いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月20日 日々の聖言

2014年07月20日 | 日々の聖言

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」第一テサロニケ5:16-18 


神様が私達に願っておられることは、実に単純にして、簡単なことですが、実行するとなると

大変難しいことです。大きな、難しい事業や慈善を求められているのではありません。神様の

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聖書からのメッセージ(265)「主を知ろう」

2014年07月20日 | 聖書からのメッセージ

 ホセア書6章1節から3節までを朗読。

 

 3節「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ずあらわれいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

 私たちの信仰は単純に言うならば神様を信頼すること、信用することです。信用するに当たって、相手の事が何も分からないで信用することは有り得ません。人と人との間でもそうですが、相手がどんな人であるかを知らないと、初めのうちはどこかうさん臭く思いますね。着ている物とか、仕草とか態度とかいろいろなものを見て、「この人は大丈夫かな」とか、パリッとブランド物でも身に着けておれば「この人はひょっとしたら大丈夫かな」なんて、そのように見たところで、私どもは判断します。しかし、それはその人の本質ではない、中身ではありません。あくまでも外側の包んでいるものでしかない。だから、そのように見えるところで、相手を信用しても裏切られるのは当然です。期待外れだったということはしばしばあることです。ところが、出会ってお互いに相手を少しずつ知る。知るといっても、一晩一緒に食事をしたから相手のことは分かったとも言えません。いろいろな事態や事柄、一緒にそういうことをやってみる。工作をしてみたり、あるいは作業をしてみたり、事業を一緒にやってみたり、あるいは旅行をするのも一つの手です。普段親しい人と旅行をします。旅行は普段の日常とは違う局面、事柄が起こってきます。だから、そのような普段と違う状況で相手の本質と言いますか、本性が見えます。

 

だから「成田離婚」という言葉を聞きます。新婚旅行に行ってみたら、相手が思った人とは違っていたとなる結果です。外国などに行きますと、言葉も分からなければ食べるものも違うし、習慣も違う。周囲の人の様子も違う。頼りになるのはこの人と思っているけれども、その結婚した相手はどうも頼りにならない。だから、新婚旅行はあまり海外に行かないほうがいいと勧めます。私も旅行に行くと、よく家内から「こんなにできなかったの」と言われます。普段は格好をつけていても、その化けの皮がはげるのです。しかし、はげるものは早くはげたほうがいい。そして、有りのままの姿を見てもらって、「だから、この人は大丈夫だ」と信頼します。神様とても同じことです。

 

 私どもは神様のことはあまり知りません。一方、神様は私たちのことを知っている。不公平です。こちらは知られているのです。神様は造った方ですから、立つのも座るのも語る心の中のことも全部知っている。私たちがどんなにねじくれた者であるか、ひねくれた者であるかも知っている。また、私たちのいい面ももちろん知っている。もちろん、それは神様がご自分で造られた御方、造り主ですから。私たちは自分のことすらも分からない。自分がどんな自分であるかすらも分かりませんが、神様はご存じです。

 

では、それに対して、私たちはその造り主である神様を知っているかと言うと、知らないことのほうが多い。聖書を読むと、いちばん基本的な神様のご性質として、「全能」の神である、それから「全知」なる神。全知とはなんでも知っているという意味です。すべてを知り給う御方、また、「偏在」という言葉を使います。偏在とは、あらゆる所に居給う御方という意味です。神様は私たちが地球の果てでも宇宙の果てに行こうと、そこにおられる。黄泉に下ろうと、天に昇ろうと、ありとあらゆる所に神様はいらっしゃるという。これが神様のご性質です。これは神学などで、神様とはどんな方かを説明するとき、まずこの三つになります。「全能者」であるとか、あるいは「全知」であるとか、あるいは「偏在者」であるという。だからといって、それで何か分かったかというと、なにも分かりません。確かに、知識としては分かります。このたびの聖会でも教えられたように「神は愛である」「 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい(哀歌3:22~)」と言われますが、「本当に神様は私を愛してくださっているのだろうか」。「いつくしみ豊かな御方であり、また私たちをあわれんでくださる御方だ」と言うけれども、どこにどういう形であるのか。「忍耐強い」などと言われる人がいますが、それも限界があります。あるところまできたら堪忍袋の緒が切れるに違いない。「ひとつ試してやろうか」と、いろいろなことをやって「ほら!見てみろ!怒ったじゃないか」と試してみる。忍耐力の深さ広さ長さをいろんな事を通して知ります。神様のご性質を知るのも同様です。これは私たちに最も大切なことです。なぜなら知らなければ信頼できないからです。知るといっても、頭で知っているだけでは、心から信頼することができません。神様とぶつかって、取っ組み合いをして、「この方はこのような御方だ」と、いろいろな事を通して知るのです。だから、食事をしたり、あるいはいろいろな作業をしてみたり、旅行をしてみたり、生活を一緒にすることによって相手を知るように、神様を知るには毎日その御方と生活をしてみる。神様を前に置き、右に置いて、絶えず主を思う思いを持つことが大切です。そうすると、神様はどのように私を扱ってくださっているのか、どのような思いをもって、このことをしてくださっているかを知ることができます。

 

 今読みました6章1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」とあります。神様は私たちを打たれたりかき裂かれたりされるけれども、必ず包んでくださる、癒してくださる。そのように愛に満ちた御方だと知る。しかも2節に「主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる」。神様は私たちを生きる者とし、命を与えてくださる。「ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる」。死んだ者に命を与え、「み前で生きる」。言うならば、神様と共に生きる者としてくださる。確かにそうですね。人と人でも、生活してみていろいろな相手のことが分かってきます。そうすると「この人とできるだけ長くいたい」と思わせる人がいます。逆に「早く逃げ出したい」、「離れたい」という人もいます。神様が2節で「わたしたちはみ前で生きる」と言いますのは、言い換えると「わたしはもうこの神様と離れないでズーッとおりたい」と言い出すに違いない。これは神様の言葉です。どうして神様はこのようなことを言われるのか。6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」とあるように、神様から離れていた人がかえってくるのです。その前の5章から読むと、これはイスラエルの民のことですが、彼らを何とかご自分のものとして神様の御心にかなう者にしようとするのですが、彼らは勝手に神様を離れて行く。何度となく警告を与えますが、馬耳東風で、聞く耳を持たない。ですから、神様は、言うならば、忍耐がもう限界となり、5章15節「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う。6:1さあ、わたしたちは主に帰ろう」。ここで神様は「もう、勝手にさせる」といいますか、イスラエルの民に「それはお前たちがしたいのならしてみたらいいじゃないか。私はしばらく口もはさまない、手も出さない、黙って見ておく」と、これが神様の御思いです。では、見ているといって、神様はイスラエルの民を「お前たちはもう知らんぞ!」と放り出したのかというと、そうではなくて、彼らがやがて行き詰る。自分本位のことをやっていたら、必ず悩みに遭う。でも、あの放蕩息子のように、その時、「あっ」と気がついて本心に立ち返って欲しいと、神様は願っている。

 

放蕩息子はお父さんの許(もと)で幸せであったはずなのに、自分の財産をもらってさっさと出て行って、使い果たして飢饉(ききん)に遭い、食べる物もなくなる。豚の餌すらも欲しくなるような、誠に惨めなあわれむべき者になった。神様はそうなるのを待っている。そうなって初めて放蕩息子は「本心に立ち返って」、いったい自分はどうしてこんな所にいるのだろうか。どうしてこんな惨めな生活を送らなければいけないのかと、つらつら考えたとき、「私はわがままを言った」と、そこから考えてみると、お父さんに対して罪を犯してしまった。そして、はるか郷里を思うと、そこでは雇い人ですらもっと豊かな恵まれた生活をしている。本来息子である私がこんな惨めな生活をしているなんて、何と情けないことだろうか。そこで本心に返って「お父さんの所へ帰ろう!」と言ったのです。これは幸いなことです。彼は「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人同様にしてください」と、お父さんの所へ行って言おうと帰りました。ところが、お父さんは「そうなるに違いない」と待っていたのです。そのうち行き詰って帰ってくるだろうと。だから、お子さん方が親の言う事を聞かずに勝手なことをしたら「そのうち神様がしてくださる」と信じたらいい。「そのうち痛い思いをして帰って来るだろう」と。そこまで親の覚悟ができればいいけれども、人の親は「そんな可哀そうな、そんな痛い思いをする前に何とかしてやろう」と、老婆心が先走るからよろしくない。神様は「もう、放って置こう」と、それで放蕩息子が帰ってきたとき、お父さんは黙って非難する言葉も、とがめることもしないで、喜んで彼を迎える。

 

だから、5章15節に「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う」。彼らは悩みに遭って、「やっぱり神様の所へ帰ろう」と。「『さあ、わたしたちは主に帰ろう』と言って帰って来るだろう」と、これは神様の愛の願いが語られているのです。6章1節から、かぎ括弧で引用の言葉になっていますが、これは神様の言葉、神様の御心です。こうあってほしいと願っているのです。だから「私たちも早く神様の所へ帰ろう」と、これが大切です。そして、そこで何をするか。神様の所へ帰って、神様がどのように私たちをあしらってくださるかを知るのです。そのあとに「かき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださる」とあるように、神様は愛して、顧みて許して、私たちに新しい使命と命と力を与えてくださることです。1節以下の「かき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださる」「ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる」との言葉は、もっと別の言い方をすると「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3:22)ということです。神様のいつくしみ、あわれみがどんなものであるかを知ることができる。3節に「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。もっと神様を知りたい。神様の思いを自分のものにしよう。そして、神様を信頼する者に変わっていくことです。これが、神様が願っていることです。

 

今年も、いろいろなことに出会うに違いありません。神様はいろいろなことを起こされます。生活の中にいろいろな問題を与えるのは、神様が私たちに「もう一度、主に帰ろう」と、そのことを切っ掛けにして、神様の許(もと)に帰ること、そして「主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」と、問題や事柄を通して神様を知ってほしいというのです。信仰暦何十年というベテラン、超ベテランの方ばかりですから、神様のことはほぼ知り尽くした、もう卒業免許証をもらってもいいぐらいという方もいるかもしれませんが、神様を知り尽くすことは到底できません。神様ははるかに大きな方です。自分の生涯を賭けても、一生涯それに費やしたとしても、神様を知り尽くすことはできません。

 

コリント人への第一の手紙8章1節から3節までを朗読。

 

2節「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」。「私はそろそろ神様を知り尽くした。神様だったら、こうやろう、ああやろう」と言えるぐらい自分は知っていると思いますが、しかし、ここにありますように、何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないことのいくらも知っていないのだと。誠にそのとおり、謙そんになって「神様、私はあなたのことをまだ知りません」と認めましょう。知らないものだから信用できないでいる。深く知れば知るほど「大丈夫、この神様がいらっしゃるなら、この御方が必ず善いことをしてくださるのだ。御心をなしてくださるのだ。私たちの思うよりも願うよりも、もっと素晴らしいことをしてくださるのだ」と言えますが、どこかで疑っている。「いや、先生がそう言うから、そうかも知れんけれども、どうも神様だけに任せておくわけにはいかない。私が何とかしなければ……」と、そんなことを思うから、なかなか神様を深く味わう、知ることができない。神様は何とか自分を知ってほしい、神様の願いはそこにあるのです。神様は、私たちが神様を深く知り、神様の愛に触れ、神様の許しと御愛をしっかりと信じて、「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8)「知りかつ信ず神は愛なり」と信じて、心から主を信頼する。「一切合財、神様あなたにささげて」と、「神様に任せておけば言う事なし、大安心です」と言えるまでになってほしいのです。ところが、私たちはわずかばかり神様を知ったら「知った。分かった、分かった。これで大丈夫」と言う。ところが、次なる問題が起こったらうろたえる。だから、私たちは生きている間、ズーッと神様を知るために生かされているといってもいい。神様のご愛に触れ、神様の御思いをしっかりと悟るために生かされているのです。神様は到底人が想像つかないぐらいの大きな方ですから、「これが神様だ」と思っても、また違う神様の面がある。また「ここがこうかな」と思ったら、そうでないところもある。それこそ万華鏡のようにいろいろな色合いと形とを持っているのです。だから、私たちは少しでも多く、少しでも深く、少しでも高く、神様を知るのです。エペソ人への手紙にありますように「愛に根ざし愛を基として生活することにより、18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解する」(3:17~)。言い換えると、神様の御性質「神は愛である」をできるだけたくさん知る。知るには、病気をしたり、家族のうちに何か問題が起こったり、不安や恐れを起こすいろいろな事柄があったときは、「早くそれを解決しよう」という気持ちのほうが先立ちますが、神様がそのことを置いている目的は、早く解決して「ヤレヤレ、安心した」ということになる前に、「問題が起こったぞ。このことを通して神様はどのようにご自分をあらわしてくださるか。私はこのことを通して神様を知るのだ」と、切に知りたいと願うこと、これが目的なのです。だから、人生にさまざまな問題や悩みがあるのは、その一つ一つを通して、神様がご自分を私たちにあらわそうとなさるからです。だからそれをつかみ取っていくことが大切です。問題が解決するとかしないかとか、そんなことは死ねば終わるのですから、この短い人生でそんなことを悩む必要はない。どんな病気だって死んだらそれで癒されるのですから、心配はいらない。子供のことだって、皆さんが先に死んでしまえば、その悩みはなくなるのですから、実に簡単です。大切なのは、そういうことを通して、神様はご自分を知ってほしいと思っていることです。だから、今年ばかりでなく、生きているかぎり「主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。一つ一つの問題の中で「この神様は信頼にたる方である。神様は慰め主です」、あるいは「神様は力を与えて、私ができないと思ったところに力を与えてくださいました。主は力です」と言えるようになりましょう。また神様は、前にこういうことをして、こういう経験をしたから、こういう問題で、これでうまく行ったからといって、次も同じことはなさらない。私たちが神様はこういう御方ですと知ったら、では、今度はこれを知ってほしい、次はこの問題の中でこのことを知ってほしい。神様が知ってほしいと願っている課題は山積です。私たちはそんなこととはつゆ知らないで、ただ目先の状態に左右され、「早く何とかしてほしい、これを解決して、早く安心させてほしい」と、そちらばかりに行くから、神様は繰り返し私たちに問題を与えなさる。知れば知るほど、神様を信頼する心がだんだん増えていきます。バームクーヘンというお菓子があるでしょう、年輪の形をしたものです。私たちの心がバームクーヘンの様にだんだん積み重なっていきます。いろいろなこと、あのときのこと、このときのこと、この問題のとき、そのようなことを通してだんだんと神様に対する信頼というバームクーヘンが太っていくのです。そうすると次に問題が起こっても、そんなに時間が掛からなく乗り越えて行けます。神様に信頼しきってしまうから、心が動揺しなくなり、何を聞いても、何を見ても泰然自若(たいぜんじじゃく)としておれる。耳が遠くなって聞こえないという手もありますが、神様を心から信頼するのです。

 

詩篇119編65節から68節までを朗読。

 

この詩篇を歌った記者は、何か大きな悩みにあいました。ところが、悩まない前は「こんな神様を信じても、信じなくてもいいじゃない、神様を信じなくても何とかやれるのではないか」と、そのように迷っていたのです。67節「わたしは苦しまない前には迷いました」と。ところが、何かの大きな苦しみに遭って初めて65節に歌われているように「あなたはみ言葉にしたがってしもべをよくあしらわれました」と言い得たのです。神様はみ言葉に約束されたように真実に応えてくださる方だと、彼はその悩みを通して知ったのです。悩まなかったときは知らなかった。この人にとって、悩みに遭ったことは大変大きな恵みです。神様の御思いを深く知ったからです。私たちでもそうです。悩みそのものには恵みはありません。無いほうがいい。世間でも多くの人がそう言うように、「家内安全」「無病息災」「交通安全」「何にも不幸なことが無ければいい」という願いを持ちます。確かに無ければいいようですが、しかし、そうだったら迷い続けます。「苦しまない前には迷いました」と彼は言っている。ところが「苦しみ」は嫌な事ですが、主が与えてくださったと信じて、その問題の中で主を信頼することを努めてみる。そうすると、65節にあるように「主よ、あなたはみ言葉にしたがってしもべをよくあしらわれました」と言える。「神様、あなたは真実な御方です」と体験することができる。そればかりでなくて、68節に「あなたは善にして善を行われます」。「あなたは善にして」とは、「神様、あなたはトコトン善い御方」、底なしに善い御方でいらっしゃる。しかも「善を行われます」。神様は私たちを懲らしめ、苦しめ、悲しませ、ただそれだけのためではないのです。その体験を通して、その悩みを通して、神様と出会って、神様と取っ組んで、その中から主に信頼し始めて、「神様はよい御方だ。本当に私のためにいちばん善い事をしてくださる。愛に満ちた御方でした」と言えるのです。今、私にこういう問題を与えられたのは、私に対して神様がもっと自分を知ってほしい、神様のことを求めてほしいと願っているに違いない。神様がこのことを起こしているのだから、神様は私に何を言おうとしているのだろうかと、主を求めることです。これが勝利の秘けつです。ただ問題や事柄が早く解決するようにと焦らないで、じっくり腰を据えて神様と相対して、真剣に迫っていきたいと思います。そうすると、神様は「わたしはお前をこんなふうに扱っているんだよ」と知らせてくださる。すると私達も「そうだった。神様、あなたは大丈夫です」と信頼する。信頼すると神様はもっと私たちを恵もうとしてくださる。また更に恵まれると、今度は神様が私たちを信用してくださる。神様がモーセを信頼して、モーセに対して文句を言う人を神様のほうが蹴散らしてくださる。そればかりか「わたしの心にいちばん近い人である」と、神様はモーセに御思いをきちんと教えてくださる。私たちをそこまで引き上げて、神様の懐刀にしたいのです。ところが、私たちはそうとも知らずに、ほかのことばかりに心を向けるから、せっかくの恵みを頂けない。

 

71節に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と言われています。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」と、こんな矛盾したことが言えるとは、これは神様を知らなければ言えません。「いろいろなことを通して、いま私は心から神様を信頼して揺るぎません」と成り得たら、これが神様の求めている姿です。ですから、72節に「あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです」と、そうなったら神様のお言葉を聞くことが安心になる。神様のお言葉を聞きさえすれば、心がピタッと神様にくっついて揺るがなくなる。そうなると、この世の事情や境遇、お金であろうと何であろうと、そんなものはどうでもいい。「天にも地にもわが慕う御方はあなた以外にありません」と、神様だけを喜ぶことができる者へと変わっていく。これが、神様が求めていることです。

 

創世記32章22節から29節までを朗読。

 

これはヤコブが伯父さんラバンの家に居候して、そこで長年働きました。ヤコブが両親の家を出た時、あの荒野で一夜野宿しました。そのとき神様は、「わたしはあなたを祝福して、あなたと共にいて、やがてあなたをこの所へ連れ帰る。私はいつもあなたと共にいる」(創世記28章)と、約束をしてくださった。彼は荒野で野宿したとき、初めて「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世 28:16)と喜んだのです。恐らく、彼はそのまま両親、イサクとリベカの所にいたら、不自由の無い生活をしたに違いない。ただお兄さんとの大げんかのために、彼は家を出なければならない。しかし、彼が親の家を離れたからこそ、神様は彼にご自身をあらわしてくださった。「私がどこに行くにも『あなたと共にいてあなたを守る』と、神様は約束してくださった。そして、共にいてくださる」と、彼は知ったのです。その後、伯父さんのうちへ行きます。神様はヤコブを祝福してくださったのです。伯父さんの家で二人の娘と結婚して、子供をもうけ、財産である羊も増えました。やがて彼は神様のみ声を聞いて、カナンの地へ戻ろうと決心をします。彼は自分の家族と財産のすべてをラクダに積んで、旅をして帰って行った。ところが、郷里にはけんか別れをしたエサウというお兄さんがいました。そのお兄さんが今もって恨みつらみ、自分に対して悪意を持っていないかという恐れがヤコブにありました。「どうしたものか」と思いながら帰って行く。それで彼は自分の持ち物、一個連隊を三つぐらいに分けまして、最初はしもべたちを、その次は羊たちを、そしていちばん最後に自分と家族がヤボクの渡し、ヨルダン川を渡ったのです。渡って、彼はそこにとどまって家族だけ先にやったのです。お兄さんがまだ怒っていて「ヤコブをやっつけよう」というのだったら、まず、僕たちと争いになるだろう。その次は自分の財産を取られるかもしれない。その次に家族を殺されるかもしれない。その時はもう逃げようと思って、家族まで自分の盾にしました。「ヤコブは本当に身勝手な人だな」と思いますが、そうやって自分ひとり様子を伺いながら野宿をしていた。その時、一人の人が彼の所へやって来た。神の使いだったのです。24節に「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした」。そこで神の使いがヤコブを捕らえて組み伏せようとした。ヤコブも負けまいと思って一生懸命に誰か分からないけれども、敵のような感じがするからそれと戦ったのです。組討ちをして争った。神の使いのほうが負けそうになって、大慌てでヤコブのもものつがいを手で触ったら、恐らく脱きゅうしたのでしょう。突然足に力が入らなくなった。ヤコブは力をなくしてしまった。それでも彼はしがみついて相手をさらせない。その人が「あなたの名はなんと言いますか」と尋ねる。「私はヤコブです」と。すると「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい」と名前を変えてくださった。「もう負けた。お前に祝福をやるよ」と、神様の使いは言った。それでもヤコブは離さないで、29節「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」と求めました。「名を知らせる」、「神様がどのような御方かご自身をあらわしてください」ということです。“名は体を表す”神様の名前を知りたい。神様の名前、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト34:6)と、これも神様の名前。神様はどのような御方かを知りたいというヤコブの切なる願いです。それまで知らなかったわけではない。昔、お兄さんを避けて出て行ったとき、「わたしはあなたと共におる」と言ってくださった神様であることは知っていましたが、もっと深く、主の何たるかを知りたい。だから、ここで組討ちをするといいますか、神の使いを離しませんでした。「あなたの名を知るまでは私は離しません」と。

 

29節「ヤコブは尋ねて言った、『どうかわたしにあなたの名を知らせてください』。するとその人は、『なぜあなたはわたしの名をきくのですか』と言ったが、その所で彼を祝福した」。負けてしまったのですが、名前は明かさなかった。しかし、祝福を与えてくださった。私たちも「神様、あなたはどのような御方ですか。こんな問題を与えていますけれども、何を私にしようとしているのでしょうか。あなたは何者なのでしょうか」。「せつに主を知りたい」、ただ「この事を解決してください」と言うだけでなくて、神様がどのような御方なのか、その御方にどのように相対すべきか、どんな態度であるべきか、そういうことをこと細かく知るのです。それが私たちに求められていることであり、またそれが私たちの大きな恵みであり、祝福なのです。このとき、とうとうヤコブはその名前を知ることはできませんでした。30節に「そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、『わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている』」。ここでヤコブは何としても祝福を受けたいと切に願って、もう足が動かず、力も入らなくて、ぶらぶらの足ですが、彼は神の使いにしがみついたのです。そして、神様を幾分知ることができました。しかし、これですべてではありません。お兄さんエサウも何十年と離れていたのですから、もうそういう怒りは消えていました。「一緒に住もう」と誘われましたが、それぞれ分かれて住むことにしました。そのあと、ヤコブに神様が「もう一度神様の前に来るように」と求めました。そのとき偶像の神々になじんでいたといいますか、そういうものと交わっていた部分がありましたから、彼らはそれらを全部捨てて、一番最初に神様にお会いした所、ベテルに行くのです。そこで神様を礼拝したとき、神様は「わたしは全能の神である」(創世 35:11)と、ご自分をあらわしてくださったのです。神様は全能者であって、私たちが何一つ手を加えることも引くこともいらない。神様は初めであり終わりであり、アルパでありオメガでいらっしゃる。すべてのものの根源でいらっしゃる。このことを徹底して知るとき、彼は手放しで神様に信頼する者となりました。それからのヤコブの生涯は神様の祝福に満ちたものとなりました。

 

初めのホセア書6章3節「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。神様のことを徹底して深く知りますと、信頼していきます。「この御方だから大丈夫」。ヤコブは「全能の神」と知ったとき、「この神様がついていらっしゃるから、何があっても恐れません」と言えるのです。神様をそこまで深く、「まことに全能者、掛け値なし、100パーセント信じます。あなたに握られた者です」と言い得るところまで、いろいろな問題、事柄を通しながら、ご自身をあらわそうとしてくださるのです。そのあとに「あしたの光のように必ずあらわれいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」とあります。必ず神様は求める者にご自身をあらわしてくださいます。神様は、春の雨、冬の雨のように臨んで、地を潤し、豊かにするように、私たちにご自身を必ずあらわしてくださるのです。

 

切に主を求め、主を知りたい。主を知る者、知って信頼し、信じて、信仰に立って生きる者となりましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。