いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(38)「今を生きる」

2013年10月29日 | 聖書からのメッセージ
コリント人への第二の手紙6章1,2節を朗読。

今朝はこの2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。

日々の生活の中で、いつも将来の事を考えています。これから自分はどうなるだろうかと、絶えず思って生きている。テレビのコマーシャルを見ても、最近は生命保険や病気入院特約付き等の癌保険のコマーシャルが多い。それを聞いていると、今あなたは40歳、60歳、これから70歳80歳90歳、そうなるとこの時にはこうなって、病気で入院したらこれだけの保障があると言う。それは将来の事を言っているのです。これからその年まで生きた時にはこうなりますよ、こういう痛い目に遭いますよ、こう病気に遭いますよ、その時にはこれだけ沢山の出費がかかりますよと。最近、郵便局でも盛んにそういうものを勧めます。郵便局に行きますと、直ぐに掴まえられて「失礼ですが、お年はお幾つですか」「62歳です、もうすぐ63歳になります」と言ったら、「これから大変ですね」と言われます。「何がですか?」「病気がありますよ、またいろいろと周辺に不幸な事も起こってくるでしょう。そのために今から備えておかなければ」と言われます。私はそういう先の事をあまり考えられない。でも、多くの人にとって、確かに将来が身に迫って感じられる。そのためにいろいろな準備をし、備えをしておく。備えるだけの余裕のある人はいいと思いますが、その日暮らしでは備える余裕もない。先の事を考えても心配ばかりです。

恐らく、皆さんもそうだと思います。自分の将来のこと、老後のこと、一体どうなるだろうかと考える。考え始めると、大抵良いことは考えない。と言うのは、若返っているわけではないから。どんどん能力は落ちていく、体力は落ちていく、身体的ないろんな障害は出てくるから、先のことを思えば思うほど、「今よりはもっとひどくなるなぁ」と考えてしまう。それは当然のことかもしれません。そうすると、どうしようか、こうしようかと、策を考えますが、その道が分からない。愈々お先真っ暗になって失望し、「どうしよう、どうしよう」と心配しつつ、日々を過ごす。先の事を考えることは確かに必要なことであり、また備えていくことも大切だと思いますが、将来、そうなるとは限りません。しかもその時があるかどうか、これは私たちには分かりません。保険の外交員が「女性の場合は、平均年齢で87歳くらいは生きるでしょう。それも、毎年更新されて90歳くらいまで伸びるでしょう」と言われると、なんだかその年まで生きそうな気がします。しかし、何の保証もありません。

ヤコブ書にあるように、私たちは明日のこともわからないのです。何時どんなことが起こってくるかわからないから、将来を心配するより、今という時をどういう風に生きるかが、むしろ大切だと思います。将来のことは私たちの手にありません。未来があるのは若い時だけです。60歳を越えたら未来はない。あまりそういうことを心配しない方がいい。「明日のことを思い煩うな」と言われます。思い煩いの中心は、「今」のことではない。今のことを思い煩っている人は殆んどいません。「今」ではなくて、その先の事なのです。今、こんな状態だから、にっちもさっちもいかない、身動きが取れないという悩みではなく、「今は取り敢えずいいけれども、明日はどうなるだろうか、或いは一ヵ月後、一年後にはどうなるか分からないから不安です」と言う。しかし、先の事って、私たちには到底どうにもしようのない事なのです。そうでありながら、つい考え込んでしまう。それは、自分の力、自分の才覚で何とか安心を得ようとするからです。この世は神様を知らない社会です。人の力、人間の努力と熱心で、一生懸命に営々と築いてきた生涯だと思うから、これからも自分の責任であり、自分が何とかしなければと思っている。しかし、必要なことは、私たちの将来も、実は神様の手の中に握られている、神様が支えて下さっていると信頼する以外にない。どういう事が将来起こってくるか、それは神様がご存知で、私たちはそれを知り得ないのです。それなのに、先のことを思って、「今」を心配と不安とで過ごしています。

私も昨年病気をして一年経ち、昨年の今頃、どういう気持ちで過ごしていたかなと思って、ちょっとメモを開いてみると、結構心配ばかりしていた。今思うと「馬鹿なことを考えていたな」と思うのですが、それは後になって思うことです。今は「そんなに心配しなくて良かったのだ」と思いますが、その時のことを振り返ってみると、これからどういう風に展開するだろうか、この病気がこうなったらどうしようか、ああなったらどうしようかと、いろいろ思い煩っていました。結局、思い煩って、「今」という時を無駄に終わらせている。先のことを心配し始めたら、今のことが手につかない。ただボーッとして考えて、気がつくと、夕方になっていた。先の事で思い煩い、今という時を失っている。

私は、そういう中を通って、その事を深く教えられました。つい気がつかないうちに、先の事を考えて、心配になる。不安になります。そうすると、今していることに手がつかなくなる。楽しいはずなのに楽しめない。テレビを見ても笑えない。人と会食をして美味しいご馳走を食べながらも、そのことばかりが頭にありますから、目の前の食事も砂を噛むような味気ないものになります。ある時、それに気がついて、自分は一体何をしているのだろうと思いました。私の心配は先の事ばかりで、今、目の前に美味しいご馳走があるのに、これを楽しまないでどうするのだ!生きるというのは、今を生きる以外にないのです。これから先、生きるかどうか、これはわからない。だから、未来という時間は、私たちの手に無い。あるのは、今という時です。今こうして元気で、今日こうして生きていることを、感謝し、喜び、楽しめばいい。それなのに、まだありもしない未来のことを考えて、今という時を、今日という日を、真っ暗にしてしまっている。それでは人生を生きているとは言えない。わたしは自分自身の体験を通してそう思いました。「そうか、もうこれから先どうなるか分からない。『死ぬべきは死ぬべし』だ。今という時を楽しもうではないか」。これは神様が与えてくださった恵みだと思います。

ですから、1節に「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない」、ここに「神の恵みをいたずらに受けてはならない」。「いたずらに」というのは、「無駄に」とか、或いは「虚しく」、何の役にも立たないものにしてしまわない。今、幸いであるはずなのに、感謝して喜んでおるべきなのに、将来の事を考えて、今という時を無駄に過ごすこと、これが「恵みをいたずらに受ける」ということです。コリント人への第二の手紙12章に「わが恩恵(めぐみ)なんぢに足れり」とありますように、神様は今日という日の恵みを豊かに注いで下さっている。「あなたに対して十分だよ」と仰っている。その恵みは、過去でも、将来でもない。今この時に、神様は恵んで下さっているのです。そして、その恵みは十分であると言われている。それだけの恵みを戴いているはずです。ところが、それを感謝し、喜んで生きることをしなければ「いたずらに受ける」ことになります。無駄に時を流していることになります。

もう一度、自分の生き方をどの時点に、過去に置くのか、今に置くのか、或いは将来に置いて生きるのか、ここを定めておきたいと思います。私どもはともすると、先の事ばかりを考えて、今という時を無駄に終らせてしまう。中には後ろの事ばかりを考える。そっちの方が多くなっているのかも分かりません。先が望めないから、先の事を考えると尻すぼみだから、後ろの事ばかりを見る。「20歳の頃はああだった、こうだった」。誰かれなく寄ると触ると、昔話にスーッといくでしょう。それは今という時を感謝できないからです。今よりも過去が良かった。確かに、良かったと思います。もっと元気はつらつで、また若々しくて、何を着ても似合う時代があった。お化粧もしなくても良かった時代があったのです。しかし、今になって「あの時が良かった、あの時が良かった」と思って、「今はこうだから駄目だ、今はこんなだから悲しい、嘆かわしい」と言うのだったら、これは神様の恵みをどぶに捨てているようなものです。「いたずらに受けている」のです。過去も、確かに栄光に満ちていた、輝いていたかもしれない。今はその輝きがないと嘆かれるかもしれない。しかし、もう一度、今という時を、自分に与えられた恵みをよく見直して…。今の時でなければ味わえない神様の恵みがあるのです。今の時の神様の恵みが分からないから、また、それを感謝して受けようとしないから、「昔がよかった、あの時が良かった。もっとこうだったら良かった」となる。「あの時に私があんな事をしなければ良かった、こんな事をしなきゃ良かった。あの時に私がこうしたから、こんなになってしまった」と言って、その過去の故に今を嘆く。或いは今を楽しめない、喜べない、感謝して受けられない。これは神様の前に申し訳ない事です。

ですから、2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」。神様は恵みの時、救いの日を設けて、私たちの祈り、願いを聞いて下さる。命を与え、健康を支えて、知恵を与え、力を与えて、今日も神様は私たちを恵んで下さっている。この恵みが与えられ、救いが与えられる日はいつか?それは「今」なのです。だから、2節の後半に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。今、今日という日、この日こそが実は恵みに出会う時であり、神様の恵みを味わう時です。神様の恵みは、昔あったという、過去ではない。またこれからもっと良くなる、或いは神様の恵みは今はないけれど、将来あるに違いないというものでもない。今、今日という日に神様の恵みに出会うことができる。

それはどういう恵みかというと、まさにこの2節にあるように「あなたの願いを聞きいれる」、神様が私たちの願いを、今聞いて下さる時が与えられている。これは私たちに大きな恵みです。確かに、健康であるとか、食べるものに事欠かない、生活する場所があり、また着るものがあるという、いわゆる、事情境遇そういうものは一応一通り整って、与えられている事も恵みではあります。しかし、もっと素晴しい恵みがある。今、神様を呼び求めることができる。そして神様の答えに出会うことができる。神様に触れることができる機会を与えられている。それは今でないと駄目なのです。今日でなければ神様に出会うことはできない。明日が有ると思いますが、明日どうなるか私たちは分かりません。生きているかどうかも分からない。だから、今日、神様は私たちの間近に近づいて下さっている。私たちの傍に立っていて下さる。その時はいつかと言うと、明日でも明後日でもない、今です。今日この時に、神様を呼び求め、神様の前に出て行くことができる幸いな時、また、「救いの日にあなたを助けた」と、今日が救いの日であって、私を助けて下さる。それは明日でも明後日でもない。今です、今日です。ですから、へブル人への手紙4章にありますように、私たちのために執り成して下さる「大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」、彼は「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」、「はばかることなく恵みの御座に近づきなさい」と勧めて下さるでしょう。「はばかることなく恵みの御座に近づきなさい」と言われているのは、来年の何月何日に来なさいと言う約束ではない。今、今日、神様が救って下さる。そしてその救いと恵みの中に、今日も私たちは生かされている。そこが救いの日であり、それが恵みの時です。今という時を抜きにして、時はないのです。

ですから、私は将来の事は考えない。先の事はどうでもいいのです。神様が握って下さるのですから。今、今日という一日を、与えられたところで力を尽くして、感謝して、主の恵みを恵みとして味わうことが求められている大切な事だと思います。だから、来年になったらこうしよう、ああしようと言わないで、今、教えられ、導かれていることがあるならば、今日という日に直ぐに従っていく。だから、あなたがたは、「心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」と勧められています。神様が語って下さる、神様が導かれる時が今である。その時に「はい」と従っていく。明日に伸ばす、明後日に、来年にと、先延ばしにするのではない。これはとっても大切な生き方です。信仰に立って生きるとは、このことです。

エペソ人への手紙5章15節から17節までを朗読。

16節に「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。「今の時を生かして用いなさい」と言うのです。何故かと言うと、「今は悪い時代」、私たちは神様を離れた時代に生きている。神様を敬わない、尊ばない時代に生きている。誠にそうだと思います。今は悪い時代です。悪い時代だからこそ、今という時、恵みの時を神様が備えて下さった。これは大きな恵みです。もし、時代が良くて、全てのものが神様の御心に叶う世界だったら、何処に、どんな神様の恵みがあるか、全てのものが光っていてそれは見えません。ところが悪い時代だからこそ、神様の恵みを求め、助けを求める時、鮮やかな神様の業を見ることができます。
だから、「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。今は確かに、「わが人生で最悪の日だ」と思われるかもしれません。だからこそ、悪い時代だからこそ、神様の恵みがあり、救いがあるのです。今という時を、そういう時としてはっきりと掴んでおきたい。

17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。自分が悪い時代にある、自分の生涯の中では最悪の時代だ。或いは、世の中も世界も、人間の歴史を振り返ってみると、一番悪い時代に陥っているのかもしれません。社会も悪い時代に入っている。そればかりではなく、皆さんの人生にとっても、今日は生涯最良の日と思えないでしょう。どこかで、「もうちょっとあそこが、ここが、こうなっていてくれたら、最良と言えるのだが、せいぜい10番目くらいかな」と言う。今が、「悪い時代だ」と思っているならば、感謝したらいい。何故ならば、「今は恵みの時、今は救の日である」。 恵みの日に神様が私たちの願いを聞き入れ、救いの日に私たちを助けて下さる。その恵みが間近に今あるからです。だから、今という時に真剣に主を求めて、主の恵みに感謝して、力いっぱい喜んで、楽しんで、生きようではありませんか。神様はそれを願っておられるのです。だから、この17節に「主の御旨がなんであるかを」と。神様が今私に何を求めているか、神様は私に何をさせようとしているのか、ひたすらに求めることです。神様を求めて行く時に、今の時に、どういうことをしたらいいのか、今何を楽しんだらいいのか、神様は今どういう恵みを与えて下さっているのか教えて下さるでしょう。

自分の受けている恵みが沢山あるのに、それに気づかない。そして、欠けた所、足らない所ばかりを数えようとする。人というのは案外そうなのです。「どうですか、お元気そうですね」と言うと、「いいえ」と。「どうしたのですか」と言うと「いや、腰が悪い、目が悪い、手が何とかで…」、もう体中病気の巣と言わんばかりに、「少しはいいこともあるでしょう」と言ったら、「何がですか!」と言われます。だから皆さん、お年寄りに出会ったら、お元気そうだと言わないほうがいい。「今日も大変そうですね」と言うと、「あら、分かりますか」と喜ぶ。「お元気そうですね」と言われるのは嫌がる。何処かに悪い所がないと自分の生き甲斐がないと思っている。しかし、それでは神様の恵みを味わうことができない。今日もこうして歩くこと、立つこと、食べることができる。それらを感謝すると、神様の恵みがどんなに豊かであるかが分かります。

私の母は脳梗塞をして、少し左側が不自由になりました。しかし、母は召されるまで、一言も「こんな風になって嫌だ」と嘆いたり、呟いたことがない。寧ろ私の方が嘆くのです。「もう少し、あの時注意しといてくれたら、こんなに成らなかったのに…」と母に言ったことがある。しかし、それでも母は「そうよね」とは言わない。「いや、これも神様が何か教えて下さるためにして下さったことで…」と感謝する。ちょっとでも何かできたら、「こんなことがができた」。ある時、おにぎりを作ると言うのです。おにぎりは片手でではできない、両手がいります。自分は作れないと思ったけれども、孫のために作ったのです。やってみたらできた。「おにぎりが握れたのよ」と言って、喜んでいたことを今でも思い出します。何かできると「こんな事をさせていただいた」と喜べる。神様の恵みを絶えず数えるのです。

そうでない限り、今申し上げましたように「お元気ですね」と言われたら、腹が立つ。自分が願ったような元気じゃないと思っているからです。そうではなく、主の御旨がなんであるかを悟る。「神様が、今この事を私に与えて下さっている。感謝です」と言えたら、どんなに幸いか分からない。今という時を最大限に輝いた日として送ろうではありませんか。「いや、私の輝く日はもう少し先で、この病気が治ったら…」とか、「この事情境遇がよくなったら、私は喜べるから、そのときは喜びます」と言っていたら、その日は来ないのですから、今という時を感謝して…。それが「今は恵みの時、今は救の日」なのです。明日どうなるだろうかを考えて、今日を暗い、根暗な一日を送るのではなく、「主は私の牧者!」ですと、心と思いを定めましょう。神様が羊飼いであり、今日も私を導かれる方であって、私が先頭に立って進んでいるわけではない。絶えず導かれる主を見上げて、イエス様の御声に従っていくことを、今日という日に努めるのです。これが今、恵みの時、救いに与る絶好の喜びの時なのです。どうぞ、今日こそが私の生涯最良の日でしたと言える日を、毎日送りたいと思います。

列王紀下5章25節から27節までを朗読。

これはエリシャ先生の弟子であったゲハジと言う人の失敗です。エリシャ先生の所にスリヤのナアマン将軍が自分の病気を癒してもらうために来ました。ナアマン将軍はヨルダン川に身を浸して、すっかり癒されて大喜びをした。そして、エリシャ先生の所に戻って来まして、「先生どうもありがとうございました」と大いに感謝し、自分が持ってきたお土産をエリシャ先生にあげようとしたら、先生は「そんなものはいらない」と言ったのです。「あなたからそんなものを貰うことはできない。早く帰りなさい」と追い返されました。それを見ていた弟子のゲハジは、「先生は欲が無い」と思い、何とかそれを少し貰いたいと思ったのです。それでこっそりと裏口から出て、ナアマン将軍が帰って行く後を追っかけて、呼び止めたのです。「先ほどは失礼をしました。いらないと言ったのですが、実は今度、預言者の仲間で貧しい人が来るから、その人にあげたいから、少しだけでいいから分けてください」と求めました。ナアマン将軍は、喜んで「是非、持って行ってください」と、あれもこれもと沢山貰ってゲハジはそっと帰って、家に入って自分の所に隠して、知らん振りをしていました。

そしたら、エリシャ先生が、呼んだのです。「ちょっと来なさい。あなたは何処へ行っていたの」、「いや、何処へも行きません」と。そしたら、「わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか」と。これはややこしい言い方ですけれども、「いや、わたしはちゃんと見ていたよ」と言うのです。「あなたの事は全部分かっているのだから…」と言われた。そして26節に「今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか」。今、あなたは何をすべき時なのか。このゲハジは恐らく自分の将来を考えたのです。エリシャ先生が死んだ後、自分はどうなるか分からない。今のうちにちゃんともらうべき物を貰っておこうと思ったかもしれません。だから、ナアマン将軍の所に行ってあれやこれやといろいろなものを貰ってきて、それを全部自分のために貯えたのです。彼の心を、エリシャ先生はちゃんと見抜いていたのです。「誰を今あなたは頼りとしているのか」と言う。だからここで「今は金を受け、着物を受け、はしためを受ける時であろうか」と。「そんな将来のためになんて、お前は馬鹿なことをするな」と言う。今すべきことをちゃんと果しなさい。今、あなたは恵まれているではないか。あなたがそんなものを求めなくても良いじゃないか。神様を信頼するべきことではないか」。とうとうナアマン将軍の病気がゲハジについてしまった。重い皮膚病になってしまった。本当に気の毒なゲハジですね。

神様の恵みから落ちてしまったのです。ゲハジは今自分が与えられている恵みを感謝することができない。不足を思って、それを何とか補い、また将来の事が心配だったから、自分の身の安全を考えて、自分のためにナアマン将軍から物を受け、金品を受けたのです。しかし、それは、神様の恵みをいたずらにしてしまった、蔑ろにしてしまった。私たちもともすると、そういうところに陥ります。将来のこととか、いろんな事を考えて、「ああしといたら、こうしといたら」と、この世の人々に倣って、この世の人々の生き方に染まってしまう時、ゲハジと一緒の失敗に陥って、信仰を失ってしまう。魂が死んだ者となる。そうじゃなくて今は何をする時か。

もう一つ、ホセア書10章11節、12節を朗読。

12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である」。今は恵みの時、言い換えますと、今は主を求める時、主は私たちに応えて下さる、願いを聞きいれて下さる、助けて下さる時だ。今と言う時は、そういう大きな恵みが与えられている時です。神様を求めることをしないで、ゲハジのように金品を求めて、自分の安全を、自分の将来を保証しようとする。これは愚かなことです。魂が死んでいくに違いない。そうではなく、今は恵みの時であり、救いの日だから、主を求め、神様を求めて、信頼し、喜びと感謝と、命に輝いて生きようではないかというのです。

この12節に、「自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り」とありますが、これは、神様が私たちを義としてくださった、十字架の血潮によって贖って下さった、その身分をしっかりと確かなものとすることです。そして「いつくしみの実を刈り取れ」と。私たちが蒔かなかった、労せずして得られる神様の祝福の実を受ける者とされ、そればかりでなく、「あなたがたの新田を耕せ」、「新しい田を起こせ」と仰る。もっと、もっと、神様に期待するところを大きくしなさいと言う。もっと天幕を張り広げよとイザヤ書に記されています。小さなところで安住しないで、「ここでもういい」と言うのではなく、今の時を大切にし、大切にするからと言って、この幸せを失いたくないなんてしがみつかないで、今の時を大いに喜び、楽しんで、更に先に向かって、神様に期待をする。「新田を耕せ」ということはそういうことです。

何故ならば、主が「救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」。田を起こしても、今年の梅雨のように空梅雨だと田んぼの水がないから、苗を植えられない。稲は育たない。神様は豊かな雨を降らせるから、あなたは期待して、大きく新しい道へ踏み出して行きなさい。神様が仰るように、今は恵みの時だから、主は私たちの願いを聞いて下さるのだから、喜んで主を求めていく。それに対して主が応えて、恵みの雨を降らせて下さる。そればかりでなく、更に大きく今よりももっと大きな期待を神様に持ち続けることができる。

もう一度初めに戻りますが、コリント人への第二の手紙6章2節「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。ともすると私たちは、先のことを心配し、先細りになります。あまり新しいことはしないがいい、慣れんことは止めとこうと、どんどん守りの姿勢になってしまう。そうでありながら、先のことばかりを心配する。そうではなく、今ですよ、今日!です。今日が私たち人生の最良の日であり、神様が私たちの傍近くにいて下さり、恵もうとして下さる時です。与えられたところで大胆に、先のことを心配しないで、力いっぱい為すべきことを果して行こうではありませんか。そうすると神様はそれに応えて、願いに応えて下さり、救いを与えて下さる。雨を降らせて、実りを豊かにして、喜びの収穫を与えて下さる。先を心配しない、思い煩わないで、恵みを味わっていきましょう。

ご一緒にお祈りしましょう。