いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(23) 「泣くことはない」

2013年10月14日 | 聖書からのメッセージ
 ヨハネによる福音書20章1節から18節までを朗読。

 15節に「イエスは女に言われた、『女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、『もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります』。イエスは彼女に『マリヤよ』と言われた」。

  私は近頃、しみじみと思いますけれど、時の流れは過ぎてみると平淡に、事もなくスーッと滑らかに過ぎてきたかのように思われます。今年も1月から始まって2月、3月ももう終ろうとしているわけですが、この3ケ月間、今置かれている落ち着いた、穏やかな生活が、「この3ケ月間もそうであったな」と一瞬思います。ところが、一コマ一コマを振り返ってみると、結構いろんな事が起こっていました。いろんな嬉しい事もあるし、悲しい事も…、病気で倒れる人が出たり、この短い3ケ月間に起こっているのです。恐らく、皆さんのご家庭の中でも、或いは皆さんの個人的な生活の中でも、自分自身の健康の問題や、家族の問題、或いは、周囲の問題、仕事上の問題、いろんな事、思いも掛けない事があったことでしょう。

何で、どうして?と思うようなこともあります。しかし、それら一つ一つは、私たちの計画や自分の考えで、或いは努力や何かの結果でそうなってきたのではなく、事柄の背後に、神様の御計画があり、私たちをそこに持ち運んでいるのです。こうやって、三ヶ月なり、一年なりを過ごして、また一つ年を取ることになります。毎年毎年、誕生日を迎えると、いやでも年をとります。その年をとるというのは、その間にいろいろな経験をします。その経験は過去にしたことの繰り返しのように思いますが、決して同じ事の繰り返しではなく、一つ一つが新しい出来事であります。

 だから、私は、皆さんによく申し上げるように、私たちは毎日毎日が未知との遭遇、新しい一日に踏み出しているのだと言えます。周囲を見て、自分よりも先輩の人や年配の方がいるから、まだ自分は若造だし、あの人が歩いたと同じ様な道筋を自分も辿って、人生を生きていると思います。しかし、誰一人、前に歩んでいる親であれ、兄弟であれ、周囲の同じ年配者と同じ経験をして、人生を過ぎていくことはあり得ない。一人一人が全く新しい経験をしている。昨日と今日は同じかと言うと、同じではない。既に何十時間かの時間が過ぎて、私たちの心も変わっていく、身体的な条件も変わっていきます。いろんなものが新しい世界へ入っていく。そして、そこでしか経験できない事があります。そういうものの積み重ねですから、同じ70歳になったから、或いは80歳になったから、或いは90歳になったから、その人と同じ思いを持つかと言うと、必ずしもそうではありません。
私の父がまだ元気だったころ、よく言いました。80歳代、90歳近くなってくると、「80歳にならんと80歳の者の気持ちは分からん」と言う。「90歳にならんと90歳の者の心は分からん」と言われました。そう言われると、拒絶されたような気がして、そうなのかなと思います。確かにそうだといえることもあります。では、90歳になったら、その人の気持ちが分かるかと言うと、これも分からないのが正直なところです。なぜなら、その人の置かれた境遇、生活条件、身体的条件、いろんなものが違います。神様は、一人一人に、その時でなければ過ごす事のできない時間、問題や事柄を与えてくださる。そしてその中で私たち一人一人が、神様との出会いを経験しなければならない。先輩が同じ様な失敗をしたから、私はそのような失敗はしないでおこうと思っても、それは不可能です。

だから、最近若い人のことを思う時、自分の体験から、あの時こうしとけば良かったと思う事がありますから、「あなた方は若いんだから、今の内にこうしたらどうだね」とアドバイスをします。老婆心ですね。こっちは段々と年をとって、先が読めるものですから、「今そんな事をしていたら、後になって泣く事になるよ、悲しい目に遭うよ」という事が分かっているのです。だから、それを言いますが、言ってもうるさがられるのです。「そんなの、やってみんと分からん」と言われたら、それはそうだと思うのです。最近は一つ悟ったのです。どっちみち人生は一回きりだし、神様はその人にしか味わえない事を起こして下さるのだから、失敗するのもいいのではないだろうか。或いは、怪我をして痛い思いをするのもいいのではないだろうか。そう思ってみると、若い人がしている事にハラハラドキドキしないのです。「いい経験をしているなぁ」と思う事にしています。「そんな事をしていたら、その内にひっくり返って、大怪我をするのに」と思いますが、本人はそれに気がつかないで、今が楽しければいいとやっていますが、まぁその内にぶつかるだろうと思いますが、口を出さない。「まぁ、見ておれよ」と、別に意地悪で言っているわけではありませんが…。

というのは、幾ら説明しても、そう言われたからといって、「ああ、そうか」と納得し、理解し、その助言に従えないのです。やはり、年配である皆さんが、失敗したと同じ事を、若い人が繰り返す事は無駄なようですが、しかし、必要なのです。それは、神様がそこを通しなさるのですから。だから、若い人をみてハラハラドキドキしないでいただきたい。「大いに失敗したらいいのだ」と思っていたらいいのです。だから、最近、若い人が「こういう事をしたい」という時に、「おお、やりなさい、やりなさい」と勧めます。あまり止めない。そのうちに分かるだろう、神様が教えてくださらなきゃ分からないのだからと。

皆さんもそうだと思います。幾ら説教を聞いて、いい話を聞いても、自分でぶつからなきゃ悟りません。だからそういう意味で、私たちは常に一人一人が新しい出会いと出来事の中に、日々導かれています。それは、年を取っても同じであります。私たちも日々そうであります。そうやって一年間を過ごします。一年間の経験を積んだ時に、もう一つ、今まで見えなかったものが見えるようになる。悟れなかった事が悟る事ができるように変わっていく。これは素晴しい神様の恵みだと思います。

だから、聖書の御言葉は、繰り返し繰り返し読みますけれど、その度毎に新しい新鮮な神様の恵みを戴くことができる。それは、私たちがいろんな経験を積んで、自分の至らなさ、足らなさ、或いは頑なさ、強情さを痛切に味わいます。年を取れば取るほど、段々と自分のありのままの姿と言いますか、飾らない自分の姿を客観的に見られるようになってきます。そして、そこで本当に神様の御愛を味わう事ができます。だから、クリスチャンにとって、年を取るという事は神様の恵みを獲得していくことです。

私自身、昨年一年間を振り返ってみても、思いも掛けない病気にもなりましたし、またその他にもいろいろと、教会の事や、或いは自分の家族の問題など、いろんな事柄の中で、今まで知らなかった、悲しい出来事や、辛い事、或いは嬉しい事もありました。その中を通り越してみて、今もイエス様は甦って、私たちと共にいて下さるという事が、どんなに大きな恵みであり、力であるかという事を直接味わいます。また、主がいまも生きておられることこそ、正に命そのものだと言う事ができるのです。

今読みましたこの記事は、イエス様がお甦りなったその「週の初めの日」と1節にあります。まだ朝も暗い時に、マグダラのマリヤや他の女性たちは墓へ出かけて行きました。他の福音書を読みますと、香料を持って、葬りのために出かけたとあります。というのは、イエス様はあの金曜日に十字架に命を絶えて下さって、もう金曜日の夕暮れ、今で言うところの土曜日が当時ユダヤ教では安息日ですから、安息日が始まろうとしていました。イエス様のご遺体を十字架から急いで取り降ろして、とりあえず墓に納めたのです。というのは、今は夜中の12時をもって新しい日にちが変わりますけれど、ユダヤ教の場合は、日が暮れると言いますか、太陽が沈んだ時をもって、次の日が始まります。それまでに急いで墓に納めたのです。本来だとご遺体をちゃんと始末して葬るわけですが、その時はそれができませんでした。ですから、女性たちが香料を持って、もう一度墓に来たのです。

読みましたように、その時に既に石が取り除けてあって、墓にはイエス様のお身体がありません。女達はその事をシモン・ペテロとヨハネに伝えました。2節に「シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子」とありますが、「主が愛しておられた、もうひとりの弟子」と言うのは、この福音書を書いているヨハネです。自分の事をそう言っているのです。この二人が走って行きました。4節に「ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き」と、ここでもまた、ヨハネはペテロよりも自分は先に着いたんだと言っています。

5節に「そして身をかがめてみると」、イエス様の身体に巻いていた「亜麻布がそこに置いてあるのを見た」。そして、シモン・ペテロも急いで後をついて来て、そして最初に墓に入ったのは、ペテロの方です。この辺がヨハネとペテロの性格の違いが出ていると思います。イエス様のことを思って、一生懸命に走って行って、ペテロを出し抜いてでも先に行ったヨハネでしたけれども、墓に入るにはちょっと怖かったのでしょう。彼は気が細いのです。ところがペテロの方は熱血漢で、衝動的に事をしやすい。だから、着くや否や墓に入って行ったのです。で、ヨハネは、ペテロが入っていった様子を見て、さぁ、入ろうかどうかとみる。そして、後からゆっくりと入って行く。8節に「すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた」。しかし、彼らはまだ、イエス様が死人のうちから甦るという事は、信じていなかった。信じられなかったのです。それはそうですね。生きている人が死んで甦るなんて、今まであったためしがない。だから、ここでもう一度、イエス様がそれまでに語っていらっしゃった事を、思い起こさせてくださった。

この二人が帰って行った時に、残されたマリヤは「墓の外に立って泣いていた」とあります。マリヤはそこで泣いていたのです。というのは、愛するイエス様のお身体でもあれば、慰めがあります。しかし、それとても無くなったのですから。今まで杖とも頼み、柱とも慕っておったイエス様がいなくなった。自分たちは一体どうしたらいいのか、途方に暮れて、悲しみの中にいた彼等にとって、イエス様のお身体すらも無くなったのです。確かに、私たちは肉親を失った時、何かその遺品と言いますか、火葬して焼いた骨であれ、それを持っていると、何かその人の存在を感じるのです。何か慰めを受ける事ができます。だから、死んだ体でも横たわっていたら、まだしもマリヤは慰められたでしょう。けれども、それも無くなってしまった。この時のマリヤの悲しみは本当に大きかったと思います。

その時、一人の人が墓の中に座っていたのです。それは神の御使であったと記されています。その御使が「マリヤに、『女よ、なぜ泣いているのか』」、「なぜ泣いているのか」と語りかけたのです。それに対してマリヤが、「だれかが、わたしの主を取り去りました」。私たちの主と崇めていたイエス様を何処かへ連れて行ってしまった、取り去ってしまった、だから、泣いているのですと。その時、実は、イエス様がマリヤの後ろに立っていたのです。

この15節に「イエスは女に言われた、『女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』」。この時、イエス様は、マリヤの悲しみを知っていました。悲しんでいるマリヤに、「あなたは一体なぜ泣いているのか」と。ここでイエス様は「なぜ泣いているのか」、理由が分からなくて訊いているのではありません。「泣かなくてもいいじゃないか」という意味です。「なぜ」と言われると、疑問詞のように、「どうして」とその理由を知りたいというように思いますが、イエス様はここでマリヤが泣いている理由は知っていました。しかし、その泣くべき理由はないのです。

今も私たちに対して、イエス様が語っておられるのです。この「女よ」という所に自分の名前を入れて読んでください。「榎本よ、なぜ泣いているのか」。人生には、いろいろな悲しい事、辛い事、苦しい事が沢山あります。人知れず、涙を流す事も度々あります。そういう時、泣くべき原因・理由があります。あの人がこうだから、或いは、自分の状況がこうだから、与えられた問題が自分の力には余るから、自分ができないから、悲しくて泣いているなどと、いろいろな理由があるでしょう。しかし、イエス様は「もう泣かなくていいのだよ」と仰る。

「なぜ泣いているのか。泣かなくていいじゃないか。なぜなら、私は甦って今も生きているのだから」。そしてイエス様が死を打ち破って、甦って下さったという事は、全ての問題を解決して下さる方が、今も生き、働いて下さるからです。悲しみの原因は何でしょうか。経済的な困難がありますか、或いは人間関係で行き詰っていますか。自分の健康の問題、或いは、老後の問題、或いは、家族の一人一人の抱えている問題や悩みのために、悲しいと思っているのですか。これさえなければ、私は喜べるのに、これさえなければ、こんなに嘆かなくてもいいのにと、思っていますか。イエス様は悲しみの全ての原因を知っているのです。そればかりではなくて、甦って下さったイエス様は、私たちと共にいて下さって、日々歩んで下さっている。私たちがその事に気づかないだけです。この時も、イエス様は甦っているのですが、14節に「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た」。マリヤさんは明らかにイエス様を見ているのです。見ているのですが、マリヤさんにとっては、イエス様は死んでしまって、いなくなった方です。その遺体すらも取り去られてしまった。自分の思いに囚われて、そこから離れられない。そこに自分がはまり込んでいますから、目の前に立っていても分からない。

私も、時にそういうことに出会います。デパートへ家内と買い物に行ったのです。そしたら、教会に見えている方が買い物をしていたのです。ちょっと声を掛けようと思って、近づいて目の前に立ちます。その方は、私の方を見ているのですが気がつかずに、商品を見たり、周囲を眺めたりしている。私はその方の目の前に立って、気づいて貰おうと、うろうろするのですが、気がつかない。私は声を掛けて、名前を呼びました。「…さん!」「ハッ!え!エ!先生、どうしてこんな所にいるのですか?」。「どうしてって、私も買いものに来ますよ」と答えます。いつも教会に居るものと思っているのです。教会から外へ出ないとでも思っているらしい。そういうふうに、既成概念、枠の中に入ってとらわれてしまうと、分からなくなります。この時も、マリヤさんは、イエス様はもう死んでしまって、墓の中に納められて、遺体も無くなってしまったと思っていますから、目の前にイエス様が立っているのですが、それがイエス様であるとまったく分からない。

どうぞ今日、もう一度、自分の心の殻を破って、「そうでした、主は甦って下さった」と信じる。この「甦って」という事が大切ですね。死んだ人が生き返るはずがない、イエス様は二千年前に死んだ人、今こんなところにいるはずがないと思っている、そこが問題なのです。そして、イエス様がいないから、あの問題が困ったことだ、この悩みがあるから大変だ、こうなったから私は悲しいと、毎日毎日、不安や怖れを抱いて生きている。その問題の中に自分を置いていますから、イエス様が傍に立っているのに気づいていない。イエス様が、そこにいるのだから、目を止めて、「主よ、イエス様!」と呼べば、イエス様は答えて下さいます。そして、私たちの思いを、心を知って下さる。悲しい問題があるならば、その問題を知っていて下さる。知っていると言うばかりでなく、どんな事をしてでも答える事のできる方です。どうぞ、私たちはこのイエス様を主と信じて、今生きているのだとはっきり認めようではありませんか。

15節に「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。毎日の生活の中で、甦って下さったイエス様を絶えず前に置いて、その方を見上げて歩もうではありませんか。その方が、私のことを知っていて下さる。イエス様は私の思いを、願いを、悲しみを、全てのことを知って、善き事をして下さる方なのです。そのイエス様に目を止めさえすれば、今、目の前にある問題や事柄は、どうでもいい事になります。いや、それどころか、思いも掛けない道を備えてくださいます。

今日も主は皆さんに対して「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」とおっしゃいます。私たちは、イエス様を信じていると言いながら、あっちに走り、こっちに頼り、この問題に、この悩みに、心と思いが支配されて、その殻から出る事ができなくて、「だれかが、私の主を、どこかに取り去ってしまいました」と、嘆いているのではないでしょうか。イエス様はいないと思っているのではないでしょうか。イエス様は二千年前の事であって、今日私の所にはいないと思っているのではないでしょうか。そうではなく、主は今、私どものそばに立っていて下さいます。「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。この女は、誰の事でもない、私の事、皆さんの事、今日も「嘆くことはない、悲しむことはない」と。どうぞ主の御声に心を開いて「ああ、主でしたか」、「イエス様、あなたでしたか」と、主に触れる体験をしたい。これがイエス様の復活を、自分のものとする秘訣です。
ですから、ヨハネの黙示録7章13節から17節までを読みましょう。

これは、やがて、私たちが天の御国に帰った時に、神様の御座の前に礼拝の民として集います。その時、私たちを白い衣をもって装って下さる。この白い衣は、「小羊の血で洗い」と記されています。イエス様が私の罪の赦しとなって、十字架に命を捨てて下さったことを信じて、イエス様と共に生きる私達のことであります。そして、15節に「御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう」と。神様が彼らと共に住んで下さる。これはやがて私たちが地上の生涯を終って、死んでからの話ではありません。死んでからはもちろんの事ですが、この地上に生きている時から、既に、この事態、事柄が、私達の内に実現されるのです。イエス様が甦って、今私達の内に宿って、共に住んで下さる。そればかりでなく、17節に「いのちの水の泉に導いて下さるであろう」。毎日毎日イエス様は、私たちを命の泉に導いて、命の水を注いで満たして下さる。そして「彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。もう泣く事はいらない。これは死んでからこうなると言うばかりではありません。今この地上にあって、現実の世の中にあって、肉体を持って生きている私たちにすらも、主は、このように恵んで下さる方です。「涙をことごとくぬぐいとって」、命の水の泉に連れて行って下さいます。そして、私たちを生きる者として下さいます。甦って下さったイエス様を、私の主と信じて、その方を絶えず見上げていこうではありませんか。

ですから、もう一度初めに戻りますが、ヨハネによる福音書20章15節に「イエスは女に言われた、『女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』」。甦って下さったイエス様が、皆さんの涙をぬぐい、命の水に導く牧者となって、いろんな問題や事柄、この過ぎてきた一年もそうでありましたが、これからもまた、もっと素晴しい恵みの中に、私たちを引き入れようとして下さる。問題があり、困難があり、悲しいことがあるならば、そこで絶えず甦って下さったイエス様を見上げて、涙をぬぐわれ、イエス様の御声に従って、命の水に絶えず潤されて、喜びと感謝をもって、この地上の生涯を全うしようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。