いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(34)「幸いなる試練」

2013年10月25日 | 聖書からのメッセージ
 ヤコブの手紙1章12節から16節までを朗読。

 12節に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。
 私どもはどのくらい生きるのかわかりませんが、聖書には、80年、或いは70年、長くても90年、その位のことだと言われている。その短い人生で、悩みのない、苦しみのない時期は、何年くらいあるか考えてみると、案外と少ない。恐らく、振り返ってみると、平穏な、心が安らいだ時はほんのわずかで、いろんなことで絶えず苦しい思いをしてきた、辛い思いで過ごしてきた、悩みが多かったというのが、実感だと思う。旧約聖書の「伝道の書」にも、人の一生は悩みと苦しみと悲しみで満ちていると記されています。生まれてから死ぬまで、これで安心、何の心配もない、今は最高に穏やかで幸せだという時は、70年間、或いは80年間生きたうちの一年くらいあればいいかなと思います。しかも、コマ切れで何ヶ月か合わせて、通算して一年くらいかも知れません。これで良かった、安心と思ったのは束の間で、直ぐに、新しい思い煩いや心配や不安が、私たちを悩ませ、一時として心休まる暇がない。子供の頃、父が伝道集会で、「人生は四苦八苦で様々な悩みがある。仏教では百八の煩悩というものがある。その中で一番の苦しみは、横切れのために苦労することだ」と語っていました。これを聞いて直ぐに分かる方は、それで苦労なさった方だと思います。「横切れ」と言うのは、口のことです。言うならば食べること、生活の事です。明日は何を食べようかと、文字通り生活苦です。60年位前、戦争の真っ只中から、昭和20年敗戦となり、戦後という昭和の動乱期を過ぎ、経済復興、所得倍増政策という池田首相が唱えたあのあたりまで、本当に日々食べるものに困った。現実に、米櫃の米がなくなる経験をしたのです。食べることだけで精一杯、他の事はどうでもいい。今日一日が食べられたらいいという生活をしました。

ある方から「亡くなった榎本先生の説教を聞いていると、遅配欠配と言われるが、あれは何のことでしょうか」と、訊ねられました。今では死語になったでしょうが、懐かしい言葉です。戦後配給制度になりました。お米は勿論、米穀手帳というものがなければ買えない。各家庭に割り当てられた量が決まっている。でも、決まった分だけでも入ればいいのですが、配給が遅れるのが「遅配」で、時には、今月はすっ飛ばして、次の月に配る。だから、一月無しで終るのが「欠配」です。その当時の悩みは、正に食べること、日々の糧をどうするか。だからイエス様がマタイの福音書で、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」と語っている。やはりイエス様の時代もそうだったのです。具体的に食べる糧がない。戦後の混乱の中で、米が配給、味噌、醤油なども配給の時代がありました。パンも割り当てでした。私も記憶がありますが、今日はパンの配給の日といって、貰いに行く。コッペパンを人数分だけ買ってくる。少しずつ食糧事情は改善されていきましたが、生活の困難が絶えずありました。食料が得られるようになったら、次に水道が使えるようになる、電気が使えるようになる。お風呂も各家庭で持てるようになる。それまでは銭湯という、公衆浴場に通った。今ではスーパー銭湯で、これは贅沢なレジャーに変わってしまいました。銭湯は非常に庶民的なものでした。そういう生活の苦しみの中にありました。

しかし、最近の悩みは生きる悩みです。もっと根本的な、食べることより、生きること自体の悩み、苦しみを味わう。生活は安定してきた、家を買い、老後の蓄えも出来た。ところが、家庭の中で人と人とが上手くやっていけない。親子関係がおかしくなる、夫婦の関係がおかしくなるなどの問題が深刻になってきた。そういうことは、食料が満ち足りて、着るものも豊かになったら解消すると思っていた。「衣食足りて礼節を知る」という古い言葉があって、衣食が満ち足りたら、人は心豊かになり、穏やかになって、平和になるのだと。そうはいかないのが現実です。

日本の社会は、これだけ豊かになりました。豊かになったから、みんなが幸せになったかと言うと、それどころか、大変に暗い、生き甲斐を失った、悩みに満ちた人生を生きる時代に入ってきた。私は良い時代だと思うのです。なぜなら、真っ裸になった人間の根本的な問題にぶつかるようになたからです。神様に帰らなければ、どうにも解決できない時代になった。幸いなことだと思います。嘗ては、目先の食べること、着る物、住む所、そういう生活上の事柄を解決するのに悩んだ。生きる問題とか、自分がどんな人間であるかなど、悩むヒマがなかった。そんな事より、取り敢えず食べること、肉体的に生きることを求めたのです。しかし今は、愈々内面的な悩みが多い、苦しみが多い。それは神様を離れ、罪を犯した者が当然受けるべき現実的な問題、悩みです。人間が人として生きる生き方がわからない。我侭、自己本位であることが、人と人とのつながりを破壊する。或いは世の中、社会の中で人間の醜悪な側面が、赤裸々に出てくる時代になってきました。だから、物質的に豊かになる、或いは生活環境を整えて、事が解決する時代ではなくなったのです。

世の指導者は、何かまだ物が足りないのではないか、何かまだ不足しているのだと、施設を造ったり、或いは、制度を整えたり、ああしたりこうしたり、そういう事で世の中が良くなると思っている。それは到底有り得ないことです。私たちの悩みや困難や苦しみは、もっとストレートな形で、神様との関わりが問題になっているのです。

今読みましたこの12節に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」。この試錬と言われているもの、苦しみと言われているものは、その事を通して、私たちが被造物であり、造られた者でありながら、神様を離れて命を失っている者である事を悟るための恵みの時です。

1章2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。とんでもない話ですね。試練に会って喜べと言うのです。確かに試錬は好ましいことではないし、自分が願っていることではありません。出来ればそういう事のないことが、幸せだと思います。しかし、今申し上げたように、自分の姿を知り、自分の問題点がなんであるかを悟って、自分が造り変えられて、新しいものになっていく道筋、そのために試錬が置かれているならば、それは2節に語られているように、非常に喜ばしいことだと思います。

日本の社会は、今申し上げたような今まで経験したことのない、新しい形の悩みや困難や苦しみの中に置かれている。皆さんもご承知のように、いろんな問題が日々新聞紙上やテレビのニュースを賑わせています。女の子を監禁したり、理由もなく人を殺したり、何とも知れない犯罪が増えています。昔は人を殺すことは良くないにしても、何かそこには一分の理と言いますか、「それは仕方ないよなぁ」と思わせる何かの理由付けが必ずありました。ところが、今はそういう事のかけらも見られない。一体、どうしてそんなことになったのだろうか、どうしてこんなことが起こったのだろうかと、理由が分からない。

昔、実存主義という言葉が流行ったのをご存知だと思います。フランスのサルトルという哲学者などがその中心だったのですが、当時カミュという人の書いた小説で「異邦人」というのが、一時有名になりました。私も当時実存主義というものにかぶれまして、ひところ熱中したことがありましたが、「異邦人」という小説の初めは「父が死んだ」という言葉から始まるのです。一人の青年が、父の死をきっかけにしてある殺人を起こします。そしていろんな取調べを受けます。いろんな分野から、社会学的に、或いは、心理学的に、家族的な事柄とか、いろんな面から殺人の動機を探りますが、結局分からないのです。彼を尋問して、「一体何故、人を殺したのか」、彼の答えは「太陽がまぶしかったから」という。動機が分からない。

新聞のニュースなどを見ていると、あの時代を思いだします。なぜ殺したのと問われて、「退屈だったから」とか、「他にすることがなかったから」、或いは、「人を殺すってどんなことかしてみたかった」とか、実に理由にならない理由、それが実存主義の言う不条理という言葉になるのですが、理由がない。人間的にどう考えても理屈が分からない。そういう世界になってきました。それは、神様を抜きにして生きている限り、不条理に突き当たるのです。わけの分からない世界に入っていく。しかし、説明できないことがあって当然だと思います。実存主義は説明の付かないことを、肯定しよう、そう言うものなのだと認めようというのが、実存主義です。それまで、人間のする事は、説明がつくのだという、ある種の合理主義がズーッと時代を流れてきました。ところが説明のつかないことがある。それは、私たち自身の心の中にもあるわけです。

そこで、説明を付けるには、神様をもう一度、私たちの生活の中に置いて、人というものをもう一度見直してみなければならない。実は説明の付く時代があったというのは、合理主義と同時に、その少し前には、いわゆる宗教というものがあって、ヨーロッパの社会は、中世時代から神中心の世界だったのです。そして、全てがそれで説明してきたのです。神様が、こうして下さった、神様がこうだと。ところが、その神はいるのかという疑いから、実存主義が始まります。今まで説明がついていたというのは、あるかないか分からないような神様を置いて考えるから説明出来たのだが、そんなものはないのだから、説明がつかなくなるのは当たり前だということになります。

しかし、私は、そうではないと思います。もう一度聖書に立ち返らねばならない、神様を求めなければいけない時代なのです。日本の社会も戦後一つの価値観できました。それは、衣食足りて、全ての物が豊かになり、物質的に満たされてくれば、非常に落ち着いた、幸いな世の中で、人殺しもなくなり、家庭の問題もなくなっていく。教育上の問題もなくなるに違いないと、単純におめでたく信じていた時代があった。ところが、今はそれがなくなってしまった。それでは立ちゆかないことが現実に見えてきた。今申し上げたように、人の知恵や考えでは説明し尽くせない事態や事柄が今起こっている。それを解決するには、神様を求めて、立ち返らなければならない。

12節に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。私たちが今直面している自分の悩み、困難を赤裸々に見つめていると、神様の前に自分が罪人であって、どんなに我侭な自己本位で神様を知らないで生きていた者であったかが、よく分かります。悩みに遭わなければそのままです。しかし、悩みに遭うことによって、自分の至らなさ、自分の身勝手さ、罪を自覚せざるを得なくなります。

ヘブル人への手紙12章5節から11節までを朗読。

この5節に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。これは神様が私たちを御自分の子供とするために訓練なさる。「むち打たれる」とあります。そうすることによって、自分の弱さを知り、自分の罪を認め、謙って、砕けた者となり、神様の前に立ち返ることが出来る。更にそれによって強められ、訓練を受けることによって信仰が試され、忍耐を愈々持つことが出来るようになります。神様に信頼するものと変えられていく。神様は、全ての人が主に立ち返って、神様を知る者となること。神様の救いに与って、神様の子供となることを願っています。

10節を読みますと、「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」。私たちがいろんな悩みに遭い、困難や苦しみに遭った時、そこで神様に立ち返ることです。そして、自分を清い者と変えていただく。神様の前に悔い改めて、新しい命に満たしていただく。これが訓練を通して得るべき事です。神様の御性質にまで、私たちを造り変えて下さるために、試錬を与え、訓練して下さる。わたしたちの直面している問題は、ここに直結した事柄なのです。自分の罪の大きさに、その深刻さに初めて気付くのは、私たちが問題にぶつかった時です。事が順調で、それなりに表面立って波風が立たない人間関係でいる間は、自分も立派な人間くらいに思います。ところが一旦利害関係でもつれたり、事がややこしくなってきた時、自分がどういう人間であったかということがもろに出てくる。それがなく、ただ表面だけの付き合いであったならば、現れてきませんし、自分も自覚がない。そうである限り、人は成長しない、変わっていかない。神様が私たちに願っていることは、ここにありますように、「そのきよさにあずからせる」、神様の御性質、清い御性質に私たちを造り変えようと願っている。

だから、殊に自分の中心的な事柄に、一番触って欲しくないところへ、神様は問題を起こされる。これはストレートですね。今までは、それこそ食べる問題とか、生活上の問題とか、いろんなものが周囲にあったから、これが解決したら、あれが解決したらと思っていた。それが何もかも解決されて、今はもろに人と人がぶつかる、そういう時代です。だからこそ幸いなことです。何故なら、他に逃げようがありません。神様の前に自分を置く以外に道が無いのです。

ですから、ホセア書6章1節から3節までを朗読。

この1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。これが全ての問題の解決です。先ず、主に帰ることです。この地上にあって、まだいろんな生活上の具体的な問題があるでしょう。あの問題、この問題、解決しなければならないことが沢山あります。しかし、それを解決するに当たって、先ず一番にすべきことは何か。私どもが先ず神様に立ち返ること。私たちは問題が早く解決して欲しいと願います。何とかして具体的な道を開いて欲しいと願って祈ります。しかし、神様は、目の前の見える事柄や、事情境遇を変えることではなくて、勿論それも良いことですが、しかし、もっと大切なことは、私たちが神様に立ち返って、主を知る者となる。また先ほどのヘブル書12章にありますように、「そのきよさにあずかる」者となることです。

問題に当たった時に、何とかして今の苦しみから、悩みから逃れようと右往左往するのではなくて、もう一度神様に立ち返って、自分がどういう者であり、今神様がどういう事を求めておられるのか、神様の前に、自分は一体どういう者であったかを、よくよく思い巡らして、思いを整え、心を新しくして、姿勢を真直ぐにして、神様に聞く時、気が付かないうちに、神様は全部良きことにして下さるのです。私たちが試錬だと思うことは正にそこなのです。試錬を耐え忍んでいく、受ける試練の度毎に、絶えず主に立ち返る事を繰り返す。「一度帰ったのだからいいじゃなかろうか」と思いますが、わたしたちは気が付かないうちに、そこからずれてしまう。神様に対する思いが変わってしまう。気が付かないうちに自分が出てくる。だから、神様は度々、いろんなことを起こして、自分が今どういう状態にあるかを気付かせようとしてくださる。

私どもは、いろんなことに遭うと、今まで隠れていた自分の姿が見えてくる。嫌になることもあります。しかし、こんな酷い自分の心に、こんな嫌な自分が居たのかと思う。その中から、主の十字架の功しによって、贖いによって、こういう者を今日も許して下さる主の御愛に、立ち返ることが出来る。心を清められていく時に、私たちは恵みに与り、救いに与ることが出来るのです。私たちが生きている限り、生涯続きます。しかし、私たちにとって真に益となる事であり、幸いなことなのです。ですから、試錬に遭うならば、それを逃げないで、それを嫌がらないで、それを避けないで、その中で真正面から神様にぶつかっていく者となりたいと思います。つい逃げ道を考える、何とか上手くこれを乗り切れないだろうかと。そうではなくて、問題の中で、神様を求めることに、立ち返っていかなければ、そして耐え忍んで、神様に自分を捧げて、新しくされる時に、人はきよい者となります。やがて、生涯を終る時に、「いのちの冠を受ける」者となるのです。

イエス様は放蕩息子の譬えを語りました。放蕩息子である弟は、お父さんから遺産を分けて貰って、勝手に出ていきました。好きなことをして遊んで、全部使い果たしてしまって、やがて飢饉になり、食べるものに窮して、豚を飼う惨めな状況に陥った。そこで初めて本心に立ち返った。自分がどういう人間であったかが、よく見えたのです。もしそういう事態にならなかったら、そういう悩みに遭わなかったら、本心に立ち返ることもなく過ごしていたでしょう。事がなくて、上手い具合に進んでいたら良さそうに思いますが、それでは失うことが沢山あります。むしろ、いろんな問題にぶつかって、そこで自分を知り、悔い改めては、主の恵みに立ち返って、主の清さに与り、主の力の大きさ、深さ、高さ、長さを味わい知る者となること、これが、実は最高の幸せなのです。

年を取ると、かえって悩みが多くなります。殊に身体的にあそこが欠けてくる、これが出来なくなる、こういう事が不自由になると…。私はしみじみと考えて、長年生きてきて、苦労を積んできた人が、年をとって愈々苦しくなるとは一体何事だろうと思います。よく半身不随になって寝たきりの方をお見舞いに行きます。これまで子供で苦労し、ご主人に苦労し、いろいろな苦労をして、そのあげく、今度は病院に置きっ放しになった姿を見ていると、気の毒としか思えません。しかし、自分が年を重ねてきてこれからという時に、もう一度よくよくその事を考えて見ると、「神様は、素晴しい恵みを与えて下さるのだな」と思います。というのは、天国に近づけば近づくほど、愈々清くならなければならない。あの人、この人を頼り、事情境遇に寄りかかって生きている自分が清められること。そこから引き離されて、「ただ主のみいませり」と神様だけに、心と思いが集中するようになる。年を取れば取るほど、今まで思うように動いていた自分が、動けなくなる事を通して、主の前に謙って、一日一日が神様の憐れみと御愛にある事を感謝する、喜ぶことが出来る者となる。若い時は、朝起きて元気なのは当たり前、「そんな事、生きていて当たり前、朝、目が覚めて今日は元気だったと、感謝なんかする暇はない」と思っています。しかし、年を取ってくると、朝、目が覚めて「今日も生きていた」という喜び、今日も健康を与えられて、「生きることが出来る」と喜べるのです。そして、神様に愈々近く生活することが出来るようになる。これが年を重ねる事の恵み、また、年をとって悩みが多くなり、殊に自分自身の身体的などうにもならない問題の中に置かれる時、愈々神様を間近に見る者へと変わっていく。神様は素晴しい事をしておられるなと思いました。年を取れば取るほど、そういう試錬の中に置かれて、目が開かれ、心が清められ、キリストの栄光の姿へと造り変えられ、その時がきたら、瞬時にして、神様の御許に引き上げていただけるのだと。

 英語検定という資格試験があります。4級は中学生くらいの初歩的な試験。3級というのが、高校卒業くらいの程度、2級というのが大学生くらい、その次に凖1級というのがあり、1級といったら、それはよほど難しい試験なのです。考えてみたら4級から段々上がっていくほど難しくなっている。私たちの悩みも、年を取れば取るほど難しい試験になってくる。だから、3級や2級レベルの問題じゃない、もっとこれからは、超一級レベルの試錬の中を通るのですから、腰の帯を締め直して、心を定めて、今まで以上の自分に造り変えていただく事を願って行きたい。

ヤコブの手紙1章12節に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」とあります。その通りです。神様が私たちを清め整えて、世につける一切のものを清めて、それらを全部取り除いて、塵芥を一切取り除いて、純粋に清くして下さる。私どもを清めて、神様の御前に立つに相応しく整えて下さる。その試錬が、今与えられているのですから、感謝しようではありませんか。御国に相応しい者に準備が整ったら、神様は、「はい、帰っていらっしゃい」と迎えて下さいます。

これが12節に言われているところの「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」ことの理由です。そしてそれを通り抜いていく時に「神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」と。神様からの清さに与り、神の子供として、文字通り神の御国に迎え入れて下さる時を待ち望んで、残された地上の歩みが、主の御心に適うようにと願います。そのために必要ならば、苦しみよ、悩みよ、どんなものでも来たれと、怖気つかない勇気を持って、主の力にすがって、悩みを、試錬を受けて行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをしましょう。