いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月15日 日々の聖言

2014年07月15日 | 日々の聖言

「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。

彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。」伝道5:15 



人の一生とは何でしょうか。ただ、食べて、寝て、感情と欲望に動かされているだけだったら、

何の価値があるでしょうか。生きる喜びは、自らの生を有意義なものとすることですが、あなたの

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聖書からのメッセージ(260)「忍耐する喜び」

2014年07月15日 | 聖書からのメッセージ

 ヘブル人への手紙10章32節から39節までを朗読。

 

 36節「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。

 いま待降節というイエス様の御降誕を待ち望む時にあります。「待降」と言うのは、まさに「待つ」ことです。「待つ」ことは、これはまた忍耐です。私どもはなかなか待てません。世間でも“慌てるこじきはもらいが少ない”というようなことを言いますが、何でもすぐ慌てる、急ごうとする。ジッとじっくりと腰を落ち着けて待つことがなかなかできにくい。殊に、最近の社会はいろいろなものがインスタントでパパッと手早く、早く、早くと焦るような生き方をしていますから、心が落ち着きません。しかし、人生そのものも自分で早くしたり遅くしたり、まるで車を運転するようにアクセルを踏んで、ここは飛ばして行こうとか、ここはゆっくり行こうというわけにはいかない。望むと望まざるとにかかわらず、きちんと定められた年月を生きなければならないわけです。生きている時計は、年代に応じて時計のスピードが変わるわけではありません。これはユニバーサル、みな同じです。外国でもそうです。1時間は1時間です。日本でもそうです。男でも女でもこれは同じです。だから人生80年というのは、あの人の80年は長くて、私の80年はどうも短かったという、そういう話はありません。きちっと統一されています。定められた年月の中に、神様はいろいろなことを盛り込んでくださる。例えば80年の生涯を一つの入れ物だとすると、その中にフルーツバスケットのようにバナナがあり、りんごがあり、みかんがあり、柿がありと、いろいろな物が入っている。いろいろなものを入れてくださるのは誰かというと、私ではない。自分ではないのです。神様が一つ一つ入れてくださる。やがてある形にかたどった花かごなり、フルーツバスケットを完成してくださる。だから、私たちが慌てようと急ごうと、あるいはゆっくりであろうと、結局のところは神様がなさることなのです。いくら急いでみたからといって、少しでも多く何かができることはありません。ゆっくり歩いているから、その人の80年は100年ぐらいなものだとはなりません。やはり、急ごうが、ゆっくりであろうが、その人にとってはそれだけのものです。だから、どんなに焦ってみても、慌ててみても、急いでみても、行き着くところは同じです。

 

私は車で今日も福岡から出てきましたが、日によってこちらの気分が変わります。スケジュールが詰まっていると急がなくてもいいのに急ぐ。高速道路を「何だ、前の車は遅いな」と思って、飛ばしていく。すると家内が「ちょっと急ぎすぎよ、今日はあなた、どうかしているの?」と。「いや、どうもしてない!」と言いながら走ります。今日も考えてみて、どれほど急いだからといって木曜会は10時からと決まっている。急いで行ったから、今日は9時50分から始まるという話ではない。急いだら何分早く着くかと、計算したことはありませんが、そんなに違いはない。

 

人生もそのようなもので、いくら焦ってみても結局は神様の手の中から一歩も半歩も出るわけではない。すべてが神様のご計画と御思いの中で、一つ一つ事が進んでいる。だから、私たちが焦るのは、神様から離れているときです。私たちは心が焦るのです。私自身もそのことをいつも感じます。「これはちょっと心がどこかほかに向いているな」と思うのです。だから、何か焦って「今日はこんなことをしたら、これもできない。あれもできない。困った。うちの人が……、この人が……」と、周囲に八つ当たりする。そのようなとき、私どもは焦っている、慌てている。いくら慌ててやってみても、一日は一日で限られています。そして、それは神様が私たちに与えてくださった事柄なのです。だから「人生をどう生きるか?」と、自分で計画してみても、考えてみても、そんなに思い通りに事が行くわけではない。なぜなら、神様が一つ一つ備えておられる事だからです。

 

クリスマスを迎えるたびに、私がいつも教えられることですが、イエス様の御降誕は、マタイによる福音書にもあるように、これは「預言者によって語られた事が成就したのである」と繰り返されています。殊に、マタイによる福音書はほかの事についても同じように語っています。言うならば、神様が大きなご計画をもって、私たちを救いにあずからせようとしてくださった。すべての人々をもう一度エデンの園の恵みの中に引き入れようとしてくださった。その計画を着々と実行しておられるのです。私どもは初めから終わりまでを全部見極めることができません。今どの辺りなのか、どこへ向かっているのか、今私の人生はどういう方向に向いているのか、見えないから、うろたえたり慌てたり、不安になったり恐れたりします。しかし、私たちは「目を高くあげて」(イザヤ 40:26)と求められている。私たちは神様に目を留めて、いま与えられた目の前の小さなこと、あのことこのこと、これがどのように連なっていくのか、そのあとどのような結果になるのか、私たちには分かりません。それは当然です。

 

だから、御使がマリヤさんに「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」(マタイ1:23)と言われた。「この子はいと高き者の子と、となえられるでしょう」「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう」(ルカ1:32)と、いくら言われても、その先どうなるのか、それは具体的にどうなっていくのか、マリヤさんには何にも分からない。ただ、神様が「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ 1:37)と言われるので、この事は神様が握ってなさることなのだから、神様に委ねて待つ以外にない。マリヤさんがやがてエリサベツさんの所へ行ったとき、エリサベツさんが「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」(ルカ1:45)と言ったのです。「時が来れば成就する」と。やがて神様の時が満ちるとき、すべての事柄は一つ一つ具体化していくと。そのことはまたザカリヤさん自身もそうです。神殿で祭司の務めをしていたとき、御使が来て「あなたに男の子が与えられる」と言われました。そのときエリサベツさんもザカリヤさんも年を取っていたから「どうしてそんな馬鹿なことがあるか」と思ったのです。心の中でそう思ったら、ちゃんと見透かされて「あなたは信じなかったゆえに口がきけなくなる」と。何を信じなかったのか?そのとき御使はザカリヤさんに言っています。「時が来れば成就する」、いま分からないのは当然のことです。

 

だから、私たちは「自分はどうなっているのか分からない」と、素直に認めようではありませんか。ところが、私どもは、分からないことがあるのは、試験問題で分からなかったときのあの気持ちになる。小学校から長いこと試験問題を開いて、「分からん」「ここが分からん」と、書けなかったときのあの焦燥感、焦りと言いますか、そして自己嫌悪、「勉強していなかったから……」と。隣を見るとシャッシャシャッシャ書いている。間違ったことを書いていても、鉛筆が動いているから「こっちは書けない」と思ったときの、そういうトラウマ(心の傷)がある。だから「分からない」とか「知らない」ことは罪である、悪い事をしているような錯覚に陥る。それを何とか埋め合わせをしようとするものだから、とんでもない失敗をしたり、しなくてもいいことをしてみたり、言わなくてもいいことを言ってみたりする。

 

 私なんかそれでよく失敗をします。「先生」と言われるものですから、「これは答えなければ」と思って、分からないくせに偉そうな事を言うのです。以前、名古屋の教会にいるころ、八十幾つかの方がおられました。いろいろな話から、私が「アメリカではこうですよ。ここではこうですよ」と、いろいろなことを話した。すると、その方は「榎本さんはもう何度も外国に行かれたのですか?」と言われるから、「いいえ、私は行ったことはありません」「でも、よく知っていますね」と「いや“見てきたようなうそを言い”というのはこのことです。教師稼業というのはこんな悲しいことで」と、それっきり物が言えなくなったのです。ザカリヤさんと同じですね。教師は、そういう悪いクセがあるのです。“見てきたようなうそを言う”のです、知ったかぶりをするのです。これは神様の前にも良くないことです。だから、私たちはともすると神様の前でも「自分は分かっている」「知らないはずがない」「これは私のことなんだからこんなはずがない」と思うところに問題がある。だから、知らないのが当然であり、分からないのが当たり前なのです。神様の前にそれを認めていくことが大切だと思います。「分からないけれども、神様は知っていらっしゃる」。マリヤさんは「わたしは主のはしためです」(ルカ1:38)と言ったのです。「神様の前に私は何にも知らない、無知蒙昧(もうまい)、何も分からない。でも神様、あなたは知っていらっしゃる。神様、あなたはできないことのない御方です。だから一切を委ねてその事が成るのを待ちましょう」。そして待った結果、ベツレヘムの馬小屋で幼な子が生まれる。これとても考えたら、彼女にとっては不幸な出来事です。旅館もいっぱいで居場所がないくらいですから、彼女にとっては誠に気の毒。ご自分をマリヤさんの立場に置いて考えてご覧なさい。こんな仕打ちをされて「わたしは恵まれた女です」とは言えません。ましてや、そのイエス様は30歳ぐらいになって、これから頼りにするぞと思ったとき、ひょんなことから家を出て行って、いなくなってしまった。お父さんのヨセフさんはそのとき亡くなっていただろうと思いますが、長男であるイエス様は、家の責任は放ったらかして弟などに任せて自分は何か宗教にかぶれてしまって、「わたしは神の子だ」「救い主だ」なんて言い出したから、マリヤさんにとっては心配の種この上ないですよ。ところが、マリヤさんはイエス様のお生まれになった経緯を全部知っています。羊飼いが訪ねてきたとき、彼女はこの出産のすべてのことについて「ことごとく心に留めて」(ルカ2:19)いたとあります。だから、イエス様のなさることに決して口を挟まなかったでしょう。最後まで信頼し続けたのです。

 

マリヤさんは初めから「この子は、神様が生み育てなさる御方だ」ということを知っていましたから、イエス様がどのような道を歩もうとも、不安や恐れはなかったに違いない。別にそういうことは書いていません。しかし、だからといってマリヤさんは全然心配しなかったかというと、そんなことはなかったと思います。やはり悲しみもあったし、憂いもあったに違いない。殊にイエス様が十字架にかけられなさいますが、母親として、我が子が十字架にかけられて息も絶え絶えとしているその下で、なすすべもなく眺めるしかないマリヤさんの痛み苦しみはどんなであったかと思います。そんなマリヤさんのどこが「恵まれた女」ですか?その意味では、皆さん、息子がどうであれ、娘がどうであれ、取りあえず十字架にかかったわけではないのですから、そのことを思ったら、「私は大いに恵まれた女だ」と感謝したらいいのです。

 

バチカンに行きましたとき、サンピエトロ寺院に参りました。入って右手の方に有名なミケランジェロの「ピエタの像」があります。これはマリヤさんが十字架から取り下ろされたイエス様をひざに抱いて、憂いと同時にいつくしみというか、この上ない表情をしている、言葉にならない、実に素晴らしい彫刻です。そこには年中多くの人が集まります。私もそれを見たとき、感動しました。自分の息子であるイエス様がそんな状態になって、息絶えた息子を抱く。その中でもなおマリヤさんは神様に恨みつらみではない。最後までマリヤさんは神様に自分を委ねる、ささげた生涯です。そのマリヤさんの生涯を思うとき、それはまさに待ち望み、待望以外にありません。どのような結果になるか分からない。やがて、イエス様はよみがえってご自身を現してくださいました。その後マリヤさんも年月が尽きて召されたのでしょう。マリヤさんのことは、その後何も書かれていないので分かりませんが、何千年も後に、世界中の人々に我が子が神の子であったという、それが多くの人々の命となり、生きる望みとなったことをマリヤさんは知らないままに天に帰られたでしょう。私たちは自分の人生が神様のご計画の中にあって、一つ一つの時が定められつつ生きていることを認めましょう。

 

35節「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。私たちの確信とは何か?神様が私たちを造り生かし、この地上に置いてくださる。そして、ひとり子をこの世に送って、私たちを救いにあずからせてくださった、この福音です。それを信じる信仰です。これを放棄してはいけない。私たちの信仰は、今申し上げましたように、「待ち望む」ことです。旧約聖書には信仰という言葉ではなくて、むしろ「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ」(詩篇27:14)、あるいは「主を待ち望む者は新たなる力を得」(イザヤ40:31)というように、「待ち望む」という言葉で語られているのは、新約での「信仰」という言葉と同じです。だから、信じて神様を仰ぎ、待ち望んでいくこと。「その確信を放棄してはいけない」。聖書に約束された一つ一つのすべての事柄が、私たちの人生に具体化されていることを信じて生きていく。だから、いま私がここにこうしてあるのは、自分の好き嫌いにかかわらず、神様がご計画をもって導いてくださっておられるのだとしっかり認めていきたい。マリヤさんもそうだったのです。マリヤさんも自分の人生は神様が備えて、導いていると信じていました。イエス様のご生涯も、時が定められてこの地上に遣わされて来られた。そして三十数年の地上のご生涯を神様が定められたご計画の中で生きてくださったのです。そのように、神様が私たちのそれぞれの時を定めて、この地上に送り出して、何十年かの地上の生涯を導かれ、ここにあるのです。やがて神様の手に導かれて地上の生涯を終わり、神様の御許(もと)に帰っていく。だから「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(ヨハネ14:1,2)と。私たちに備えられている報いは大きいと、そのとおりです。だから、この地上の生涯、日々の生活、生かされていること自体が、神様の大きなご計画と御思いによって成っているのであり、私たちの好き嫌いではないのです。だから、慌てたって仕方がない。いくら焦ってみたって、歩むべき道筋を歩まなければならない。「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1:37)神様の手の中にあって、生きるべき道のりを生きなければならない。どんなに苦しくても、つらくても。これが私たちの確信です。35節「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。やがて、私たちは地上の生涯を終わって主の御許に帰るとき、私たちに大きな報いを神様は備えていてくださる。

 

36節「神の御旨を行って約束のものを受けるため」、神様の備えられた御心に従ってこの地上の生涯を生きて、「約束のもの」、神様が約束してくださった「永遠のいのち」を、自分のものとするためには忍耐が必要ですよというのです。「耐え忍ぶ」と言うと、日本人は「我慢」「我慢」と思う。「我慢の人」と言うように、つらいけれどもとにかくほかに方法がないから、我慢するしかないと。自分でお手上げになったから仕方なしに、希望が持てないから、といって、死ぬに死にきれないから我慢をするという、非常に暗いイメージが伴う。「忍耐」なんて言われるといちばん嫌。もっと手際よく、パッパッと行かないかしら、ジッと待つなんて、性に合わんというのが、私たちですが、ここが大切です。「あなたがたに必要なのは、忍耐である」。「忍耐」です。

 

先だっても、皆さんとこの一年を振り返って、いろいろな話から「やはり、信仰は忍耐ですね」と、しみじみと言われる。ある方は「でも、私たちにとって忍耐は幸いなことで、うれしいことですね」と言われた。私はそのとおりなんだと思うのです。私たちにとって忍耐とは、神様の約束を信じて忍耐をしていますから。だから、いい結果にしかならないのです。「忍耐したけれども、我慢したけれども、あとが悪かったらどうしようか」と。忍耐した挙句、ダメだったら。大売出しで「先着何名様」と、並んでいたら、目の前で打ち切られて、「ええ!待ったのに!」となる。それだったら、何のために待ったのかしらと。ところが神様の約束は絶対失望がない。ローマ人への手紙5章にそうあるでしょう。「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5 そして、希望は失望に終ることはない」(3節~)。忍耐することは、良い結果を確信していますから、待っていれば「棚ぼた」です。善いことが起こると、聖書に約束されているからです。神様は善い事をして私たちを喜ばせ、楽しませ、輝かせようとしておられるのですから、待っていればいいのです。神様は、今度は何をしてくださるか。

 

ヘブル人への手紙6章13節から15節までを朗読。

 

ここにアブラハムの信仰について「必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と、神様の約束はバラ色です。先は明るいのです。アブラハムは小さな自分の家族だけだったのですが、いや、家族もいない。おいのロトが親を早く亡くしていましたから、伯父さんであるアブラハムとサラが面倒をみてはいましたが、自分の子供はいません。自分たちの人生はこれでお終い、お家断絶だと思ったのです。ところが、神様は「そうではない。あなたの子孫を多くして祝福する」と約束なさいました。でも、現実はどこにもそれらしいものは見えない。けれども、彼は、15節に「このようにして、アブラハムは忍耐強く待った」。アブラハムは忍耐強く待ったというのです。神様の約束を信じた。聖書の神様は私たちを祝福し、救いにあずからしめ、神の子供として永遠の御国にまで導きいれてくださるという約束を信じて行く。私たちが与えられた地上の生涯は、どんなに波乱万丈であろうと、悩みと悲しみと涙の谷をすぎるとも、神様は決してへまな事をなさる御方ではない。これを信じて行くとき、待つことは喜びです。

 

四国の脇町の教会に岩井恭三先生という方がいました。何人かのお子さんがいましたが、皆さん良いお子さん方で、牧師になった方が数名いらっしゃるし、また牧師夫人になった娘さんもいますし、模範的な家族だったのです。我が家はどうかというと、あまり模範的ではなかったのです。私も中学・高校生ぐらいのとき、よく父から「岩井先生のところを見てご覧。息子さんたちはみな勉強もよくできて、そしてちゃんとしている」。実際私も兄も、そんなところとは程遠い、将来下り坂というような現実があったのです。勉強はしない、遊びほうけて、親に心配ばかりかけて、「これはどうなることか」と、父も心配だったのです。そのとき、たまたま岩井恭三先生が我が家に来てくださった。何度か来て下さいました。昔の牧師館を覚えている方もおられると思いますが、牧師館の一階のコタツの所で格幅のいい恭三先生が座って、集会のあとでお茶を飲みながら座談をしていました。そのとき父が「先生のところのお子さん方はどのようにして育てられたのでしょうかね。とてもいいお子さん方になられましたですね。それに比べてうちの子供たちは……」と、実情を言ったのです。すると岩井先生が「榎本先生、それは違いますよ。子供を育てるのは親ではなくて神様なんですから、神様が今先生のところのお子さんを育てていらっしゃるので、悪ければ悪いほど良くなります!」と。「神様に期待しましょう。神様はどのようにして子供たちを釣り上げてくださるか、これは見ものですから、一つ高みの見物で待ちましょう!」と言われた。それを聞いたとき、父がハッと思ったのです。それから、私も記憶がありますが、あまり言わなくなった。そして、父の信仰自身もその辺から変った感じがします。「待ち望む」ことです。神様に期待する。それから、私どもが何かやって、失敗してクシャンとなって、「お父さん、これはもう駄目や」と言ったとき、父が「そんな馬鹿な、神様にできないことはない。大丈夫!」、「大丈夫って何か保障がある?」と言うと、「無い」と。無いのに偉そうに言うなと思う。「聖書にちゃんと書いてある」と。「聖書に神様は約束なさっているのだから、大丈夫」と。だから、私どもが何かちょっとおかしなことをやると、「いや、そのうち神様が釣り上げてくださるときが来る」と、岩井先生の言葉を取っていつもそう言う。こちらは釣り上げられまいとして「簡単に釣られるもんか」と、逃げ隠れしていましたが、結局釣り上げられました。神様がなさることはそうなんだと思うのです。だから、信仰に立って生きることは、待ち望む、忍耐でありますが、その忍耐の先には良い結果が待っている。

 

アブラハムのように約束を信じて力強く忍耐するのです。ヘブル人への手紙10章36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。私どもは先を望み見て「さぁ、神様はこれからどのようにしてくださるか」。私たちの「思うよりも願うよりも」(エペソ3:20)とあります。私たちが想像するはるか大きな事です。それを必ずしてくださいます。

 

先だっても、福岡の教会で少し早かったのですが、クリスマスの祝会をしました。祝会をするというと、子供たちは必ず期待するものがある。始まる前から「先生、今日はサンタ来る?」と言うのです。「さぁ、連絡ないけれども」と私が言った。すると「必ず来る」「必ず来る!」と言うのです。「いや、分からんよ。どこかで交通渋滞に遭っているかも……」と意地悪なことを言うものですから、子供から嫌われますが、子供は必ず期待して来るのです。必ずそうなると思っています。ですから、もちろんプログラムに「プレゼント」と書いてありますから「先生、ここにちゃんとプレゼントと書いてある。サンタ来るじゃん」と言われた。それは来ますが、待つのです。そして、いよいよプログラムが進んでプレゼントになる。「はい、今からプレゼント」、ワーッと喜ぶのです。また期待するのです。どんなものをもらうかと、そしてサンタから名前を呼ばれるたびに、子供は出てきてうれしそうに受け取る。受け取るなり、座っている他の子供たちが「大きい!」と期待が膨らむ。自分の期待よりも大きいもの、あるいは自分が願ったよりもいいものに違いないと。そのように期待するのです。

 

私たちは神様にどれほど期待しているでしょうか。思うよりも願うよりももっと素晴らしいことを神様は私たちにしようとしていらっしゃる。神様の愛は「ひとり子を賜わったほどに」、限りないご愛をもって私たちを愛してくださった(ヨハネ3:16)。だから、「ひとり子を賜ったほどの方が、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)、どんなことでも惜しむはずがないじゃないかと。

 

今日、36節にありますように、「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。私たちに今求められているのは忍耐です。この年もやがて終わりますけれども、また新しい年、どんな年が待ち受けているか分かりませんが、「きっと良くなる」と期待して、待ち望みましょう。

 

最近のテレビのニュースを見ると、あれが悪くなった、これが悪くなった。この数年は不景気が続く、首切りばかり、あちらもこちらも駄目になる、駄目になる。経済評論家とかいう人が言うではないですか。十人が十人みな口を揃えて「もう駄目」「駄目」「駄目」。私はそうは思わないのです。「いや、大丈夫。神様がご存じで私たちを憐(あわ)れんでくださる。駄目にするはずがない」。でも、天気予報の予報士もそうですが「駄目だ!」と言って、外れて良くなったら文句を言われない。ところが、「良くなる」と言って、駄目だった場合、ものすごい非難を受けますから、「駄目だ」「駄目だ」と言ったほうがいいのです。だから、だんだんと私たちはそのような傾向になる。悪いほうに考えておけば、あとでショックが少なかろうと思うでしょう。だから「きっと悪くなるに違いない」「悪くなる」と前もって縮こまっていく。信仰はそうではない。人に期待すると縮こまる以外にないのですが、神様に期待するのですから、神様は必ず善い事をしてくださいます。

 

だから、そのことを信じて待ち望もうではありませんか。36節にありますように「あなたがたに必要なのは、忍耐である」。どうぞ、新しい年をしっかりと忍耐を働かして、神様の祝福と恵みにあずかりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。