ヨブ記42章1節から6節までを朗読。
2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」とあります。
「神様を信じる」と言いますが、それはどういう事でしょうか。勿論、日本語ですから、意味は分かります。しかし、言葉を知っていても、また、語ることができても、「神様を信じる」とは具体的にどんなことを言うのか、もう一度、そのことを教えられたいと思います。
ヨブ記は、聖書の中でも非常に特異な記事として、多くの人々から注目をされます。ヨブという名は、意外と多くの人に知られています。何故、ヨブに興味があるかのでしょうか。それは義人が義の故に苦しみを受けるとは、一体どうしてだろうか。その不条理に興味を持つからです。世間では因果応報と言って、悪いことをした人は必ず報いを受ける。良いことをした人は良い報いを受けるのが、当然あるべき姿だと考えます。現実には、不公正のように見えても、“天網恢恢疎にして漏らさず”と言われるように、やがて収支決算の帳尻が合うように、報われるというのが、世間一般の考え方です。だから、正しいことをすれば、良い報いが受けられる。しかし、間違ったことをすれば、当然罰を受ける。
ところが、苦しい辛い悩みに遭ったヨブは、よほど悪い人であったかというと、そうでなかった。むしろ、正しい立派な尊敬すべき人物です。そんな人がこういう苦しいことに遭うとは、一体どうしたことだろうか。神様は、公平な方ではなかったかと疑問に思います。確かに、神様は公平な方であり、“その播くところは刈るところとなるべし”とあるように、その結果を刈り取ると、はっきり記されています。神様は、それを蔑(ないがし)ろになさる方ではない。ですから、神様は義なる方で、公平に、全てものを正しく導かれる。神様を信頼するうえで、これは大切です。イエス様も、“正しいさばきをする方に一切を委ねておられた”と語っています。神様こそが正しい裁きをすることができる。たとえ他人から誤解を受け、或いは人から非難され、ありもしない罪を着せられて、塗炭の苦しみを味わうとも、神様はそれを知っていて、必ず悪い者には悪いように報いて下さる、良いものには良いように報いて下さると信じる。これは神様を信頼する土台です。
ヨブ記1章1節から5節までを朗読。
ヨブは、すばらしい模範的な人物であったことがよく分かります。私達はその足元にも及びません。1節に「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。実に品行方正、何処を叩いても埃一つ出ない。高潔で人格円満な人物であった。彼には7人の男の子と3人の女の子供がいる。しかも、その財産は3節にあるように、羊、らくだ、牛、ロバと数え切れない。当時としては、家畜を持つのが定期預金や国債を買うのと同じくらいの値打ちがありました。羊などを沢山持つのが、即ち資産です。これほどの羊やらくだ、牛、そういう家畜を飼育し、所有しているのは、裕福で恵まれ、経済的にも何一つ不自由のない生活でした。また、その子供たちも立派です。4節以下に、息子たちも独立して、家族を持って、夫々に家も構えて、「自分の日に」と、恐らくこれは自分の誕生日か、何かの記念の日でありましょう、その時には、兄弟家族を全部、自分の家に呼んで振る舞いをして、感謝会をする。家族みんな仲良く、睦まじく、恵まれた家庭です。しかも5節には「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。その振る舞いの日が一巡りすると、年に一度、今度はヨブが招いて、神様の前に礼拝を捧げる。
ヨブの息子たちは集まって、神様の前に燔祭を捧げ、共に礼拝します。そして息子たちのために聖別する。それは、5節に後半に「これはヨブが“わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない”」。ひょっとしたら悪いことをしたのではないだろうか、息子たちが、気が付かないうちに、神様をのろうようなことを言ったり、少しでもけなすような思いを持ったならば、これは大変な事だから、とにかく神様にお詫びをしておこう。実に念の入った信仰だと思います。それほど子供のことを思う父親であり、神様の前にあるべき姿勢を絶えずきちんと整えていました。
ヨブ記1章6節から11節までを朗読。
ある時、神様の所に神の子たちが集まりました。その中にサタンがいた。これも理解し難い感じがします。神の子たちの中に、どうしてサタンがいるのだろうかと思います。しかし、実は、サタンも神様の手の中に握られているものです。神様の目的を果す仕事をしている。サタンは、神様の外にあって、神様に戦いを挑んでくるものというイメージを持ちますが、それは間違いです。神様を超える力、神様に対抗するものはどこにもありません。全ては神様の支配の下にある。では、なぜ神様はサタンをつくられたのか。それは神様の御用を果すためです。そんなものが、何の役に立つかと思われるでしょうが、サタンがいてこそ、神様の力が現れる。この時もそうです。サタンは神様の許しを得て、ヨブを撃つために出て行きます。
神様はサタンに、「お前はどこから来たか」と言う。「いや、世界中を行き巡ってきました」、「それじゃ、あのヨブを見てきたか。彼ほど神を恐れ、悪に遠ざかる者は今まで見たことがなかろう」とヨブを自慢した。それに対してサタンが「いや、神様、あなたはそう言われるが、実はヨブがあなたを尊び敬っているには、理由がある。あなたが彼を祝福して、持ち物財産一切を豊かに恵んでいるからです。それを取って御覧なさい、必ずあなたに向かって呟くでしょう。あなたに背を向けるでしょう」と言った。それで神様はサタンに、「それじゃ、お前が行って、その持ち物を全部取るがいい。ただ身体には一切手をつけてはならない」と。神様は、サタンの働く境界線をきちんと定める。
私たちに対しても、サタンが働いてきます。神様が私たちを試みようとしているのです。サタンがいなかったら、私たちは自分がどれほどの人間であるか、分かりません。天狗になって、天に舞い上がっているかもしれない。ところがサタンがいて、私たちをいろんな事柄に引き込む。またいろんな問題の中で、神様を信じているかどうかを探られる、揺さぶられる。これはサタンの働きです。揺さぶられなければ、土台がしっかりしない。
マンションなどの工事現場を見ていると、型枠と言って、板で形を整えた箱に、生コンを流し込んでいきます。金属の筒状のものを、生コンを流した中に入れる。これがコンブレッサーに繋がっていて、圧縮空気で激しく振動し、激しく揺さぶられて、生コンが型枠の隅々まで詰め込まれていく。揺らさないと、コンクリートの中の気泡だとかが途中に入り、コンクリートが脆くなる。だからしっかりと気泡などを抜きながら、詰め込んでいくのです。コンクリートはどろどろしているから、上から叩くことができない。だから揺さぶるのです。粉状のものそうですね。器に砂糖などを入れても、トントントンと揺すると、きゅっと下がる。そしてまた入れることができる。
サタンが、同じように揺さぶる。「自分は信仰も大分身についてきたな」、「私はあの人よりも少しは成長した」と自負していると、その仮面を全部剥ぎ取るために、神様が時々揺さぶる。神様は、皆さんを見て手加減をしている。不公平じゃない、神様は公平な方です。これに耐えられると思ったら、その人を集中的に揺すって下さる。時にそういう事を言う方がいます。「先生、どうして私だけこんなに次から次へと悩みが多いのでしょうか」、「あなたはそれだけ神様に沢山愛されているのです」と言うと、不満げな顔をされる。「愛されなくてもいい」と言う。そんなことをして貰わなくても大丈夫と思いますが、そうやって振るわれる度毎に、自分を振り返ってみて、信仰が無いなことがよく分かる。そこでまた悔い改めては新しく踏み固められていく。信仰は、そうやって段々と確かなものとなる。だから、サタンは必要不可欠なのです。
サタンは出て行って、ヨブを撃ちました。その記事を少し読みます。15節に「シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。ヨブの所に一つのニュースが入ってきた。みんなが宴会をしていた。そうしましたら、シバびとがヨブの家を襲って、牛やロバ、いろんな家畜も滅ぼした。16節には「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました」。それから更に、17節に「らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。羊およびしもべたちを焼き滅ぼされ、今度は、カルデヤ人がやって来て、つるぎでしもべたちを打ち殺し、更に、19節に「荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました」。四つの悪いニュースが立て続けに伝えられた。しもべが殺される。ラクダや羊が殺される。また天から火が降って殺される、家が潰れてしまう。何もかも全部、貯えたものを失った。
その時ヨブは、20節以下に「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、21 そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』。22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった」。素晴しいですね。彼は家も息子たちも、しもべたちも、全部失ったのです。そして、上着を裂き、頭をそり、地に伏して、神様の前に真っ裸になって、「裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と。こう言えるのは素晴しいですね。私たちも是非そう言いたいと思います。病気になって、「主が与え、主が取られた。主の御名をほめたたえます」と言いたいが、なかなか言えない。しかし、ヨブはそれほどの義人、正しい人でした。神様に対して一言もおろかなことを言わない。私どもがそういう目に遭って御覧なさい。「どうして?」、「何がいけなかった?」、「神様はどうして私をこんな風にしたのでしょうか」と呟く。ヨブの素晴しいところは、神様の与えて下さったものを神様が取られたのだから、ゼロになり、元に戻ったのだ、そう言って感謝した。
ところが、サタンはまた神様の所にきました。神様は、「お前が言ったようにならなかったではないか、ヨブはあんなに苦しい目に遭ったけれども、私に対して心が変わらない」と言った。そのときサタンが、「いや、まだ彼には健康というものが残っている。だから、あなたに背かないのです」と。神様は、サタンに「それではヨブの健康を取ってよろしい、ただ、命を取ってはならない」と。サタンは出て行って、ヨブを撃ちました。それまで健康であったヨブは、身体中に原因不明のできものができて、痒くて、痒くて膿みをもって、瘡蓋(かさぶた)ができ、見るも無残な姿になった。2章7節に「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」。これが第五の災いで、彼の健康が奪われたのです。とうとう彼は灰の中に座って、陶器の破片で身体を掻くようになった。痒いことは痛い以上に耐えられません。痛いのは何とか、勿論それも我慢ならないですが、痒いものが体中あって御覧なさい。一時もじっとしておれない。痒くて痒くてたまらない。だから、彼は手で掻くどころじゃない。陶器の破片で体中を掻きむしる。その見るも無残な彼の姿を見ながら、9節に「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」。奥さんも愛想を尽かしました。そんな状態になっても、ヨブが神様、神様と言っているから、「馬鹿だね、この人は、いつまでも神様、神様と…、私は知りません」と、出て行ってしまった。妻から逃げられました。10節に「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。素晴しいですね。ヨブは「お前は何と馬鹿なことを言うか。私たちは、神様から幸いを受けるんだったら、神様から災いを受けるのも当たり前ではないか」と。
イザヤ書にもそう記されています。神様は繁栄をつくり、わざわいを創造し、光をつくり、暗きを創造すると。神様は、どんなことでもできるのだと、ヨブは語りました。ところが、そう言った口の乾かないうちに、ふと疑問が湧いてきた。「確かにそうではあるけれども、選りに選って、どうして私が?何処が悪かったのだろう。何が原因でこうなったのだろう」。それからのヨブの苦しみは深まっていく。これまで家族を失う、或いは持ち物をなくす、自分の健康を失うという悲しみはありましたが、もう一つ大きな悩みは、心の葛藤、苦しみです。何か問題に当たって、その原因が分かっている時には、安心します。「私が罪を犯した、私が失敗をした、私があのことをしたから…」と、自分が知っていて、その結果こうなっていると思ったら、甘んじて「そうか、仕方がない。これは自業自得だ」と納得します。あの人がいけないと分かっていれば、怒りをぶつけますから、まだいいですが、その原因が分からない。ヨブの苦しみはそういう苦しみなのです。私たちも、「どうしてこうなったのだろうか」と思う、心の悩みが深くなるのが一番の問題。身体が痒いとか痛いとか、熱があるとか食欲がないとか、それは苦しみではありますが、耐えることができます。ところが、自分が「どうしてこうなったのだろうか、これからどうなるのだろうか」という心の葛藤、不安、恐れなどが、一番の苦しみです。ヨブはここまでは取り敢えず、罪を犯すことがなく、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、「お前はなんと愚かなことを言うか、幸いを与える神様はわざわいを与えることは当たり前ではないか」と言ったものの、どうしても納得できない。
11節以下を読みますと、ヨブの友人三人が、彼を労わり、慰め、励まそうと訪ねて来ます。そして3章以下にいろいろなことを語っています。その中で根本的な問題点は、「私はどこも悪くないのだが、どうしてこうなったのだろうか」という悩みです。ですから、友人は、「いや、ひょっとしてお前の知らないところで罪を犯したかもしれないじゃないか」、或いは、「これは神様の大きな御計画があってお前に何か教えようとしているのではないか」「いや、人間と言うのは、そういう弱い者だから…」などと、いろいろな理由をつけでヨブを説得しますが、頑として受け入れない。「どうしてこうなったのだろうか、何で私だけが!」、これは私たちが常に感じることです。
神様は義なる方で、正しいものには正しく報いて下さると信じている。これはその通りですが、それに対して自分は正しいのだから、正しい報いを受けていいという、自己義認がある。「私はどこにも悪いところがない、無いとは言わないけれども、これほどの悩みを受け、苦しみを受けるほど、悪いのだろうか」、「私も叩けば幾らでも埃は出る。でも世間一般、他の人と比べるなら、私はむしろ良いほうだ。あの人が、こういう結果を受けるならば分かるけれども、私が何故?」と思う。
ヨブにもそのような思いがあります。それは、彼の信仰が、この世的な御利益、自分に都合の良い報いを求めていました。先ほど読みました1章5節に、「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数に従って燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである」。一見すると実に神様に忠実な、正しい人だと思います。しかし、この時のヨブの思いを探ってみれば、今の幸せを壊されたくない。ひょっとして何か罪を犯して、神様のご機嫌を損ねて、ハチャメチャになったら嫌だから、何とか神様の気に入れられるように、絶えず燔祭を捧げ、何とかしよう。言い換えると、神様は、私のために良き事をしてくれて当たり前、或いは私が願うことを神様は叶えて下さる。願いに応える神様を信じるヨブの信仰です。
私たちの信仰も、そういうところに陥り易い。殊に、悩みに遭い、困難に遭うと、「どうしてこんなになったのだろうか、何でだろうか」と、煩悶します。悩みます。その思いの中身を探っていくと、「こんなことを受けるほど、私は悪いことをしたのだろうか。私は正しいのに…」という思いがあります。神様の前に徹底して、ゼロになりきれない。ヨブはどうしても自分の考えたプラン、或いは自分の願ったことがかなえられたいと、神様を利用している。どうぞ神様守って下さい。神様、どうぞ私の後ろ盾となり、庇護者となって下さいというのが、彼の信仰姿勢です。それは、悪いことではありませんが、神様は、文字通り神様として、何があっても信頼することを求めています。2章10節の終わりに「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。図らずも、ヨブは自分の口から、こう語りました。神様はオールマイティ、全能者であるから、神様は創造者であるから、私たちはどんな取り扱いを受けても当然です。けども、その後の記事を読むと、自分が語ったとおりに信じることが出来ずに、「どうしてなのだろうか、何でなんだろうか」と、悶々と悩みました。
事に当たって、「どうして?どうしてこんなになったの?」、「どうして?」とつぶやく時、実は、このヨブと同じ立場に立っています。なぜこんな目に遭わなければいけないの、どうしてこんな酷い仕打ちを受けなければならないの。あれが原因だった、この人がこうしたから、あの人がああしたからと、どこかそういうはっきりと原因となるべきものを特定したい、知りたいと思う。しかし、私たちは神様によって造られ、今日も生かされています。家族の誰かが、私に何かをしたから、こういう不幸になった。あの子供があんなことをしなければ、もう少しましな老後が送れたなどと考えるなら、大きな間違です。これが原因だと特定して、納得しますが、そうである限り、ヨブの失敗を繰り返します。ヨブはいつまでも、このことに拘っているために、「どうしてだろうか、どうしてだろうか」と悩み続けるのです。
38章1節から7節までを朗読。
ここで神様は初めて直接声を掛けました。「お前は一体なんと馬鹿なことを言っているのだ」。2節に「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」。「お前は一体何様だと思っているのだ。馬鹿なことばかり言って、お前はわたしの思いを知らないではないか」。そこで3節に「腰に帯して、男らしくせよ」と、しっかりしなさいと。「わたしはあなたにこれから尋ねるから全部答えてみよ」と。それから4節以下にあるように「お前はこの宇宙やこの世界が、その基が据えられた時に何処にいて、何を知っていたか。この宇宙、世界の始まりはどうだったか、お前は見ていたのか」と、次から次へと矢継ぎ早に神様は問い掛ける。
その先の22節から27節までを朗読。
実に規模が、スケールが大きい。重箱の隅をつつくような質問じゃない。「雪の倉にはいったことがあるか、ひょうの倉を見たことがあるか、光の広がる道はどこか、風の抜けていく道は何処にあるのか」。私たちは何にも知らない。無知なる者、ここでもう一度「お前はどうして?どうして?自分が知っておかなければ納得しないと言うけれども、お前は知らないことばかりではないか」。
40章3節から5節までを朗読。
ここまできて、ヨブは答える術がありません。4節に「まことに卑しい者です」と認めました。それまでは義人ヨブでありました。義なる人であった。それは人から見ても、自分で考えてもそう思っていた。しかし、彼は、「自分はまことに卑しい者だ、あなたに何と答えましょうか。答える術がありません」と言いました。神様はそれでも許さない。
6節から10節までを朗読。
神様が間違っている、私は正しいのにこんな酷い目に遭うなんて、どうも理由が分からない。神様はちょっと間違っているのではないだろうかと…。そこで神様が8節に「あなたはわたしを非とし、自分を是としようとする」。あくまでも自分が正しい、自分の考えが正しいのだとしがみついている。それがヨブの最大の罪です。これはこうなるべきだ、これはこうあるはずだ。神様はこうして下さるのが御心に違いない。世の中だってそうだし、人だってそうだし、皆してそう言うじゃないか。なのに、そうならないのは、神様がちょっとおかしいのではないだろうか…。私たちもそんな風に思ってしまいます。
口では「神様は間違っているよ、神様はおかしいよ、最近頭が狂ったのではなかろうか、神様は…」などと、あからさまに言いませんが、心の中で、不満に思う。どうしても神様の為さることだとは思えない。私の方が正しい、私の考えていることが正しい、私が願っていること、これは不当なことじゃなくて当然のことであり、これは別に悪いことではないと言う主張が、ヨブにはある。考えてみると、私達も問題に当たった時に、「どうして?どうして」と言っている時、神様は間違っているのではないか、本来私が受けることじゃなくて、これはあの人に向かったものが、たまたま送り先が間違って私に来た、「神様、これは私が貰うべきものでしょうか、ちょっと不満です」と言っている。ヨブは正にそういう思いを持って、自分の置かれた境遇、与えられた問題、悩みの中で、それを是とすることができない。「これでいいのです」と受けることができない。ここに私たちの悩みと大きな問題があります。
42章に戻りますが、ここで初めてヨブは、2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはない」。神様はどういう方か、ヨブが認めた一節です。人間は、神様に造られた者、被造物に過ぎない。この言葉の意味は、神様がどんな取り扱いをしても、私たちは一言も文句を言うことができない、言うべきじゃないという事です。神様が為さる業に対して、私たちが良し悪しを言うわけにはいかない。神様の為さることは徹底して善であり、正しい。白いものを神様が黒と言われたら、それは黒いのです。神様の為さることこそが、最善にして最高、絶対唯一無二のもの。私たちの考えが正しいとか、良いとか、そういうことは何の価値もない、値打ちも無い。そんなものは有害でしかない。ここで、ヨブが初めて徹底して神様を信じるところに立ったのです。私たちもここに立たなければ、本当の信仰ということができません。最初に申し上げたように、神様は公平な方で、正しいことをする者に正しく、悪いことをしたら、そのように、公平に報われる方だと信じることも、「神を信じる」事です。しかし、それだけではない、いやもっと大切なことは、ヨブが語ったように、神様はどんなことでもできる。そして、私たちは神様の為さる業に一言も付け加えることも、手を挟むことも、指一本触れることもできない。この事を徹底して認める。これが神を信じることです。
神様が私たちをどのように取り扱いなさろうとも、何も文句をいうことはできないし、言えた筋合いではない。私たちは様々な事情境遇問題のなかに置かれています。どうしてこんなになったか、訳が分からない。で、悶々と苦しむこともあるでしょう。しかし、そこでもう一度、神様がいて、尚この事が起こっているとは、どのようにそれを受け止めるべきかをよく考えて下さい。
どんなことでも、「あなたにできないことはない」。神様、あなたは全能の主です。私たちは、ただ口を塞いで、ゼロになって、神様の前に自分を捧げる以外にない。自分の思いを捨て、考えを捨て、絶対者である神様の手に握っていただこうではありませんか。これはエレミヤも語っています。エレミヤ書18章に「あなたがたは私の手のうちにある」。私たちは神様の手に握られている。神様の御心のままに、自由自在にどうにでもしていただける。言うならば、神様は、今日にでも潰してしまうことができる。また私たちを引き上げて下さるならば、どんな高い所にでも上げて下さる。そのような絶対的な力、権威を持った神様の手の中で、私たちは生きている。持ち運ばれている。「神様を信じる」とは、ここです。だから、「神様、あなたを信じます」という時に、心を空っぽにして、空け渡してしまう。「神様、あなたは万物の創造者で、今も力ある手をもって全てを統べ治め、ご計画を持って導かれる方です。私の計画は捨てます、私の願いも、どうでもいいのです。神様、あなたの手に委ねます」と、主に捧げて、一日一日、神様によって生かされる。神様の手を信じて、与えられたところで主に仕える、神様のしもべとなって仕える。その時に、神様は私たちの思いを越え、願いを越え、驚くべきことを始めて下さる。
42章2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。「主よ、私はあなたの御心のままに自由自在どのようにでもお取り扱いください」と、自分を捧げましょう。自分の願いや考えが正しいのではなく、神様こそが善にして、且つ正しい方、義なる方です。その方に全幅に信頼する信仰をしっかりと持ち続けたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」とあります。
「神様を信じる」と言いますが、それはどういう事でしょうか。勿論、日本語ですから、意味は分かります。しかし、言葉を知っていても、また、語ることができても、「神様を信じる」とは具体的にどんなことを言うのか、もう一度、そのことを教えられたいと思います。
ヨブ記は、聖書の中でも非常に特異な記事として、多くの人々から注目をされます。ヨブという名は、意外と多くの人に知られています。何故、ヨブに興味があるかのでしょうか。それは義人が義の故に苦しみを受けるとは、一体どうしてだろうか。その不条理に興味を持つからです。世間では因果応報と言って、悪いことをした人は必ず報いを受ける。良いことをした人は良い報いを受けるのが、当然あるべき姿だと考えます。現実には、不公正のように見えても、“天網恢恢疎にして漏らさず”と言われるように、やがて収支決算の帳尻が合うように、報われるというのが、世間一般の考え方です。だから、正しいことをすれば、良い報いが受けられる。しかし、間違ったことをすれば、当然罰を受ける。
ところが、苦しい辛い悩みに遭ったヨブは、よほど悪い人であったかというと、そうでなかった。むしろ、正しい立派な尊敬すべき人物です。そんな人がこういう苦しいことに遭うとは、一体どうしたことだろうか。神様は、公平な方ではなかったかと疑問に思います。確かに、神様は公平な方であり、“その播くところは刈るところとなるべし”とあるように、その結果を刈り取ると、はっきり記されています。神様は、それを蔑(ないがし)ろになさる方ではない。ですから、神様は義なる方で、公平に、全てものを正しく導かれる。神様を信頼するうえで、これは大切です。イエス様も、“正しいさばきをする方に一切を委ねておられた”と語っています。神様こそが正しい裁きをすることができる。たとえ他人から誤解を受け、或いは人から非難され、ありもしない罪を着せられて、塗炭の苦しみを味わうとも、神様はそれを知っていて、必ず悪い者には悪いように報いて下さる、良いものには良いように報いて下さると信じる。これは神様を信頼する土台です。
ヨブ記1章1節から5節までを朗読。
ヨブは、すばらしい模範的な人物であったことがよく分かります。私達はその足元にも及びません。1節に「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。実に品行方正、何処を叩いても埃一つ出ない。高潔で人格円満な人物であった。彼には7人の男の子と3人の女の子供がいる。しかも、その財産は3節にあるように、羊、らくだ、牛、ロバと数え切れない。当時としては、家畜を持つのが定期預金や国債を買うのと同じくらいの値打ちがありました。羊などを沢山持つのが、即ち資産です。これほどの羊やらくだ、牛、そういう家畜を飼育し、所有しているのは、裕福で恵まれ、経済的にも何一つ不自由のない生活でした。また、その子供たちも立派です。4節以下に、息子たちも独立して、家族を持って、夫々に家も構えて、「自分の日に」と、恐らくこれは自分の誕生日か、何かの記念の日でありましょう、その時には、兄弟家族を全部、自分の家に呼んで振る舞いをして、感謝会をする。家族みんな仲良く、睦まじく、恵まれた家庭です。しかも5節には「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。その振る舞いの日が一巡りすると、年に一度、今度はヨブが招いて、神様の前に礼拝を捧げる。
ヨブの息子たちは集まって、神様の前に燔祭を捧げ、共に礼拝します。そして息子たちのために聖別する。それは、5節に後半に「これはヨブが“わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない”」。ひょっとしたら悪いことをしたのではないだろうか、息子たちが、気が付かないうちに、神様をのろうようなことを言ったり、少しでもけなすような思いを持ったならば、これは大変な事だから、とにかく神様にお詫びをしておこう。実に念の入った信仰だと思います。それほど子供のことを思う父親であり、神様の前にあるべき姿勢を絶えずきちんと整えていました。
ヨブ記1章6節から11節までを朗読。
ある時、神様の所に神の子たちが集まりました。その中にサタンがいた。これも理解し難い感じがします。神の子たちの中に、どうしてサタンがいるのだろうかと思います。しかし、実は、サタンも神様の手の中に握られているものです。神様の目的を果す仕事をしている。サタンは、神様の外にあって、神様に戦いを挑んでくるものというイメージを持ちますが、それは間違いです。神様を超える力、神様に対抗するものはどこにもありません。全ては神様の支配の下にある。では、なぜ神様はサタンをつくられたのか。それは神様の御用を果すためです。そんなものが、何の役に立つかと思われるでしょうが、サタンがいてこそ、神様の力が現れる。この時もそうです。サタンは神様の許しを得て、ヨブを撃つために出て行きます。
神様はサタンに、「お前はどこから来たか」と言う。「いや、世界中を行き巡ってきました」、「それじゃ、あのヨブを見てきたか。彼ほど神を恐れ、悪に遠ざかる者は今まで見たことがなかろう」とヨブを自慢した。それに対してサタンが「いや、神様、あなたはそう言われるが、実はヨブがあなたを尊び敬っているには、理由がある。あなたが彼を祝福して、持ち物財産一切を豊かに恵んでいるからです。それを取って御覧なさい、必ずあなたに向かって呟くでしょう。あなたに背を向けるでしょう」と言った。それで神様はサタンに、「それじゃ、お前が行って、その持ち物を全部取るがいい。ただ身体には一切手をつけてはならない」と。神様は、サタンの働く境界線をきちんと定める。
私たちに対しても、サタンが働いてきます。神様が私たちを試みようとしているのです。サタンがいなかったら、私たちは自分がどれほどの人間であるか、分かりません。天狗になって、天に舞い上がっているかもしれない。ところがサタンがいて、私たちをいろんな事柄に引き込む。またいろんな問題の中で、神様を信じているかどうかを探られる、揺さぶられる。これはサタンの働きです。揺さぶられなければ、土台がしっかりしない。
マンションなどの工事現場を見ていると、型枠と言って、板で形を整えた箱に、生コンを流し込んでいきます。金属の筒状のものを、生コンを流した中に入れる。これがコンブレッサーに繋がっていて、圧縮空気で激しく振動し、激しく揺さぶられて、生コンが型枠の隅々まで詰め込まれていく。揺らさないと、コンクリートの中の気泡だとかが途中に入り、コンクリートが脆くなる。だからしっかりと気泡などを抜きながら、詰め込んでいくのです。コンクリートはどろどろしているから、上から叩くことができない。だから揺さぶるのです。粉状のものそうですね。器に砂糖などを入れても、トントントンと揺すると、きゅっと下がる。そしてまた入れることができる。
サタンが、同じように揺さぶる。「自分は信仰も大分身についてきたな」、「私はあの人よりも少しは成長した」と自負していると、その仮面を全部剥ぎ取るために、神様が時々揺さぶる。神様は、皆さんを見て手加減をしている。不公平じゃない、神様は公平な方です。これに耐えられると思ったら、その人を集中的に揺すって下さる。時にそういう事を言う方がいます。「先生、どうして私だけこんなに次から次へと悩みが多いのでしょうか」、「あなたはそれだけ神様に沢山愛されているのです」と言うと、不満げな顔をされる。「愛されなくてもいい」と言う。そんなことをして貰わなくても大丈夫と思いますが、そうやって振るわれる度毎に、自分を振り返ってみて、信仰が無いなことがよく分かる。そこでまた悔い改めては新しく踏み固められていく。信仰は、そうやって段々と確かなものとなる。だから、サタンは必要不可欠なのです。
サタンは出て行って、ヨブを撃ちました。その記事を少し読みます。15節に「シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。ヨブの所に一つのニュースが入ってきた。みんなが宴会をしていた。そうしましたら、シバびとがヨブの家を襲って、牛やロバ、いろんな家畜も滅ぼした。16節には「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました」。それから更に、17節に「らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。羊およびしもべたちを焼き滅ぼされ、今度は、カルデヤ人がやって来て、つるぎでしもべたちを打ち殺し、更に、19節に「荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました」。四つの悪いニュースが立て続けに伝えられた。しもべが殺される。ラクダや羊が殺される。また天から火が降って殺される、家が潰れてしまう。何もかも全部、貯えたものを失った。
その時ヨブは、20節以下に「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、21 そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』。22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった」。素晴しいですね。彼は家も息子たちも、しもべたちも、全部失ったのです。そして、上着を裂き、頭をそり、地に伏して、神様の前に真っ裸になって、「裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と。こう言えるのは素晴しいですね。私たちも是非そう言いたいと思います。病気になって、「主が与え、主が取られた。主の御名をほめたたえます」と言いたいが、なかなか言えない。しかし、ヨブはそれほどの義人、正しい人でした。神様に対して一言もおろかなことを言わない。私どもがそういう目に遭って御覧なさい。「どうして?」、「何がいけなかった?」、「神様はどうして私をこんな風にしたのでしょうか」と呟く。ヨブの素晴しいところは、神様の与えて下さったものを神様が取られたのだから、ゼロになり、元に戻ったのだ、そう言って感謝した。
ところが、サタンはまた神様の所にきました。神様は、「お前が言ったようにならなかったではないか、ヨブはあんなに苦しい目に遭ったけれども、私に対して心が変わらない」と言った。そのときサタンが、「いや、まだ彼には健康というものが残っている。だから、あなたに背かないのです」と。神様は、サタンに「それではヨブの健康を取ってよろしい、ただ、命を取ってはならない」と。サタンは出て行って、ヨブを撃ちました。それまで健康であったヨブは、身体中に原因不明のできものができて、痒くて、痒くて膿みをもって、瘡蓋(かさぶた)ができ、見るも無残な姿になった。2章7節に「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」。これが第五の災いで、彼の健康が奪われたのです。とうとう彼は灰の中に座って、陶器の破片で身体を掻くようになった。痒いことは痛い以上に耐えられません。痛いのは何とか、勿論それも我慢ならないですが、痒いものが体中あって御覧なさい。一時もじっとしておれない。痒くて痒くてたまらない。だから、彼は手で掻くどころじゃない。陶器の破片で体中を掻きむしる。その見るも無残な彼の姿を見ながら、9節に「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」。奥さんも愛想を尽かしました。そんな状態になっても、ヨブが神様、神様と言っているから、「馬鹿だね、この人は、いつまでも神様、神様と…、私は知りません」と、出て行ってしまった。妻から逃げられました。10節に「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。素晴しいですね。ヨブは「お前は何と馬鹿なことを言うか。私たちは、神様から幸いを受けるんだったら、神様から災いを受けるのも当たり前ではないか」と。
イザヤ書にもそう記されています。神様は繁栄をつくり、わざわいを創造し、光をつくり、暗きを創造すると。神様は、どんなことでもできるのだと、ヨブは語りました。ところが、そう言った口の乾かないうちに、ふと疑問が湧いてきた。「確かにそうではあるけれども、選りに選って、どうして私が?何処が悪かったのだろう。何が原因でこうなったのだろう」。それからのヨブの苦しみは深まっていく。これまで家族を失う、或いは持ち物をなくす、自分の健康を失うという悲しみはありましたが、もう一つ大きな悩みは、心の葛藤、苦しみです。何か問題に当たって、その原因が分かっている時には、安心します。「私が罪を犯した、私が失敗をした、私があのことをしたから…」と、自分が知っていて、その結果こうなっていると思ったら、甘んじて「そうか、仕方がない。これは自業自得だ」と納得します。あの人がいけないと分かっていれば、怒りをぶつけますから、まだいいですが、その原因が分からない。ヨブの苦しみはそういう苦しみなのです。私たちも、「どうしてこうなったのだろうか」と思う、心の悩みが深くなるのが一番の問題。身体が痒いとか痛いとか、熱があるとか食欲がないとか、それは苦しみではありますが、耐えることができます。ところが、自分が「どうしてこうなったのだろうか、これからどうなるのだろうか」という心の葛藤、不安、恐れなどが、一番の苦しみです。ヨブはここまでは取り敢えず、罪を犯すことがなく、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、「お前はなんと愚かなことを言うか、幸いを与える神様はわざわいを与えることは当たり前ではないか」と言ったものの、どうしても納得できない。
11節以下を読みますと、ヨブの友人三人が、彼を労わり、慰め、励まそうと訪ねて来ます。そして3章以下にいろいろなことを語っています。その中で根本的な問題点は、「私はどこも悪くないのだが、どうしてこうなったのだろうか」という悩みです。ですから、友人は、「いや、ひょっとしてお前の知らないところで罪を犯したかもしれないじゃないか」、或いは、「これは神様の大きな御計画があってお前に何か教えようとしているのではないか」「いや、人間と言うのは、そういう弱い者だから…」などと、いろいろな理由をつけでヨブを説得しますが、頑として受け入れない。「どうしてこうなったのだろうか、何で私だけが!」、これは私たちが常に感じることです。
神様は義なる方で、正しいものには正しく報いて下さると信じている。これはその通りですが、それに対して自分は正しいのだから、正しい報いを受けていいという、自己義認がある。「私はどこにも悪いところがない、無いとは言わないけれども、これほどの悩みを受け、苦しみを受けるほど、悪いのだろうか」、「私も叩けば幾らでも埃は出る。でも世間一般、他の人と比べるなら、私はむしろ良いほうだ。あの人が、こういう結果を受けるならば分かるけれども、私が何故?」と思う。
ヨブにもそのような思いがあります。それは、彼の信仰が、この世的な御利益、自分に都合の良い報いを求めていました。先ほど読みました1章5節に、「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数に従って燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである」。一見すると実に神様に忠実な、正しい人だと思います。しかし、この時のヨブの思いを探ってみれば、今の幸せを壊されたくない。ひょっとして何か罪を犯して、神様のご機嫌を損ねて、ハチャメチャになったら嫌だから、何とか神様の気に入れられるように、絶えず燔祭を捧げ、何とかしよう。言い換えると、神様は、私のために良き事をしてくれて当たり前、或いは私が願うことを神様は叶えて下さる。願いに応える神様を信じるヨブの信仰です。
私たちの信仰も、そういうところに陥り易い。殊に、悩みに遭い、困難に遭うと、「どうしてこんなになったのだろうか、何でだろうか」と、煩悶します。悩みます。その思いの中身を探っていくと、「こんなことを受けるほど、私は悪いことをしたのだろうか。私は正しいのに…」という思いがあります。神様の前に徹底して、ゼロになりきれない。ヨブはどうしても自分の考えたプラン、或いは自分の願ったことがかなえられたいと、神様を利用している。どうぞ神様守って下さい。神様、どうぞ私の後ろ盾となり、庇護者となって下さいというのが、彼の信仰姿勢です。それは、悪いことではありませんが、神様は、文字通り神様として、何があっても信頼することを求めています。2章10節の終わりに「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。図らずも、ヨブは自分の口から、こう語りました。神様はオールマイティ、全能者であるから、神様は創造者であるから、私たちはどんな取り扱いを受けても当然です。けども、その後の記事を読むと、自分が語ったとおりに信じることが出来ずに、「どうしてなのだろうか、何でなんだろうか」と、悶々と悩みました。
事に当たって、「どうして?どうしてこんなになったの?」、「どうして?」とつぶやく時、実は、このヨブと同じ立場に立っています。なぜこんな目に遭わなければいけないの、どうしてこんな酷い仕打ちを受けなければならないの。あれが原因だった、この人がこうしたから、あの人がああしたからと、どこかそういうはっきりと原因となるべきものを特定したい、知りたいと思う。しかし、私たちは神様によって造られ、今日も生かされています。家族の誰かが、私に何かをしたから、こういう不幸になった。あの子供があんなことをしなければ、もう少しましな老後が送れたなどと考えるなら、大きな間違です。これが原因だと特定して、納得しますが、そうである限り、ヨブの失敗を繰り返します。ヨブはいつまでも、このことに拘っているために、「どうしてだろうか、どうしてだろうか」と悩み続けるのです。
38章1節から7節までを朗読。
ここで神様は初めて直接声を掛けました。「お前は一体なんと馬鹿なことを言っているのだ」。2節に「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」。「お前は一体何様だと思っているのだ。馬鹿なことばかり言って、お前はわたしの思いを知らないではないか」。そこで3節に「腰に帯して、男らしくせよ」と、しっかりしなさいと。「わたしはあなたにこれから尋ねるから全部答えてみよ」と。それから4節以下にあるように「お前はこの宇宙やこの世界が、その基が据えられた時に何処にいて、何を知っていたか。この宇宙、世界の始まりはどうだったか、お前は見ていたのか」と、次から次へと矢継ぎ早に神様は問い掛ける。
その先の22節から27節までを朗読。
実に規模が、スケールが大きい。重箱の隅をつつくような質問じゃない。「雪の倉にはいったことがあるか、ひょうの倉を見たことがあるか、光の広がる道はどこか、風の抜けていく道は何処にあるのか」。私たちは何にも知らない。無知なる者、ここでもう一度「お前はどうして?どうして?自分が知っておかなければ納得しないと言うけれども、お前は知らないことばかりではないか」。
40章3節から5節までを朗読。
ここまできて、ヨブは答える術がありません。4節に「まことに卑しい者です」と認めました。それまでは義人ヨブでありました。義なる人であった。それは人から見ても、自分で考えてもそう思っていた。しかし、彼は、「自分はまことに卑しい者だ、あなたに何と答えましょうか。答える術がありません」と言いました。神様はそれでも許さない。
6節から10節までを朗読。
神様が間違っている、私は正しいのにこんな酷い目に遭うなんて、どうも理由が分からない。神様はちょっと間違っているのではないだろうかと…。そこで神様が8節に「あなたはわたしを非とし、自分を是としようとする」。あくまでも自分が正しい、自分の考えが正しいのだとしがみついている。それがヨブの最大の罪です。これはこうなるべきだ、これはこうあるはずだ。神様はこうして下さるのが御心に違いない。世の中だってそうだし、人だってそうだし、皆してそう言うじゃないか。なのに、そうならないのは、神様がちょっとおかしいのではないだろうか…。私たちもそんな風に思ってしまいます。
口では「神様は間違っているよ、神様はおかしいよ、最近頭が狂ったのではなかろうか、神様は…」などと、あからさまに言いませんが、心の中で、不満に思う。どうしても神様の為さることだとは思えない。私の方が正しい、私の考えていることが正しい、私が願っていること、これは不当なことじゃなくて当然のことであり、これは別に悪いことではないと言う主張が、ヨブにはある。考えてみると、私達も問題に当たった時に、「どうして?どうして」と言っている時、神様は間違っているのではないか、本来私が受けることじゃなくて、これはあの人に向かったものが、たまたま送り先が間違って私に来た、「神様、これは私が貰うべきものでしょうか、ちょっと不満です」と言っている。ヨブは正にそういう思いを持って、自分の置かれた境遇、与えられた問題、悩みの中で、それを是とすることができない。「これでいいのです」と受けることができない。ここに私たちの悩みと大きな問題があります。
42章に戻りますが、ここで初めてヨブは、2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはない」。神様はどういう方か、ヨブが認めた一節です。人間は、神様に造られた者、被造物に過ぎない。この言葉の意味は、神様がどんな取り扱いをしても、私たちは一言も文句を言うことができない、言うべきじゃないという事です。神様が為さる業に対して、私たちが良し悪しを言うわけにはいかない。神様の為さることは徹底して善であり、正しい。白いものを神様が黒と言われたら、それは黒いのです。神様の為さることこそが、最善にして最高、絶対唯一無二のもの。私たちの考えが正しいとか、良いとか、そういうことは何の価値もない、値打ちも無い。そんなものは有害でしかない。ここで、ヨブが初めて徹底して神様を信じるところに立ったのです。私たちもここに立たなければ、本当の信仰ということができません。最初に申し上げたように、神様は公平な方で、正しいことをする者に正しく、悪いことをしたら、そのように、公平に報われる方だと信じることも、「神を信じる」事です。しかし、それだけではない、いやもっと大切なことは、ヨブが語ったように、神様はどんなことでもできる。そして、私たちは神様の為さる業に一言も付け加えることも、手を挟むことも、指一本触れることもできない。この事を徹底して認める。これが神を信じることです。
神様が私たちをどのように取り扱いなさろうとも、何も文句をいうことはできないし、言えた筋合いではない。私たちは様々な事情境遇問題のなかに置かれています。どうしてこんなになったか、訳が分からない。で、悶々と苦しむこともあるでしょう。しかし、そこでもう一度、神様がいて、尚この事が起こっているとは、どのようにそれを受け止めるべきかをよく考えて下さい。
どんなことでも、「あなたにできないことはない」。神様、あなたは全能の主です。私たちは、ただ口を塞いで、ゼロになって、神様の前に自分を捧げる以外にない。自分の思いを捨て、考えを捨て、絶対者である神様の手に握っていただこうではありませんか。これはエレミヤも語っています。エレミヤ書18章に「あなたがたは私の手のうちにある」。私たちは神様の手に握られている。神様の御心のままに、自由自在にどうにでもしていただける。言うならば、神様は、今日にでも潰してしまうことができる。また私たちを引き上げて下さるならば、どんな高い所にでも上げて下さる。そのような絶対的な力、権威を持った神様の手の中で、私たちは生きている。持ち運ばれている。「神様を信じる」とは、ここです。だから、「神様、あなたを信じます」という時に、心を空っぽにして、空け渡してしまう。「神様、あなたは万物の創造者で、今も力ある手をもって全てを統べ治め、ご計画を持って導かれる方です。私の計画は捨てます、私の願いも、どうでもいいのです。神様、あなたの手に委ねます」と、主に捧げて、一日一日、神様によって生かされる。神様の手を信じて、与えられたところで主に仕える、神様のしもべとなって仕える。その時に、神様は私たちの思いを越え、願いを越え、驚くべきことを始めて下さる。
42章2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。「主よ、私はあなたの御心のままに自由自在どのようにでもお取り扱いください」と、自分を捧げましょう。自分の願いや考えが正しいのではなく、神様こそが善にして、且つ正しい方、義なる方です。その方に全幅に信頼する信仰をしっかりと持ち続けたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。