「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。
彼らには助けがない。」詩篇146:3
人に信頼して裏切られたとか、失望したと嘆き、つぶやくことがあります。
しかし、考えてみると、期待する方が間違っているのです。まずもって、
「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。
彼らには助けがない。」詩篇146:3
人に信頼して裏切られたとか、失望したと嘆き、つぶやくことがあります。
しかし、考えてみると、期待する方が間違っているのです。まずもって、
エペソ人への手紙5章15節から21節までを朗読。
17節「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。
15節には「あなたがたの歩きかたによく注意して」と記されています。聖書で時折「歩く」こと、「歩きなさい」と、そのような勧めの言葉がありますが、これはもちろん足で、具体的にどこかに歩いて行くとか、朝のウォーキングをするとか、そのような意味でないことは確かです。これは私たちの毎日をどのような生き方をしているかということです。だから、15節「あなたがたの歩きかたに」とは、私たちの日々の生活の仕方です。一日をどのように、何を目当てに、何を動機として、何を生きがいとして生きているかということです。毎日、朝起きて夜寝るまで、何に心を向け、何によって慰められ、力を得、望みを得て歩いているか、生きているか、生活しているかであります。
そして、15節に「賢くない者のようにではなく、賢い者のように」とありますが、「賢い」と言うと、すぐ学力が高いとか低いとか、偏差値がどうだとか、そのような言葉に結び付きやすいのですが、ここでは決して学校の成績が良い悪いという意味の「賢い」ではありません。そのあとの17節には「愚かな者」とありますが、「賢い者」「愚かな者」とは、明らかに詩篇にも歌われているように、神様を信じ、畏(おそ)れ敬う生き方と、神様を忘れて、ないがしろにして、神様抜きで生きようとする生き方、これが「愚かな者」です。詩篇には「愚かなる者は心のうちになしと言へり」(14:1文語訳)と歌われています。だから、心の中に「神様なんかいるものか」と。自分が王様になり、自分が中心になって生きる生き方、これが「愚かな者」の生き方です。それに対して「賢い者」とは、万物の創造者であり、すべてのものを力ある御手で今も守り支え、導いてくださる神様がいらっしゃることを信じて、神様を畏れ敬う人です。これが二つの生き方です。そのどちらをあなたがたが選んでいるか、ここで問われているのです。朝、目が覚めて夜寝るまで、あるいは寝ている間ももちろんですが、常に神様が私と共にいてくださる。よみがえったイエス様が私の主となって、導いてくださっていると信じて生きる。あるいは毎日、朝起きてから夜寝るまで、あれが食べたいとか、これがしたいとか、これは嫌だとか、これは好きだとか、損得利害、こうしたらもうけになる、こうしたら損をする、こうしたら私が楽になる、そういう自分の動機、ただ自分の感情、好き嫌い、あるいは利害関係で常に動いているだけの生き方なのか。これが「賢い者」と「愚かな者」の大きな違いです。朝起きてから夜寝るまでの間に、いろいろなことが起こってきます。毎日決まった、しなければならない事柄はこなしていきますが、それとて、これは昨日の今日、今日の明日、惰性で生きているのなら、これは愚かな者です。
賢い者はどうするかと言うと、17節「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。「愚かな者にならないで」、そのような自分の感情や欲得で生きるのではなく、あるいは世間の様々な仕来りや習慣にのっとって、仕方なしにこうしなければ、こうしなければいけないからと、何も考えないで、ただ人まねをするような生き方にならないことです。自分自身の歩み方を振り返ってみると、一日24時間のうちどれだけ神様のことを思って生活しているか、それを考えると誠に乏しい、心もと無いですね。それでは賢い者のような生き方ができません。ここで「賢くない者のようにではなく」と「賢い者のように歩き」と15節に勧められています。賢い者、神様を畏れる者、神様を信頼して、そのお方に心と思いを委ねて、御心に従う生き方、これが私たちに求められていることです。
しかも16節に「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」とあります。「悪い時代」とは、確かに地球の環境も悪くなるし、政治や経済や教育もだんだんとおかしくなってしまうし、そのような意味では誠に目に見えるところもまさに「悪い時代」ですが、それと同時に「悪い時代」とは、神様を失った時代、「失う」といって、神様がいなくなったのではありませんが、人が神様に対して心を向けようとしない時代、神様を求めようとしない時代であることです。確かに、私たちの住んでいる日本の社会もそうですが、神々や神仏、神社仏閣はたくさんありますが、どれだけの人が本当に真剣に真(まこと)の神様を求めているでしょうか。日本でクリスチャンは数が少ないということを度々言われますが、確かに真の神様、聖書に証しされている神様を求める人が少ないのは事実であります。それだけに「今は悪い時代なのである」と言われています。だから、かえってそのように悪い時代だからこそ、選ばれ、召されて、イエス様の救いにあずかっている私たちに期待されていることがあるのです。そのことを自覚していかなければならないと思います。
更に、17節にありますように、「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」と。神様を畏れ敬い、神様に従う生き方、そのいちばんの根本は、神様がいらっしゃるのですから、その方が私たちに何を求めているのか、私に何を願っているのか、これが「主の御旨」です。神様を畏れ敬っていく生き方がどのような生き方なのかは、人が生まれながらに分かるわけではありません。神様が私たちに教えてくださらなければ、それを悟ることができません。ですから、ここに「愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」と勧められています。神様の御心、御旨がどこにあるか、これを悟ること。これは私たちの日々の生活で不可欠なものです。しかも、それは悟ることを求めないと得られないのです。「神様の御心はどこでしょうか?」と、いつも心をそこへ向けないことには、それを知ることができません。はっきり一つ一つの事柄に付いて、「これは主の御心なんだろうか」、「これは主の御旨なんだろうか」と問いかけること、これがまず第一です。イエス様が私たちと共にいてくださるのですが、共にいてくださるイエス様を、まさに共にいらっしゃるがごとくに、そう信じて、イエス様に問いかける、求める。これをしなければ、イエス様が私たちと共にいらっしゃることを具体的に悟ること、感じることができません。だから、テモテへの第二の手紙に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(2:8)とあります。イエス様のことを思うとは、どのようなことかと言いますと、まさに朝から夕べに至るまで、すること話すこと、言葉とわざとによらず一切のことを主の御旨であるかどうかを問いかけていく。それではじめて、いつもイエス・キリストを思うことができるのです。「イエス様のことを思う」と言いながら、ただ漠然と頭の中で、あるいは心の中でイエス様のことを考えて「イエス様はどんな人なのかな、どんな感じなのかな」「今日はイエス様はご機嫌が良いかな、悪いかな」とか、そのようなことを思うのではない。主が今日私のために何を備えてくださるか、「神様、あなたは私に何をさせようとしてくださっていますか」と、絶えず問い掛けることによって、初めて「主のことをいつも思う」ことができるのです。それなくしては、私たちはイエス様のことをいつも思っておくことは、なかなかできません。
コリント人への第一の手紙2章9節から11節までを朗読。
10節の中ほどに、「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」とあります。「御霊」、これは神の霊です。神様の霊が、今私たちの内に宿ってくださっている。ペンテコステの出来事以来、今に至るまで、神様は私たち信じる者すべてに神様の霊を、御霊を与えてくださっています。私たちがこうやって神様を信じることができる、イエス様を「あなたはわたしの救い主です」と心に信じることができるのは、いい話を聞いたからとか、あるいは聖書を読んで、私が勉強したから分かった、信じたということではありません。確かに、そのように「キリストの救いは聞くことによる」(ローマ 10:17)とありますように、集会に出て話を聞くことも大切です。あるいは、聖書を読むことも大切です。しかし、もっと大切なのは、御霊が私たちにそのことを悟らせておられるのだということを知っておくことです。今こうやって集まり、聖書の言葉をひもといて、そこから神様の御思いを知ろうとしています。これも御霊によらなければ私たちはその御言葉の深みを知ることができません。「いや、そんな信じるなんて、口はばったくて、そんな大それたことは言えない」と思っているかもしれませんが、「からし種一粒ほどの信仰でも」(マタイ 17:20 、ルカ 17:6 )とイエス様がおっしゃるように、どんなに小さな有るか無いか分からないような信仰であっても、「今、私はイエス様を信じる」と言えるのは、御霊が今働いてくださるからです。どのように御霊が私たちの内に宿ってくださっているのか、それがどこにいるのかなんて、そんなことは分かりません。いくらレントゲンで撮って見たり、CTで体中を調べてみても、どこにも御霊の住む場所がないのです。しかし、御霊の存在、いらっしゃるかどうかは、私たちの目には見えないけれども、風が吹くがごとくに結果はちゃんと現れる。これは事実です。だから、まず信じることです。神の霊が私と共にいるのだと信じて祈る時、具体的にその結果が伴ってくるのです。それは御霊の働きです。だから、まずこのことを信じていく。その御霊によってしか、私たちは神様のことを知ることができない。10節に「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」と。神様の御思いの深いところまで、隅々、くまぐままで御霊はご存じで、御霊なる神は私たちの内に宿ってくださって、神様の御思いを全部私たちに教えてくださるのです。「御霊は神様の思いを深みまでもきわめる」。しかもそこに「すべてのものをきわめ」とありますから、どんなことでも神様は教えてくださる。
列王紀下6章8節から10節までを朗読。
これはイスラエルがスリヤという国と戦っていた時のことです。スリヤの軍隊がいろいろな計略をもってイスラエルを攻めてきます。ところが、ここに陣をして、ここで待ち伏せをして敵をやっつけようとスリヤの将軍がいろいろと考える作戦が、なんと全部相手のイスラエルに筒抜けになる。9節に「神の人はイスラエルの王に『あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤびとがそこに下ってきますから』と言い送った」。ちゃんと前もってイスラエルの王様に神の人を通して神様が語ってくださるのです。これは神様の霊が神の人を通してイスラエルの王様に教えてくださるのです。だから、あそこで敵が待ち伏せをしているならほかへ行こう、こちらにいるのだったらあちらを通ろうと、実に巧みにイスラエルは敵の襲撃から身を守ってきた。そんなことが「一、二回にとどまらなかった」とあります。
とうとう困ったのはスリヤの王様で、11節から読みますと「スリヤの王はこの事のために心を悩まし、家来たちを召して言った、『われわれのうち、だれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げる者はないか』。12 ひとりの家来が言った、『王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです』」。すごいですね。スリヤの王様は自分の作戦が全部裏をかかれるものですから、「これは、何かわが陣営に、味方の中にスパイがいるに違いない」と。「こちらの作戦を全部向こうに伝えているやつがいる」と疑って、「誰かそういうやつを知らないか」と、国の中を探したのですが、誰もいない。そうすると、一人の家来がやって来まして、「誰も向こうに通じている人はいません。ただ、イスラエルには預言者エリシャという人がいて、この人が王様がひそかに寝室の中で『よし、今度はあそこを攻撃しよう』とか『ここで待ち伏せしよう』と決めたことも全部筒抜けで、相手に伝わっていくのですよ」と言う。それはエリシャという預言者・神の人が神様から知恵を与えられているからです。それは御霊の働きなのです。そして、その霊によって神の人はイスラエルの王様に伝える。御霊がイスラエルの王様に教えていらっしゃるのです。
だから、私どもも御霊が語ってくださるところに従って行くならば、決して間違うことがない。先だってもある兄弟が一つの会社の社員試験を受けに行ったのです。正社員、こんな時代に正社員を募集してくれるというから、彼は受けに行きました。初めは筆記試験だったのです。それは「何とか、できたかどうか分からない」と言っていましたけれども、なんと一次試験の筆記は通ったのです。その次は面接試験があるという。論文と面接、彼の能力からいうなら、論文はそこそこ書くのではないかなと私は思いました。ところが、面接があると聞いたのです。私はこれは困ったな。彼はちょっと、一見無愛想だし、どうも印象が悪いから、彼に「まず身だしなみをちゃんとしなさい」と忠告しました。彼はいつもラフな格好をしているから「ネクタイをして行きなさい」と。「そして面接室に入ったらすぐにあいさつをしなさい。しかもあなたはしゃべるとき、ボソボソと口の中で話して相手によく分からないから、ハキハキとしっかり言いなさい」と、こちらも心配なものですから、細かく書いてメールで送ったのです。そして最後に私は「何を聞かれても神様があなたに答えを教えてくださる。『御霊は忘れたことを思い起す』と書いてある。あなたに主の霊が共にいてくださるのだから、絶えず祈りながら臨んでください」と。すると、彼は素直にそれを聞いてそのとおりにしたのだそうです。そして面接が終わって、すぐメールが来ました。「どうだった?」と私が問い合わせたら「いや、不思議なように神様の御霊が言うべきことをちゃんと教えてくれて、自分としても思い掛けない言葉が出ました」と。「それは良かった。神様があなたにその知恵を与えてくださって、語ることを教えてくださったのは、それは幸いだね」「通るかどうか分からないから、また続けてお祈りしてください」と言うから、お祈りをしていました。それから数日たって、電話が掛かってきまして、「先生、合格しました。これも奇跡としか言い様がありません」と。そのとき何人の人が受けたのか知らないのですけれども、彼が言うには「そのとき受けた中で通った、合格したのは僕一人でした。これはもうただ、神様の奇跡としか言うほかはありません」と言ってきたのです。確かにそうだと思う。御霊が働いてくださる時、口下手なしゃべることの苦手な彼をして語らせるのです。知恵を与えてくださる。
ここでは預言者エリシャが語ったとありますが、エリシャは御霊に導かれてこのことをした。とうとうスリヤの王様は困り果てて、このエリシャを何とかしようというわけで、15節以下エリシャの住んでいる町に軍隊を送って町中を取り囲んでしまった。そのときエリシャ先生の僕、若者が、朝目を覚まして窓を開けたら、敵軍が取り巻いている。びっくり仰天して、エリシャ先生に「どうしましょう!大変なことになりました!」と言った時、エリシャ先生が「心配するな」と、そこでお祈りしてくださった。「この若者の目を開いてください」と。そのお祈りが終わって、若者がもう一度見ると、スリヤの兵隊どころか、その上には天の軍勢が満々と満ちあふれていたのです。神様の軍勢が守っていたという。それは目が開かれてみた時に見えたのです。これは御霊が彼に見る力を与えてくださった。
今でもそうです。神の御霊が私の内に宿ってくださっている。その御霊が働いてくださればできないことはありません。私たちには力がない、知恵もない、健康もない、お金もない、ないないづくしの私たち、しかし私を強くしてくださる神様が、私と共にいてくださる。そればかりか、神様は神の霊を私たちに置いてくださって、私たちに知恵を与え、力を与え、またすべての必要な物を供給してくださる、与えてくださる。この時もエリシャ先生を神の霊が十重二十重に守ってくださった。そして、スリヤの軍勢を目隠しして、気がつかないうちにエリシャ先生の町から遠くへ連れて行かれた。サマリヤの方へと送ってしまったのです。
エペソ人への手紙5章17節に、「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。「主の御旨がなんであるかを悟る」というのは、「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだから」とあるように、御霊は神様の御思いを余すところなくご存じなのです。その御霊の導き、御霊の語ってくださること、これが主の御旨であります。だから、いつも心を主に向けて求めていただきたいのです。しかも、それは時折ではなくて「いつも」です。私たちが一歩一歩歩く度ごとに、生活の一つ一つのことをする度ごとに、祈っては「主の御心はどこにあるでしょうか」「これは今すべきことでしょうか」「これはいつしたらいいでしょうか」「このことはやめておくべきでしょうか」「これはこうしましょうか」と、一つ一つ祈るのです。なにか事をしながら、あるいは歩きながらでも、車を運転しながらでも、台所でお炊事をしながらでも「祈る」。これがいつも主を思う思い、「イエス・キリストを、いつも思っていく」とは、まさにこのことなのです。だから家を出る時、「今から出掛けますが、災いに遭わないように守ってください」と祈る。また遅れそうになったら「神様、どうぞ、うまく間に合って行けるようにしてください」と祈る。そうすると、私たちの心に神様はちゃんと平安を与えてくださって、滞(とどこお)りなく、いちばん良いように一つ一つ備えてくださるのです。だから、「主の御旨がなんであるかを悟る」ことです。これが私たちが生きる原動力です。
18節に「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて」と勧められています。「酒に酔ってはいけない」とは、確かにお酒を飲んで酔っぱらって、前後不覚になって、飲酒運転で人を殺すようなことになりますから、それは飲まないに越したことはないでしょうが、これは酒を飲む、飲まないの問題ではないのです。私たちが肉の欲に浸ってしまうことです。いわゆる愚かな者になることです。神様を忘れて自分がしたいから、自分が好きだからと、自分の思い、肉の思いが支配するところ、「それは乱行のもとである」と。誠にそのとおりです。酒でなくても同じです。好きだからとまんじゅうを幾つも食べたら、それは病気になります。自分の体を神様の宮として大切にする。「聖霊の宮である」(Ⅰコリント 6:19)と語られています。だから、自分の体を大切にすることはその意味においては必要なことです。ところが、ただ闇雲に長生きしたいから健康をというのでは、同じく体を大切にするといっても動機が違うと、その結果が変わってきます。だから、私たちは肉の欲に引き回されるのではなくて、「むしろ御霊に満たされて」と。御霊、神様の霊に満たされますと、「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい」。御霊に満たされて、いつも「主の御旨はいかに」と、祈りつつ、歩んでまいりますならば、その生活の中に主を賛美する歌は絶えません。喜びと感謝はいつも伴ってきます。私たちに喜びがない、感謝ができない、賛美ができない、主を褒めたたえることができなくなった心は、私たちが主の御旨を求めていないからです。
自分のわがままな思いで、ズルズルズルと引きずられ、気がついてみたら、「しすぎてしまった。しなければ良かった」あるいはするべきことができなくて「しまった。あの時ことをしとけば良かった」と悔やむ思いばかりが押し寄せてきて、心から喜びが消えるのです。ところが、御霊に満たされて「主の御旨はいかに」と生きていきますと、失敗しようとうまくいこうと、「大丈夫、これは神様がしてくださったこと。私は神様に従ってここまでさせていただいたのだから」と、感謝以外にありません。どんなことでも祈って、「神様、これはあなたの御心と信じてさせていただきます」と、心を定める。決めて行きます。そうしますと、うまく行っても感謝だし、それでうまく行かなくても、「これは主がそのように導いてくださっているのだし、私に求められたことはさせていただいたのだから感謝です」と言える。そのあとの責任まではこちらは負えませんから。
私は子供を育てたことはありませんが、多くのお母さん方がお子さんを育てる時、「私の育て方が間違った」とか、あとになって「子供の時、あんなことをしなければ良かった」と、「子供が今こんな状態になってしまったのは私のせいです」とか言いますが、子供を育てる時、一つ一つ祈りつつ「主の導きはいかに、御心はどこに」と、そういう生き方をしないで、親としての感情や情愛に流されてただ闇雲に自己本位にやってしまうから、あとになって「しまった。私が悪かった。悪かった」と言うわけでしょう。それよりも、一つ一つ祈りながら子育てをして、今に至って、今子供がこういう結果になっているのは、これは私が悪いのではない。神様がそうなさっている。なぜなら、私はひたすらに「主の御心を」と求めて養育してきたのだから、私の使命は終わった。私がすべきことはさせていただいたのだから、結果は神様がどのようにでもこれから展開してくださるに違いないと、主を待ち望んで行くことができる。それには普段から主の御旨を求めていく生活でなければなりません。
どんなことでも「今これは主が私にせよと言われること」「これは主が今求めていることです」「御心はここにあるから信じて行きます」と、神様の前に常にはっきりと決断していただきたいと思います。「今日は時間があったからしたんだ」とか、あるいは「今日は気分が悪かったからやめといた」と、気分やムードや、あるいは何かそういうつかみ所のないもので生きているならば、それは全部肉の働きで、肉の思いは死なり(ローマ 8:6)、そこからは善き事が生まれてきません。感謝がわいてきません。賛美と喜びはそこから生まれてきません。私どもの生活は、とっ拍子もなく、突然のごとく次から次へといろいろなことが起こってきます。もし自分の計画、自分のスケジュールどおりにやろうとすると、あちこちで行き詰る。それは私どもの生き方とは違う。「これは主が今私に求めていらっしゃること」「これはどうすべきことだろうか。今すべきことだろうか、明日に延ばすべきだろうか」と、一つ一つ祈るのです。そして、祈りますと、必ず「そうだ。今しておくべきだ」と、神様はグッと心に一つの強い力を働かせて、私どもを押し出してくださる。その時は「主よ、従います。これは御心だ」と、確信を持って大胆に踏み出して行きたいと思います。これが私たちの一歩一歩の日々の歩み、歩き方です。朝から晩までどんなことの中にも大きいことも小さいことも「主よ、あなたの御心はいかに、御旨はどこにあるでしょう」と求めましょう。決まったこと、昨日と今日と同じことをするといっても、その時もお祈りするのです。「いや、こうすることに決めているから」と言うのではなく、決めていても今日も同じようにこれをすべきなのかどうなのか、絶えず祈っていただきたい。主の御旨を求めて行きたいと思います。そうすると、私たちの内に感謝が、主を褒めたたえるさんびが絶えない。一日を終わる時、「今日も主よ、あなたに仕えて終わることができます」と、感謝することができるのです。失敗ばかり、できないことばかり中途半端な一日であったとしても、「あれもし残した、これもし残した。あれも中途半端になった」と思ったとしても、主が「それでよろしい」と言われる。主の御心はそこにある。その時は、中途半端であろうと、出来損なったように思う時でも感謝して「主の御用をさせていただきました。あとは神様が仕上げてくださるし、また、どのように展開してそこから本当に道なきこれでおしまいと思われるような事態の中からも、神様は必ずどんな道でも備えてくださる」と信じることができる。そのために、私たちが普段から日々「主の御旨はいかに」と、主の前に自分を置いて、御旨を求めて祈りつつ生きなければ、私たちは感謝ができません、喜べない。
17節「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。主が私に御霊を注いでくださっていますと信じて、その御霊の御声に従ってまいりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。