いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(40)「信仰による祈り」

2013年10月31日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書35章1節から10節までを朗読

3節と4節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。4 心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と」。

殊に、3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ」とあります。年をとってくると、身体的にいろんな不都合が生じてきます。朝起きてみたら腕がこわばって、曲がらない。一生懸命に手をさすって、「私は脳梗塞かしら」と心配します。それは、年齢と共に起こる事ですから、止むを得ません。また、膝の悪い人が、年を取ると多くなります。これも止むを得ません。私たちが立って歩く以上、膝が悪くなるのは避け難いことです。しかし、3節は年を取って、手が動き難くなった、関節がこわばった、足や膝が悪くなったから、元気にしなさいと言っているのではありません。お祈りをする時、私どもは手を組んで、頭を垂れて祈りますが、この時代のイスラエル、ユダヤの国では、両手を上げて祈ったのです。神様に向かって手を上げて、顔も上げて、「天のお父様」と呼びかけた。朝起きて、神様に向かって立って、手を上げてお祈りをしたのです。

出エジプト記17章8節から13節までを朗読。

モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷の生活から救い出して、カナンの地を目指して荒野の旅をしてまいりました。その途中で、異民族であるアマレクという民族に出会い、戦争になりました。今読みましたように、モーセは自分の部下であるヨシュアに、「さぁ、あなたは民を率いて行って、戦える者は行ってアマレク人と戦いなさい」と命じました。モーセは丘の頂に登ったのです。そんなに高い山ではなかったでしょうが、全景が見下ろせるような場所でした。モーセは、眺めるために登ったのではありません。そこでお祈りをするためです。お祈りをする時、手を上げて祈った。イスラエルの人々の祈りは、そうやって手を上げる。モーセが手を上げて神様に祈っていると、11節にありますように「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち」、モーセが手を上げてお祈りしていると、イスラエルが勝利する。アマレク人に打ち勝つ。ところが段々と手が重くなってくる。それは当然です。皆さん、一分間手を上げて見て御覧なさい。必ず手が下ります。一分なんて簡単だと思いますが、10秒くらいで段々きつくなる。だから、これは大変なことだなと思います。聖書を読む時に、できるだけ自分の体験と比べてください。モーセになったつもりで手を上げるのです。ここで「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った」のです。どうしても支えられないから、手が下がってくる。そうすると、今度はアマレク人が勝利します。これはいかんというわけでまた、手を上げるのですが続きません。

よく考えたもので、12節に「モーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した」。モーセは立っているわけですから、下から支えなければいけない。支える側も立っていたら疲れるので、石を持ってきて座る。そこへ腰掛けて、アロンとホルが両脇からモーセの手を支えた。両脇から支えられていますから、上げ続けることができる。手が下がらない。そうやって、この12節に「そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった」。一日中支えていたのです。その結果、「ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った」と。神様が力を与えて、イスラエルを勝利に導いて下さいました。これは明らかに、ヨシュアが強かったから、作戦が良かったからではなくて、モーセの祈りに神様が応えて下さいました。この手を上げるのは、ここにも明らかなように、信仰を持って、神様を信頼して、祈り続けるということです。

ある兄弟は、若い時に、柘植先生の信仰に導かれて、ある聖会で、熱心になって一生懸命にお祈りしなければと思いました。「そうだ、アマレクに勝つためにモーセは両手を上げて祈ったのだから、我々もそうやって祈ろう」ということで、仲間もみな集まってお祈りをした。「この聖会で多くの人が救われるように、アマレクという悪魔に打ち勝つことができるように、お祈りをしよう」というわけです。そして手を上げて祈ろうと、手をあげて祈った。ところが、どうしても夜は眠くなる。寝ている間も手を上げている方法はないかと考えて、とうとう紐で手を縛って、下がらないようにしたそうです。そしたら何分もしないうちに、手が青くなって、慌ててひもをほどいたと聞きました。心意気はいいのですが、意味を取り違えたのです。形だけ手を上げて、紐で縛って寝たら、手は千切れてしまうかもしれない。聖書で言っているのは、そういうことではありません。手を上げるというのは神様に向かって、真剣に祈り求めるということなのです。

モーセとアロンおよびホルの3人が一緒になって祈った。両脇からモーセの腕をズーッと支えるという、これは今も私たちができる事です。私たちが祈りを共にする、祷告会だとか祈祷会で祈るのは、このことです。お互いに相手の手を支えてあげる。ですから、皆さんがいろんな方々のためにとりなして祈る、祷告するのは、その人達の信仰を支える、大きな力です。アロンとホルが、モーセを支えたように、皆さんがお祈りをして下さることで、私は手を上げ続けることができる、信仰を持ち続けることができるのです。自分だけのことではなくて、私たちはそうやって両脇から祈りをもって支えていく。これが私たちの祈りです。

ですから、イザヤ書35章3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ」。信仰をもって、いろんな問題や事柄について、日々、神様に祈り求めてまいります。しかし、神様は聞いてくれたのかどうか、どうもよく分からない。お祈りはしているけれど、何か自分の慰めのために祈っているような感じがして、気が付かないうちに、神様から心が離れてしまう。祈ることも少なくなる。そういう状態が「弱った手」、或いは「よろめくひざ」なのです。「神様を信じている、神様に信頼しています」と言いながら、ああしたらどうだろうか、こうしたら…と、あちらこちら、他の事に心が揺れてしまう。これが「ひざがよろめく」ことです。「よろめく」というのは、ひざが悪いとしゃきっと立てません。ヨロヨロッとよろけたり、踏み外したりする。

信仰も同様です。思い掛けない大きな問題に当たったりしたら、よろめきます。私もそういう経験をしました。昨年の丁度この時期ですが、病気を宣告され、「これからどうなるのだろうか」と思う。そうすると信じて祈っているのですが、祈りつつも、大丈夫だろうかと、不安がくる。思い煩いが湧いてくる。そしてこのままでいいのだろうか、あれをしなければいけないのでは、こっちに行かなければと、うろたえる。そのぶざまな姿を体験する時、「本当に信仰があるのだろうか」と不甲斐なく思います。聖書にも「あなた方は、自分に信仰があるかどうか、よく吟味しなさい」と勧めています。本当にそうですね。「神様がこんなに恵んで下さって、感謝です。神様に信頼していますから大丈夫です」と言っているのはほんのちょっとの間です。何か事が起こって御覧なさい。あれやこれやと気が散って、慌てふためく。揺れるのです。

でも、自分自身の体験をとおして思うのですが、そうやって揺れることで、信仰を堅く、強くしていただく。信仰が揺れないことはベストでしょうが、生身の人間ですから、揺れないことはありません。ただ揺れが酷くて、ころんでしまうかどうかです。ひざがよろめく人でも、おっとっとと踏みとどまる人もいれば、ぐちゃっとこけて、骨を折ったり、という事にならんとも限らない。信仰もできるだけ揺れが少なくありたいと願います。そして早く神様にピシッと立ち返っていく。これは信仰生活の中で大切なことです。時々、「私に信仰があるのかしら、私はよろめいてばっかりで、こんなんだったら、イエス様の所に帰れないのではないだろうか」と疑われる方がいます。大丈夫です。なんどよろめいても、そこからまた神様に帰る、これが大切です。だから3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ」と、勧められているのは、そういうことです。私たちはしっかりと立っているようであっても揺れ動くから、その時は手を強くし、あなたのひざを健やかになさいと勧められているのです。何度でも神様に立ち返ることが大切です。「こんなによろめいてばかりだから、神様は愛想をつかされたでしょうから、もう駄目だ」と言って、神様の前から離れて行くのが一番良くない。いろんな問題や事柄に揺さぶられる時に、愈々神様にくっ付いていく、しつこくすがっていく。

ヤコブの手紙1章2節から4節までを朗読。

ここに、いろんな試錬に会う場合があると言われます。しかし、「それを非常に喜ばしいことと思いなさい」。そうだと思います。いろいろな思い煩いの中に置かれた時、試錬に会った時は喜びなさい。「どうして私は弱いのだろうか」と言って、自分を責めることはいらない。「こんな弱い私だけれども、試錬を与えて下さった。こういう問題や、悩み、思い煩いがあることは感謝だ」と喜ぶのです。それは「信仰がためされることによって」と、3節にあります。揺さぶられることによって、神様を信頼しているのか、神様の力と恵みを私は握って立っているだろうか、或いは神様が一つ一つに報いて下さる方であるとはっきり信じ続けているかどうか、そのような事が試されるのです。そのうえ、「忍耐が生み出される」。この忍耐というのは、信仰という言葉とほぼ同義、同じ意味だと考えていいと思います。新しい信仰が生み出されるのです。だから、何の思い煩いもないし、心配もありません、悩みもありませんという人は、幸いなようであって実は大損をしている。せっかく神様が恵もうとして下さる恵みを取り損なう。だから皆さん、健康上の問題や、経済的な問題、老後の問題、子供の問題、孫の問題、いろんな問題が起こった時、喜ぼうではありませんか。それによって私たち一人一人の信仰が試される。「お前は一体何を信じている、何を拠り所としている。あなたは何を力として立っているのか、生きているのか」と問われる。そうして、静かに振り返ってみると、「信じていると言って、口先ばかりであった。今度はこの問題の中で、神様の報いを望みつつ祈り続けていこう」と、「弱った手」を強くするのです。また、「よろめいているひざ」を健やかにして、神様に向かう。これが私たちの恵みです。

ペテロの第一の手紙1章5節から7節までを朗読。

6節に「しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れない」と記されています。この地上にある限り必ず試錬が伴います。苦しいことや辛いこと、思わない、願わないことが私たちの身に起こってきます。しかし、「それでもあなた方は大いに喜んでいる」と6節に記されています。何故ならば「こうして、あなたがたの信仰はためされて」とあります。私たちが鍛えられて、よろめくひざが健やかになり、萎(な)えた手がしっかりとなって、腕が伸ばされて、神様に対して心一つになり、混じり気のない信頼をもってより頼む者となる。これが恵みです。ですから、それを避けて通ったら、一番美味しいところを捨ててしまうようなもの。私たちはいろんなことに会った時、神様を信じて、信仰を試されて強くされます。

もう一度、初めに戻りまして、イザヤ書35章3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。4 心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と」。私たちがよろめく原因、或いは手が弱ってくる原因は、お祈りしてもその答えがないと思われる。ちっとも神様は聞いてくださらない、思ったようにいかない。だから4節に「心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み』」とあります。ここにありますように、「あなたがたの神は報復をもって臨み」、報いをもって必ず来る。応答してくださるというのです。私たちが祈るとき、神様は必ず応えて下さる。そして「神の報いをもってこられる」のです。更に、「神は来て、あなたがたを救われる」。この4節の後半の3行は、同じことを、言葉を替えて、繰り返し三回言っているのです。神様は、必ず応えて下さるのだと繰り返して語っています。報復をもって、報いをもって、救いをもってきて下さる。

私たちが信じる神様は、今も生き、働いていらっしゃる方、決して聞えない方ではない。木偶(でく)の坊でもない。私たちの信じる神様は、必ずそれに応えて下さる。ただ、その答えが自分の思いどおりとか、自分が求めたとおりでなかったと失望し易いのです。しかし、後になって考えてみると、神様がしてくださったことが、自分が願ったり、計画したよりも、はるかにもっと素晴らしいことだったと、明らかになる。だから、失望しないで、「祈り続けなさい」とイエス様が言われる。

昨日、結婚式に招かれて出かけましたが、お嫁さんのお母さんが「先生、お祈りするっていうのは、段々マンネリになりますねぇ」と言われた。日課のように毎日一つのことを求めて祈っているのだけれども、1年3年5年と続くと、祈りがだらけてしまう。そういうことがありますと言われる。「そのとおりですね」と私も申し上げました。「ただ、神様はそのだらけた私たちを奮い立たせるために、また次の問題や、事を起こして下さいます」と言いました。その姉妹が「そうですね、同じ事を祈っているけれども、うんともすんとも答えがないように思える。そこへもう一つ別の問題が起こってくる。そうすると奮い立たせられて、もう一度、『そうだ、神様!』と求めていくことができるから、私どもはこんな幸いなことはありませんね」と言っていました。それを聞きながら、私自身もそういう体験をします。皆さんもご経験があると思います。幾ら祈っても変わらない。そろそろこれは「諦め」という箱に入れて、処理済みにしたくなる。そういう時に必ず問題が起こる。それによって奮い立たせて下さる。神様は必ず報いて下さる方です。それがどういう風な結果になるか、私たちには分かりません。しかし、気がついてみたら、あの時祈った事が、今こういう形で解決している。

私どもは自分で祈ったことを、とっくに忘れてしまっている。何年か経って、そういえばあのことはどうなったかしらと、気がついてよく見ると、あれもこれもことごとく全てが整えられている、変わっている。私どもは忘れ易いですから、今お祈りしている緊急の課題をノートに書いておいて下さい。それを来年読み直して御覧なさい、「なるほど、あの時、こんなに心配していたことが、今、こんな風に変わっている」。私もそうやって書いて、5年前のものを見ると、書いていた事は全部解決している。神様は不思議なことをなさる。ところが、私どもはそれを忘れている。

自分の家族のために、主人が救われるためにと泣いて祈った方がいる。ところが、今見て御覧なさい。ご主人が横に座っているではありませんか。当たり前のような気になっているけれど、これは不思議としか言いようがない。神様がしてくださったのです。神様は必ず応えてくださいます。ですから5節以下にありますように「その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。6 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる」。「その時」と5節にあります。どういう時かと言うと、神様が報いをもってこられる時、神様が救いを現される時です。どういうことが起こるのか?5節以下に「見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる」。生まれつき目が見えなかった人の目が開かれ、耳の聞えなかった人が聞えるようになり、足の不自由な人がしかのように飛び走り、ものの言えなかった人が喜んで歌を歌うように変わるのです。180度ひっくり返ってしまう。神様がそれを為さるのです。

私たちが考えるのは、そんな大きなことではない。ちょっとゆがんだ物を手直しする程度のことしか期待しません。もうちょっと、ここがこうなってくれたらという程度です。ところが神様はそうじゃない。神様は根こそぎひっくりかえして、到底不可能と思える事をして下さいます。6節の後半にありますように「それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである」。どうして砂漠に川が流れることがあるでしょうか。荒野に水が湧き出て、緑豊かは地に変わることがあるでしょうか。しかし、神様にできないことはない。ローマ人への手紙4章に「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じ」と語っています。私たちの信じる神様は、その辺にあるちっぽけな神様でない。正に死人を生かすことができる、無から有を呼び出して、私たちを造り変えられる。7節に「焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり」と。神様がなさる時、焼けた砂が池と変わってしまう。そればかりでなく「山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる」。山犬っていうのは、また一般に犬は水が嫌いです。湿気のある所には絶対に寝床を作ったりしません。住家とはなりません。山犬の伏す場所というのは、乾燥しきった、乾いた場所です。ところが葦、よしというのは水がないと育ちません。湿地、沼地などです。そういう場所が変わってしまう。

そのために、私たちは、何をすべきでしょうか。3節に「弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにして」、神様の報いを待ち望むのです。私たちの祈りに応えて下さると確信をもって、手を主に上げて行こうではありませんか。神様はやがて、やがてどころではない、直ぐに不思議をして下さる。驚くことをして下さる。そのために、先ず信仰をしっかりと握ることです。手を神様に向かって伸ばし、耐え忍んで主の報いを待ち望んで行こうではありませんか。「遅くあらば待つべし、滞りはせず」と、約束をされているのです。神様は、必ずその報いをもって私たちの所に来て下さる。その主を待ち望んで、一日一日、主を呼び求め、信頼し、主が与えて下さる恵みを体験する日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。