いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月18日 日々の聖言

2014年07月18日 | 日々の聖言

「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた。

世界は堅く立って、動かされることはない。

主は公平をもってもろもろの民をさばかれる』と。」詩篇96:10 



現在の世界情勢、また国内の様々な状況を見ると、確固とした中心が失われて、

混沌と無秩序の中に漂っているようです。私達の心も同様に定めなく、上下左右に

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聖書からのメッセージ(263)「主は我が牧者」

2014年07月18日 | 聖書からのメッセージ

 詩篇231節から6までを朗読。

 

 1節「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。

 この詩篇23篇は、慰められ、力付けられ、喜びを与えられる箇所であります。今年(2008年)の礼拝は今日で終わりになりますが、数日もすればまた新しい年が始まります。この最後の御礼拝を迎えて、どの様に神様に感謝すべきだろうかと、自分自身のことを振り返ってみるとき、どうしてもこの詩篇23篇になりました。

 

 表題に「ダビデの歌」と記されています。ダビデという人はイスラエル国の王になった人物です。位人臣(じんしん)を極め、出世頭の見本の様な人であります。決して生まれ育ちは王家でも、あるいは貴族でもない。ただ平凡な羊飼いで、しかもいちばん末っ子です。いてもいなくてもいい様な人物であったわけです。彼が神様から目を留めていただいて、祭司サムエルによって油を注がれる時、彼は野にあって羊の群れを飼っていました。お兄さんたちがまず神様の前に候補者として出されました。祭司サムエルが「この人物でしょうか?」と、神様にお尋ねしたら「違う」と、全部断られてしまって、「ほかに息子はいないか?」と言われて、ハッと気がついたのがこのダビデだったのです。ですから、ダビデは何の取り柄のない者であることを骨身にしみて自覚した人物です。ところが、ただ一方的な神様の「召しと選び」、神様が目を留めてくださって、彼を引き出されたのです。

 

では、彼にとって幸いな人生であったかというと、考えてみると、確かに王になりましたが、それゆえにこそ負わなくてもよい苦しみや悩みを負わざるを得ませんでした。彼はお父さんの羊を飼って平々凡々ではありますが、平和で穏やかな、事のない日々を過ごしていたに違いない。ところが、ある日突然神様から召されて、事もあろうに王様に任命される。といって、そのときはまだ王様がいたわけです。サウル王様が君臨していました。次なる王様として彼が指名されたのですが、サウル王様にとっては面白くない、心穏やかではない。自分の意向に反して、何の相談もなく勝手に後継者が選ばれたのですから。イスラエルの人々も知らないうちに彼が任命された。その事を漏れ聞いて知ったサウル王様は、怒り心頭に発して、何としてもこのダビデを亡き者にしようと、その命をねらいます。そのようなとんでもない生涯に彼は引き入れられてしまったのです。祭司サムエルに任職の油を注がれて、何年にわたってか具体的な年数は分かりませんが、それから後サウル王様が亡くなるまでの間、ダビデが次なる王様でいたのですから、サウル王様としても居心地が悪い。そのため、追われる身となり、命を狙われ右往左往する。ユダの荒野をあちらへ逃げ、こちらへ逃げ、隠れ潜んで、ひと時も休まる暇もない様な日々を過ごしました。その悩みと苦しみの真っただ中に彼は置かれたのです。

そのような事態の中で歌った詩篇が22篇だともいわれています。ですから、22篇、23篇、24篇と、これはダビデの三部作であります。ダビデがその悩みの中で主を求め、何としても主の力を求めつつ生きたのです。主を呼び求めた思いが22篇のほうに記されていますが、この23篇は、その様なすべての悩みから解放された時です。彼は自分の生涯を振り返って歌ったのが23篇ではないかと言われています。更に24篇は彼が名実共に王の位に即位したとき、心から神様を褒めたたえて歌った詩篇ではないかとも言われています。ですから、22篇、23篇、24篇と、ダビデの信仰の足跡を連続して歌っているものと考えられます。その中で格別23篇は、彼が命を狙われながら休まる暇もなく逃げ惑っていたその時代から、やがてサウル王様がペリシテ人との戦いの中で討ち死にして、やっと名実共にダビデは王として神様が立ててくださった時のものではないでしょうか。といっても、まだ国内は混とんとしていたのです。多くの国民が先の王様を慕っていました。戦争でサウル王様が死んでしまったから、すぐさま「そうか。じゃ、ダビデを王様に」という話にはなかなかいかない。それから何年かの間は王ではあるけれども、いろいろな敵が常に彼の失脚を狙っていました。後にシメイの記事がありますが、サウル王様の家族、一族郎党は自分たちこそ正当な王位継承者である。言うならば、サウル王様の息子や娘、その親族は当然次なる王だと思っておった。しかも、サウル王様が王であった時代、王の家族として自分たちもいい目を見たわけです。それが一夜にして落ちぶれてしまう。そのような事態ですから、ダビデもたやすく、やすやすと心落ち着いた王様の身分を楽しむわけにはいかなかった。ですから、サムエル記下の1章から5章ぐらいのところを是非お読みください。不安定な時代で、ダビデはいろいろな人々を説得して、支持を得ることによってやっと地位を確立する。その時、二回ほどペリシテ人と戦います。その戦争に大勝利を収めたことによって、人心を掌握すると言いますか、イスラエルの国民の心をつかんでしまうのです。そして初めて全国制覇、国を治める者となっていくのです。しかし、王になったからと喜んでばかりではない。神様から彼は大変な責任を負わせられましたから、うれしい、うれしいで手放しでいるわけにはいかない。彼にとっては大変な苦しみです。自分に力のないことをよく知っています。ですから、神様に頼る以外になかった。そして、これから王として神様から与えられた使命を果たそうとするときに、自分の羊飼いの生涯を振り返って、改めて自分はどういう者であったかを思い、感謝して歌ったのが23篇です。

 

1節「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。彼は神様にどのように感謝しようか、神様に対してどのように自分の喜びを言い表そうかと思いました。そのとき、どう考えても言葉がないのです。言葉に言い表せないほどの大きな神様のご愛と恵みを自分は頂いてきた。それをどのように言い表していいか分からないと思ったとき、いちばん身近なのはユダの野にあって羊の群れを守った羊飼いとその神様とを結び付けて感謝しました。神様が羊飼いとなってくださった。彼は自分がかつて守り導き養っていたあの羊の一匹であること、この関係を通して、神様が自分にとって、どのような御方であるかを告白することができました。

 

ですから、1節「主はわたしの牧者」ですと告白したのです。神様、あなたは私の羊飼いですと。羊を飼うことは、日本の社会ではあまりなじみがありません。羊を見るといったって、犬や猫のように羊を飼っている人はいませんから、どこか動物園にでも行かないと見られません。だから、その様子がよく分かりませんが、その当時のユダの国の人にとって、羊を飼うことは日常茶飯なこと、生活の一部分でしたから、このたとえは身にしみてよく分かる。羊は羊飼いがいなければ命を保つことができない。羊には自分で餌を捜し求める能力がありません。キリンの様に長い首があって、ズーッと遠くを見回して、「あそこに餌場があるぞ」、あるいは「あそこに豊かな牧草地があるぞ」と見分けるわけにはいかない。といって、肉食はできません。草食動物でありますから草を食べる。しかも、一匹だけだったらいいですが、百匹も千匹もと、多数が群がって、同じ場所に置いてご覧なさい。その周辺を一月もしないうちに食べ尽くします。青々と茂った牧草地であっても、何日もしないうちに地面が見えてくる。赤茶けた土だらけになってしまう。だから、定期的に移動させて行かなければならない。牧草地を一ヶ月なり、あるいは何日間か分かりませんけれども、じわじわと群れを移動させて行く。これをするのは羊飼いです。羊飼いが餌場や水場をよく知っていて、一年をかけて春夏秋冬を通じて羊をあちらにこちらにと導く。先祖代々受け継いできた嗣業(しぎょう)の地といいますか、自分たちが羊を飼う地域を区別して持っていたのです。だから、ダビデも詩篇16篇に「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」と歌っていますが、羊飼いが羊を飼う場所を先祖から受け継ぐことは財産であり、それが自分の生活の糧でもあり、命です。だから、羊にとって、羊飼いがいなければ到底一日たりとも生きておられない。様々な外敵が襲って来るでしょう。オオカミや何かと猛獣もやって来るでしょう。しかし、それを防ぐ力がない。誠にダビデは自分自身を振り返ってみて、何の力もない、知恵もない、何かをするすべも知らない自分である。それが今こうして生き永らえることができた、ここまで来ることができた。サウル王様の追っ手の中にあって、命を奪われんとする直前に、スッと神様が自分を助けてくださった。そういう中で、主が牧者となって守り導き、私は今ここに命を与えられている。

 

私もこの一年の旅路を振り返ってみて、誰がこの事をしてくださったか。これは神様が羊飼いであって、私をここまで支え守り導いてくださったと言う以外にないのです。私に知恵があるわけではなし、力があるわけでもなく、能力があるわけではありません。この一年、いろいろな事がたくさんありました。思いがけないこと、自分の健康上の問題、家族の問題、友人知人の中にも、あるいは地域社会の中にも、この日本の国の中にも本当に事の多い一年だった。そんな中にあって、今日まで私たちが命を永らえるために、どれほどの努力をしたのですか。どれほどの知恵を働かせたから、こうして安穏(あんのん)と、平安に今日を迎えることができたかと考えると、私たちは何にもしていない。ただ一方的に主が、羊である私たちを飼う御方となってくださって、恵んでくださったからです。

 

今の世の中のいろいろな事を見ていると、よく今日もこうして生きておられると思います。食べるもの、着る物、住む所、何一つ乏しいことがない。欲を言えば「もうちょっと、あれも欲しい」とか「これも欲しい」とかあるでしょうが、しかし、どうですか、皆さん、世の中は失業して、明日食べる物もないかもしれない、住むところも追われて、この寒空に行き場を失う人たちがいる中で、どうして私が行き場を失わないで、今日こうしてぬくぬくとして、のんびりしておられるかと思います。「いや、それは私が若いときから働いて年金があるからですよ」と言われるかもしれませんが、その年金だってこれは分からない。いつおしまいになるか。それが証拠に、経済はこの8月ぐらいまで上り調子で未曾有(みぞう)の大繁栄を誇っておった。ちょっと傾き始めて、9月10月11月と沈んで、今や失業者が世にあふれて出てくる。また来年に入ったらもっと悪くなるかもしれないと、今朝もニュースなどで言っていました。いろいろな予想を立てる人たちが「これよりももっと悪くなります。覚悟をしなければいけません」と。では、覚悟をして私たちは何ができるかと言われても、お手上げです。でも、今こうして、今日生きておられる、生活が与えられる。まさに私たちの自分の力ではない、見えない神様が牧者となって、牧の羊である私たちに目を留めて、慈しんでくださる。今日に至るまで、御手をもって導いてくださった。

 

ダビデが「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と言いました。飢えることなく、寒さに凍えることなく、また健康を与えていただいて、こうして霊にも肉にも乏しくない。そのような物質的なものばかりでなく、霊的な意味においても、私たちの心を楽しませてくださった。「あれが心配」「これがどうなるだろうか」「あれはこうなるだろうか、どうなるだろうか」と訳が分からないことばかりでした。私たちは知恵も力もありませんから、先も見通せません。今日一日のことすら分からない。明日のことすらも分からない。そのような私たちが不安の中、心配の中にあるとき、恐れていたとき、神様はいつも私たちのそばにいてくださって、慰め力づけ、楽しむ命を与えて、喜ぶことができるようにしてくださった。私は今しみじみと「主はわたしの牧者」、神様は私の主です、私を養う御方ですとはっきり言うことができます。

 

私ががんの手術を受けるために入院をしていたときでした。いよいよ明日手術というとき、この先どうなるだろうかと考えますと、やはり眠れない。そのときに与えられたのがこの23篇です。この詩篇を覚えていますから「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる…」と、眠れないままに何度となく繰り返していたとき、「主はわたしの牧者。そうだ。神様は私の命の源でいらっしゃる」。主がいらっしゃらなければわたしの命はないのであって、主が守ってくださらなければ、自分の力ではどうにもならない。医者だってそうです。どんなに「名医」と言い、「神の手」と言われる人でも、決して人の命を一分でも二分でも長く生き延びさせることなどできないのです。神様の許しがなければ、事が起こらない。その代わり神様が守ってくださるなら、決して死ぬことはない。私はその時、このお言葉を通して「主はわたしの牧者」、私の命の源でいらっしゃる御方と心に受け止めました。そのとき、今まで不安だった思いが消える。そして安心になる。「神様に任せる以外にない」、もう任せる以外にないどころか、そもそもそれしかなかったのです。ないくせに偉そうに、自分で何とか、何か良い知恵はないだろうかと思い煩う。そこに不安と恐れがわいてくる。この一年も、この主が命となって、羊飼いとなって、いろいろなことの多い中でありましたが、ここまで導いてくださった。そう言うほかはありません。こうして皆さんの顔を見ていて、あのこと、このこと、いろいろなことを思います。そして、今ここにこうしてあること自体、どれほど想像していたでしょうか。「今日、こうなることは分かっていた。この一年の最初からこうなるだろう、自分はこのような一年を送るに違いない。年末になったらこんなに喜んでいるに違いない」と、誰が想像してすることができたでしょうか。私たちは何にも分からない。無知蒙昧(もうまい)です。私たちは明日のことも分からない、今日のことすらも、これから先のことも分からない。来年のことなんてましてや分からない。分からないのに、どうして生きておられるのだろうか。それは主が羊飼いとなって、知恵もない、力もない、戦う牙も、あるいは角もない、その様な羊を、羊飼いでいらっしゃる神様がちゃんと守り導いておられる。ですから、2節「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。神様は私どもに必要な物を必要な時に与えてくださる。そしていろいろなことの中から「わたしが主であるよ」「わたしがあなたと共におるではないか」と、教え導いてくださる。

 

そして、3節「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。2節では私たちに物質的なすべての必要を神様が備えてくださること語り、3節は同時に霊的な魂の恵みをもって私たちを生き返らせてくださる。私どもが喜べない、感謝できない、つぶやいているとき、何一つ物質的な外側の事情境遇には不足はないのだけれども、何か心が高ぶって、高慢になっているとき、神様は私たちの魂に新しい命を吹き入れて、私たちを生き返らせ、神様の御心にかなう者へと、導き返してくださる。そのために、この一年たびたび礼拝があり、各集会があり、御言葉に接して魂を新しくされてきたのではないでしょうか。そればかりでなく、みなさんが日々に聖書をひも解いて、そこで主の前に出ては神様から示され、導かれて自分の歩みを点検し、心の思いを新しく造り変えられて、正しい道へ、神様の御心にかなう者へところびつまろびつでありますが、イエス様の御声に従うことができた一年ではなかったかと思う。どうでしょうか?本当に感謝というほかはありません。

 

また4節に「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。まことに「死の陰の谷」、望みのない、死ぬかもしれない。ひょっとしたらこれがどういう問題になるか、そういう事態の中に置かれます。そのときにも神様は羊飼いとなって、私たちといつも共にいてくださる。羊を飼う場所は必ずしも平坦な所ばかりではなかったでしょう。丘陵地帯ですから険しいがけがあるでしょうし、道なき道を通って移動して行かなければならない。その深い谷間を横に見ながら、危険な中で羊飼いの声を聞きながら羊はついていく以外にないのです。私たちもそうですね。思いがけない、自分でも考えなかった病気のために突然入院を強いられて、悶々(もんもん)としていたときもあった。ひょっとしたらもうこのまま起き上がれないかもしれない、あるいは命を失うかもしれない。そのような「死の陰の谷を歩むとも」、そこで主を呼び求めることができる幸い。主が羊飼いとなって先立ってくださる。だから「わざわいを恐れません」、どんなことが起こって来ようとも、主が共にいてくださる。羊飼いが一緒にいてくださる。たとえ足を踏み外しそうになっても、そこで助けてくださる御方です。主が私たちと共にいて、私たちに声を掛け、御手をもって支え導いてくださる。

 

4節の後半に「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」。羊飼いが長いつえを持っている絵をよく見ます。そのつえは先のほうが傘の柄のように丸くなっていて、迷い出ようとする羊の首を引っ張るのです。羊は訳がわかりません。自分の行きたい所へ行こうとすると、グッと引っ張られるから、きついですし、苦しいです。しかし、もし好きにさせていたら迷い出てしまうし、どういう危険に遭って命を失うかしれない。だから、羊飼いはサッと引っ張る。あるいは時に仲間げんかしたり、群れを外れていくやつの頭をつえでたたくかもしれない。いまイエス様は私たちの羊飼いとなってそのようにいじめるのかと、そうではありません。イエス様は私たちに「そこへ行ったら危ないぞ!」と、がけっ縁のところで止めてくださる。そのとき苦しい、一瞬つらい思いをします。しかし、それは私たちの命を守る神様の愛のわざであります。

 

一年を振り返って、嫌なことつらかったこと、苦しかったことなど、「どうして私がこんな目に遭わなければいけない」と思う様なことがありました。実は、イエス様が「わたしの所へ帰って来なさい」と引っ張ってくださったのです。つえで首をグッと引いてくださる。そのような中にあったとき、初めは「どうしてこうなる!」と言って、落ち着きませんが、スーッと嵐が静まったとき「ああ、間違っていた。このまま自分の思いどおり我がままな道を行っていたらとんでもないことになるはずだったのが、この問題、この事が起こったためにそれをとどめられた」ということが、どれほどあったか分からない。「自分の思うままに、願いのとおりに事が行けばいいのに」と思って、我を張ります。しかし、そこでイエス様が「それは駄目だよ。そこは危ないよ」と警告してくださる。それは主から離れていくところであり、羊飼いから離れたならば、私どもは命を全うすることができない、失うのです。だから、つえとむちをもってそうならないように、高慢になって神様から遠ざかることのないようにと、事を起こしなさいます。だから、苦しみに遭うことは私たちに良い事であると詩篇の記者は歌っています(119:71)。それによって神様のご愛を知り、また神様に立ち返らせていただくのです。私どもは気がつかないうちに群れから離れようとするのです。自分は真っすぐ神様に従っているつもりです。つもりであっても、だんだん外れていく。だから、神様は、私たちを愛するがゆえに「立ち返れ」と、むちをもって、つえをもって引っ張ってくださる。ヨタヨタ千鳥足ではあったけれども、道を踏み外すことなく死の陰の谷を歩んでも、主が私たちと共にいてくださって絶えず守ってくださいました。どうぞ、この恵みを心から感謝したいと思います。

 

そして5節「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」。しかも「わたしの敵の前で」とあります。私たちにとって喜べない事情や境遇、事柄の中に置かれていながら、そこで感謝することができる。世の人々が失望落胆する事態、神様を知らない人々が「もう世の終わりだ」と言うときに、私たちをして喜び感謝し賛美させてくださる。そうではないでしょうか。今、この日本は経済的にまさに暗黒と言いますか、闇の中に沈んで行こうとしている。日本沈没です、世界沈没ですね。その中にあって、このように讃美歌を歌って、喜び楽しむことができるのはなぜでしょうか?私たちの頭に油を注ぎ、杯をあふれさせて、感謝と喜びを私たちに注いでくださる。これは羊飼いが共にいてくださるからです。6節「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」。私たちがこの地上にあるかぎり、神様は私たちを恵んでくださり、慈しんでくださる。ご愛を注いで私たちを日々に顧みてくださる。

 

どうぞ、一日一日、神様が私たちに備えてくださる道を喜び感謝して歩んでいく者でありたい。この一年様々な中、私自身もそうでありますが、昨年から続いています家内の両親のことがあり、やがて父が4月に突然召されました。その間にいろいろな多くのことがありました。しかし、どんなことの中にも主が先立ってくださって、神様は思いがけない道を開いてくださいました。自分では考えられない、想像のつかない結果を神様は与えてくださいました。この一年間もここまで神様の御用をさせていただいて、ただ感謝しかありません。このように足らない御用でありますが、福岡と北九州の二つの教会のために御用をさせていただき、ここまで健康を支えられました。別に今どこか悪いわけではありませんが、まだ3ヶ月ごとに検査を受けます。そのたびごとに、これは神様のつえとむちだと思います。そのたびに「この3ヶ月も生かされてきた。感謝でした」と言えるのです。自分が生かされていることを絶えず確認する一里塚を立ててくださいます。だから3ヶ月ごとに検査を受け、「取りあえず異常はありませんから、3ヶ月後に……」という生活を続けていますが、神様は不思議に今に至るまでここまで導いてくださいました。この先は分かりません、それはもちろん。しかし、何があっても、やがてこの地上の生涯は必ず終わるわけです。そのとき「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」。この目標がありますし、この約束があります。しかし、その時に至るまで、羊飼いでいらっしゃる主を前に見て、その御方にだけ従って行こうではありませんか。

 

新しい年もどのようなことを備えて、神様は私たちを導いてくださるか分かりませんが、大丈夫です。なぜなら、「主が共におられます。主はわたしの牧者です」と信じて生きるからです。私が生きているのではない、私に知恵も力も何にもないけれども、主が私の羊飼いとなって緑の牧場、いこいのみぎわに伴ってくださる。私の魂を生きるものとしてくださる。たとえ「死の陰の谷を歩むとも」、そこで主が共にいてくださって、私たちをつえとむちとをもって慰め、敵の前で喜び歌わせてくださる。やがての時、この地上の生涯を終わるならば「とこしえに主の宮に住む者」として、私たちを御国に携え上げてくださるのですから、そこまで徹底して「あなたは私の羊飼いです。主はわたしの牧者です」とはっきりと信じて踏み出して行きたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。