いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月23日 日々の聖言

2014年07月23日 | 日々の聖言

「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。

しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、

これこそ神によみせられることである。」第一ペテロ2:20 



悪いことをして、罰を受けるのは当然の報いです。しかし、世の中は不公平で、

必ずしもそのようにはなりません。時には、誤解・曲解を受け、根も葉もないこと

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聖書からのメッセージ(268)「御言を食す」

2014年07月23日 | 聖書からのメッセージ

 ヤコブの手紙1章19節から25節までを朗読。

 

 21節「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(みことば)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」。

 ヤコブの手紙には「御言を行いなさい。行いがなくては、それは何の役にも立たない」という趣旨のことが繰り返し語られています。よく言われますように、「信仰は信じることであって、行いをすることとは違うのではないか」と議論をすることがありますが、それは次のようなことなのです。自分の力で「救いにあずかる」、「義とせられる」ことはできない。言うならば、自分の力で救われるのではないということです。だからローマ人への手紙にありますように、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(3:28)。誠にそのとおりです。信じることであって、行いはありません。ところが、ヤコブの手紙で言っていることは、「義とされるための行い」ではありません。自分が難行苦行をして、卵断ち、何断ちと、いろいろ好きなものをやめて百日とか千日とか、自分の努力で、自分のわざで、救いにあずかろうとするのは不可能。これはできないと、聖書ははっきり言っている。では、人は何によって救われるか?「ただ、信じることによって救われる」と。これは絶対的な事柄であります。これを抜きにすることはできません。私たちは「信じて」、今救いにあずかっているのです。だから、救われるためには何をすべきか?それは信じる以外にない。

 

ヤコブの手紙では、21節に「心に植えつけられている御言(みことば)を、すなおに受け入れなさい」とあります。聖書の言葉、救いにあずかった私たちが、今度は聞く御言をどうするのか?ここが問題なのです。だから、ヤコブの手紙で「行いがなければ」というのは、救いに関してというよりは、救われた後、神の子とせられた私たちが御言とどのようにかかわっていくべきかを語っているのです。「もう救いにあずかったのだから、あとは信じるだけでいいのだ。何もしなくていい」ということではない。では、何をするか。御言に従うのです。これは当然であります。私たちは信じてイエス様の救いにあずかり、神の子とされた。神の国の民に変えていただいたのです。その私たちが神様と交わり、神様の子供にふさわしい歩みをするにはどうするか?それはただ一つ、聖書の御言に従う以外にない。「さぁ、神の子になったから、これからどのような生活をしようか。あれをやめて、これをして、ああして、こうして……」と、自分で形を作って、神の子らしい行いや生活ぶり、あるいはそのような言葉遣いや動作、仕草まで、神の子らしくするのは、どうしたらいいのだろうかと、自分で考えて、それを形作るのは何の意味もありません。それは何の役にも立ちません。では、どうするか?救いにあずかった私たちは、今度は神様の言葉を行わなければならないのです。そうしないと、神の子としての実体、実際の姿がそこに作り出されていきません。

 

ですから、21節に「心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい」と。私たちが聞く御言、心に抱いて知っているお言葉、覚えているお言葉、いろいろなレベルでの御言がありますが、そのお言葉を素直に受け入れる。ただ単純に信じて、「御言(みことば)を行う人」となる。その御言に従う者となってほしい。なぜならば「御言(みことば)には、あなたがたのたましいを救う力がある」と。御言にはそこにいのちがとどまっているからです。ヨハネによる福音書1章に、「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」(4節)と語られています。言葉の中にいのちがとどまっている。まるで種のようなものです。それはやがて成長していく。神様は聖書のお言葉を通していのちを与えてくださる。

 

マタイによる福音書13章19節から23節までを朗読。

 

 これはイエス様がお話になった「種まき」のたとえです。道端に落ちた種、また土の薄い石地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、そして、耕された地に落ちた種と、4つの状況が語られています。種まきが種をまきに行った。マルコによる福音書の同じ記事では「種まきは御言(みことば)をまくのである」(4:14)と語られています。ですから「種」とは御言です。その御言がどこに落ちるか。道端に落ちたものはカラスが来て食べられてしまった。土の薄い石地に落ちた種は、取りあえずそこには土がありますから、いったん根は生えます。しかし石ころだらけですから、日照りになるとすぐに枯れてしまう。もう一つ、いばらや雑草の茂った中に落ちた種は、取りあえず根が張って成長を始めますが、いばらが生い茂っているところまでいったら、それ以上成長しない。そして、最後に、よく耕された地に落ちた種は成長して百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実を結ぶというたとえです。これは実際に農家の人が体験する具体的なことだろうと思います。その種は御言であると、イエス様は解き明かしています。19節に「御国の言(ことば)を聞いて」とありますが、これは御言のことです。それを悟らない、その御言を受け入れようとしない。すると、悪い者が来て、それを取って行ってしまう。すぐに消えてしまうのです。そして「石地にまかれたものというのは」、20節に「御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のこと」。よくそういう人がいます。いともたやすく「この御言はいい言葉、これもいい言葉です。書いておきましょう」と書いただけで、あとはすぐに忘れてしまう。ところが、21節に「その中に根がないので」、根差していない、上っ面だけですから、御言によって世間の人が何か言う、自分の生活に何か不幸な事が起こるとすぐ忘れてしまう。御言も吹っ飛んでしまう。そういう人は土の薄い石地に落ちた種のようなもの。そのあとの22節に「いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐ」とあります。御言を聞くのですが、いろいろな人のことを思い、あるいは世のことを思い、自分の欲情、自分の欲得、そろばんづくで、「どうも、この御言葉は煙たい、敬遠しとこう」と言って、押しのけてしまう。イエス様のもとに来た青年がそうですね。イエス様に「永遠の生命(せいめい)を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」(マタイ19:16)と尋ねました。イエス様が「あなたの持っているものを売り払って、貧しい人々に施し、天に宝を蓄え、そしてわたしに従ってきなさい」と言われた。イエス様の言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去った」。富の心遣いで、彼はイエス様の言葉に従えなかったのです。ところが、23節に「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のこと」、聖書のお言葉を聞いて、それを自分の心に蓄え、そして受け入れ、それを行う人。

 

ここで「行う」という言葉が誤解を招きやすい。適切な表現がないのですが、「行う」とは、必ずしも字義どおり、その言われた言葉のとおりにすることではない。というのは、聖書はそのような法律の言葉ではないからです。民法であるとか刑法とか、いろいろな法律の言葉、あるいは、身近なところでは「道路交通法」などがありますが、これは文字通りに行わなければ駄目です。時速40kmとマークがあったら、そこは40kmを超えてはいけないのです。「いや、自分はこのくらいが40kmだ」と思いながら、自分の感覚で走っては駄目です。ちゃんとメーターが付いていますから、40は40、50は50ですよ。「止まれ」は止まれです。その「止まれ」を「いや、止まろうと思ったけれども、まぁ、誰もいなかったから行ってしまいました。何がいけないですか」と言うことはできません。それは法規にそう書いてあるからです。これは守らなければいけない。一字一句ないがしろにできない。厳しく言えばそうです。その辺少しルーズですから、警察官が見ていなければ勝手なことをやりますが、聖書の言葉は、そのような意味での「行う」ではない。中にはそのように理解している方がいます。「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」(マタイ 5:39)、「これは難しいからできん」と言って行わない。右の方がよかったか、左の方が先だろうかという話にまでなって、あまりにも言葉にとらわれる。御言葉を逐一、定規(じょうぎ)で測ったように、きちっとそれに合わせて行う。これが「行う」のではない。聖書の言葉を聞いて、言葉を絶えず心にとどめていくと、御霊が私たちに、御言をいろいろな場合に当てはめてくださる。その御言は、このことのため、この目的のためという言葉ではありません。今申し上げましたように、法律の言葉は、この事件、この事案に付いて、こういう事態に付いてはこれという条文・条例がきちっと対応していきます。しかし、聖書の言葉はある人にとって、それが親子関係の問題であったり、また、ほかの人にとっては、同じ御言葉が夫婦関係の問題に当てはまったり、会社での上司としての役割に当てはまる言葉であったり、変幻自在に、自由に私たちに語りかけてくるのです。だから、この御言葉はこれのためですと、そのような簡便な書物があります。「友人を亡くして悲しみのときに読む箇所」「ご主人を亡くして沈んでいるときに読む聖書の箇所」とか、手引書のようなものがあります。私はそれを見ながら「聖書ってそれだけのためなのだろうか」と思います。もしそうであるなら、これほど空しい書はありません。そういう時はもっと気の利いたことが言えますよ。それよりも、何のためとは分からないけれども、聖書のお言葉を覚えて生活をしていると、ある瞬間、ある時に、ハッと思わされる、思い起こさせられる。それがいつ聞いたお言葉であったか、それが別の違う時の状況や事柄であったか、お言葉が私たちに「やめておきなさい」とか「そこで言いなさい」とか、何か語りかけてくる。これが聖書のお言葉の不思議さです。だから、御言葉をしっかりと握っておきますと、御霊がそれを私たちの生活の中で具体的なところに当てはめてくださる。

 

だから、この「たね」のたとえは、素晴らしいたとえで、実にそのとおりだと思います。種は何の変哲もない小さな粒です。からし種などは砂粒のようなもの。そんなものの中に、実は命がある。それを地面に埋めますと、種の形は分解します。そして、根が出て、新しい芽が生えてきます。元の種の形はどこにも見えません。なくなります。しかし、それが生えてきて、どんどん成長して、大変大きな木になったり、たくさんの実を実らすものに変わっていく。御言葉もその字義どおり、一字一句そのままで心にあるかぎり、いのちが生まれてこない。そのお言葉を自分の心に受けいれて、繰り返し味わって暖めていくと、私たちの考え方、物の言い方、歩き方から立ち居振る舞いにまで、気がつかないうちに力を及ぼしてくる、影響を与えてくるのです。これが、まさに「御言を行うこと」です。だから、いつも聖書のお言葉を心に抱いて、その御言と対話する。御言を心に咀嚼(そしゃく)して、味わって、触れ合っている時間が長くなればなる程、御言のいのちが私たちの内にしみ込んでくる。そして、人から言われたり、あるいは何かをした時、その御言葉が私たちにとどまる。私たちの行動や言葉を思いがけない方向にスーッと導いてくれるのです。だから、自分で考えなくても、何かたくらみをしなくても、御言葉はちゃんと私たちのいのちになってくるのです。

 

エゼキエル書3章1節から3節までを朗読。

 

これはエゼキエルが預言者として神様から召されたときのことです。神様はエゼキエルに対して「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と命じました。その巻物はまさに聖書のお言葉、神様の言葉が書かれたものでした。彼はそれを食べたというのです。3節に「わたしがあなたに与えるこの巻物を食べなさい」、そして「わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった」とあります。彼はそれを食べ、咀嚼(そしゃく)して、それから後、神様の御思いをイスラエルの民に預言したのです。「食べる」とは暗記することではありません。エゼキエルが神様の書を徹夜で勉強したというのではなく、食べるのですから、それを丸のままに信じた、自分の心に受け入れたのです。そして、受け入れたものを今度は口まねをしてそれを語ったのではなく、その御言葉が内にとどまって、彼が事あるごとに語る言葉となって、御言葉のいのちが伝えられていくのです。そのとき彼が語った言葉は、自分が食べた巻物の言葉と一字一句たがわないというのではない。彼が食べた御言葉がいのちとなり、力となって、彼自身の言葉によって神様の御思いが語りだされる。御霊が御言葉と共に、そこにとどまって彼に働くからです。だから、私たちが聖書のお言葉を絶えず心に抱いて、それを食べるのです。忘れていいのです。度々申し上げますように、学校の勉強のように、日曜学校の生徒が暗唱するように、これをいくつか覚えなければという意味ではありません。食べるのです。食べるとは、先ほどのヤコブの手紙に「すなおに受け入れなさい」とあるように、心に受けいれるのです。そうすると、それが私たちの内に今度は新しいいのちとなり、力となって、力を与えてくれます。

 

サムエル記上14章24節から30節までを朗読。

 

これはサウルが王様になった時に、ペリシテ人との戦いがありました。その時、サウルの子ヨナタンもお父さんと一緒に戦いへ出かけたのです。ところが、サウル王様は一つの誓願を神様の前に立てました。それは「ペリシテ人をやっつけるまで誰も何も口にしてならない。食べてはいけない」。そんな無茶な話はない。戦いに行って、みんな疲れているのに、「何も食べるな」というのですから。みんなも「食べた者は呪われる」とまで言われていますから、みんな怖くて食べないのです。ところが、ヨナタンはそのことを聞いていなかった。今読みましたように、彼らが森の中に入ったとき、そこに蜜の滴(したた)っている巣、蜜ばちの巣か何かでしょうか、蜜がたくさんたまった場所があった。彼は喜んでその蜜につえを浸してなめた。27節にありますように「手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした」と記されています。この「蜜」とは、先ほどのエゼキエルが食べた巻物です。言うならば、ヨナタンがここで神様のお言葉を食べたのです。その時「彼の目がはっきりした」。蜜を食べてエネルギーになって、活力になって力が付いたとは書いていません。「目がはっきりした」という言い方をしています。蜜というたとえですが、神様の言葉を彼が頂いたのです。御霊によって、ヨナタンは神様の言葉をいただいたのです。その御言葉によって目が開かれた。そして、お父さんであるサウル王様が実に馬鹿なことをしていることを、彼がはっきりと悟るのです。 

 

このことは今でも変わりはない。私どもが聖書のお言葉、神様の甘い蜜のような主のお言葉を信じ、心に蓄えて、それを食べるとき、私たちの目が開かれる。だから、詩篇のほうには「聖言(みことば)うち披(ひら)くれば光を放ちて、愚かなる者を慧(さと)からしむ」(119:130文語訳)と約束されています。私たちの目を、思いを、心を新しく造り替えて、どんなことも見ることができる、悟ることができる。知恵を与えられる。御言葉は私たちにとっていのちなのです。それを行うとは、心にしっかりと抱いて、お言葉に心を結び付けていくとき、私たちの行動や語る言葉や様々な仕草や、生活の隅々にまで神様の御思いが行き渡っていくのです。それがいのちなのです。そして、本来の私にはできなかったことができるようになり、今までの私では到底あり得なかった事柄が起こってくる。自分ではできなかったはずの事ができるように、神様が造り替えてくださる。御言葉をしっかりと心に抱いて、お言葉に密着していくとき、気がつかないうちに力が注がれます。

 

 ですから、ヤコブの手紙に戻りますが、1章21節に「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい」。「御言を、すなおに」、疑わないで、まず信じることです。そして、信じて、そのお言葉にしっかりと心を委ねていく。懸けていく。そうすると、何か事があるたびごとに、そこで御霊が、聖霊が、忘れていた御言葉を思い起こさせてくれる。その御言葉の字句どおり、一字一句ではありませんが、私たちの心に「主が願っているのはこの事だ」と悟らせる。先ほど申し上げたように、「右の頬を打たば左の頬を出せ」という。右の頬か左の頬のどちらが先かと、そんなことよりも、その御言葉の語っている、自分を捨てて掛かること、何かを頼まれたり、何かしようと思ったときに、自分の欲得だとか、そういうものが心を支配して、「やめておこうか。気の毒やけど、私も困ることがあるし」というときに、フッと御言が心に浮ぶ。「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイ 5:40)と。「そうだ、神様が『受けるよりは与える方が、さいわいである』とすすめておられる」(使徒 20:35)と心が変わる。それを体験することが、私たちの日々の生活です。だから、聖書のお言葉を読んで心に蓄えていきますと、何かの拍子に、右にしようか左にしようかというとき、「主の御心は?」と問われる。主に心を向けると、御言葉が思い出される。そのことと直接関係のない御言葉であるようだが、背中を押されるような体験をします。そのとき、「そうだ。イエス様は私にこのことを求めている。神様は私にこういうことをせよ、とおっしゃっているのだから」と、確信を持って、信仰に立つことが出来ます。これが「御言を行う」ということです。

 

21節後半に「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」と。そうやって御言葉から流れてくるいのちは、私たちの魂を豊かに潤(うるお)してくる。私たちはいつもお言葉に心を明け渡していく。そのお言葉にしっかりと捕らえられていく者でありたいと思います。そのあと、22節に「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」。さらに25節に「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」と。「完全な自由の律法」って何のことか。これはイエス様のことです。主イエス・キリストを絶えず見つめていくこと。言い換えると、御言葉を絶えず前に置いて、いつも御言葉を見つめていくことです。イエス様を絶えず見ていく。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(Ⅱテモテ 2:8)。イエス様のことを思う。それは取りも直さず、御言葉を絶えず心に思うこと。絶えず御言葉を前に置いて、それをジッと見つめていくと、御言葉に私たちは気がつかないうちに操られていく。これが御言葉を行うことです。そうすると、「このお言葉は私には忘れられない。この言葉も私のいのちです」と言える。いろいろな御言葉が私のもの、自分のものになっていくのです。

 

年頭から「聖霊を受けよ」と御言葉を与えられました。この「聖霊を受けよ」というのも、皆さんもご存じのように、イエス様がよみがえられて弟子たちの所に来て、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。」「聖霊を受けよ」と言われた。その時の言葉と限定しているわけではない。「聖霊を受けよ」というお言葉を、心に置いてご覧なさい。そうすると何かのときに、「いま私は御霊に従っているだろうか。御霊のみ声を求めているだろうか。御霊を求めているだろうか。聖霊を求めているだろうか」と問われるのです。「聖霊を受けよ」というお言葉を聞いて、「そうだ。自分の思いばかりでやっている。ここはもう一度、神様の前に……」と方向転換する。これが御言葉を生きること、御言葉を行うことです。この年、年頭に与えられた御言葉ばかりではありません。皆さんがこうやって集会に来て、あるいはご自分で静まって聖書を読んで与えられた御言葉の一つ一つをしっかり握って体験して行く。それを自分のものとしたいと思います。ですから一年の終わり、12月に一年の感謝会をするときに、「実はこの御言葉とこの御言葉、これは私の生涯のいのちの御言葉です」という体験をあかししていただきたい。そのためにいろいろなことが起こるのです。そこで私たちに求められているのは「御言を行う人になるように、ただ聞くだけの者であってはならない」。絶えず、どんなときにも御言葉をしっかりと心に抱いて、その御言葉を一心に見つめて、御言葉を握って、心にそれを繰り返し味わっていきますと、気がつかないうちに手が出、足が出、いろいろな状況が変わってくるのです。これが御言葉のいのちと力で、それを体験していくこと、それを自分のものとすること、これが「御言葉を行う」ことです。そうすると私たちが救いにあずかった内実と言いますか、神の子としての内側が清められ、整えられ、栄光から栄光へと主と同じ姿へと私たちを造り替える神様のみわざが行われるのです。ですから、ここにありますように、「心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。22 そして、御言を行う人になりなさい」。御言葉をしっかりと握って、幾つでもたくさん体験して、そのいのちを受け止めていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。