ヘブル人への手紙3章12節から19節までを朗読。
今朝は13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。
12節には「あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない」とあります。「まさか、私のことじゃあるまい」、「私は絶対神様から離れることはないわ、そんな事はあるはずがない」と思っています。しかし、どんなに堅く決心しても、案外ケロッと「かたくな」になって、神様から離れてしまう。「あの時、あんなに熱心だったのに、今あの人はどうしたかしら」ということは幾らでもあります。私は子供の頃、そういう経験を幾つかしましたので、人間不信に陥ったように思います。熱心に、早天祈祷会は来る、日曜礼拝は休まない、伝道集会、祈祷会も来る、そのあげく集会のない日は牧師館に来て食事をする。それで、私どもも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言って親しくなります。ある日突然パッタリ来なくなった。「一体どうしたのかしら」と心配する。そのうち、どうも「榎本先生に躓いて、あんな人とは思わなかった。もう教会には行かん」と、そんな話を人づてに聞きます。「あんなに熱心だったのに、一体あれは何だったのだろうか」と疑う。その頃、私は、「人というのは、そんなに簡単に心が変わるものかな」と不思議に思いました。しかし、大人になって、自分がそうだと気づきました。
私たちの心ほど厄介なものはない。自分の心であって自分のものでない。自分の中に、魔物が住んでいるとよく言いますが、その魔物とは「心」です。心がどういう状態にあるか、それが人間のあり方だと思います。生活状況が改善されて、豊かになり、物の溢れる時代になっても、心だけは一向に変わらない。それが証拠に、聖書に書いてあることが、「これは私のことだ」と思うことが、どれだけあるか分かりません。しかも書かれたのは2千年以上の昔です。変わったのは人の外側だけで、内側は少しも変わっていない。だから、私は「進化論というのは、どうも眉唾だな」と思うのです。進化論が真実であれば、3千年も続いたら、人間も少しは進化するかと思うのですが、そんな変化は何処にも見られない。いや、寧ろ現代の私たちの心ほど、これまでにないほど悪に満ちていると言えるでしょう。弥生時代だとか、縄文時代、遥か昔の竪穴住居に住んでいた時代、そういう時の方が人間らしい、温か味があると言えます。原爆だとか大量殺戮兵器だとか、そんなものはありません。
しかし、「心」というのは、自分の力でどうにもならないものです。自分の心だから自分が思うように、自在にどうかすれば良さそうなものですが、それができない。皆さんもご経験の通りに、「こんな私じゃ駄目だ、これから、もう少し優しい人間になろう、もう少し人のことを考えてあげよう」と思いますが、それは思った時だけ。何分もしないうちにコロッとひっくり返って、「そんなことを思った私が馬鹿だった」となります。そのくらいに人の心というのは変わります。“女心と秋の空”と言いますが、女の人ばかりではなく、人の心はみな変りやすい。しかも、変わるのは、根がないのではなく、根深い何かがあるのです。
12節あるように、「不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る」と。しかも、「罪の惑わし」と13節にあります。人が神様を離れて、罪の支配に陥っている故に、心が清くなることができない。幸いな心に成り得ない。罪が私たちの心を掻き乱してくるのです。13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って」、罪が私たちを惑わして、心をかたくなにする。心がかたくなになるのは、罪が働いているから。「かたくなな心」というのは、英語の聖書を読みますとリフュージング ハートと書いています。Refuseというのは「拒む、撥ね除ける、或いは受け入れない」という意味です。心がそのようになるのです。皆さんでも、「これをどうぞ食べてください」と勧められ、「いや、私はそんなものは食べられん」と突っ張る。或いは、人が親切にしようとすると「そんなことして貰いたくない」と即座に断る。段々、年を取るとそうなってくる。堅い心になる。それは「罪の惑わし」です。
この世で生きていく上で、この「頑なな心」というのが厄介です。家族の中でもそうでしょう。夫婦であれ、親子であれ、親切に相手のことを思って「こうしたらどうですか」、或いは「これをこうした方が良いですよ」とアドバイスする。「そうね、じゃ、そうしようね」と素直に聞くことができたら、物事はスムースにいく。ところが、それが聞けない。「こうしよう」と言ったら、「いや、そんな事はせんでも良い」と…。
家内の両親が、父親は90歳になり、母親は84歳になりますが、大変頑なです。家内は娘ですから、親の面倒を看なければならないと思う。一生懸命に尽くします。しかし、案外と喜ばない。美味しいものを食べさせてやろうと、買って行きます。すると「何だ、そんな余分なものを買ってきて!もう買って来るな!」と言われる。そう言う親の気持ちも分かります。「費用をかけてまでせんでもいいよ」という気持ちは分かるのですが、「こんなものを持ってこんでもいい!」と、怒って言うものですから、よほど気に入らないと思って、持って行かないでおくと、母親の方から回り回って聞えてくる。「あれをまた食べたかった」。食べたいなら食べたいと素直に言えばいいのですが。冬になったから寒かろうと思って、セーターを買って行った。そうしたら気に入らなくて、「こんなの、持って帰れ!」と、持って帰れと言われても、「せっかく買ったのだから、使わなくてもいい、置いておこう」と置いて帰ったのです。一ヵ月くらい経って行って見たら、ちゃんと着ている。母に聞いてみると、「ズーッとこれを着ていて、洗濯したいのだけれども、脱ごうとしない」と言う。そんなに気に入ったのなら、初めから「有り難う」と言ってくれれば、どんなに幸いかと思うのですが、そこが言えない。悲しいですね。
皆さんも振り返ってみて思い当たることが沢山あるでしょう。「頑なな心」に対して、その反対は、「柔らかい、砕けた、従いやすい心」です。そういう心を持ち続けることが何よりも大切です。人と人とがうまくやっていくうえで、なによりも大切なことです。たとえ親子であれ、またこういう教会の集まりであってもそうです。教会に来ている方々は柔らかい心になっていると思いますが、時々そうでない方もいらっしゃる。「どうぞ、ここにお座りなさい」「いいえ、私はここで結構です」。座る所一つ何処でも良さそうなものですが、勧められたら「はい」と言えばいいのに、「私はこっちです」と端っこに座って、「私は教会の末席に席をいただいておりまして…」と謙遜のつもりかも知れませんが、非常に頑固です。だから、人から勧められたら「はい」と素直になることが大切です。
しかも、それは人に対して素直になるばかりでなく、実は神様に対してもそうであります。一番肝心なのは、神様に対して「素直な心」になることです。「私は人には素直でないけれど、神様には素直だからいい」と、居直る方がいますが、それは嘘です。見えている人に従えなくて、見えない神様には絶対に従えない!だから、奥さんがご主人に従えなくて、神様に従うことはできない。ご主人が奥さんに従えなくて、神様に従うことはできない。「先ず、神様の前に」というのが、根本です。人に従えないのは、実は神様に従えないからです。神様に対して素直になれないから、人に対しても素直になれない。人に頑なで、神様に従えるというのは嘘です。神様に従えない人は人にも従えない。神様に従える人は人にも従える。何かややこしい話になりましたが、もう一度申し上げますと、神様に従える人は、人にも従える。しかし、人に従えない人は、神様にも従えない。人に従える人は、神様にも従える。これは言えますね。13節に神様が、「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。殊に、神様に対して従うことができないと、これは大きな損失です。実はその失敗をしたのがイスラエルの民でした。
そのすぐ前のところをちょっと読んでおきます。同じ所の3章7節から10節までを朗読。
イスラエルの民が神様に背いて、大変な失敗をした時がありました。それは、エジプトでの奴隷の生涯から救い出されて、モーセによってカナンの地を目指して旅をしました。愈々カナンの地を目前にした、カデシ・バルネヤという所まで来ました。ヨルダン川を渡れば、約束の地カナンに入るという時に、神様は一つの試みをなさった。12部族から一人ずつ代表を選んでカナンの地を探らせ、偵察させました。そこにどんな食料があるか、どういう人が住んでいるか、どういうものがあるか、調べてくるように出かけて行ったのです。12人は、行き巡ってカナンの地を調べました。帰って来て民に報告した。その時、良いニュースと悪いニュースとがありました。喜ぶべきニュースは、カナンの地は作物が豊かな所で、生活するには不自由がない、いい所だということでした。みんな喜んだのです。ところが、もう一つニュースがある。それは、その地に既に人が住んでいる。しかも、そこにいる人たちは背も高くて、巨人族である。彼らが町を造り、城を設け、強い兵隊を持って、住んでいる。もし、自分たちがそこへ行ったら、ひとたまりもなくやられてしまうに違いない。そういうニュースがありました。その時、民は非常にがっかりして嘆きました。
そこのところを読んでおきたいと思います。民数記14章4節から10節の前半までを朗読。
このニュースを聞いたイスラエルの民は、非常にがっかりして失望しました。こうなったらモーセに従って、死ぬような所へ行くことはない。もう一度エジプトに帰ろうではないか。4節に「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」という話になった。その時、ヨシュアとカレブとが立ち上がって、民に勧めました。7節以下にありますように「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう」。「神様が『行きなさい、わたしがその地をあなた方に与える』と仰っているのですから、神様が良いと言われるならば、それは実現することで、大丈夫だから…」と。これがカレブとヨシュアの信仰でした。「神様が『行け』と仰っているのですから、それに従おうではないか。確かに目に見えるところは、困難があり、死が待ち受けているような事態があるかもしれない。しかし、神様がそう言われたのだから…」と。
9節にありますように、「ただ、主にそむいてはなりません」。神様だけには背いてはいけない。例え、不安があり、自分たちが考える限り「これはもう見込みが無い、もう道が無いと思われるかもしれないけれど、しかし、神様が『行け』と言われるならば、『与える』とおっしゃるならば、神様はその通りにして下さるから、従おうではないか」と、ヨシュアとカレブは彼らを説得した。それでもイスラエルの民は聞き入れず、10節にあるように「会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした」。彼らを撃ち殺して、別のリーダーを立てて、エジプトへ帰って行こうと決めたのです。とうとう神様は、この民に怒りました。憤りを表して、「この民を一人残らず滅ぼしてしまおう」と言われた。ところが、モーセは神様の前に立って執り成して、「この民を見捨てないでください、あなたが約束したではないですか」と、迫りました。神様は、「じゃ、お前がそう言うからこの民を許そう。ただ一つ条件がある」と。それは今反対した人たち、神様に背いた者たちは、カナンの地に入ることができない。そのために40年間荒野を彷徨(さまよ)って、彼らがみな死に絶えて、次の世代になってカナンの地に入ることができる。とうとう、エジプトから導き出された最初の人たちは、荒野でみな死んでしまって、カナンの地に入れたのはその後の世代の人たちです。問題だったのは、神様の言葉を聞きながら、それに従うことができない頑なな心。自分たちに都合が良い事になると、神様を信頼し、「神様!」と言いますが、自分の思いと違うと途端に心が頑なになる。そして、神様の恵みに与ることができない。これは今も変わることのない真理です。神様の言葉を聴いて、それに従う時に、神様は恵んで下さるのです。ところが、私達は神様の言葉に反発するのです。
聖書を読んでいても、この言葉は煙ったい、私のことを言われているようで、嫌やだからチョット飛ばして、一頁先を読む。何処かに自分の都合の良いことはないかしらと探して読んだりする。これは大きな間違い。それは私たちが心で、神様を拒んでいるからです。祈って、神様に近づいて、呼び求めている時、神様は御霊によって、神様の霊によって、私たちに語って下さることがある。右に行くべし、左に行くべしと。その時、神様が語って下さることを信じて従う。ここに神様の恵みを受ける秘訣がある。この時、イスラエルの民は、見てきた人たち、偵察をしてきた人たちの結果を聞いて、「それだったら、もう駄目だ。そんな国だったら駄目だ。神様は『行け』、『そこを与える』と言われるけれども、本当なのだろうか。そんなことはありえない」と思いますが、そこで神様の言葉ですからと素直になって、み声を聞くことが、恵みに与る秘訣なのです。
神様に祈って、この道が備えられる。ところが、どうしても自分の思うような道ではない。すると「どうも違うのではないか」と言われる。先だっても、一人の姉妹が「先生、ちょっと相談があります」「どういうことですか」、「一つのことで祈っておりました。祈っておりましたら、私の願いと違うことばかりが起こってくるし、求められる。神様の御心は何処にあるのでしょうか」と言われた。「いや、今あなたが与えられていること自体が、神様の御心ではないでしょうか」、「これは私の願いと違うんですけれども、それでも御心ですか?」、「神様の御心であって、あなたの御心じゃないでしょう」と言ったら、「え!そんなの…」と言って、帰って行かれましたが、その後どうなったか分かりません。神様がその道を備えて「これが道だ、これを歩め」と言われるのに、「いや、どうも違う。あれを考え、これを考え、あの人、この人から話を聞いて見ると、どうも違うように思うから…」と言って拒む。あからさまに神様に、「神様、それは間違えておられます。私はそんなのは信じられません」と言わない。言わないけれども、上手にそれを回避していく。避けて行こうとする。
ですから、もう一度始めの所に戻りまして、ヘブル人への手紙3章13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように」。どんな問題・事柄の中に置かれても、そこで「神様には絶対従うのだ」、神様が置かれた所、神様に与えられた道であるならば、そのことを信じて自分の思い、損得利害、好き嫌いによらないで、「神様が求めていることです」と信じて、素直に、神様に従っていく。その時、神様は、私たちの想像を超えた、思いを超えたことをなさる。事実そうだったのです。40年の荒野の旅を終わって、イスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入って行きました。確かに、そこには巨人族がいて、エリコの町という堅固な城塞都市がありました。武器も何も持たなかったイスラエルの民が、神様を讃美し、ほめたたえ、神様の言葉に従ってエリコの町の周りをぐるぐる回ったのです。一日に一回ずつ、7日間回って、7日目には7度回ってラッパを吹き鳴らした。その時、エリコの城壁が崩れるのです。神様は、イスラエルの民が、思いもしない、考えもしない、想像もつかないことを具体的に備えて下さった。今も私たちの信頼する神様は、私たちにそのようにして下さる。
神様が言われるところに従って踏み出して行くこと、素直になって神様の御声に従うこと、これが大きな祝福の源であります。ですから、今の13節に「心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに」と。主のみ声を聞いたら素直にその時に、心を頑なにしないように、「互に励まし合いなさい」と。お互いに神様が語って下さるところに従おうではありませんか。家族の人から一言言われたら、「あんたから言われたくない」と思わないで、「ああ、そうだね」と素直に聞くのです。それが「励まし合う」ということです。周囲の人が「だって、あなたはこうでしょう。こういうところがあるじゃないですか」と言われる時、人を通して神様が語って下さっている。そういう時に、素直に「はい」と、「ああ、そうだ」と受け止めて、心を新しくする。神様の祝福がそこに現れてくるし、想像のつかない事を神様がしてくださいます。
大分前ですが、私の友人の家族が夏休みを利用してやって来ました。その頃、小さな子供たちが4人いました。朝、食事をする時、家内がデザートにと果物を切って、食事が済んだらこれを食べようと置いたのです。お姉ちゃんが、食事よりもそのデザートを先に食べたかった。ところが、それをお父さんが叱ったのです。先ずパンや牛乳を食べて、食事が終ったらこれをあげる。でもその子は頑として言う事を聞かなかった。とうとうお父さんは、「あなたはもう食べなくてよろしい、他所の部屋に行きなさい!」。私どもは、親が子供を叱っていますから、シュンとして静かにいました。「どういう成り行きになるのかなぁ」と思って…。早く子供が「お父さんごめんなさい」と言えばいいのにと思ったのですが、その子もなかなか頑固です。言う事を聞かない。「向こうへ行け!」とお父さんから言われて、隣の部屋に行きました。お父さんは知らん振りをして「さぁ、みんなで食べよう」と、食事を始めました。その子は隣の部屋で何にも食べないで椅子にジーッと座っている。私はハラハラして、何とか食べさせてやりたいと思って、時々声をかける。「ちょっとこっちに来なさいよ」。頑として言う事を聞かない。とうとうその朝は食事抜きです。
私はその姿を見ながら、この御言葉を思い出すのです。あんなに心を頑なにして…、美味しい食事を食べそこなう。私達もそうです。神様が備えて下さる素晴しいことがあるのですが、目に見えないだけで、私たちが従わないが故に、それを食べそこなって…。そうならないために、日々の生活の小さな事で互いに心を柔らかくすることを学んでいこうではありませんか。
ご主人が言った時に、奥さんが「はい」と従うことを努めて御覧なさい。そうすると神様に従うことも楽になる。ご主人があれこれ言う時に、直ぐ右から左に反対ばかりするでしょう。だから、私どもは神様に従えないのです。できるだけ「はい」、「はい」と素直にならなくては、神様の祝福に与れないと思います。ここ13節にありますように「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする」、気がつかないうちに、心がかたくなになるのです。自分は本当にこんな優しい人間だ。私のように親切で柔らかい素直な人は居ないと思ってる。しかし、一言、隣の人から何か言われて御覧なさい。「いえ、結構です!」とパッと出る。「有り難う」というより、「そんなこと知っています!」と。私の父も比較的頑ななところがありました。何か珍しい話をすると、父は必ず「ああそうかね、初めて聞く話だね」とは言わない。「ウン、そうだ、そうなんだ!」と言う。そうなんだということは知っていたのかなと思う。負けん気が強いのです。
頑なになる時というのは、他人よりも自分が偉くなりたい、他人より先んじたいという思いがある。常に謙遜になることが大切です。そのために、私たちは自分がどんなに頑なな者であるかを認めなければならない。自分はあの人よりも優しい人間だ。少々出来がいい方だと思う心が、どこか隅にちょっとでもあるなら、それは止めた方がいい。
私は駄目なんだ!十字架にイエス様が命を捨ててくださり、あのむごたらしい刑を受けなければならない程の大罪、大きな罪が私にある。だから、どんなことがあっても、自分を誇るわけにはいかない。また、他人よりも自分が優れている者とは到底思えない。聖書には、「自分を他の人よりも優れたものと思ってはならない」と書いてあります。私たちはいつも十字架のところに立ち返っては、砕かれた者となる。主の憐れみによって、今日ここにあるのだと感謝して、そこに絶えず立ち返っていかないことには、自分を謙遜に置くことができないからです。自分が頑なな者であり、受け入れ難い者であり、本当に人に対して冷たい冷ややかな者であり、愛のない者であることを認めて、イエス様がこういうもののために、今日も「父よ、彼らを許し給え」と、取りなしてくださる。それゆえに許されている自分であることを認めて、他人に対しても、ましてや神様に対して謙遜になって、主が今日導かれる所、主が「せよ」と仰ること、主が「止めよ」と仰ること、一つ一つに「はい」と、一つ返事で素直に聞き従って行こうではありませんか。また、いろいろなこういう集会に出ては、自分の心を整えて、神様に前に素直な、砕けた、従いやすい心になる。
サウル王様はそれで失敗したのです。神様の命じられた事に従わなかった。明らかに従わない、反発したのではない。彼は一応従ったのです。「アマレク人を全滅させよ、皆殺しにせよ」と言われ、形だけはそれらしいことをしました。ところがちょっと従わなかった。神様の御言葉を少し曲げてしまった。そのために神様から、位を外され、王様の祝福から取り除けられてしまうのです。
そうならないために、神様の前には、従順な、砕けた魂を絶えず持ち続けていこうではありませんか。それが私たちの幸いな…、14節に「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となる」。私たちの初めの確信、イエス様の救いを感謝して、そして主を信じて、主の御声に、神様の御思いに、私たちが素直に従っていく時に、やがて私たちはキリストに与る者、キリストの栄光の姿に造り変えて、新しくして下さる。どうぞ、そのことを望みつつ、今この地上にある私たちは、日々何があっても、主には従う、神様には従う。人には従わんという意味ではないですよ。神様には従うということは、とりもなおさず他人に対しても従順な優しい砕けた心になって、従う者となるのです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
今朝は13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。
12節には「あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない」とあります。「まさか、私のことじゃあるまい」、「私は絶対神様から離れることはないわ、そんな事はあるはずがない」と思っています。しかし、どんなに堅く決心しても、案外ケロッと「かたくな」になって、神様から離れてしまう。「あの時、あんなに熱心だったのに、今あの人はどうしたかしら」ということは幾らでもあります。私は子供の頃、そういう経験を幾つかしましたので、人間不信に陥ったように思います。熱心に、早天祈祷会は来る、日曜礼拝は休まない、伝道集会、祈祷会も来る、そのあげく集会のない日は牧師館に来て食事をする。それで、私どもも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言って親しくなります。ある日突然パッタリ来なくなった。「一体どうしたのかしら」と心配する。そのうち、どうも「榎本先生に躓いて、あんな人とは思わなかった。もう教会には行かん」と、そんな話を人づてに聞きます。「あんなに熱心だったのに、一体あれは何だったのだろうか」と疑う。その頃、私は、「人というのは、そんなに簡単に心が変わるものかな」と不思議に思いました。しかし、大人になって、自分がそうだと気づきました。
私たちの心ほど厄介なものはない。自分の心であって自分のものでない。自分の中に、魔物が住んでいるとよく言いますが、その魔物とは「心」です。心がどういう状態にあるか、それが人間のあり方だと思います。生活状況が改善されて、豊かになり、物の溢れる時代になっても、心だけは一向に変わらない。それが証拠に、聖書に書いてあることが、「これは私のことだ」と思うことが、どれだけあるか分かりません。しかも書かれたのは2千年以上の昔です。変わったのは人の外側だけで、内側は少しも変わっていない。だから、私は「進化論というのは、どうも眉唾だな」と思うのです。進化論が真実であれば、3千年も続いたら、人間も少しは進化するかと思うのですが、そんな変化は何処にも見られない。いや、寧ろ現代の私たちの心ほど、これまでにないほど悪に満ちていると言えるでしょう。弥生時代だとか、縄文時代、遥か昔の竪穴住居に住んでいた時代、そういう時の方が人間らしい、温か味があると言えます。原爆だとか大量殺戮兵器だとか、そんなものはありません。
しかし、「心」というのは、自分の力でどうにもならないものです。自分の心だから自分が思うように、自在にどうかすれば良さそうなものですが、それができない。皆さんもご経験の通りに、「こんな私じゃ駄目だ、これから、もう少し優しい人間になろう、もう少し人のことを考えてあげよう」と思いますが、それは思った時だけ。何分もしないうちにコロッとひっくり返って、「そんなことを思った私が馬鹿だった」となります。そのくらいに人の心というのは変わります。“女心と秋の空”と言いますが、女の人ばかりではなく、人の心はみな変りやすい。しかも、変わるのは、根がないのではなく、根深い何かがあるのです。
12節あるように、「不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る」と。しかも、「罪の惑わし」と13節にあります。人が神様を離れて、罪の支配に陥っている故に、心が清くなることができない。幸いな心に成り得ない。罪が私たちの心を掻き乱してくるのです。13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って」、罪が私たちを惑わして、心をかたくなにする。心がかたくなになるのは、罪が働いているから。「かたくなな心」というのは、英語の聖書を読みますとリフュージング ハートと書いています。Refuseというのは「拒む、撥ね除ける、或いは受け入れない」という意味です。心がそのようになるのです。皆さんでも、「これをどうぞ食べてください」と勧められ、「いや、私はそんなものは食べられん」と突っ張る。或いは、人が親切にしようとすると「そんなことして貰いたくない」と即座に断る。段々、年を取るとそうなってくる。堅い心になる。それは「罪の惑わし」です。
この世で生きていく上で、この「頑なな心」というのが厄介です。家族の中でもそうでしょう。夫婦であれ、親子であれ、親切に相手のことを思って「こうしたらどうですか」、或いは「これをこうした方が良いですよ」とアドバイスする。「そうね、じゃ、そうしようね」と素直に聞くことができたら、物事はスムースにいく。ところが、それが聞けない。「こうしよう」と言ったら、「いや、そんな事はせんでも良い」と…。
家内の両親が、父親は90歳になり、母親は84歳になりますが、大変頑なです。家内は娘ですから、親の面倒を看なければならないと思う。一生懸命に尽くします。しかし、案外と喜ばない。美味しいものを食べさせてやろうと、買って行きます。すると「何だ、そんな余分なものを買ってきて!もう買って来るな!」と言われる。そう言う親の気持ちも分かります。「費用をかけてまでせんでもいいよ」という気持ちは分かるのですが、「こんなものを持ってこんでもいい!」と、怒って言うものですから、よほど気に入らないと思って、持って行かないでおくと、母親の方から回り回って聞えてくる。「あれをまた食べたかった」。食べたいなら食べたいと素直に言えばいいのですが。冬になったから寒かろうと思って、セーターを買って行った。そうしたら気に入らなくて、「こんなの、持って帰れ!」と、持って帰れと言われても、「せっかく買ったのだから、使わなくてもいい、置いておこう」と置いて帰ったのです。一ヵ月くらい経って行って見たら、ちゃんと着ている。母に聞いてみると、「ズーッとこれを着ていて、洗濯したいのだけれども、脱ごうとしない」と言う。そんなに気に入ったのなら、初めから「有り難う」と言ってくれれば、どんなに幸いかと思うのですが、そこが言えない。悲しいですね。
皆さんも振り返ってみて思い当たることが沢山あるでしょう。「頑なな心」に対して、その反対は、「柔らかい、砕けた、従いやすい心」です。そういう心を持ち続けることが何よりも大切です。人と人とがうまくやっていくうえで、なによりも大切なことです。たとえ親子であれ、またこういう教会の集まりであってもそうです。教会に来ている方々は柔らかい心になっていると思いますが、時々そうでない方もいらっしゃる。「どうぞ、ここにお座りなさい」「いいえ、私はここで結構です」。座る所一つ何処でも良さそうなものですが、勧められたら「はい」と言えばいいのに、「私はこっちです」と端っこに座って、「私は教会の末席に席をいただいておりまして…」と謙遜のつもりかも知れませんが、非常に頑固です。だから、人から勧められたら「はい」と素直になることが大切です。
しかも、それは人に対して素直になるばかりでなく、実は神様に対してもそうであります。一番肝心なのは、神様に対して「素直な心」になることです。「私は人には素直でないけれど、神様には素直だからいい」と、居直る方がいますが、それは嘘です。見えている人に従えなくて、見えない神様には絶対に従えない!だから、奥さんがご主人に従えなくて、神様に従うことはできない。ご主人が奥さんに従えなくて、神様に従うことはできない。「先ず、神様の前に」というのが、根本です。人に従えないのは、実は神様に従えないからです。神様に対して素直になれないから、人に対しても素直になれない。人に頑なで、神様に従えるというのは嘘です。神様に従えない人は人にも従えない。神様に従える人は人にも従える。何かややこしい話になりましたが、もう一度申し上げますと、神様に従える人は、人にも従える。しかし、人に従えない人は、神様にも従えない。人に従える人は、神様にも従える。これは言えますね。13節に神様が、「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。殊に、神様に対して従うことができないと、これは大きな損失です。実はその失敗をしたのがイスラエルの民でした。
そのすぐ前のところをちょっと読んでおきます。同じ所の3章7節から10節までを朗読。
イスラエルの民が神様に背いて、大変な失敗をした時がありました。それは、エジプトでの奴隷の生涯から救い出されて、モーセによってカナンの地を目指して旅をしました。愈々カナンの地を目前にした、カデシ・バルネヤという所まで来ました。ヨルダン川を渡れば、約束の地カナンに入るという時に、神様は一つの試みをなさった。12部族から一人ずつ代表を選んでカナンの地を探らせ、偵察させました。そこにどんな食料があるか、どういう人が住んでいるか、どういうものがあるか、調べてくるように出かけて行ったのです。12人は、行き巡ってカナンの地を調べました。帰って来て民に報告した。その時、良いニュースと悪いニュースとがありました。喜ぶべきニュースは、カナンの地は作物が豊かな所で、生活するには不自由がない、いい所だということでした。みんな喜んだのです。ところが、もう一つニュースがある。それは、その地に既に人が住んでいる。しかも、そこにいる人たちは背も高くて、巨人族である。彼らが町を造り、城を設け、強い兵隊を持って、住んでいる。もし、自分たちがそこへ行ったら、ひとたまりもなくやられてしまうに違いない。そういうニュースがありました。その時、民は非常にがっかりして嘆きました。
そこのところを読んでおきたいと思います。民数記14章4節から10節の前半までを朗読。
このニュースを聞いたイスラエルの民は、非常にがっかりして失望しました。こうなったらモーセに従って、死ぬような所へ行くことはない。もう一度エジプトに帰ろうではないか。4節に「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」という話になった。その時、ヨシュアとカレブとが立ち上がって、民に勧めました。7節以下にありますように「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう」。「神様が『行きなさい、わたしがその地をあなた方に与える』と仰っているのですから、神様が良いと言われるならば、それは実現することで、大丈夫だから…」と。これがカレブとヨシュアの信仰でした。「神様が『行け』と仰っているのですから、それに従おうではないか。確かに目に見えるところは、困難があり、死が待ち受けているような事態があるかもしれない。しかし、神様がそう言われたのだから…」と。
9節にありますように、「ただ、主にそむいてはなりません」。神様だけには背いてはいけない。例え、不安があり、自分たちが考える限り「これはもう見込みが無い、もう道が無いと思われるかもしれないけれど、しかし、神様が『行け』と言われるならば、『与える』とおっしゃるならば、神様はその通りにして下さるから、従おうではないか」と、ヨシュアとカレブは彼らを説得した。それでもイスラエルの民は聞き入れず、10節にあるように「会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした」。彼らを撃ち殺して、別のリーダーを立てて、エジプトへ帰って行こうと決めたのです。とうとう神様は、この民に怒りました。憤りを表して、「この民を一人残らず滅ぼしてしまおう」と言われた。ところが、モーセは神様の前に立って執り成して、「この民を見捨てないでください、あなたが約束したではないですか」と、迫りました。神様は、「じゃ、お前がそう言うからこの民を許そう。ただ一つ条件がある」と。それは今反対した人たち、神様に背いた者たちは、カナンの地に入ることができない。そのために40年間荒野を彷徨(さまよ)って、彼らがみな死に絶えて、次の世代になってカナンの地に入ることができる。とうとう、エジプトから導き出された最初の人たちは、荒野でみな死んでしまって、カナンの地に入れたのはその後の世代の人たちです。問題だったのは、神様の言葉を聞きながら、それに従うことができない頑なな心。自分たちに都合が良い事になると、神様を信頼し、「神様!」と言いますが、自分の思いと違うと途端に心が頑なになる。そして、神様の恵みに与ることができない。これは今も変わることのない真理です。神様の言葉を聴いて、それに従う時に、神様は恵んで下さるのです。ところが、私達は神様の言葉に反発するのです。
聖書を読んでいても、この言葉は煙ったい、私のことを言われているようで、嫌やだからチョット飛ばして、一頁先を読む。何処かに自分の都合の良いことはないかしらと探して読んだりする。これは大きな間違い。それは私たちが心で、神様を拒んでいるからです。祈って、神様に近づいて、呼び求めている時、神様は御霊によって、神様の霊によって、私たちに語って下さることがある。右に行くべし、左に行くべしと。その時、神様が語って下さることを信じて従う。ここに神様の恵みを受ける秘訣がある。この時、イスラエルの民は、見てきた人たち、偵察をしてきた人たちの結果を聞いて、「それだったら、もう駄目だ。そんな国だったら駄目だ。神様は『行け』、『そこを与える』と言われるけれども、本当なのだろうか。そんなことはありえない」と思いますが、そこで神様の言葉ですからと素直になって、み声を聞くことが、恵みに与る秘訣なのです。
神様に祈って、この道が備えられる。ところが、どうしても自分の思うような道ではない。すると「どうも違うのではないか」と言われる。先だっても、一人の姉妹が「先生、ちょっと相談があります」「どういうことですか」、「一つのことで祈っておりました。祈っておりましたら、私の願いと違うことばかりが起こってくるし、求められる。神様の御心は何処にあるのでしょうか」と言われた。「いや、今あなたが与えられていること自体が、神様の御心ではないでしょうか」、「これは私の願いと違うんですけれども、それでも御心ですか?」、「神様の御心であって、あなたの御心じゃないでしょう」と言ったら、「え!そんなの…」と言って、帰って行かれましたが、その後どうなったか分かりません。神様がその道を備えて「これが道だ、これを歩め」と言われるのに、「いや、どうも違う。あれを考え、これを考え、あの人、この人から話を聞いて見ると、どうも違うように思うから…」と言って拒む。あからさまに神様に、「神様、それは間違えておられます。私はそんなのは信じられません」と言わない。言わないけれども、上手にそれを回避していく。避けて行こうとする。
ですから、もう一度始めの所に戻りまして、ヘブル人への手紙3章13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように」。どんな問題・事柄の中に置かれても、そこで「神様には絶対従うのだ」、神様が置かれた所、神様に与えられた道であるならば、そのことを信じて自分の思い、損得利害、好き嫌いによらないで、「神様が求めていることです」と信じて、素直に、神様に従っていく。その時、神様は、私たちの想像を超えた、思いを超えたことをなさる。事実そうだったのです。40年の荒野の旅を終わって、イスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入って行きました。確かに、そこには巨人族がいて、エリコの町という堅固な城塞都市がありました。武器も何も持たなかったイスラエルの民が、神様を讃美し、ほめたたえ、神様の言葉に従ってエリコの町の周りをぐるぐる回ったのです。一日に一回ずつ、7日間回って、7日目には7度回ってラッパを吹き鳴らした。その時、エリコの城壁が崩れるのです。神様は、イスラエルの民が、思いもしない、考えもしない、想像もつかないことを具体的に備えて下さった。今も私たちの信頼する神様は、私たちにそのようにして下さる。
神様が言われるところに従って踏み出して行くこと、素直になって神様の御声に従うこと、これが大きな祝福の源であります。ですから、今の13節に「心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに」と。主のみ声を聞いたら素直にその時に、心を頑なにしないように、「互に励まし合いなさい」と。お互いに神様が語って下さるところに従おうではありませんか。家族の人から一言言われたら、「あんたから言われたくない」と思わないで、「ああ、そうだね」と素直に聞くのです。それが「励まし合う」ということです。周囲の人が「だって、あなたはこうでしょう。こういうところがあるじゃないですか」と言われる時、人を通して神様が語って下さっている。そういう時に、素直に「はい」と、「ああ、そうだ」と受け止めて、心を新しくする。神様の祝福がそこに現れてくるし、想像のつかない事を神様がしてくださいます。
大分前ですが、私の友人の家族が夏休みを利用してやって来ました。その頃、小さな子供たちが4人いました。朝、食事をする時、家内がデザートにと果物を切って、食事が済んだらこれを食べようと置いたのです。お姉ちゃんが、食事よりもそのデザートを先に食べたかった。ところが、それをお父さんが叱ったのです。先ずパンや牛乳を食べて、食事が終ったらこれをあげる。でもその子は頑として言う事を聞かなかった。とうとうお父さんは、「あなたはもう食べなくてよろしい、他所の部屋に行きなさい!」。私どもは、親が子供を叱っていますから、シュンとして静かにいました。「どういう成り行きになるのかなぁ」と思って…。早く子供が「お父さんごめんなさい」と言えばいいのにと思ったのですが、その子もなかなか頑固です。言う事を聞かない。「向こうへ行け!」とお父さんから言われて、隣の部屋に行きました。お父さんは知らん振りをして「さぁ、みんなで食べよう」と、食事を始めました。その子は隣の部屋で何にも食べないで椅子にジーッと座っている。私はハラハラして、何とか食べさせてやりたいと思って、時々声をかける。「ちょっとこっちに来なさいよ」。頑として言う事を聞かない。とうとうその朝は食事抜きです。
私はその姿を見ながら、この御言葉を思い出すのです。あんなに心を頑なにして…、美味しい食事を食べそこなう。私達もそうです。神様が備えて下さる素晴しいことがあるのですが、目に見えないだけで、私たちが従わないが故に、それを食べそこなって…。そうならないために、日々の生活の小さな事で互いに心を柔らかくすることを学んでいこうではありませんか。
ご主人が言った時に、奥さんが「はい」と従うことを努めて御覧なさい。そうすると神様に従うことも楽になる。ご主人があれこれ言う時に、直ぐ右から左に反対ばかりするでしょう。だから、私どもは神様に従えないのです。できるだけ「はい」、「はい」と素直にならなくては、神様の祝福に与れないと思います。ここ13節にありますように「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする」、気がつかないうちに、心がかたくなになるのです。自分は本当にこんな優しい人間だ。私のように親切で柔らかい素直な人は居ないと思ってる。しかし、一言、隣の人から何か言われて御覧なさい。「いえ、結構です!」とパッと出る。「有り難う」というより、「そんなこと知っています!」と。私の父も比較的頑ななところがありました。何か珍しい話をすると、父は必ず「ああそうかね、初めて聞く話だね」とは言わない。「ウン、そうだ、そうなんだ!」と言う。そうなんだということは知っていたのかなと思う。負けん気が強いのです。
頑なになる時というのは、他人よりも自分が偉くなりたい、他人より先んじたいという思いがある。常に謙遜になることが大切です。そのために、私たちは自分がどんなに頑なな者であるかを認めなければならない。自分はあの人よりも優しい人間だ。少々出来がいい方だと思う心が、どこか隅にちょっとでもあるなら、それは止めた方がいい。
私は駄目なんだ!十字架にイエス様が命を捨ててくださり、あのむごたらしい刑を受けなければならない程の大罪、大きな罪が私にある。だから、どんなことがあっても、自分を誇るわけにはいかない。また、他人よりも自分が優れている者とは到底思えない。聖書には、「自分を他の人よりも優れたものと思ってはならない」と書いてあります。私たちはいつも十字架のところに立ち返っては、砕かれた者となる。主の憐れみによって、今日ここにあるのだと感謝して、そこに絶えず立ち返っていかないことには、自分を謙遜に置くことができないからです。自分が頑なな者であり、受け入れ難い者であり、本当に人に対して冷たい冷ややかな者であり、愛のない者であることを認めて、イエス様がこういうもののために、今日も「父よ、彼らを許し給え」と、取りなしてくださる。それゆえに許されている自分であることを認めて、他人に対しても、ましてや神様に対して謙遜になって、主が今日導かれる所、主が「せよ」と仰ること、主が「止めよ」と仰ること、一つ一つに「はい」と、一つ返事で素直に聞き従って行こうではありませんか。また、いろいろなこういう集会に出ては、自分の心を整えて、神様に前に素直な、砕けた、従いやすい心になる。
サウル王様はそれで失敗したのです。神様の命じられた事に従わなかった。明らかに従わない、反発したのではない。彼は一応従ったのです。「アマレク人を全滅させよ、皆殺しにせよ」と言われ、形だけはそれらしいことをしました。ところがちょっと従わなかった。神様の御言葉を少し曲げてしまった。そのために神様から、位を外され、王様の祝福から取り除けられてしまうのです。
そうならないために、神様の前には、従順な、砕けた魂を絶えず持ち続けていこうではありませんか。それが私たちの幸いな…、14節に「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となる」。私たちの初めの確信、イエス様の救いを感謝して、そして主を信じて、主の御声に、神様の御思いに、私たちが素直に従っていく時に、やがて私たちはキリストに与る者、キリストの栄光の姿に造り変えて、新しくして下さる。どうぞ、そのことを望みつつ、今この地上にある私たちは、日々何があっても、主には従う、神様には従う。人には従わんという意味ではないですよ。神様には従うということは、とりもなおさず他人に対しても従順な優しい砕けた心になって、従う者となるのです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。