「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。
すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」歴下26:16
一人の王様の致命的な失敗について語った一節です。事情・境遇に恵まれ、なにも心配がなくなり、
安泰だと思ったとき、人は高慢になり、神様にむかって罪を犯すようになります。昔も今も変わりませ
「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。
すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」歴下26:16
一人の王様の致命的な失敗について語った一節です。事情・境遇に恵まれ、なにも心配がなくなり、
安泰だと思ったとき、人は高慢になり、神様にむかって罪を犯すようになります。昔も今も変わりませ
「すべての道で主を認めよ。」
箴言3.6
よく語られる聖言葉ですから、アーメンそのとおりと納得して終わってしまいそうになります。
しかし、よくよく考えてみると、案外「すべての」道で主を認めていない自分に気付かされます。
自分にとって喜ばしいことは神様から来たものとして感謝するが、
自分にとっていやな苦しいことは神様から来たものと考えず、
そのきっかけになったように見える現象、人、物が悪いと考えて、
つぶやき嘆きしているのではないでしょうか?
神様は、繁栄を創り、また暗きを創造する方です。
悪いことも神様のお許しがなければ起こり得ないのです。
そう聞くと、ついつい優等生らしく、悪いことも無理やり喜ばなければならないような気がしてきますが、
この聖言葉はそんなことを語っているのではありません。
確かにかん難を喜べる信仰が与えられるのは非常に喜ばしいことですが、苦しいものは苦しい、
その苦しいことも神様が起こしていらっしゃることを認め、神様に苦しいと訴え、
神様がなぜこのことを起こしていらっしゃるか神様に答えを求めて、
神様の御旨に出会うように、とこの聖言葉は語っているのです。
神様の御旨を知り、自分に対して抱いておられる深いご計画と愛を知る時、
無理などせずとも、喜びとその苦しいことに立ち向かう力が与えられます。
御旨を悟れるまで、神様と向き合い取っ組み合いをすることが必要なのです。
(正野)
詩篇73篇1節から16節までを朗読。
1節「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。
神様は私たちを恵んでくださる方ですが、恵みを受けるにはルールがあります。ただ闇雲に恵んでくださるというのではありません。「なんだ、神様、けち臭いな」と思われるかもしれませんが、これは当然なことだと思います。何の条件もなく、誰にでもどんなことをしても恵むという……、それだったら、神様の神様たることが分からない。神様が一方的に常に恵んでくださるのだったら、それは当然のことになり、感謝がなくなります。神様を尊ぶとか、敬うとか、神様を求めることをしなくなる。エデンの園で神様が「これを食べてはいけない」とか、「これに触れてはいけない」と、禁止を与えられたのも同じです。「エデンの園なら何をしてもいいじゃないか。許されているんだ」というのだったら、神様を敬うことがあるでしょうか。それだったら、神様はいないのと同じ、神様が何の役割も果たさない、神様たる価値、値打ちという言い方はおかしいですが、そういうものが失われる。ところが、「これはしてはいけない」と決められたことを守ることによって、初めて相手を尊び敬うことがはっきりします。だから、エデンの園で「このことはしてはいけません」と神様が定められたこと、それはもっと別な意味もあるわけですが、しかし、取りあえず、そういう禁止、ある条件、あるルールが決められて、それを守ることによって、相手を尊び敬うことが初めて成り立つ。だから、聖書のお言葉を私たちが守ることもまさにそこなのです。何をしても神様は許してくださる、愛なる御方だ。まさにそのとおりなのですけれども、しかし、それにも必ず秩序、ルールというものがあります。神様と人とはいくらどんなことがあっても、同じものには成り得ません。だから、人はあくまでも造られた被造物でして、神様はそれに対して造り主でいらっしゃる。この区別は厳然としてあります。そして、造られた私たちは神様を尊び敬うことが、実は私たちにとって恵みであり、祝福なのです。「そんなことを言われたって、そんな神様なんか私は知らんぞ」となれば、神様もまた私たちに対して「わたしもお前を知らない」とおっしゃるに違いない。
だから、ヤコブ書に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」(4:8a)とありますが、神様に近づくことは、神を神として、その方を尊び敬い、大切にすることです。そうやって大切にすればするだけ、神様は私たちに近づいてご自身をあらわしてくださる。神様は私たちを恵んでくださるのです。だから、「信仰は信じることであって、何もしなくてもいい」と、そのような誤解を招きやすいですが、信じたならば、それに伴って私たちは求められることがあります。だから、ただ単に神様がいらっしゃって、「何でもしてくださるのだから、私は勝手なことをしていい」という話にはなりません。
殊に、神様からの恵みを頂くには、1節に「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」とあるように、「正しい者」「心の清い者」を恵んでくださる。そう言われて、自分を振り返ると、内心「私は駄目だ」と思いますね。「正しい」なんて言われると、「私はどこにも正しいところはない。自己中心でわがままで……」と思っています。ここで言う「正しい」とは、新約に語られているように、主イエス・キリストを信じる者、義とせられた者です。だから、イエス様を信じて義とせられた者、「正しい者」というのはそういう意味です。自分が道徳的に立派であるとか、あるいは世の人々から見て品行方正で、どこにも非の打ち所がないと言われることではない。そうなると私たちは安心します。そのようなことはできもしませんし、欠けだらけであります。しかし、「本当にこんな私のためにイエス様はあの十字架に命を捨てて救いを与えてくださった。私の罪を赦して不義なる者を義なる者としてくださった」と、キリストの義をもって、神様の前に立つことができる。「正しい者にむかい」、また「心の清い者にむかって」とあります。「心の清い者」とは、一つ心になることです。一途(いちず)、という言葉がありますけれども、一筋に神様に対して思いを向けること、これが「清い」ということです。あちらにもこちらにもいろいろな思いが千々に乱れること、これは「清い」とは言えません。人との付き合いでもそうです。友達でも「あなたは私の無二の親友よ」と言いながら、こっちにも、あちらにも同じことを言う。それは「清い」とは言わない。「清い」とは一つになることです。だから、そういう者に向かって神様は「恵みふかい」。お金もあれば、友達もあり、自分の家柄もあり、学歴もあり、自分の才能もあり、「あれもできる、これもできる。でも、まだ足らんからひとつ、神様、よろしく、神様にも頼んでおこう」と、神様が多くのものの中の一つであるかぎり、神様は私たちに振り向いてくださらない。ところが、私どもが「あれもない、これもない、ただ神様、あなただけしか私にはありません」という心、神様に向かって心清く、一途(いちず)になる。これが神様からの恵みを受ける最大の道筋、ルールです。
この詩篇73篇を歌った人もそのような体験をしました。1節は73篇全篇にわたっての一つの結論です。自分の経験がこういうことを通して、このことに行き着いたというのです。「神は正しい者」、イエス・キリストを信じて、イエス様の十字架のあがないを信じて、罪の赦しを信じて、神様を呼び求める者となること。そして、心を一筋に神様に向けて信頼すること。これが私たちの神様の恵みを受ける道筋だというのです。ところが、この詩篇の記者も、実は初めからそのような状態ではなかったと語っています。2節に「しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった」。「足がつまずき、すべる」というのです。神様を信頼し、信じて神様にと心を向けてはいたのですが、日々の生活はどうもそう思う気持ちとは裏腹に、あちらによろめき、こちらにガタガタと揺れていたと言う。その理由は、3節に「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と。自分は一生懸命神様を信頼して、神様に恵んでいただこうと思っていながらも、ふと横を見ると、神様を知らない、神様を信じようとしない人々が景気良く、華々しく、血気盛んで、なんだかよさそうに見える。そのために彼は「ねたんだ」と。そういう人をうらやましく思った。あるいは、「何だ、あんな連中の、神様を知らないくせに」と言いながら、おれもああなりたいなと思う。そのような心が清くないと言いますか、神様だけに心が定まらない。そのあとの4節以下に「彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない」と。私たちも時にそういうことを思いますね。世の中の人々、街を行く人々、あるいはショッピング街に集まる人々を見て、「人生に悩みはないのかな」と思います。自分は「あれが心配だ。これは神様の前にどうあろうか、こうあろうか」といろいろ思っているが、見ると「みんな罪もない、何の思い煩いもない顔をして……」、まさにここに「苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく」、こちらは悩みが多くて、イエス様にすがらなければ、祈らなければおれないのに、あの人たちはいったいどのような生活をしているのかと。あのようになりたいものだと。しかも、その先7節に「彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている」。最近のテレビのいろいろな番組を見ていると、バラエティー番組など、人の挙げ足取りをしたり、ワーワーと自分たちだけが楽しんで、人の楽しんでいるのを見せられている時代ですが、彼らの様子を見ていると、まさに「高慢は彼らの首飾となり」、高ぶった思いが彼らの自慢になる。お互い自慢をし合う。また「肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている」と。本当にいったい何を考えているのやら、今の世の中を見ていると、まさにこのような状態です。でも、「何だ、あいつらは」と言いながら、うらやましいなと思う。そのような心が自分にあったと告白している。これはほかごとではない、誰のことでもない、私たちも時にそのようになりやすい。それに対して、13節に「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲(こ)らしめをうけた」。ところが、この詩篇の記者は一生懸命に神様を大切にと思いながら、まがりなりに信仰を持って、神様に信頼してきたのですが、心を清め、罪を犯さないように、神様に申し訳ない、御心に従うようにと、一生懸命に努力をして、あしき者たちとの交わりを断っておった。ところが、現実には自分が「ひねもす打たれ、朝ごとに懲(こ)らしめをうけた」。次から次へと、自分だけに災いが起こってくる。自分の生活には心配事がある、自分は病気になる、健康を失う。「何でやろう、私ばかりがこんなに……、町の人を見てご覧なさい。元気そうにしている、それでいて神様を恐れることも知らないくせに」と思うのです。皆さん、自分が病気をしてご覧なさい。そのようなひねくれた心になりやすい。私自身もそのように思いました。自分が病気をしたとき、町を歩いていて「どうして僕がこんな病気になって、あの人はならないのだろう、この人はならないのだろう」と。こちらは一生懸命「神様、あなたに信頼しているのに、イエス様の救いにあずかったというのに、こちらばかりが病気が続いて」と、そういうことになる。だから、私たちはこの詩篇の記者のことを笑えません。「ひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」。これは誠に正直な話であります。
しかし、17節を読みますと、「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」と。そのように多くの人々をうらやましく思い、11節に「彼らは言う、『神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか』と」。言うならば「神様なんか、どこにおるか」と言って、それでいて何の懲らしめも受けることなく「その身はすこやかで」、富が増し加わっているのを見ると「畜生!」と思う。そこが私たちの大きな試みなのです。「いったい、どうしてなんだろうか」と考えたけれども「そんなことはよく分からない」というのが、16節「しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた」と。「どうしてこんなだろうか。私は一生懸命に神様を敬って信仰に励んでいるのに、あれは悪くなる、こちらも悪くなる。こんなひどい目に遭う、どうしてやろうか」と一生懸命に考えようと思ったけれども、とても頭が回らない。考えるのにもくたびれる。仕方がないなと思った。ところが、そのあと17節「神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」。神様の思い、神様がなさるわざの最後を彼は聖所に行って、神様の御前に出て、神様から教えられた。そのことを悟らせていただいた。18節「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥(おちい)らせられる」と。神様は決して彼らを放っておく御方ではない。気がつかないのではない、報いなさる御方、必ずそのことの結果を出させられる。18節「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる」。「なめらかな所」、つるつるに滑る滑り台のようなところに彼らを置かれて、一瞬にして滅びへと投げ込まれるというのです。だから、19節に「なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」と。神様が彼らに抱いてくださる御思い、すべて神様に背いた者たちは必ずその結果を受けるのだ、神様の裁きにあうことを知ったとき、この詩篇を歌った人は目が覚めた。ああ、そうだった、自分はいたずらに一生懸命に身を慎んで、何とか神様に一心になろうと思いながら、つい周囲に目を向けると心が乱れる。ところが、そういう者であっても神様は許しを与え、また憐れみを注いでくださる。神様を離れて勝手な生き方をしているかぎり、その最後は滅びであることを知ったのです。私たちもそうであります。
ですから、20節に「あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである」。神様が「目をさまして」、「いったい何をしているのか!」と彼らを見て、彼らに対してきちんと報いをなさるとき、20節に「彼らは夢みた人の目をさました時のようである」。今まで夢を見ていてハッと目を覚ましたとき、「え!いったい私はどこにいるのだろう」。我々もそのような経験がありますね。いい夢を見ていて、フッと目が覚める。まだ見ておけば良かった。「あら、私はどこにいるのかしら、私の部屋かしら」と。ここに「夢みた人の目をさました時」という、その幻滅のような「やっぱり、私は現実、年取った自分である」ことに気がつく。夢の中の自分は昔の元気なときの自分であったりします。そして、目が覚めて、その夢がパッと消えて、現実の自分の部屋を見たとき「私はまだこんな所にいるのか」と幻滅を感じる。そのような思いに彼らはなるに違いない。そのあと21節以下に「わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」。そのことを知ったとき、彼は「自分は本当に愚かだった。分かっていると思ったけれども知らなかった」。そこに「愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」。神様に対して、自分は身を慎(つつし)んで、神様を第一としてきたつもりであったが、しかし、その歩みたるや誠に「獣のような」、わがままな自己中心の欲望のおもむくままに生きていた者であったと告白しています。そのような自分ではあるけれども、23節「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる」。でも、神様、私はいつもあなたと共におりました。そして、神様、あなたは私の右の手を絶えず支えてくださったと。ころびつまろびつではあるけれども、その歩みたるや遅々たるものであり、右に左によろめき歩いていた自分ではあるけれども、絶えず主を求めてきた自分だと。このことを感謝したのです、喜んだ。しかも、その間、神様は絶えず私と共にいて私を支えてくださったと歌っている。24節「あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。神様は私に悟りを与えてくださり、神様の御思いを悟らせて、私をここまで導いてくださった。
私どもも、この詩篇の記者のように様々なことに心を奪われ、右に左にと歩みは誠にふつつかな者でありますが、しかし、神様は憐れんでくださって絶えず共にいてくださる、その神様は私たちを「栄光にあずからせられる」と約束しておられます。この神様に対する思いを、心をしっかりと整えて行きたいと思うのです。そのあと25節「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」。このとき初めて「私の慕うべき御方は、神様、あなた以外にありません」。あの人この人、世の人、いろいろなものを見ては、それをうらやましく思い、それをあこがれる思いがあった。しかし、今はその思いをすべて捨てて、私の心はただあなただけですと、心の清い者へと作り替えられていく。一筋に神様に委ね、思いを向けていくこと、これが私たちが神様の祝福にあずかる、恵みを受ける大切な道筋です。どうぞ、私たちもこの神様に心を一つにしていきたい。26節に「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」とあります。私たちもこの詩篇の記者と同じでありまして、「わが身とわが心とは衰える」、誠に年ごとにどんどんと肉体は衰えて、外なる人は滅びていきます。「しかし神はとこしえにわが心の力」、私たちにとって神様だけが私の心の力であり、また「わが嗣業」、私が受け継ぐべきすべてであると、告白しています。私たちもこの神様に対して心一筋になることです。真剣に心を一つに、ほかのものに頼らず、ただ神様、あなたのみですと、思いを一つにして、具体的に自分の生活を整えていきますと神様はそのように恵んでくださる。あれもこれもと、右往左往して、あちらこちらに目を留め、心が定まらないため、私たちは神様の恵みを受けることができない。だから、この詩篇の記者が歌ったように「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」。「神様、私はあなただけです」と、神様を第一にする。心を清める。神様、あなただけですと、神様を慕い、神様を呼び求めることです。そうすると、神様は私たちを恵んでくださる。そのために、本当に命懸けでないと駄目ですよ。片手間の趣味でやっては駄目です。私たちに求められている信仰生活は、私たちが全生涯と言いますか、命を懸けて神様に信頼すること、これが神様を第一にすることです。心を清くすることです。
歴代志下16章7節から10節までを朗読。
これはアサ王様の記事であります。アサ王様は若くして王の位に就きました。彼は大変敬けんな信仰を持った王様だったのです。彼は自分が王の位に就いたとき、国中にそれまでにはびこっていた偶像やほかの神々を拝む一切のものを取り除いたのです。清めた、潔くしたのです。宗教改革を行ったのです。そして、彼は先祖伝来この聖書に証しされている神様を神として、この御方を大切にすることにしました。彼が位に就いてから10年ぐらいしたとき、エチオピア軍が大軍をもって攻めてきました。それは一つの大きな試練でした。自分の国はまだ小さくて軍隊も少なかった。半分ぐらいだった。エチオピア軍は100万ぐらいの大軍で300の戦車を率いてやってくる。彼はまず神様に祈ったのです。「神様、あなたは力のある者を助けることも、力のない者を助けることも同じこと。私はあなたにより頼んで戦いに出ます」そう言って神様に信頼して、戦いに出ました。そのとき、神様は彼の信頼に答えて、力をあらわしてくださった。敵をすべて追い払ってくださった。その体験から彼は神様に対する姿勢をもっと徹底するのです。
歴代志下15章1節から7節までを朗読。
彼らがエチオピア人との戦いで勝利を得て帰って来たときに、神の人アザリヤ、いわゆる預言者がアサ王様の所へやって来ました。そして、今読みましたように、2節後半に「あなたがたが主と共におる間は、主もあなたがたと共におられます」と。これは、あなたが熱心に神様を求めるならば、神様もまたそれに答えてくださるというのです。まず私どもが真剣に神様に近づいて、神様を求めるなら、その熱意に応じて神様も私たちに答えてくださる。だから、思いを一つにして主を求めさえすれば、神様は私たちに答えてくださるのですが、私たちはどこかで中途半端なのです。「まぁ、この位でいいか。あの人よりも私は熱心だから、この人よりも少しは熱心だから」ぐらいに思う。これはもったいない話です。私たちが真剣に求めさえすれば神様は与えてくださる。だから、2節の後半に「しかし、彼を捨てるならば、彼もあなたがたを捨てられるでしょう」。神様は私たちが熱心に神様を求めて近づけば、神様もご自身をあらわし、力を与えてくださる。ところが、私たちが神様を捨てるならば、軽んずるならば、神様もまた私たちを同じように軽んじられる。私たちをそのように取り扱われるに違いない。
そのことを聞いてアサ王様は、ユダの人々を全部集めまして、8節に「アサはこれらの言葉すなわちオデデの子アザリヤの預言を聞いて勇気を得、憎むべき偶像をユダとベニヤミンの全地から除き、また彼がエフライムの山地で得た町々から除き、主の宮の廊の前にあった主の祭壇を再興した」と。彼は更にベニヤミン族の地域を徹底して清めたのです。これはユダとベニヤミンが一つになってエルサレムを中心にしたユダの国を造っていた。残りの10部族はサマリヤを中心に北イスラエルとなっていました。アサがユダの出身でありますから、王になったときユダの部族の地域は取りあえずきれいに清めて神様の前に高きところの偶像を取り除いたのですが、今度はベニヤミンの地域も改めてそれらの偶像を全部取り除いた。だから、ユダの国全部がベニヤミン族の地域もユダ族の地域もことごとくすべての偶像を取り除いて、神様に思いを一つにしたのです。そればかりか、10節以下に「彼らはアサの治世の十五年の三月にエルサレムに集まり、11 携えてきたぶんどり物のうちから牛七百頭、羊七千頭をその日主にささげた」。これはすごいことです。神様の前に燔祭をささげて「私たちのすべては主のものです」と、神様のものとして自分を置いたのです。12節以下に「そして彼らは契約を結び、心をつくし、精神をつくして先祖の神、主を求めることと、13 すべてイスラエルの神、主を求めない者は老幼男女の別なく殺さるべきことを約した」。厳しいですね。ここに「イスラエルの神、主を求めない者」、心を尽くし精神を尽くして力いっぱい神様を求めない者は、年寄りだろうと若かろうと、男女の別なく殺される、というのです。それを皆が同意するのです。約束する。まぁ、大変なことになってしまったが、しかし、アサ王様は必ず神様はそれに報いてくださると信じたのです。
その後、自分のお母さんであるマアカがひそかに偶像を拝んでいた。すると、アサ王様はそれを知って自分のお母さんの偶像を取り除いて、皇太后の位から落としてしまう。そこまで徹底して神様だけに心を向けたのです。そのために彼の治世35年にわたって戦争が一つもなかった。神様の祝福と恵みが豊かに注がれました。ところが、そのように恵まれたときに神様はもう一度試練を与えた。どうして神様はそんなことをなさるのか、と思うでしょう。それは眠りこけないためです。神様は時々思いがけないことをドンと起こしなさる。私どもが恵みに慣れて、「まぁ、いいか、このくらい。私はこれで幸せだ」と思っていたら、「お前はどこを向いているか!」と、眠りを覚まさせてくださいます。だから、そのときは感謝したらいいのです。そして、もう一度、自分の姿勢を再確認して、神様に対する思いを整えたら幸いなのですが、このときアサ王様はとんでもない失敗をします。35年間の太平楽と言いますか、恵みに慣れてどっぶりつかっていた。どうも心が鈍ってしまったのです。北イスラエル、同じイスラエル民族の10の部族が彼らを攻めてきた。イスラエルの民がユダの国を攻めてきた。そのとき彼は急いでスリヤの王様に金銀を贈って、イスラエルと同盟関係にあった大国スリヤにそちらをやめてこちらを守ってくれるようにと、頼みに行ってしまった。そのときに、16章7節に「先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、『あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので』」とあります。だから「スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった」。言い換えると、これからスリヤの王様にあなたは苦しめられることになるぞ、どうして私に頼まなかったのだと。しかも、かつて35年前エチオピアの大軍が来たときに、神様はあなたに答えてくださったではないか。アサ王様はそれを忘れていたのです。
私たちもそのような失敗をしますね。恵まれて事がなく、順調に物事がうまくいって「まぁ、いいか」と。熱心にお祈りをしていたお祈りもお勤めになるし、二回が一回、一回がゼロ回、三日が四日、四日が一週間、十日が一ヶ月、だんだんと間遠くなる。礼拝も来たり来なかったり、来たり来なかったり、来なかったり来なかったり……、となっていくでしょう。これが私たちのいちばんの失敗です。熱心に主を求めてご覧なさい。人の付き合い、あれがあるから、あの人から何か言われる、そんなことを思っているから、私たちは確信が得られないのです。
9節に「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」。ここに「自分に向かって心を全うする者」と言いますのは、一つ心になって、心が清い者となって主を求める人、そのような者はいないだろうかと、神様は絶えず目を凝(こ)らして見ている。だから、私どもが神様に向かって心を一筋に整えて、主を呼び求めていくならば、力をあらわされる、神様は私たちを恵んでくださる。神様の力を、神様のわざを、私たちを通してあらわしてくださるというのです。何が大切と言って、これが何よりも大切なことです。ハナニは「あなたは愚かな事をした」と、9節の後半に「ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」と。ところが、このときにアサ王様は、そのようなことを聞く耳がありません。ここで悔い改めて「ごめんなさい」と言えばよかったのですが、彼はとうとうその預言者を捕らえて獄に投げ入れた。とんでもないことをしてしまう。やがて晩年病気になりましたときに、何とありますか、12節に「アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた」。彼は神様に信頼するよりは人を頼みとした。私たちもこのような失敗をしないためにも、いや、それどころか、私たちは恵みにあずかる素晴らしい道筋を神様は置いてくださっている、その道を選ぼうではありませんか。
詩篇73篇1節に「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」。神様のあがない、十字架のいさおしを信じて、十字架にすがりつつ神様を第一にして、神様の前に心を一つに、心を全うする者となっていく。「天にも地にも私の慕うべき御方はあなた以外にありません」と、神様にのみ心を向けていきたい。また主を求めていきたい。私たちの生活も、具体的なことも、目に見えることも見えないこともことごとく清くして、神様を第一に心と思いを整えていくなら、神様は必ず恵み深く、いつくしみ豊かな御方、憐れみに富み給う御方、豊かな許しを与えてくださる御方です。この神様の恵みをいよいよどん欲に求めようではありませんか。主の恵みを受けて生きようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。