いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月29日 日々の聖言

2014年07月29日 | 日々の聖言

「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、

なぜわたしの言うことを行わないのか。」ルカ6:46 



口先だけで相手をあしらうほど失礼なことはありません。「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃない」

などと、世間でも言います。「先生」と口では言いながら、尊ぶことをせず、教えに従わないどころか

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聖書からのメッセージ(274)「忠実な僕の生涯」

2014年07月29日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネの黙示録2章8節から11節までを朗読。

 

 10節「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。

 

 パウロやペテロなど神様の霊に満たされて地中海沿岸の各地に、イエス様のよみがえり給うたこと、神様の大きな救いが完成したことを伝えました。その結果、いたる所にイエス様を救い主と信じるクリスチャン、イエス様の救いにあずかった人々が集まって教会を作っていました。神様はヨハネに霊を注いで、キリストの霊によって神様の御心を主だった当時の七つの教会に与えました。昔の教会だから私たちと関係がないように思いますが、実はそうではなくて、それぞれの教会にあてられた神様のメッセージ、御心は私たちに対する御思いでもあります。私たちもこの地上にあってイエス様の救いにあずかった者として、神様の民として、生かされています。しかし、私たちの信仰生活には戦いがあります。次から次と、いろいろな問題や事柄に遭って信仰が試される、揺さぶられます。私たちの心はいろいろな思い、世の中の様々な習慣や仕来り、そういうものが私たちの神様に対する真実な思いを損なおうとして絶えず働いてきます。そして、いろいろと間違った道へ踏み出そうとしやすい。不信仰に陥(おちい)ったりします。私たちの具体的な心の状態、信仰の状態、日々の歩み方のどこに注意をすべきか、七つの教会に対して神様が語られたのです。この七つの教会にあてられた神様の御思いは、いろいろな側面から私たちの信仰生活のあり方に光を照らしてくれる、あるいは目を向けさせてくれるものです。

 

2章1節にあるエペソの教会には、4節に「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と語られています。エペソの教会は神様に忠実に従い、品行方正でどこにも非の打ち所のない教会でしたが、しかし、残念なことに心がなかった。することはそつなくきちんとしてはいるけれども、その思い、動機が神様に対する喜びと感謝、ご愛に応答する心がなかった。だから、エペソの教会に対して「あなたは初めの愛から離れてしまった」と指摘されました。これはエペソの教会ばかりではありません。私たちもそうではないでしょうか。イエス様の十字架によってあがなわれ、ひとり子を賜うほどの限りない主のご愛によって愛された者です。汚れた者、滅び行く者、失われていた者が、一方的な神様のひとり子を賜うほどの大きなご愛に触れて、感謝して新しいいのちに生きる者と変えられた。ところが、1年たち、3年たち、5年、10年、何十年とたってくると、いろいろなことで私たちの心は初めの喜び、感動が消えてしまう。だから、エペソの教会に対して「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と。これはエペソの教会ではなく、私のためです。

 

エペソの教会にしろ、スミルナの教会にしてもそうでありますが、スミルナの教会には、9節に「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」と語られています。スミルナの教会は貧しくて、しかも様々な困難に直面していた。しかし、そのような目に見える境遇、置かれた状況は大変厳しい環境ではありましたが、しかし、彼らは何とかして神様の御心に沿いたい、主の救いに応えて、イエス様のご愛に応えて、何とか救いを全うしていきたいと願いつつも、やはりくじけます。時々スランプに陥る。これは私たちもそうでしょう。私たちも新年聖会で恵まれて、「よし、今年も頑張ろう」と、始まって二ヶ月たちましたが、もういい加減スランプに落ち込みかけている。「去年と変わりがないな」となりやすい。だから、ここで神様はスミルナの教会に「あなたがたは確かにそうやって苦しい困難によく耐えているけれども、だから、立派だよ」と言われない。神様ははっきりと「あなたはちょっとスランプに落ち込んでいるね」という意味で言っているのではなく、「もうそれは分かっているから、そうではなくてもう少しこうありなさい」と勧めているのです。スランプに落ち込んだから、信仰がだらけてしまったから、あるいは迫力がなくなった、自分に力がなくなったと、それを責めるわけではありません。私たちはそのように弱い者です。けれども、絶えず初めの愛に立ち返り、もう一度力を与えられていくこと。旧約聖書を読みますと、モーセもそのような時があったのです。信仰の人モーセと言われていますが、あまりにもイスラエルの民が言う事を聞かないし、わがままなことばかり言うから、彼は嫌になった。神様に祈りました。「神様、あなたは私に『この民を指導せよ』と言うけれども、この民は誠に言う事を聞きません。もう私は結構ですから、早くわたしの命を取ってください。このお役はお返しします」とお祈りをしているところがある。私はそこを読むと「モーセもそうか」と、我が意を得たりと思いますが、だから「それでよし」というわけではありません。神様はそれでもなおモーセをなだめて、励まして、その使命を全うさせてくださいました。

 

エリヤもそうでしょう。カルメル山でバアルの預言者450人と対決をしました。1対450の戦いをやり、大勝利を得ました。「火をもって答える神を神としましょう」「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」(列王紀上18章)と格好のいいことを言って、勝利しました。そのとおりに、神様は火をもって答えて一気に焼き尽くした。ところが、その後イゼベルという后(きさき)が「エリヤなんか生かしておかん。私の目に入ったら一瞬に殺してやる」といううわさを聞いた途端、シュンとしょげた。そして、スタコラ逃げ出して、途中、“れだま”の木の下に座って、「神様、私の命を取ってください。私はあなたの期待されるような人間ではありません。何もできませんから」と言ってふて寝した。すると、神様はちゃんと御使を送って、水とパンを備えて彼を励まし、力づけて、それから元気づいて神の山ホレブまで行った。そこで初めて神様の臨在に触れるのです。信仰の人エリヤですらもそういうことがあります。だから、私たちは余程気をつけなければいけないと思います。サタンはいつでも私たちの心を神様から引き離そうとしてきます。いろいろなうわさを聞かせたり、人の言葉をもって近づいたり……。

 

先だっても、ある姉妹が集会にちょっと遅く、終わりがけに来られた。「先生、申し訳ありません。今日は早く来ようと思ったのだけれども、どうしたんでしょうか、私は喜んで集会に行こうとすると、出かける直前になって必ずいろいろなことが起こるんですけど、これはサタンなんでしょうか?」と言われました。そのとおりで、私たちが「さぁ、今日は礼拝に行こう」と用意をしていると、電話が掛かってくる。しかもどうでもいい電話で長電話。乗るバスに遅れてしまう。30分は遅れるでしょう。断ればいいんだけれども、それがまた断りにくい。相手はしゃべり続けて口を挟む間がないことがある。さぁ、出かけようと思って、ホッと玄関を降りたら、足をくじいて、「あ痛!」となる。そこにサタンがいつも働くのです。私たちが何かしようと思うことを阻害しようとする力、これはサタン、殊に神様に近づこうとすると、サタンは激しい力で私たちを引き離そうとしてくる。だから、皆さん気をつけていただきたい。のんびりだらんとしていたら気がつかないうちにサタンにさらわれてしまって、「今日も礼拝は休み」「休み」「休み」「休み」、一ヶ月休みとなってしまう。常に私たちは警戒していかなければなりません。

 

スミルナの教会に、神様は、9節に「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」。いろいろな苦しみの中に置かれるが、10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。必ず苦しみがあると、イエス様は言っています。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。このときも「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。今申し上げましたように、サタンは私たちが神様に従おうとする思いを壊そうと、いろいろな仕掛けをしてきます。「見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている」と。それはサタンの働きであって、「ためすため」とありますが、私たちを試みようとしてやってくるものです。だから、私たちはそこでしっかりと踏みとどまること。

 

 10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。私たちは「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう」といろいろなことを恐れます。恐れると私たちの心は弱ります。そこへサタンがスッと忍び込んで、私たちを信仰から遠ざけます。神様から私たちを引き離そうとします。だから、「そんなことを心配するな」と神様は言われる。「まだ今日は元気だし、今日は悪いところはあるけれども、それはそれで今差し障りはないし……」と安心はしているが、どうですか?「来年の今ごろは生きているだろうか」と思っているでしょう。また「この元気がいつまで続くだろうか。寝たきりになるかもしれない。半身不随になるかもしれない。ひょっとしたら認知症になるかもしれない」と、いろいろなこれから受けるかもしれない困難があるではないですか。言うならば、苦しみが待ち受けている嵐の中に、私たちはどんどん突き進んでいるのです。だから、できるだけ考えないようにする。忘れっぽいのは幸いですが、しかし、こればかりは忘れられない。毎朝起きるたびに五体満足かと思って、点検して、「よし、よし、これで今日は大丈夫」とひとまず安心。

 

私たちはいろいろな中を通ります。それはサタン、悪魔が試みようと、試そうとしているのです。だから、そういうのを恐れないで、しかも「あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」と。私たちが受ける苦しみは「そんなに長いものではない」と言われる。それはそうですよ。もう70年も80年も生きてきて、これから10年苦しんだって、80年に比べれば短いものです。でしょう?ところが、10年も苦しむと思うと、それまでの80年はなかったごとく、「私は生まれてからズーッと苦しんでいる」ように錯覚する。この10日というのは、10年であるかもしれない、30年であるかもしれない。あるいは文字どおり10日であるかもしれない。そういう方もいらっしゃいます。「あら、具合が悪い」と寝込んだら、10日目に死んでしまった。これは幸いなことですね。私たちはこの「10日」はどのくらいの期間であるかそれは分かりませんが、「いずれにしてもそんなに長いものではない」と神様は言われる。私たちの人生、よくて70年、せいぜい80年とあるじゃないですか。80を超えた人は言うならば期限切れです。だから、これから先少々苦しみがあっても感謝していく。これが私たちに求められていることです。ここに「苦難にあうであろう」とおっしゃいます。しっかり覚悟しようではありませんか。「いいです。どんな苦難でも受けて行こうじゃありませんか」。

 

その後に「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」とあります。この地上でいつまでも死なないで、生き続けるのではない。必ずその終わる時が来ます。終わってから後、私たちに約束されていることがある。それは永遠のいのちの生涯です。ここにありますように「いのちの冠」、神様から勝利を得させていただく。神様の報いにあずかる時が来る。この地上にあって、サタンが様々な苦しみをもって私たちを試みてきますが、その約束を信じて、サタンの誘惑に勝利する。イエス様の命によって、十字架のあがないにあずかり、私たちは神様に仕える者、僕として生きる者とされている。だから、私たちは自分のために生きるのではなく、死んでよみがえった方のために生きる生涯(Ⅱコリント 5:15)、言うならば、キリストのもの、主のものとして生きているのです。そうすると、生かしてくださる主に対して果たすべき責任がある(ローマ 8:12)。私たちはこの世にあって肉にある責任を果たすわけではありません。親の情であるとか、感情だとか、あるいは肉親の血のつながりだとか、義理人情など、そういうことにくっついているかぎり、私たちは主のものとは成り得ない。それどころか、そんなものに結びついているから大切なものまで失うのです。そうではなくて、私たちは常に主のもの、キリストに、主に仕える僕として、この地上に置かれているのです。この地上にあって神様の御心に仕えていくこと、このことをしっかり覚えておきたいと思います。「『御心に仕える』って言ったら、明日から私の生活はどうなりましょうか」と言われる。「御心に仕える」とは、いま私たちが置かれている、遣わされた所、いま置かれた生活、与えられた問題やいろいろなことの中で「いま、このことを神様が私に託されたのです」と、それを受け止め直し、神様から頂くことです。生まれた時から、この世のしがらみ、仕方がない抜きようのない関係、これはもう親だから、子供だから、娘だからという関係の中にいますが、しかし、それを清算して、御破算にして、今は神様がこの親というか、この人を私のものとして託されたと受け止めていくこと。これが主の御心を行うことです。その中で私たちは自分の生活、自分の身の回りも含めて、主のために、主の御心はどこにあるか、思いはどこにあるかを絶えず問わなければならない。自分の感情、好き嫌いや、自分の損得利害に引き回されるのではなくて、一つ一つ主がいま私にこのことをさせてくださっているのだと知ることです。

 

私の家内の母がいまホームに入っているのですが、母親と娘という関係は難しいですね。お互いがお互いを思いやるがゆえに傷つける。こういうのを「ヤマアラシ症候群」と心理学で言われます。ヤマアラシはとげがありますから、愛して相手にできるだけ近づこうとすると、むしろお互いに相手を傷つける。だから、ある程度距離を置くことを勧めています。でも、どうしても生まれてから長年親と娘という関係できていますから、その肉にあるつながりがなかなか消えないですね。離れているといいのです。離れていて、時折電話をすると、母も「お世話になるね。大変だね、もう来なくてもいいよ、忙しいんだろうから」と。それで風邪でも引いていようものなら、すぐ電話が掛かってきて「大丈夫?」と聞かれるから「大丈夫、大丈夫、お母さんは?」と、そのときの親子の会話を聞いていると「何と麗しいことか」と思います。ところが、いったん顔を合わせると、「どうしたの!」「何で!」と声がとがってきます。「あれ買ってきて」「いや、そんなものはない!」と、相手のことを思わない。「これにしときなさい!」と「いや、私はこっちのほうがいい!」と、あめ玉一つでも義母は「このメーカーのこの名前のあめを買ってきてくれ」と言う。どこのスーパーでも同じものを置いているわけではない。私はあちらこちらを見て回ったのですが、ありません。「お母さん、これ誰からもらったの?」「誰か知らんけれどもお土産にくれた」「その人どこの人?」「関東から来た人」、向こうでは有名なのでしょうが、九州ではない。義母は「いや、これでないと」と言う。だから、娘もやはり言われると気になる。私は「もう、断りなさい」と、「お母さん、無かったからあきらめて」と、私は言う。ところが娘は気になる。そして、行く先々でその物はないかと探す。そして探した挙句無いから「こんなにして探したけれど、お母さん、残念だけど無かったね」と言えばいいんだけれども、自分の探したその労力を相手が認めてくれない腹いせがありますから、「無かったわよ!こんなにまで私は探したのに!」と言う。すると「私は頼んでないわよ!」と、売り言葉に買い言葉。「肉の思いは死である」(ローマ 8:6)とあります。だから、私はいつも家内にも言うのですが、「親と思わないで、神様がこの人を世話するようにと頼まれたのだ。だから、あなたは神様に果たすべき責任があるのであって、お母さんのためにしてやることは何にもないのだよ」と言う。「分かった、分かった。じゃ、これからお母さんと言いません」と。下手に「お母さん」と言うから、お母さんに対する余分な期待や、様々な子供の時からの感情のしがらみがあるから、むしろ名前で呼ぶのが、他人行儀な様だけれども、距離を置くことができます。そうやって、神様からのことと受け止めなおす。これが私たちに今求められていることです。親子関係でもそうですね。殊にそうです。他人との関係でもそうでしょう。私は主のもので、神様のために生きる者とされている。そして、神様に仕える場所として今置かれている、それぞれ遣わされた家があり、家庭があり、地域があり、社会があるのです。そこで私たちは主が何を求めているかを悟り、忠実に従うものとなるのです。

 

 マタイによる福音書25章14節から21節までを朗読。

 

これはタラントについてのイエス様のたとえ話ですが、ある主人が遠く旅立つために財産を預けたというのです。5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれ3人の僕に預けました。留守の間に、5タラントを渡された人はすぐに出かけて行って、商売をして、更に5タラントをもうけた。2タラントの人はまた2タラントをもうけた。1タラントの人はそれを自分のうちに持ち帰って土の中に埋めたのです。やがて時が来て、ご主人が帰ってきました。清算することになった。20節以下に「5タラントを渡された者が進み出てもう後5タラントを差し出した。『ご主人様、あなたは5タラントを預けましたが、私は後5タラントをもうけました』」と言って差し出した。それに対してご主人は、21節に「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。「忠実」と言われています。「忠実」とはどういう意味でしょうか?ご主人が出かけるとき、最後に1タラントを預かった人は土の中に隠しておいたので、それを持って来ました。26節以下に「すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに』」。1タラントの人はそれを土に隠して、そのまま持っていて、ご主人が帰って来たから、「これが預かったものです」とお返ししたのです。私たちの感覚的にはどちらが忠実だと思われますか。預かった1タラントをそのまま忠実に持っていて、減らしもせず増やしもせず、きちんとそれを返した。何がいけないのか?「忠実」とはそういう感じがします。タラントを預けたとき、ご主人は「これで商売をせよ」とか、「もうけよ」と言ったわけではないと思います。しかし、それを預けたご主人の思い、ご主人は何を期待しているだろうか?と、ご主人の心、御心を悟ったのは5タラントと2タラントの人です。ところが1タラントの人は自分に対して「忠実」であったのです。預けられた1タラントを減らさない、増やさない、そのままに「忠実」に、言うならば自分の安全のためというか、自分自身の価値観、自分の思いに従って、それを大切にしたのです。その背後には、ご主人が過酷な人で減らしたり増やしたりすると、とんでもない言いがかりを言われそうだからと思ったでしょう。いずれにしても、彼は僕でありながら、主人の意図がどこにあるか、それをくもうとしなかった。これが26節の「悪い怠惰な僕」と言われる理由ではないでしょうか。ところがそれに対して21節には「良い忠実な僕」と言われています。私たちは今託されている、それぞれ遣わされている持ち場、立場、家庭、あるいは社会、職場、どんな所でも、そこで「神様がいま私をここに遣わしてくださっている。今、この家族、いわゆる肉にあっては家族ですが、神様が私に『負え』と、『担え』、『持ち運べ』と託してくださったならば、ここで、神様、私はどうするべきでしょうか?」と、神様の御心を求めて、その御旨に従うこと。これが忠実な僕の役割です。

 

ヨハネの黙示録2章10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」。私たちには苦難がないわけではない。確かにつらいことがあるが、そこで遣わしてくださった、私たちをあがなって永遠の御国の民としてくださった神様の御心はどこにあるのか、御旨は何なのかを絶えず求めて、主のもの、主のために生きる生涯、私たちを遣わして、それぞれの持ち場立場に置いてくださった神様の御思いに忠実に仕えていきたいと思います。従う者でありたい。しかも「死に至るまで」と。この地上の生涯で最後の息を引き取る瞬間まで、私たちは主のものと成りきって、主の御心に徹底して仕えていきたいと思うのです。そうするとき、心から主に仕えてきたと感謝ができるのです。

 

使徒行伝20章17節から24節までを朗読。

 

聖徒パウロがひとつの必要に迫られてエルサレムへ戻って行こうとしていました。しかし、エルサレムの町には彼の命を狙うユダヤ人たちの陰謀、たくらみが企てられていたのです。だから、多くの人々はそれを知っていましたから、パウロに「そこに行かないでくれ」と、「行ったらあなたは死ぬほかはないのだ」と一生懸命に説得するのですが、彼は頑として聞きません。かたくなに聞かないのです。しかし、使徒行伝にはそのときにも「聖霊に導かれて」「聖霊によって」と語られています。パウロはエルサレムに帰ることは聖霊の導きによるのだ、これは神様が求めていることだと、確信していましたから、どんなに危険であることを知っていても、それにおじ気づくわけにはいかない。そして、その途中で、エペソの教会の代表者を呼びまして、お別れの言葉を語ったのです。19節に「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」。私たちは主に仕える者として、僕として神様にあがなわれた民であります。私たちは自分自身の健康の問題もあります。年老いていろいろな障害の中にも置かれますが、そこで主に仕えていくのです。私たちは決してこの世にあって人のため、世のため、誰かのため、家族のために生きているのでも、自分のために生きているのでもなく、「今、この問題の中で、私は神様に仕えているのだ。そして、主が通れとおっしゃっているから、今この困難をも甘んじて喜んで感謝して通らせていただきます」と。ここが、いま私たちが忠実な僕となる場所であります。そのようにこのパウロも主にあって仕えたのであります。ここにありますように「数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」と。

 

更に23節に「ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ」。聖霊がパウロにこれからどんな困難が待ち受けているか、何が起こってくるか、どういう事態になるか、御霊が、神様の霊が彼に語っているのです。けれども「大丈夫だから行け」と。「そこへ行け」と神様が求めていることを彼は知っています。彼は自分の気持ち、自分の肉の思いを言うならば、そんな怖い、つらいことは避けて、他に行きたいと思うに違いない。しかし、パウロはそうはできない。なぜならそれは主がわたしに求めておられるから。神様が私を必要としてくださっている。

 

いま神様が皆さんを必要として、僕として立ててくださって、それぞれの所に遣わし、神様の御心を行わせようとしている。たとえそこに困難があろうと、あるいは死が待ち受けていようと、私たちはそれで躊躇(ちゅうちょ)するわけにはいかない。24節に「しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」。使命が終わったならば、それがどういう終わり方であろうと私はもう未練はありません。私は喜んで主のもとへ帰って行きます。どうぞ、そのように日々覚悟をして、どんな困難な中に置かれても、「私は『死に至るまで忠実』にと言われる神様の前に、主の御心にだけにしっかりと忠実に仕えていこうではありませんか。

 

ヨハネの黙示録2章10節に「そうすれば、いのちの冠を与えよう」、私たちに永遠の御国の生涯への望みを与えてくださいます。この生涯を終わって、神様のもとへ帰ることができる。主の約束をしっかりと心にとどめていきたいと思う。「あなたがたに必要なのは、忍耐である」(ヘブル 10:36)と言われています。耐え忍んで5タラントの人が5タラントをもうけたように、2タラントの人が2タラントをもうけたように、「ご主人の御思いはどこに?ご主人が求めていることは何なのだろうか?」と、絶えず心に求めつつ、祈りつつ、主でいらっしゃるイエス様の御声に、神様の御思いに応えていきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。