いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月17日 日々の聖言

2014年07月17日 | 日々の聖言

「天にいますあなたがたの父はなおさら、

求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」マタイ7:11 


幼子は、ある時期、親のするままに委ねて過ごします。親を全く信頼しているからです。

相手が自分に必ず良いことをしてくれると信じること、また、してくれたことが、どんな事

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聖書からのメッセージ(262)「心に主イエスを」

2014年07月17日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書1章9節から13節までを朗読。

 

 12節「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。

 クリスマスの出来事は不思議としか言い様がありません。なぜなら、神様が人となるというのですから。神様と人は到底一緒になることができません。全く次元が違うものです。比べ様がありません。神様は天地万物の創造者、全能の御方で、全知であり、霊なる御方でいらっしゃる。それに対して、私たちは土で作られた弱い器であって、被造物、これはどんなにもがいても、あがいても、近づき様がない決定的な違いです。ですから、私たちが神様を選んで近づくことは不可能です。

 

日本人の考え方の中には、どうも神様は私たちと同類ぐらいに感じているところがあります。自分よりちょっとぐらい偉い人か何か、そのように思っています。いろいろな神社がありますが、長府に行くと『乃木神社』という所があります。名前のとおり昔の乃木大将を祭った神社だと思います。言うならば、人が神になるという考え方です。神になる人物は私たちより少し出来がいい、能力がある、何か偉大なことをした、人と違うことをしたなど、そういう特徴のある人が祭られるのです。あるいは先祖が神になるという考え方があります。太宰府に行きますと菅原道真さんが神になっています。道真さんは当時の政府の本筋から退けられて、いわゆる島流しになって、太宰府政庁に送られてしまったのです。出先機関に回された落ちぶれ官僚のようなものです。それが、どういう訳か、和歌が得意で筆が立つ人でした。そのようなことで、ほかの人よりはちょっと頭が上に出ているから、神になったというだけのことです。だから、日本人の感覚の中に神様の捉(とら)え方が、人よりも少しできる人、神ですから人と言うのはおかしい言い方ですが、能力があると思うのでしょう。だから、神様に近づくことはそれほど難しくない、いとも簡単です。新年になると、初詣などという話題がニュースになる時期ですが、あちらに行きこちらに行きと、一箇所だけではなく三箇所ぐらいはしごをするという。神様のはしごというのですから、念が入っている。また神様はいろいろと専門性があって「商売繁盛」「学問優秀」「交通安全」と、分野が決まっています。こういう考え方自体がきわめて人間的と言いますか、人間本位、ご都合主義です。

 

ところが、聖書が語る神様は、そのような神様とは大違いです。だから、「神」という同じ言葉を使いますが、その内容は決定的に違っていることを、まず知らなければならない。これは日本人が神様を信じるための第一要件です。従来の日本の伝統的な神様を聖書に語られた神様に当てはめてしまうと、訳が分からなくなる。「どうして神様はこんな事をするのだろう」ということになってしまいます。日本人は「神様でもできないことはあるやろう」ぐらいに思っていますから、当たればもうけもの、当たらなければ仕方がない。無くて当然というくらいの軽い気持ちでお参りに行く人が多い。初詣して、お賽銭を入れて「この一年、商売繁盛」とか、「家内安全」、「無病息災」とか、そのようなことを祈願する。それで答えてくださると信じているかといったら、内心「いや、それはちょっと無理だろうけれども、万が一」、祈りが聞かれたら、宝くじの様に「当たればもうけものやから」と行くわけです。ところが、聖書を通して語られる神様は、そのような、できるとかできないとかなど有り得ない。全能の神であり、またすべてのものの根源です。だから、私たちがこうやって、今ここにあること自体が神様のわざです。これを認めて徹底しないと聖書に証しされている神様に近づくことができない、神様を知ることができない。だから、日本人は、比較的簡単に「神様」「神様」と神様に近づきますが、ただ内心神様は怖い方だと分かっていますから、できるだけ日常あまり目に付かないようにしておきたい。だから、鴨居(かもい)の上のほうに祭り上げる。普段は関係しない。どこかに隠れていてほしい。必要なときだけ来てほしい、人間の都合の良いようになってほしいだけのことです。しかし、真(まこと)の神様はそのような御方ではありません。私たちの好むと好まないとにかかわらず神様はあくまでも神様であり、私たち自身が神様によってこの地上に命が与えられたのです。そうなると、まず神様が私たちに近づいてくださらないことには、私たちのほうから神様に行くことはできません。

 

熱心に修行をして悟りを開くという話を聞きます。言うならば、神に近づいていこうと、自分の力で努力する。過酷な修行をする、あるいは難行苦行を重ねて神になる。そのような考え方、自力本願という考え方があります。これは禅宗などに代表されるものですが、例えば比叡山の千日回峰などがあります。千日間、ほぼ3年間位、山の中にこもって峰から峰へとずっと歩き回る。寝る所は小さなほこらの様なところに寝る。食べるものは、その修行の間、篤信の信者が泊まるに違いない所へ置いておく。その置かれたものだけを食べる。だから、ないときは飲まず食わず、山水を飲む。その代わり、その間は絶対人に会ってはいけない。人と話をすることは御法度(ごはっと)です。そうやって3年間修行して即身成仏という、生き身のままで神か仏になるという世界です。そういう方は何百年かの間に何人かしか10人もいないと思います。でもそれをやり遂げる人もいます。それほどの努力をして神になる、あるいは神に近づく、悟りを開く。それほどまでしなければならないとなれば、私のような怠け者には到底無理です、不可能です。そんなことを言われたら、仏どころか悪魔になるのがいちばんなりやすいのかもしれません。生きた人間がそのままにして神になることはおこがましい、あまりにもごう慢な考え方ではないかと思います。 

だから、神様が人となること、これは驚くべきことでありますが、これならないわけではない。神様はどんなことでもおできになる。だから、イエス様がお生まれになるとき、マリヤさんに「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」(ルカ 1:31)と御使いが伝えた時、「まだ結婚していないのになんでわたしにそんなことがあるでしょう」と、彼女は拒みました。驚き恐れました。でも、神様にできないことはない。だから時々言われますが、「せっかく信じようと思っても変なことを言うから」と言う。「処女降誕、結婚もしない女性から人が生まれるなんて、そんな荒唐無けいなことを言うから、信者が増えない」と。あるいは「死んだ人が墓に入って、墓からよみがえるなんて、そんなことを言うからキリスト教は伸びない」と。「だから、ちょっとそれを言うのを控えたらどうか」と。「そうしたら、もっと日本でも盛んになるのだが」と。そんなことを言っていたら、神様を信じることができません。どう考えても、人間的に考えたら、これはもう不可能、有り得ない。逆に言うならば、「だからこそ」でしょう。だからこそ、神にはなんでもできないことはない。だから、マリヤさんに対して「神には、なんでもできないことはありません」と言われた。これは神様がなさるのであって人がするのではない。これが決定的な事態です。私たちが日ごとに絶えずこのことを認めていかなければなりません。神様の前に謙そんになる、へりくだるというのは、まさにそれを認めることでしょう。神様が一方的に神様の側から人となってこの世に来てくださるということは、これは有り得るわけです。ところが、人が自分の努力や自分のわざや自分の力で神様に近づくことは許されません。私たちは造られたものですから、許されないどころか、不可能です。だから、このクリスマスがいかに恵みであるかということにほかなりません。なぜなら、神様はご自分がすべてのことの始まりであり、根源であり、力であることを明らかになさった。そして、神様が人となって私たちに近づいてくださった。いや、それどころか、神が人となって私たちの内に住んでくださる。

 

だから9節以下に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」。リビングバイブルという分かりやすい言葉で意訳した聖書がありますが、それを読むと、「彼」とは、「イエス・キリスト」と訳しています。そうやって読みますと「イエス・キリストは世にいた。そして、世はイエス・キリストによってできたのであるが、世はイエス・キリストを知らずにいた」となります。まさにイエス様は神でいらした方、神様が創造のわざをなさるとき、イエス様もそばにいて父なる神様のわざをことごとく見て喜んだと、箴言に語られています。「世は彼によってできたのである」とあります。イエス様は神であることをえん曲に語っている。イエス様は神であり、創造者でいらっしゃる。

 

ところが、11節「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」と。神に造られた民である私たち、神の作品である私たちのところに、造り主が来てくださったのに、それを認めなかった。私たちもまた同じでありました。かつてまだ神様を知らない、イエス様のことを知らないころは、神様が私たちの内に来てくださったのに、イエス様のことも神様のことも認めない者であったと。「しかし」と、そのあと12節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。ここに「彼を受けいれた者」とあります。イエス・キリストを受けいれること、言うならば、馬鹿馬鹿しいとか、荒唐無けいだとか、そんな結婚もしない女性に神の霊の力によって子供が宿って、そして生まれるなんて、そんな馬鹿げた、そして、そのイエス・キリストは神なる御方だ、神が人となった御方だなんて、そんなことを信じられるか、と多くの人は思います。ところが、ここにあるように「彼を受けいれた者」、その一切を「神様にはできないことはありません」と、マリヤさんのように私たちが認め、信じる。「神様がこのイエス様を世に送ってくださった。神が人となって私たちの内に来てくださった。その御方、イエス様こそが神です」と信じる。そのあとに「すなわち、その名を信じた人々には」とありますが、これは“名は体を表す”というように、「名を信じる」ことは、取りも直さず、イエス・キリストご自身を信じることです。だから「名前を信じるってどうするのか?イエス・キリストという名前をどのように信じるのだろうか?」と疑問に思います。「名前を信じる」とはあくまでも表現であって、イエス・キリストご自身を信じることです。イエス様を信じる人に、「彼は神の子となる力を与えたのである」と。「神の子となる力」という言い方もまたちょっと日本語らしくないのですが、分かりやすく言うと「神様が力をもって私たちを造り変えて、そして神の子としてくださる」ことにほかなりません。だから、イエス様、神なる御方が人の子となって、私たちの内に宿ってくださった。この世に来てくださった。それによって、それを信じる私たちは今度は、天につける、神につけるものへと変わる。上から下へ降りてきて、今度は上から下に降りてきたものを信じるとき、下にあったものが上に上がっていくのです。まるでつるべのように、一方が上から下へくだると、片方は下から上にスーッと上がっていくでしょう。それと同じように私どもがイエス様を信じるということは、私たちを神のものと変えてくださる。神様に近づかせていただける。最初に申し上げましたように、私たちが神様に近づくことはできないのであります。自分の力や自分の努力や自分のわざで、どんなことをしてみても神様に近づく道はありません。しかし、イエス様が、神様があえて人となってこの世に来てくださったゆえに、今度は、そのイエス様を信じる私たちが上にたずさえ上げられるのです。言うならば、神の国の民、神の子、神様の家族に造り変えてくださる。これがクリスマスの目的なのです。そして、クリスマスとは、神が人となったことは、取りも直さず人である私たちが神に近い者、神様と共に生きる者へと、神の子供、神の国の住民へと、天につける者へと、私たちを変えてくださったことでもあります。私たち、到底神には似ても似つかない、神とは程遠い私たちが神の性質にあずかる、神のものと変えられる。イエス様が、神なる御方が人となって、罪は犯されなかったが私たちと同じ肉体をとって、弱さを知り給う御方となり、また病を知り、弱きを負うてくださったからです。

 

イザヤ書53章1節から4節までを朗読。

 

ここにイエス様のお姿について語られています。2節に「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った」と、みるべき姿かたちがない。実に貧相な、貧弱な何の値打ちも価値もないもののごとく、この世に生きてくださった。神が人となってくださったのだから、余程どんな人よりも優れて、秀でて注目の的になりそうな、はるかに出来のいい人間になってくださったかというと、そうではなかった。馬小屋の飼い葉おけの中という、人ですらも有り得ない低い所にご自分を置いてくださった。神がそこまでご自分を低くしてくだったのは、どんな汚れた者ですらもイエス・キリストによって神の子供として、天につける神の国の住人へと、作り変えることができることの大きな証しです。だから、ここでイエス様は、2節の中ほどから「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」とあります。私たちと全く同じ悲しみを知り、病を知り、不安も知り、恐れも知り、すべての事を体験する御方、神が人となって……、そのイエス様を信じさえすれば、悩みと苦しみと失望落胆の中に生きている私たちをして、今度は神様につけるもの、神の所有、神の民と造り変えてくださいます。これは私たちが受ける最高の恵みです。

 

ヨハネによる福音書1章12節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。神様が私たちの内に力を注いで、私たちを神様の子供にしてくださった。それゆえ、神の子供にふさわしく、神様のほうが私たちを造り変えてくださる。神なる御方が人となって見る影もないほどの弱い小さな人となってくださったのです。その力をもって今度は逆に小さな罪と咎(とが)とに死んでおった者に力を注いで、私たちの内側も外側も全く作り変え、神の子供にしてくださる。これが、今味わっているこの地上の生涯です。ですから、私たちは今の私で良いわけではない。神様は神の子にふさわしく、名実共に内側も外側も清めて、神の性質に似る者へと造り変えてくださいます。神なる御方が全き人となったように、今度は人が全き神のかたち、神の性質に似る者へと造り変えてくださる。そのために、12節に「彼を受けいれた者」「その名を信じた人」と、これが条件であります。イエス様を受けいれる。イエス様を信じていく。

 

ペテロの第二の手紙1章4節から8節までを朗読。

 

4節後半に「それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」。私たちがこの地上にいまなお命を与えられているのは何のためか?それは、私たちがイエス・キリストを信じて、心の内が神の性質に似る者となっていくためです。神様と一体となっていく者と変えられていく。日本の伝統的な考え方の様に、人が死んで神になるというような意味ではありません。私たちは神にはなりません。しかし、神にいよいよ近い者へと引き上げてくださるのです。だから、その辺を間違わないでください。「お!キリスト教も神になる。おれも神になるのか」と。そうではありません。神に似る者と変えてくださる。これは私たちの最高の特権であり、神様が与えてくださる賜物です。だから、5節以下に「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」。これを一つ一つお話しますと長くなりますから省略しておきますが、まとめて申し上げますと、神様の御心を求めて、それに努めて従おうとすることです。私たちが神に似るものとなるためにイエス・キリストを信じます。では、信じるとどうなるか。神様が力を与えて、これまで私にはできなかった、私では不可能、私では有り得ない、私たちの性状性格の一つ一つを造り変えて、私に対して抱いてくださる神様の御思いが具体化する者となる。だから、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント 5:17)とあるでしょう。どのように新しくかと言うと、神の子にふさわしい者へと新しくなる。神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださったことによって、今度は私たちを神様の天につける者へと造り変え、名実共に天につけるものにふさわしいように、私たちの思い、心を、ことごとく清めて神様の御心にかなう者としてくださる。

 

だから、この一年の旅路を振り返って見ますと、いろいろなことがありました。考えもしないこと、想像もしないこと。そのたびにうろたえてみたり、嘆いてみたり、あるいは有頂天になって手放しで喜んで、ちょっと神様から離れたり、ということもあったかもしれない。いろいろなことがありました。しかし、その中で振るわれて、自分でない自分、神様を喜ぶ新しい自分が心の中に作り出されていく。新しい自分に変えられていく、これが恵みです。なお古き自分というものがあります。確かにわがままであり、自己中心であり、自分の利益を求め、自分の思いを遂げようとするかたくなさがある。しかし、もう片方にキリストの体、かたちが私たちの内に作り出されて、主を思う思い、キリストを絶えず思っていく心が芽生えてきて、何としてもイエス様の御心がどこにあるのかを知りたい、それに従いたいという願いがわいてきている。そうではないですか?それまで、かつてはそんなことはなにもなかった。「私だ!」と思っていたけれども、どういう訳か心にイエス・キリストが常に引っ掛かる。のどに刺さった魚の骨のごとく、何をしてもイエス様のことがチョロッと、チョロッと、心に引っ掛かるようになってきたら、これはシメたものです。イエス・キリストを信じていくとき、本当にそうだと思います。

 

この一年を振り返って、あんなことがあった、こんなことがあって、そのたびごとに、どうしてもイエス様を抜きには何もできなかったことが多くあったではありませんか。「何かしよう」と思ったときに、「主よ、イエス様!」という思いが私たちの心から離れない。「イエス様のことを考えないで、私の好きなことをしよう」と思った瞬間に、「うん、待てよ」と、心に差し込んでくる、思いをとどめるものがある。それを経験し始めたら、もう元に戻れません。後ずさりできない。前に行くしかない。新しい年が来ますが、どのように神様は私たちの内側から外側から造り変えて神の子供にふさわしくしてくださるか大いに期待したい。名実共に天につける者、永遠のいのちに生きる者へと変えてくださるのです。

 

ヨハネによる福音書1章12節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。イエス様を信じていくとき、神様が私たちの内に力となって、自分でもどうにもならない心を造り変えて、どうにも仕様のない性状性格を変えてくださっているのだと、自覚しておきたい。「私は今のこのままでいいんです。変わるところはどこもありません」と言うと、神様は手をとどめますから、「神様は私を神の子としてくださった。イエス様、あなたに似るものと私を変えてくださるのですか。そうでしたら、どうぞ、よろしく私を変えてください」と求めましょう。もっと変わるべきことがたくさんあるのだと知っておきたい。「いや、私は立派で品行方正、これであと変わるとなったら悪く変わる以外にない」などと、変に自慢しては駄目です。私たちは変わらなければならないことがいくらでもある。これは皆さんもよく分かっている。そこを神様が造り変えてくださるために、また「新しい事をなす」と言われる。

 

私たちはこの神様の前で、足からくつを脱いで謙そんになり、「主よ、あなたの御心のままに」と、神様を信じて委ねて、イエス様を信じて神の子となる力を体験していきたいと思います。新しい年を神様はどのように取り扱ってくださるか、神様の手に一切を委ねていきたいと思います。

 

ご一緒においのりをいたしましょう。