんな御方でいるかを知ってほしい。これが神様の切なる御思いです。いま私たちも「神様を知っている」と思っているかもしれませんが、しかし「いやいや、まだまだ」だと。聖書には「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(Ⅰコリ8:2)と語られています。そのとおりで、知っているつもりだけれども、神様のつめの垢(あか)ぐらいしか知らないかもしれない。真剣に神様を求めること、これが実は、私たちが生かされている目的です。だから、この人生に、今読みましたように、「かき裂かれたり」また「打たれたりする」つらいこと、苦しいことの悩みに遭いますが、それは神様が私たちにそのことを通して、「わたしを知ってほしい」、神様がわたしの愛を、わたしの力を、わたしの恵みを、わたしが主であること、わたしが神であることを知ってほしいと、私たちに求めていることです。そのためにこの人生を生きているのです。この地上にいるかぎり、主を知る者となること、主を求めていく、これを務めることが、私たちの人生の仕事であります。
だから、人生にいろいろな問題があります。時代に応じて、年代に応じて、若い人には若い人なり、壮年期には壮年期、老年期には老年期、それぞれにいろいろな問題が起こってきます。近頃しみじみそう思いますが、若い時のいろいろな悩み事と今の悩み、問題、受ける事柄は違っています。また違うからこそ、そこで神様を求めて、神様に祈り、寄り頼み、今まで体験しなかった神様の素晴らしい力、恵み、御愛を別の角度から味わうのです。だから、神様を知るとは、一回きりでおしまいではない。あるいは何回したらおしまいというわけでもない。私たちの年齢が変化していく、若い時から壮年期、老年期にいたる非常に変化に富んだ生涯を生きています。その間に病気もあれば、いろいろな人間関係の問題、家族の問題もある、結婚の問題、自分自身の問題もある。他人の問題もある、社会の問題もある、いろいろなものが70年80年の生涯の中にあります。どれ一つとして同じことはないのです。一つ一つの事柄の中で、神様を求めていくことを神様が願っているのです。ところが、問題に当たる、悩みに遭うと、具体的な悩みが早く解決することを求めます。これは神様が願っていることではありません。もちろん、私たちにしてみれば、少しでも早く悩みから解放されたい、早く安心を得たいと思いますが、神様が願っていることは、私たちが安心することももちろんですが、それ以上に私たちが神様を知ることなのです。そして、神様を知る、神様を求めて知った時、実は、私たちに安心がある。神様を知った時、たとえ目の前の問題はなおごちゃごちゃしてこんがらがって混とんとしていようとも、私たちが神様を知る時、神様の力を知り、神様が主でいらっしゃることを知ると、それで問題が解決したのと同じなのです。やがて、神様はその事柄を思いも掛けない方法で、私たちが想像もしない手立てをもって、具体的に事を起こしてくださり、それを導いてくださるのです。そして、私たちが主を喜ぶ者となっていく。「まさに神様だ」。そのような体験をさせていただけるのが、人生です。それはこの地上の生涯が終わるまで続くのです。ということは、それほど神様は奥深い。もうこれで打ち止め、終わりがない。ところが、私たちの人生は案外短いから、神様のことを全部知ることはできません。実は神様は一人一人に、あなたにはわたしのこういうところを知ってほしい、あなたにはわたしのここを知ってほしいと願っていることがある。だから「神様はこういう御方です」と言える答えが一つではない。自分にとって神様はこういう御方、いや、私にとってはこうだったと、まさに千変万化、いろいろな神様の姿があります。
だから、年末の感謝会の時、一年間を振り返って、あの時こんな問題があった。その時、このように神様は解決してくださった。こういう時、こういう悩みの中から神様はこのような救いの手を差し伸べてくださったと感謝します。聞いてみると、しみじみ教えられるのは、神様は何とバラエティーに富んだ御方だろうかということです。一人一人に、方法や手立ては一通りではない。では、百通りかと、いやいやどうして、それ以上です。実に一人一人、事情、境遇、事柄、年代が違う。その人一人に神様はご自分をあらわしてくださる。ですから、この地上にまだ生かされているのは、まだ神様が私たちに与えておられる宿題が残っているのです。神様のこういうことを知ってほしいと願っている。それをまだ十分に知り尽くしていないから、命を長らえておられるのです。「私は85歳、90歳、私は誰よりも長生きした、見てみろ」と、自慢するたぐいではありません。「まだあなたは天国に来るまで宿題が残っております」と言われているだけのことですから、覚悟していただきたい。この地上の生涯、主の御前に立つまで、いろいろな問題の中を神様は通しなさいます。火の中、水の中、川の中と書いてあります。そして、いろいろなところを通って、「ここに主がいます」と知る。ですから創世記を読んでおきたいと思います。
創世記28章10節から28節までを朗読。
これはヤコブの記事です。ご存じのようにお兄さんエサウと大げんかをしてしまった。ヤコブは何が大切かをよく知っていましたので、お兄さんの家督(かとく)の権、お父さんイサクの祝福を自分が取ってしまったのです。そのために家におられなくなってしまった。考えてみると、ヤコブは可哀想です。愛する家族から一人寂しく放り出されてしまうのですから。イサクの祝福を求めなければ、そんな目に遭わないで、親しい親子のぬくもりの中に生活できたはずでした。ところが、彼はそのような家族のぬくもりよりも、親子の情よりも、むしろ神様の祝福を選んだ。そのために家族から切り離されてしまう。私たちもそうです。イエス様を真剣に求めたらご主人から嫌われます。奥さんから捨てられます。このヤコブもそういう事態なのです。彼は一人寂しくおじさん、ラバンの所へ行こうと旅立ったのです。一晩野宿をしました。その時、夢の中に神様が彼に現れてくださった。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう」。「あなたの祝福の基となるよ」と約束してくださった。これは一人寂しく寝ておった時に神様のその声を聞いて目を覚ました。その時16節「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』」。「知らなかった」ことはないはずです。彼は神様のことを知っていたのです。けれども、彼が初めて自分自身独り立ちして孤独の中に置かれて野宿した時に、そこで彼は神様を知るのです。「ここにも神様はいらっしゃるのだ。神様はおやじと一緒に、あの親の家にいた時に自分は神様を知っていたが、あそこを離れたから置いて来てしまった」と思っていたら、何のことはない、神様は私に付いて来てくださった。「ここにも主がいてくださったのか。神様はどんな所にも私と一緒にいてくださる」と約束してくださった神様の真実を知るのです。私たちも同じ体験をするようにと、いま生かされているのではないでしょうか。皆さんが今受けている問題や悩みや事柄の中で、真剣に主を求めて行った時に、御言葉を信じて、聖書の約束のお言葉を信じて、神様に信頼した時に、神様は真実をもって答えてくださった。「誠に神様は約束を捨てない、約束を反故(ほご)にしない真実な御方です」と体験する。頭で知っていたことはあるかもしれません。聖書の御言葉は暗記もしていたかもしれない、覚えていたことでしょうが、それがわが身にくっつくと言いますか、知るとはそういうことでしょう。ただに知識として知っているのではなくて、体験的に神様に触れる。これがこのヤコブの体験です。
その時、彼は17節「そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』」。別に彼はその時、どこか宮殿に移されたのではない。今とどまっている所は荒野です。ごつごつした岩だらけの荒涼としたところにあって、「主が共にいらっしゃる」ことを知った。その時、そこが「天の門」、輝いて栄光の場所と変わっていく。実は、こういう体験を神様は私たちにさせたくて地上に命を与えている。それを忘れて、自分の好き勝手に生きているなら、これは申し訳ない。だから、いろいろな問題に遭う時に、真剣に「私はここで何をすべきか。主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。神様と相対することです。では、それでヤコブは神様を知り尽くしたかというと、そうではありません。その後、ヤコブはラバンのうちに行きまして、20年以上を過ごします。やがて奥さん、子供、そして財産を持って、再びかつて神様が約束した地へ帰ってくるのです。帰って行くふるさとの地にはお兄さんがいます。怖いのです。またあの恨みを晴らされたら困る。それで彼は牛や羊や召使やいろいろなものを連れて帰って行くのですが、ヤボクという所へ来た時、彼は恐れてまず僕や牛や羊や家畜を先にやるのです。それから奥さんたちをやる。彼は自分ひとり残っていて、彼らが進んで行ってお兄さんエサウと出会った時にどういう事態になるか、もしとんでもないことになったら自分だけ早く逃げようと思って構えていたのです。
創世記32章22節から28節までを朗読。
ヤコブの所に神様の使いが来ました。その時、ヤコブはその人と取っ組み合いをしたのです。どうして、そのような相撲を取ったか。神様のことを知りたいと願った。彼は体当たりをして神様にぶつかって行った。結構、彼は強かった。だから、神の使いはちょっとよろけた。「これはやるなー」と思って、それで神の使いはヤコブのもものつがいを打ったとあります。彼は大腿(だいたい)骨の付け根が脱臼してしまう。こうなったら動けません、こうなると、今度はすがりついたのです、神の使いに。そして、「あなたの祝福をください」。言うならば、神様のことをもっと知りたいと彼は願ったのです。そして「あなたの名は何と言うのですか」とヤコブは神の名を求めるのです。ところが神様は言わない、黙っている。「お前の名前は何だ」と問われ、「ヤコブ」ですと答えたところ、「分かった、ではこれから名前を変えてイスラエルと呼べ」と。その神の使いは夜明けと共にいなくなってしまう。ところが、それから後もう少し先の所を読んでおきたいと思います。
創世記35章1節から4節までを朗読。
彼は先にやった連中を追いかけて行き、お兄さんエサウが迎えに来てくれました。何十年もたっていましたから、お兄さんのほうも気が柔らかくなっていて、大喜びをして迎えてくれて、「お前たちも一緒に住もうではないか」と言ってくれたのですが、ヤコブは「いや、お兄さんたちと少し離れた所、こちらで私たちは住みます」と言って、そこから少し離れた所に住むようになったのです。そこで人生すべて万々歳かと言うと、そうではなかった。そうやって一つ落ち着いたのですが、今読みました35章1節に「ときに神はヤコブに言われた、『あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい』」。あなたはもう一度ここで神様を求めなさいと言われる。彼は心配していたお兄さんとの関係も修復されて、財産は増え、家族は増え、安泰になった。するとだんだんと神様を忘れて、「これで人生はこのまま行くぞ」と思ったところが、神様は「駄目だ、お前はいったい何をしている」。その時、彼は奮い立った。「私はこんな事をしているわけにはいかない。こんな生活に安住しているわけにはいかない」と。彼の家族の者は長い間、神様を離れたラバンの家、異教の世界にいましたから、ほかの神々を持っていたのです。でも、ヤコブは「よし」としていたのです。ところが、神様の前に自分の姿勢を問われた時、全部それらの物を集めて、テレビンの木の下に全部埋めてしまう。そして、ベテルへ行くのです。最初に一人寂しく野宿したその場所へもう一度帰って行くのです。
7節を読みますと「彼はそこに祭壇を築き、その所をエル・ベテルと名づけた。彼が兄の顔を避けてのがれる時、神がそこで彼に現れたからである」。そして彼はそこで祭壇を築いて神様を礼拝しました。
それが終わって帰ってまいりまして、9節から12節までを朗読。
そうやって神様を礼拝して帰ってきました。その時、神様がヤコブにご自身を現してくださったのです。今読みましたように、ヤコブからイスラエルと名前を変えてくださった。そればかりではない。11節に「わたしは全能の神である」。これは神様がもっとも親しい者に打ち明けてくださった神様の秘密の名前です。「我は全能のなり」(文語訳)。これを聞いた人はアブラハムです。またマリヤさんもそうでしょう。神様がいちばん知ってほしいことはここです。この地上にあっていろいろな問題や事柄の中を通って、神を知る。そのいちばん知ってほしい事柄は「わたしは全能の神である」、このことです。ここで初めてヤコブは神様に出会うのです。では、これで彼の人生は終わったかというと、そうではない。更に彼は晩年に大変な目に遭うのです。自分の愛する息子ヨセフが、兄弟から恨まれてエジプトに売られていく。その時、ヤコブはかなり高齢です。しかし、神様は不思議なことをして、ついにヤコブをエジプトの地でヨセフに対面させました。「我は全能のである」ということを、ヤコブはそのことを通して、徹底して知るのです。そして、ついに寄留の地エジプトで、その生涯を終わります。そこまで神様は私たちに「わたしを知ってほしい」と、願っている。皆さんが今いろいろな問題や事柄の中に置かれて、そこで「あれを何とかしなければ……」「これを何とか……」「あれを早く解決しなければ」「これを解決……」そんなことばかりに右往左往している間に、神様は「もっとわたしを知ってほしい。なぜわたしの所へ来ないのか」。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、心から神様に立ち返ることを願っている。「私は神様を離れたことはありません」と言われるかもしれない。しかし、案外と心ここにあらず。心から神様に信頼しているかと問われるならば心もとない。
ホセア書6章3節に「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。ヤコブのように神様を追い求めていく生涯、その旅人です。この生涯を通して、神様のご愛と恵み、神様が遍在なさる御方、神様は全知全能な御方でいらっしゃること、また、神様は全能者でいらっしゃる、できないことのない御方であることを深く知りたいと思います。そして、神を知って、ヤコブのように「もうこれ以上、神様、あなたに求めることは何もありません」と、全く空っぽになるまで神様を知り尽くして、「人の子よ、帰れ」(詩篇90:3)と、神様が御許(もと)に召される時、喜んで、勇んで、既に深く知っているその神様に出会うことができ、目の当たりに見る者となることができます。
どうぞ、そのために今この時が与えられて、この地上にあって、私たちは主を知る。せつに主を知ることができる。そうやって主を知りますと、問題も何もかも、それらは神様が何とかしてくださる。すぐにでも、どんなにでもなさることができます。私たちはそこでへりくだって謙遜(けんそん)になって、主を追い求めていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。