イザヤ書30章15節から18節までを朗読。
15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」とあります。
日々の生活では、いろんな事態や事柄、思い掛けない問題、悩みに遭います。そういうときに、直ぐ「どうしようか」、「どうして!」とうろたえます。早く何とかして、悩み、悲しみ、苦しみを切り抜けようと、あがき、もがき、七転八倒して苦しみます。そして、あっちにこっちにと、独楽ねずみのごとく走り回る。あげくの果て、解決つかず、がっかりして、いやそれどころか、ますます悪くなって、そして、「仕方がない、こう成ったら神頼みだ」と諦めます。そうやって仕方なく神様を求めることになります。最後に神様の所に来ることは、それなりに幸いですが、早く神様の所に来ればもっと幸いだと思います。しかし、なかなかそこに行かないのが、悲しい人間の性(さが)と言いますか、人の性質だと思います。
物事には、必ず順序があります。まず、これをした後にこちらをする。その次はこれをするという風に、順序があります。料理などもそうです。料理の本を読みますと、レシピ(手順)というのがあります。この料理を作るとき、材料はこれだけ、こういうものを揃えなさいと。それを揃えた上で、最初はこれをして、次にはこれを刻んで、それを炒めた後で、今度はここにスープを入れて、という具合です。一番最初に、これをするべきですと、ちゃんと順序が書いてあります。それを順序良くきちっとやっていけば、なるほど一番良い状態に完成します。時々、ベテランの主婦の方は、「これは後にして、こっちから先にしておこう」とします。そうすると、後になって似ても似つかぬものになる。
私が中学生、高校生くらいの時に、食欲旺盛なときですから、いろんなものが食べたい。で、料理の本を見て、「お母さん、これ作って」と頼みます。母は「作ってあげよう」と言うので、期待して待ちます。本には写真がついているから、「これが食べられるのだ」と想像が膨らむ。それで、「今日はあなたが言っていたこれを作ったからね」と食卓に並ぶ。フッと見ると写真と全然違う。「どうしたの」と言うと、「材料がなかったからこれにしておいた、この材料はあれにした」と、材料は手近かにある代用品ばかりです。本物に近くなるわけがない。その上、炒める時にこの油がなかったから別のものにしておいたとか、焼くべきところを、蒸しておいたとか、他の方法でやるから、美味しかるべき筈のものがまずい。母は「どうね、美味しいでしょう」と自慢げに言う。こっちが期待していたのとは大分違う。後でそっと本を見ると、全然違っているのです。それ以来、あまり頼まなくなりました。
日常生活の中でも、順序が必要です。思いがけない、まとまったお金、定期預金が満期になったとか、病気をしたために保険金がおりたとか、そういうときにこれで何を買おうかと考えます。家族に訊くと、テレビが欲しい、クーラーが欲しい、車もいい、あれもこれもとみんなが言う。言うとおりにしていたら、なくなってしまいますから、順番を決めなければいけない。何が優先されるか、何が大切かを議論します。家族で、或いは夫婦で、「あなたはそう言うけれど、今これが大切で、これが無いと困る」「いや、お前、そんなことを言うけれど、これだよ」と、喧々諤々とやる。そして、第一はこれ、第二はこれとこれを買って、余ったらこれにしてと、順番を決めます。
一日の時間をどのように配分にも事の後先があります。今日は何をすべきか、一番最初にすべき事は何かを決めなければ、あとがチグハグになってくる。学生時代に、定期試験の前になると、試験の勉強をしなければならないと分かっている。分かっているのだが、部屋が片付かないから、先ず部屋の掃除と片づけをして、さぁ、勉強しようと思ったら、「あの本をちょっと読んでおかなければいけない」と、しょうもない小説を開いて、「これも国語の勉強だから」と、自分に言い聞かせる。そのうち、「もう、時間だ、夕方だ、もう夜も遅くなった。早く明日の試験の勉強をしなければ」と、やっと今日しなければならないテキストを開いて見始めたら、夜の一時二時。「明日は試験があるから、今日は寝よう」と、寝てしまう。三日間の定期試験が終って、最後の試験の答案を出して、学校の帰りは実に気持ちがいい。何もしていないのに、「終った。よく勉強したなぁ」と思う。しかし、その結果は惨憺たるものです。
何が大切かを知りながら、それができない。これは私たちの最大の問題点です。朝起きて、「神様、今日は何をすべきでしょうか」と祈り、主の前に静まる。これを第一にすれば、次はこれをすると、順番が決まります。そしたら、それに従っていけばいいのですが、今申し上げました試験前のように、しなくてもいい、しょうもない事を一生懸命にやって、「今日は時間が無くなった。また明日にしよう」と先延ばし、先延ばしにしている事が沢山ある。これが私たちの一番悪い癖です。神様の前に先ず姿勢を整えないから、いろんな問題や事柄、悩み、突発的な出来事が起こって、大慌てして右往左往します。そうではなく、15節にあるように「あなたがたは立ち返って」、先ずは「立ち返る」ことです。そして「落ち着く」ことです。しかも「信頼する」ことです。この三つが大切です。で、この三つは神様に対する自分の姿勢です。神様に心を整えること、これが「立ち返ること」「落ち着いて」「信頼する」事です。思い掛けない悲しいことや、苦しい辛いこと、或いは病気だとか、いろんな問題が起こったとき、直ぐしなければならない事は、神様の所に帰ってくること。これは基本中の基本です。人生に一番大切なことです。ところが、案外それを忘れる。
いつも集会に来ることができ、また、祈ることができ、また聖書を読んで、日々、主と共に生きているように思います。ところが、思いがけない病気になったり、或いは家族のうちに何か不幸が起こったり、問題が起こったりして、がさっと揺さぶられたときに、そこで自分自身の信仰が振るわれます。その時、先ず何処にいくか。神様の所に帰るのです。「でも私は、前々から神様を信頼しているのだけれども…」と、思います。しかし、それは形だけで、気がつかないうちに、心が神様から離れている。神様の方を向いている様で、ちょっと横向きになっている。姿勢が崩れている。真直ぐに神様を信頼することが出来ないのです。
ですから、ちょっと読んでおきたいと思います。創世記28章18節から22節までを朗読。
これはヤコブが一人、家を出て、叔父のラバンという人の家に旅立ったときです。一晩野宿をしました。そこへ神様が現れて、「あなたは心配することはいらない、わたしがあなたと共に行くから、そしてまたあなたをこの所へ連れ帰るから、大丈夫だよ」と、夢枕に彼を励ましてくれた。彼は自分は孤独で、親からも兄弟からも捨てられて、全く自分の身の置き所がないと思ったのです。しかし、彼は「そうじぁない、神様が私と共にいらっしゃる」と知ったときに、目を覚まして、喜び、感謝に溢れました。そして、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」、神様が私と共にいらっしゃるのに、忘れていたと告白しました。私たちもよくそういうことがあります。普段から、教会には熱心に来て、礼拝は欠かさず、平日の集会にも来ている方が急に姿が見えなくなる。「最近、あの方はお見えになりませんが、どうしたのでしょう」と尋ねると、「あの方は今こういう問題があって、東奔西走で、あっちこっち忙しくして、教会に行く暇がないと言っています」とのこと。私は「大変なことだ。もっとするべき大切なことがあるのに」と思います。事が起こったとき、神様の所に帰ってこないで、神様を離れるのは、一番の不幸です。
病気したら、「熱がある、病院に、あのお医者さん」と病院に駆け込むから、後が長引くのです。先ず、神様の所に来てお祈りして、主が癒し主でいらっしゃることをきちっと告白することです。これが基本です。私が生きているのではない、誰か人によって生きているのでもない。実は、「神様、あなたが私の主です!」と、きちっと神として立てていく。これが大切で必要なことです。
ここでヤコブは、神様が一緒にいらっしゃる事を知ったとき、神様に自分の信仰を告白したのです。18節の「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで」と。彼は自分が枕としていた石を神様の前に立てて、油を注いで、神様を礼拝しました。「神に帰れ」と言うのはここです。神様に立ち返って、自分自身が神様に造られた者であり、神様の手に握られた者であること、主が誰でいらっしゃるかを告白することです。ヤコブは20節にありますように誓いを立てて、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」。これは何か取引みたいに読めますけれど、必ずしもそうではなく、彼の気持ちは「これからあなたが全部を司って下さる主でいす」と告白したのです。そして、その石を証拠として立てました。どうぞ、ヤコブの事をよく覚えておいていただきたい。ここにありますように「ヤコブは朝はやく起きて」と、先ず主の前に出て、「神様、あなたが主です」と告白しているのです。食べるもの、着るものも、生活の全てが神様によって備えられていること、「あなたが主です」と告白して、一日の出発点とする。これが日々の生活です。更にまた、個別にいろんな問題や事柄が起こったとき、そこでうろたえ、悩むときに、「私は一体何処に立っているのだろうか」「誰の前に自分を置いているのか」と自問する。
イザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ』、」。落ち着くのです。自分であちこち、右往左往しない。そこで神様に期待して、神様に信頼して、その時をじっと待つのです。「何をどうせよ」と神様が命じるまで待つ。そうすると、神様は、今何をすべきか、あなたが今、今日、この問題に関しては、どういう態度を取り、どういう歩みをすべきか、教えてくださる。
家庭でもそうです。ご主人に対しても、奥さんに対しても、何かパンパンと言いたい時は、グッと飲み込むのです。主に立ち返るのです。カーッとなるでしょう。奥さんが何か言って、或いはご主人が言ったことで、カッカとなったときに、「主よ、ここでどうしたらいいでしょうか。私が言い返すべきでしょうか」とお祈りをするのです。主に立ち返る。姿勢を整えるというのはそこです。そうしたら、スーッと気持ちが静まる、グッと飲み込める。「主人の頭が冷えた時に、後でもう一度…」と思うでしょう。そうすると言わないで済みます。私たちの悪い所は神様にすぐ行かない。自分の感情が先にカーッと出る。だから、絶えず神様の前に立ち返るのです。どんなときにでも、「立ち返る」こと、これが大切です。ダビデが語ったように、「私は常に主をわたしの前に置く」(詩篇16:8)。こう言えるならば実に幸いです。しかし、常に主を自分の前に置けません。置けないときは立ち返るのです。いつも置いているつもりが外れるから、私たちはそこへ立ち返ることが大切です。
15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いて」、落ち着くことです。立ち返るのと、落ち着く、これが順番ですから、大丈夫です。立ち返っても落ち着けるだろうかと、落ち着いていないのは、立ち返っていない証拠です。だから、落ち着けないと思ったら、神様の前に立ち返っていない、姿勢が間違っている。だからもう一度改めて立ち返らなければいけない。あのヤコブのようにきちっと石を立てて、神様の前に「あなたが主です。私はあなたの手の中にあるものです」と証詞していく。すると心が落ち着きます。落ち着いていると、今度は信頼する心が生まれてくる。これでトントントンと、三拍子揃います。肝心な一番最初をいい加減にするから、ボタンを掛け違う。落ち着けない、それどころか神様を信頼できない。そして、その後にあるように「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と言う話になってしまう。もっといい方法があるにちがいないと。こんなにじっとしていてどうする、ひょっとしたら手遅れになる、或いはもっと酷いことになったらどうしょうか。あせる思い、思い煩いがドーッと私たちを押し流していき、あれよあれよという間に、神様から遠く離れて、気がついてみたら、教会にも近づかなくなって、「私は何をしていたのか」と、後悔する。だから、いつもどんなときにも、主に立ち返りましょう。
歴代志下20章1節から4節までを朗読。
ヨシャパテ王様のとき、ユダの国にモアブ人、アンモン人およびメウニ人という大軍が大挙して攻めて来ました。そのときに、3節に「ヨシャパテは恐れ」とあります。恐怖に襲われ、怖くなった。そこでヨシャパテは何をしたかと言うと、ここが大切なことです。「主に顔を向けて助けを求め」、彼は大軍が来たからといって、他所の助けを求めたのではない。エジプト、或いはスリヤに助けを求めたのではなくて、「主に顔を向けて」とあるように、神様に先ず心を向けて、主に立ち返ったのです。私たちがすべきことはここです。恐れが湧いてきたとき、主に立ち返る。彼は王様でしたから、「全国に断食を触れさせた」。4節に「それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた」。国中を上げて神様の助けを求めた。
その先、歴代志下20章5節から12節までを朗読。
ヨシャパテ王様の信仰は素晴しいですね。敵が大軍で攻めてきたので、国中に呼びかけて、断食をして、神様を呼び求めて、祈りをさせました。自分は神の宮、神殿に入って、神様の前に祈ったのです。「神様、あなたは約束したではありませんか。この宮」、ソロモンが建てた宮だったのですが、「ソロモンがこの宮を建てたとき、神様、あなたは約束してくださったでしょう。国に飢饉があり、或いは疫病があり、また、様々な災いがあるときに、『この宮で祈るときお前の祈りを聞く』と約束して下さったではありませんか。今その約束に従って、あなたを求めています」と。ここまで言われたら、神様も知らんとは言えない。私たちも神様に祈るときに、これだけの信仰、厚かましさをもって祈ろうではありませんか。
何故なら神様は、宮を建てて、約束したどころじゃない。イエス様というひとり子を遣わして、私たちの罪の贖いとまでして下さった方。その神様が、私たちの祈りを聞かないはずがない。応えてくださらないはずがない。それどころか、私たちの主となっている。だから、神様に向かって祈るときに、はっきりとイエス様を信じて、「あなたはこんなに私を愛したと言うではありませんか。だったら、この悩みから、この問題から、この事柄から、私を救い、あなたの御業を現して下さい」と、信仰をもって祈ることができます。ヨシャパテ王様は正にそうやって祈ったのです。そして、12節に「この大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。全く私たちはお手上げですと、ヨシャパテ王様は神様に信頼しました。私たちは直ぐ目の前の事柄を見ては、「ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようか」と、いろんなことで心が動く、そして落ち着かなくなる。ここが信仰の醍醐味と言うべきでしょうか、信仰を働かせなければならない大切なところです。
このとき、その祈りに神様は応えてくださいました。17節を読みましょう。「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである」。穏やかに信頼しているときに、ヨシャパテ王様に対して、神様は、「この戦いはあなたがたが戦うわけではない、しかし、明日とにかく、あなたがたは戦いに出なさい」。「寝ていなさい」とは言いません。“寝て果報を待て”とは言わない。「出なさい」と言うのです。「だって、私は力がないのですから、出たら一挙にやられてしまいます。神様、あなたがやってくださるというのですから、私は寝ています」と言いた。ところが、ここが大切です。神様は、私たちが信頼したら、信頼した私たちに対して、どうあるべきかを語ってくださいます。ここで、神様はヨシャパテ王様に「戦いに行け」と仰います。「これはあなた方が戦うには及ばない」と言いながら、「戦いに出よ」と言う。それは、そこにありますように、勝利を見に行くのです。行けば神様の方が備えてくださる事がある。ただ結果を見に出かける。神様は私たちにも具体的にそういう事を求められる。「しかし、これは大丈夫だろうか。私にはそれをする力がない、そんなことをしたら私の身がもたない。私の貯えは乏しくなってしまう、どうしようか、止めとこうか」と思っても、神様が「せよ」と仰ったら、「はい、信じます」と信仰をもって踏み出すのです。取りかかるのです。
ヨシャパテ王様は、多くの人々を集めて言いました。20章20節から22節までを朗読。
エルサレムの人々、ユダの人々は神様が言われるように、戦いに出て行きました。しかし、その出て行くには、聖歌隊を揃えて、楽隊を置いて、神様をほめたたえ、賛美し、歌いながら、戦いに出て行きました。そしたら、神様はそこで思いも掛けない、想像もしなかったことを起こして下さいました。今も神様は生ける神様です。私たちが信頼してより頼んで行くときに、神様はそこに救いを施してくださいます。
イザヤ書7章1,2節を朗読。
これはユダの王様、アハズ王様の時ですが、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが連合してエルサレムを攻めてきた。ところが彼らは勝つことができなかった。しかし、そのとき、スリヤは、別の民と同盟を結んだというニュースが聞えてきた。2節に「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」と。この記事は実に印象深いです。私は、この言葉がいつも心に浮かびます。大濠公園を歩いていると、台風の余波で、木々が揺れている。「人の心はこんなものか」と思います。自分が悩みにあった時に、心配事があって、夜眠れないときに、心はまるで林の木々が風に揺れ動くように落ち着きなく動揺する。皆さん、これを覚えておいて下さい、そして自分がそのような事態に置かれた時、「聖書にあるとおり」、今揺れていると、思い出して下さい。
そのとき、預言者イザヤが、王様の所に来て、こう言いました。4節以下に「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。5 スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、6 『われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう』と。7 主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない」、神様はイザヤを通して、アハズ王様に、「あなたが恐れているレヂンとスリヤおよびレマリヤの子というのは、もう燃え残った切り株のようなものだ。今くすぶっているだけで、力がない。だからこんなものを恐れてはならない」と。そして7節に「この事は決して行われない」。どんなに彼らが怒って、憤って、ユダを攻めようと計画しても、計画倒れに終る、決して行われることはない。そして9節に「エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」。「あなたがたが信じないならば、立つことはできない」と、アハズ王様に言われた。これは今も変わりません。私たちに対してそう仰います。「信じないならばあなた方はたつことはできない」と…。
もう一度始めのイザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。先ず、神様の前に、今、すべきことは何か。それは、立ち返って、祭壇を築いて、神様が万物の主であることをはっきり信じて、私たちが、神様の手の中にある者であることを認めて、一切を委ねて、その時を待つ。神様が、何をせよと言われるかを、祈り待ち望む。そして祈っているうちに神様が「これをしなさい」、「ここへ行きなさい」、「ここは止めときなさい」と教えて下さる、語って下さる。その時、信仰をもって、「はい」と受け止めて、従う。自分ができる、できないとか、そんな力が有る、無いとか、そんなことを思っては駄目です。主が「せよ」と言われるなら、すぐに「する」。また「出よ」と言われるなら「はい」と出て行く。そうすると、神様は私たちの味方となって下さる。
ですから18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。神様は、私たちのために備えた恵みを施すと言われる。その恵みを体験しようではありませんか。あのヨシャパテ王様に神様が言われたように、「この戦いは、あなた方が戦うに及ばない。勝利を見るために出て行きなさい」と。今日も、神様の力を現し、神様の業を見せるために、私たちを様々な問題の中に遣わして下さいます。その所々で、神様の前に自らの姿勢を整えて、主に立ち返って、先ず祭壇を築き、そして神様の指示を待ち、神様の業を味わう者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」とあります。
日々の生活では、いろんな事態や事柄、思い掛けない問題、悩みに遭います。そういうときに、直ぐ「どうしようか」、「どうして!」とうろたえます。早く何とかして、悩み、悲しみ、苦しみを切り抜けようと、あがき、もがき、七転八倒して苦しみます。そして、あっちにこっちにと、独楽ねずみのごとく走り回る。あげくの果て、解決つかず、がっかりして、いやそれどころか、ますます悪くなって、そして、「仕方がない、こう成ったら神頼みだ」と諦めます。そうやって仕方なく神様を求めることになります。最後に神様の所に来ることは、それなりに幸いですが、早く神様の所に来ればもっと幸いだと思います。しかし、なかなかそこに行かないのが、悲しい人間の性(さが)と言いますか、人の性質だと思います。
物事には、必ず順序があります。まず、これをした後にこちらをする。その次はこれをするという風に、順序があります。料理などもそうです。料理の本を読みますと、レシピ(手順)というのがあります。この料理を作るとき、材料はこれだけ、こういうものを揃えなさいと。それを揃えた上で、最初はこれをして、次にはこれを刻んで、それを炒めた後で、今度はここにスープを入れて、という具合です。一番最初に、これをするべきですと、ちゃんと順序が書いてあります。それを順序良くきちっとやっていけば、なるほど一番良い状態に完成します。時々、ベテランの主婦の方は、「これは後にして、こっちから先にしておこう」とします。そうすると、後になって似ても似つかぬものになる。
私が中学生、高校生くらいの時に、食欲旺盛なときですから、いろんなものが食べたい。で、料理の本を見て、「お母さん、これ作って」と頼みます。母は「作ってあげよう」と言うので、期待して待ちます。本には写真がついているから、「これが食べられるのだ」と想像が膨らむ。それで、「今日はあなたが言っていたこれを作ったからね」と食卓に並ぶ。フッと見ると写真と全然違う。「どうしたの」と言うと、「材料がなかったからこれにしておいた、この材料はあれにした」と、材料は手近かにある代用品ばかりです。本物に近くなるわけがない。その上、炒める時にこの油がなかったから別のものにしておいたとか、焼くべきところを、蒸しておいたとか、他の方法でやるから、美味しかるべき筈のものがまずい。母は「どうね、美味しいでしょう」と自慢げに言う。こっちが期待していたのとは大分違う。後でそっと本を見ると、全然違っているのです。それ以来、あまり頼まなくなりました。
日常生活の中でも、順序が必要です。思いがけない、まとまったお金、定期預金が満期になったとか、病気をしたために保険金がおりたとか、そういうときにこれで何を買おうかと考えます。家族に訊くと、テレビが欲しい、クーラーが欲しい、車もいい、あれもこれもとみんなが言う。言うとおりにしていたら、なくなってしまいますから、順番を決めなければいけない。何が優先されるか、何が大切かを議論します。家族で、或いは夫婦で、「あなたはそう言うけれど、今これが大切で、これが無いと困る」「いや、お前、そんなことを言うけれど、これだよ」と、喧々諤々とやる。そして、第一はこれ、第二はこれとこれを買って、余ったらこれにしてと、順番を決めます。
一日の時間をどのように配分にも事の後先があります。今日は何をすべきか、一番最初にすべき事は何かを決めなければ、あとがチグハグになってくる。学生時代に、定期試験の前になると、試験の勉強をしなければならないと分かっている。分かっているのだが、部屋が片付かないから、先ず部屋の掃除と片づけをして、さぁ、勉強しようと思ったら、「あの本をちょっと読んでおかなければいけない」と、しょうもない小説を開いて、「これも国語の勉強だから」と、自分に言い聞かせる。そのうち、「もう、時間だ、夕方だ、もう夜も遅くなった。早く明日の試験の勉強をしなければ」と、やっと今日しなければならないテキストを開いて見始めたら、夜の一時二時。「明日は試験があるから、今日は寝よう」と、寝てしまう。三日間の定期試験が終って、最後の試験の答案を出して、学校の帰りは実に気持ちがいい。何もしていないのに、「終った。よく勉強したなぁ」と思う。しかし、その結果は惨憺たるものです。
何が大切かを知りながら、それができない。これは私たちの最大の問題点です。朝起きて、「神様、今日は何をすべきでしょうか」と祈り、主の前に静まる。これを第一にすれば、次はこれをすると、順番が決まります。そしたら、それに従っていけばいいのですが、今申し上げました試験前のように、しなくてもいい、しょうもない事を一生懸命にやって、「今日は時間が無くなった。また明日にしよう」と先延ばし、先延ばしにしている事が沢山ある。これが私たちの一番悪い癖です。神様の前に先ず姿勢を整えないから、いろんな問題や事柄、悩み、突発的な出来事が起こって、大慌てして右往左往します。そうではなく、15節にあるように「あなたがたは立ち返って」、先ずは「立ち返る」ことです。そして「落ち着く」ことです。しかも「信頼する」ことです。この三つが大切です。で、この三つは神様に対する自分の姿勢です。神様に心を整えること、これが「立ち返ること」「落ち着いて」「信頼する」事です。思い掛けない悲しいことや、苦しい辛いこと、或いは病気だとか、いろんな問題が起こったとき、直ぐしなければならない事は、神様の所に帰ってくること。これは基本中の基本です。人生に一番大切なことです。ところが、案外それを忘れる。
いつも集会に来ることができ、また、祈ることができ、また聖書を読んで、日々、主と共に生きているように思います。ところが、思いがけない病気になったり、或いは家族のうちに何か不幸が起こったり、問題が起こったりして、がさっと揺さぶられたときに、そこで自分自身の信仰が振るわれます。その時、先ず何処にいくか。神様の所に帰るのです。「でも私は、前々から神様を信頼しているのだけれども…」と、思います。しかし、それは形だけで、気がつかないうちに、心が神様から離れている。神様の方を向いている様で、ちょっと横向きになっている。姿勢が崩れている。真直ぐに神様を信頼することが出来ないのです。
ですから、ちょっと読んでおきたいと思います。創世記28章18節から22節までを朗読。
これはヤコブが一人、家を出て、叔父のラバンという人の家に旅立ったときです。一晩野宿をしました。そこへ神様が現れて、「あなたは心配することはいらない、わたしがあなたと共に行くから、そしてまたあなたをこの所へ連れ帰るから、大丈夫だよ」と、夢枕に彼を励ましてくれた。彼は自分は孤独で、親からも兄弟からも捨てられて、全く自分の身の置き所がないと思ったのです。しかし、彼は「そうじぁない、神様が私と共にいらっしゃる」と知ったときに、目を覚まして、喜び、感謝に溢れました。そして、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」、神様が私と共にいらっしゃるのに、忘れていたと告白しました。私たちもよくそういうことがあります。普段から、教会には熱心に来て、礼拝は欠かさず、平日の集会にも来ている方が急に姿が見えなくなる。「最近、あの方はお見えになりませんが、どうしたのでしょう」と尋ねると、「あの方は今こういう問題があって、東奔西走で、あっちこっち忙しくして、教会に行く暇がないと言っています」とのこと。私は「大変なことだ。もっとするべき大切なことがあるのに」と思います。事が起こったとき、神様の所に帰ってこないで、神様を離れるのは、一番の不幸です。
病気したら、「熱がある、病院に、あのお医者さん」と病院に駆け込むから、後が長引くのです。先ず、神様の所に来てお祈りして、主が癒し主でいらっしゃることをきちっと告白することです。これが基本です。私が生きているのではない、誰か人によって生きているのでもない。実は、「神様、あなたが私の主です!」と、きちっと神として立てていく。これが大切で必要なことです。
ここでヤコブは、神様が一緒にいらっしゃる事を知ったとき、神様に自分の信仰を告白したのです。18節の「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで」と。彼は自分が枕としていた石を神様の前に立てて、油を注いで、神様を礼拝しました。「神に帰れ」と言うのはここです。神様に立ち返って、自分自身が神様に造られた者であり、神様の手に握られた者であること、主が誰でいらっしゃるかを告白することです。ヤコブは20節にありますように誓いを立てて、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」。これは何か取引みたいに読めますけれど、必ずしもそうではなく、彼の気持ちは「これからあなたが全部を司って下さる主でいす」と告白したのです。そして、その石を証拠として立てました。どうぞ、ヤコブの事をよく覚えておいていただきたい。ここにありますように「ヤコブは朝はやく起きて」と、先ず主の前に出て、「神様、あなたが主です」と告白しているのです。食べるもの、着るものも、生活の全てが神様によって備えられていること、「あなたが主です」と告白して、一日の出発点とする。これが日々の生活です。更にまた、個別にいろんな問題や事柄が起こったとき、そこでうろたえ、悩むときに、「私は一体何処に立っているのだろうか」「誰の前に自分を置いているのか」と自問する。
イザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ』、」。落ち着くのです。自分であちこち、右往左往しない。そこで神様に期待して、神様に信頼して、その時をじっと待つのです。「何をどうせよ」と神様が命じるまで待つ。そうすると、神様は、今何をすべきか、あなたが今、今日、この問題に関しては、どういう態度を取り、どういう歩みをすべきか、教えてくださる。
家庭でもそうです。ご主人に対しても、奥さんに対しても、何かパンパンと言いたい時は、グッと飲み込むのです。主に立ち返るのです。カーッとなるでしょう。奥さんが何か言って、或いはご主人が言ったことで、カッカとなったときに、「主よ、ここでどうしたらいいでしょうか。私が言い返すべきでしょうか」とお祈りをするのです。主に立ち返る。姿勢を整えるというのはそこです。そうしたら、スーッと気持ちが静まる、グッと飲み込める。「主人の頭が冷えた時に、後でもう一度…」と思うでしょう。そうすると言わないで済みます。私たちの悪い所は神様にすぐ行かない。自分の感情が先にカーッと出る。だから、絶えず神様の前に立ち返るのです。どんなときにでも、「立ち返る」こと、これが大切です。ダビデが語ったように、「私は常に主をわたしの前に置く」(詩篇16:8)。こう言えるならば実に幸いです。しかし、常に主を自分の前に置けません。置けないときは立ち返るのです。いつも置いているつもりが外れるから、私たちはそこへ立ち返ることが大切です。
15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いて」、落ち着くことです。立ち返るのと、落ち着く、これが順番ですから、大丈夫です。立ち返っても落ち着けるだろうかと、落ち着いていないのは、立ち返っていない証拠です。だから、落ち着けないと思ったら、神様の前に立ち返っていない、姿勢が間違っている。だからもう一度改めて立ち返らなければいけない。あのヤコブのようにきちっと石を立てて、神様の前に「あなたが主です。私はあなたの手の中にあるものです」と証詞していく。すると心が落ち着きます。落ち着いていると、今度は信頼する心が生まれてくる。これでトントントンと、三拍子揃います。肝心な一番最初をいい加減にするから、ボタンを掛け違う。落ち着けない、それどころか神様を信頼できない。そして、その後にあるように「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と言う話になってしまう。もっといい方法があるにちがいないと。こんなにじっとしていてどうする、ひょっとしたら手遅れになる、或いはもっと酷いことになったらどうしょうか。あせる思い、思い煩いがドーッと私たちを押し流していき、あれよあれよという間に、神様から遠く離れて、気がついてみたら、教会にも近づかなくなって、「私は何をしていたのか」と、後悔する。だから、いつもどんなときにも、主に立ち返りましょう。
歴代志下20章1節から4節までを朗読。
ヨシャパテ王様のとき、ユダの国にモアブ人、アンモン人およびメウニ人という大軍が大挙して攻めて来ました。そのときに、3節に「ヨシャパテは恐れ」とあります。恐怖に襲われ、怖くなった。そこでヨシャパテは何をしたかと言うと、ここが大切なことです。「主に顔を向けて助けを求め」、彼は大軍が来たからといって、他所の助けを求めたのではない。エジプト、或いはスリヤに助けを求めたのではなくて、「主に顔を向けて」とあるように、神様に先ず心を向けて、主に立ち返ったのです。私たちがすべきことはここです。恐れが湧いてきたとき、主に立ち返る。彼は王様でしたから、「全国に断食を触れさせた」。4節に「それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた」。国中を上げて神様の助けを求めた。
その先、歴代志下20章5節から12節までを朗読。
ヨシャパテ王様の信仰は素晴しいですね。敵が大軍で攻めてきたので、国中に呼びかけて、断食をして、神様を呼び求めて、祈りをさせました。自分は神の宮、神殿に入って、神様の前に祈ったのです。「神様、あなたは約束したではありませんか。この宮」、ソロモンが建てた宮だったのですが、「ソロモンがこの宮を建てたとき、神様、あなたは約束してくださったでしょう。国に飢饉があり、或いは疫病があり、また、様々な災いがあるときに、『この宮で祈るときお前の祈りを聞く』と約束して下さったではありませんか。今その約束に従って、あなたを求めています」と。ここまで言われたら、神様も知らんとは言えない。私たちも神様に祈るときに、これだけの信仰、厚かましさをもって祈ろうではありませんか。
何故なら神様は、宮を建てて、約束したどころじゃない。イエス様というひとり子を遣わして、私たちの罪の贖いとまでして下さった方。その神様が、私たちの祈りを聞かないはずがない。応えてくださらないはずがない。それどころか、私たちの主となっている。だから、神様に向かって祈るときに、はっきりとイエス様を信じて、「あなたはこんなに私を愛したと言うではありませんか。だったら、この悩みから、この問題から、この事柄から、私を救い、あなたの御業を現して下さい」と、信仰をもって祈ることができます。ヨシャパテ王様は正にそうやって祈ったのです。そして、12節に「この大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。全く私たちはお手上げですと、ヨシャパテ王様は神様に信頼しました。私たちは直ぐ目の前の事柄を見ては、「ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようか」と、いろんなことで心が動く、そして落ち着かなくなる。ここが信仰の醍醐味と言うべきでしょうか、信仰を働かせなければならない大切なところです。
このとき、その祈りに神様は応えてくださいました。17節を読みましょう。「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである」。穏やかに信頼しているときに、ヨシャパテ王様に対して、神様は、「この戦いはあなたがたが戦うわけではない、しかし、明日とにかく、あなたがたは戦いに出なさい」。「寝ていなさい」とは言いません。“寝て果報を待て”とは言わない。「出なさい」と言うのです。「だって、私は力がないのですから、出たら一挙にやられてしまいます。神様、あなたがやってくださるというのですから、私は寝ています」と言いた。ところが、ここが大切です。神様は、私たちが信頼したら、信頼した私たちに対して、どうあるべきかを語ってくださいます。ここで、神様はヨシャパテ王様に「戦いに行け」と仰います。「これはあなた方が戦うには及ばない」と言いながら、「戦いに出よ」と言う。それは、そこにありますように、勝利を見に行くのです。行けば神様の方が備えてくださる事がある。ただ結果を見に出かける。神様は私たちにも具体的にそういう事を求められる。「しかし、これは大丈夫だろうか。私にはそれをする力がない、そんなことをしたら私の身がもたない。私の貯えは乏しくなってしまう、どうしようか、止めとこうか」と思っても、神様が「せよ」と仰ったら、「はい、信じます」と信仰をもって踏み出すのです。取りかかるのです。
ヨシャパテ王様は、多くの人々を集めて言いました。20章20節から22節までを朗読。
エルサレムの人々、ユダの人々は神様が言われるように、戦いに出て行きました。しかし、その出て行くには、聖歌隊を揃えて、楽隊を置いて、神様をほめたたえ、賛美し、歌いながら、戦いに出て行きました。そしたら、神様はそこで思いも掛けない、想像もしなかったことを起こして下さいました。今も神様は生ける神様です。私たちが信頼してより頼んで行くときに、神様はそこに救いを施してくださいます。
イザヤ書7章1,2節を朗読。
これはユダの王様、アハズ王様の時ですが、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが連合してエルサレムを攻めてきた。ところが彼らは勝つことができなかった。しかし、そのとき、スリヤは、別の民と同盟を結んだというニュースが聞えてきた。2節に「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」と。この記事は実に印象深いです。私は、この言葉がいつも心に浮かびます。大濠公園を歩いていると、台風の余波で、木々が揺れている。「人の心はこんなものか」と思います。自分が悩みにあった時に、心配事があって、夜眠れないときに、心はまるで林の木々が風に揺れ動くように落ち着きなく動揺する。皆さん、これを覚えておいて下さい、そして自分がそのような事態に置かれた時、「聖書にあるとおり」、今揺れていると、思い出して下さい。
そのとき、預言者イザヤが、王様の所に来て、こう言いました。4節以下に「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。5 スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、6 『われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう』と。7 主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない」、神様はイザヤを通して、アハズ王様に、「あなたが恐れているレヂンとスリヤおよびレマリヤの子というのは、もう燃え残った切り株のようなものだ。今くすぶっているだけで、力がない。だからこんなものを恐れてはならない」と。そして7節に「この事は決して行われない」。どんなに彼らが怒って、憤って、ユダを攻めようと計画しても、計画倒れに終る、決して行われることはない。そして9節に「エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」。「あなたがたが信じないならば、立つことはできない」と、アハズ王様に言われた。これは今も変わりません。私たちに対してそう仰います。「信じないならばあなた方はたつことはできない」と…。
もう一度始めのイザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。先ず、神様の前に、今、すべきことは何か。それは、立ち返って、祭壇を築いて、神様が万物の主であることをはっきり信じて、私たちが、神様の手の中にある者であることを認めて、一切を委ねて、その時を待つ。神様が、何をせよと言われるかを、祈り待ち望む。そして祈っているうちに神様が「これをしなさい」、「ここへ行きなさい」、「ここは止めときなさい」と教えて下さる、語って下さる。その時、信仰をもって、「はい」と受け止めて、従う。自分ができる、できないとか、そんな力が有る、無いとか、そんなことを思っては駄目です。主が「せよ」と言われるなら、すぐに「する」。また「出よ」と言われるなら「はい」と出て行く。そうすると、神様は私たちの味方となって下さる。
ですから18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。神様は、私たちのために備えた恵みを施すと言われる。その恵みを体験しようではありませんか。あのヨシャパテ王様に神様が言われたように、「この戦いは、あなた方が戦うに及ばない。勝利を見るために出て行きなさい」と。今日も、神様の力を現し、神様の業を見せるために、私たちを様々な問題の中に遣わして下さいます。その所々で、神様の前に自らの姿勢を整えて、主に立ち返って、先ず祭壇を築き、そして神様の指示を待ち、神様の業を味わう者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。