ヨハネによる福音書6章60節から65節までを朗読。
63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」とあります。これは、イエス様が、5千人以上の人々に、パンを与えて下さった奇跡が語られた後の言葉です。ガリラヤ湖畔で沢山の人がイエス様のお話を聞こうと集まって来ました。皆が熱心にイエス様のお話を聞いている内に、段々と日が暮れて、夕暮れになってしまいました。弟子たちは「先生、早く解散させて、近所の村々に行って食事をさせてやって下さい」と言いました。その時、調べてみたら、手元には5つのパンと2匹の魚、僅かなものがあるだけでした。「たったこれだけしか有りません」と、イエス様に持っていきました。イエス様がそれを祝福して、5千人以上の人々がそれを分かち合って食べたという驚くべきことがあったのです。しかも、かろうじて、ひもじい思いを抑えたというのではなく、お腹一杯食べて、沢山の物が残ったと記されています。皆、喜んで、その日は帰ったのです。
次の日、またイエス様のお話を聞きたいとやって来たのですが、イエス様はその場所におられませんでした。湖の反対側に移っていました。それで、群集はその辺の船に乗ったりして、イエス様の所に、集まって来たのです。イエス様は「あなたがたは、わたしの話を聞きたくて来たのじゃないでしょう。昨日、あんなに食べたものだから、また今日もただで食事にありつこうと思って来たのでしょう」と、彼らの思いをちゃんと見抜いていたのです。恐らく、正直なところ、そうだったと思うのです。今日もまたパンを貰おうではないかと出かけて来た。イエス様は、「あなたがたは、そういう朽ちる食物のためにではなく、朽ちない食物のために働きなさい」、それを熱心に求めなさいと教えられました。
その後で、イエス様が「まことの食べ物は、神様から降ってきたパン、命のパンである。それは、わたしだ」と言ったのです。こんな高慢な言い方は無いと思います。皆さんの知っている方が、「君、そんなことであくせくしないで、私が命のパンだから、私を食べなきゃ駄目だよ」なんて言って御覧なさい。頭がおかしくなったと思われます。そのように、この人は可笑しなことを言うじゃないか。イエス様を食べることができるだろうか。そういう風に多くの人は思って、呟き、胡散(うさん)臭く思ったのです。
ヨハネによる福音書6章52節から56節までを朗読。
実に、イエス様は驚くこと、想像のつかないことをおっしゃっている。53節に「人の子の肉を食べず」とありますが、人の子と言うのは、イエス様御自身です。言い換えますと、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」ということです。
これはよく、聖餐式の時に読ませていただく言葉の一節ですけれども、確かに、イエス様の肉を食べ、血を飲んで…、など、まるで野蛮な人肉を食べる様なイメージを非常に強く受けます。ましてや、それを聞いていた人たちは、もっとショッキングです。イエス様をどうやって食べるか。煮て食べるか、焼いて食べるか、これは大変なことです。しかし、イエス様は同じようなことをもう一度言っているのです。55節に「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」と言うのです。私たちが普段食べている食事や、あるいは飲んでいる飲み物は本当の食べ物ではない、本当の飲み物じゃないと、イエス様はおっしゃるのです。56節にあります様に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」。イエス様に連なるということ、イエス様の中に留まる、あるいは、イエス様を内に迎える、これが真の命であると言われます。
イエス様は、御自分のことを「天から降ってきたパン、命のパンだ」と言われる。またある所では、「わたしは命の水である」ともおっしゃる。全ての命を養うもの、命の根源でいらっしゃるのはイエス様ご自身なのだと。ところがその時、聞いていたユダヤ人たちはそのことの本当の意味がなかなかよく分からない。ただ、言葉の表の意味だけを捉えて、「どうやってあなたを食べることができるのだろうか」と、言っているだけだったのです。とんでもない事を言う人だとも思いました。ですから、60節に「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、“これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか”」。とんでもない、ひどい言葉だと言うのです。61節に「つぶやいているのを見破って」とあります。直接イエス様にそう言う人はいません。イエス様はそれをちゃんと見抜いて、63節に「人を生かすものは霊であって」とあります。「人を生かすもの」、私たちも生きる者となるということです。そう言われると、私たちは、「生きております、死んではおりません」と言いたくなります。皆さん、今日も元気で車に乗ったり、バスに乗ったりしながら、教会に来ることができました。健康でもある。敢えて言えば幾つか故障はあるけれども、取り立てて生活に支障はない。何処がいけないのだろうかと思う。その「生きる」と言うことは、私たちの肉体が生きていることです。心臓が脈拍を打ち、血液が循環し、そして、脳が働いて、身体機能が働き、お喋りをしたり、手足を動かしたり、そういうことができる自分であるということにおいては、確かに生きていると言うことができます。死んではいません。しかし、聖書が言うところの、いのち、生きるということは、そのことだけではない。
イエス様が荒野に導かれて、サタンの誘惑にあいましたした。40日間断食して、お祈りをしていたイエス様は、お腹がすいてひもじくなった。そしたら、イエス様は「神の子だったら、目の前にある石をパンに変えて食べたら良いじゃないか」という誘惑を受けます。それに対して、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えました。その時はっきりと、「人が生きている」ということは、毎日美味しく食事がいただける、あるいは、健康で日々の生活に支障がない、歩いたり、しゃべったり、活動することにも差し障りがない、だから生きているかというと、そうではなく、私たちの本当の命は、神様からの言葉によって、生きることができる。それは、神様が人をお造りになった時からはっきりしている事柄です。そこをもう少し読んでおきたいと思います。
創世記2章4節から7節までを朗読。
7節に「主なる神は土のちりで人を造り」。先ず神様は人間を土のちりで、いわゆる泥で造ったのです。博多人形なんかでもそうですけれど、粘土を型にはめて造ります。そうすると勇敢な男の子や、踊り子さんなどの像がポコッとできるのです。それに色を付けたり、飾り付けをすると、まるで生きているがごとくに綺麗にできます。しかし、所詮それは土で焼かれたものでしかありません。命が無いのです。今にでも動き出しそうな、リアルな姿形は見えますけれど、死んでいると言いますか、そもそも、命がありません。私たちを造って下さった時に、神様は博多人形みたいに造って下さった。綺麗だったかどうか分かりませんが、外側の肉体は、あくまでも、土のちりでできた粘土細工の様なものです。ところが7節に「命の息をその鼻に吹きいれられた」と。命の息、神様の命が吹き込まれた時、人は生きる者となった。神様の命の息を絶えず注がれていく時に、人は初めて生きることができる。生きるというのは、神様が喜ばれる者に成ることです。神様が、私たちを造って、生かして下さった。造られた者は、造って下さった方の御心にかなうものとなる。造り主でいらっしゃる神様を喜ばせる存在となることです。これが私たちの命です。
長年サラリーマン生活をして、やがて定年退職を迎える。会社に行かなくて済む様になりますが、生きがいを見失う。私の同級生にもそういう人がいます。電話をすると、「サンデー毎日だ」と言うのです。何のことかなぁと思ったら、毎日が日曜日だと言うのです。することが無い。「一体何しているの」と言ったら、「することが無いから、何か社会貢献でもしようかと思って、町内のゴミ拾いをしている」と言うのです。結局、何かに喜ばれる存在でありたいと思うのです。それによって、自分の生きがいと言いますか、自分が生きていることを確認したいのです。それは人の願いとして、心にある根本的な欲求、神様が造られた人間であることの証だと、私は思います。誰かに喜ばれたい、誰かに信頼される、必要とされる存在になりたい。それを手触りたい、あるいは、それを感じ取って生きたい。そうでなければ、毎日が無為徒食、ただ食っちゃ寝、食っちゃ寝です。私どもは自分が生きている価値を味わう存在となりたい。その為に、町内の人の役に立つ、あるいは、何か社会奉仕をして、と思います。しかし、それができる間はいいですよ。やがて健康を失って、それもできなくなったら、愈々、人は生き甲斐を失う。不幸にも、半身不随になり、寝たっきりになって、病院に入れられて御覧なさい。早く死にたいと思うようになります。私もそういう方にお会いすることがあります。伺うたびに「先生、早く死にたい。こんな人様の迷惑になって、家族の世話を受けながら生きるなんて、こんな悔しいことはありません」と。その人は自分で死にたいと思ったのですが、残念ながら、片方の手が動かないから、片手では死ねませんと言うのです。何故そうなるかと言うと、何か喜ばれるもの、役に立つ自分でありたいのですが、それが閉ざされてしまった、その道がなくなってしまったので、失望落胆しているのです。
目に見えるこの世の中で、役に立っているとか、人から喜ばれるとか、そういうことが生きる命ではない。神様が私たちを造り、命の息を吹き入れられた時に、初めて生きる者となった。それは、私たちが神様の思いを受け入れることです。神様の心を私たちが悟ることに他なりません。神様の思いに私たちが一つとなる。これが命の息を吹き入れられることです。命の息を吹き入れられるというと、爽やかな匂いの付いた気持ちの良い風でもスーッと入ってきて、「私に命が入って来た」と、そんなことではありません。神様から、命の息を吹き入れられるというのは、私たちの内に、神様を思う思いが満ち溢れてくること、言い換えますと、神様を喜び慕う心に変わっていくことです。世の中に生きていますと、ただ、人から喜ばれ、家族から必要とせられ、信頼されることが生き甲斐だと思っています。
しかし、それはあくまでも、肉によるものです。肉というのは、神様の力、神様の御心によるのではなくて、自分の思いを満足させようというだけのことです。ここは、非常に大切なことです。人の為、世の為になりましょうと言うと、皆、拍手をして、「良いことですね」と言って、誉めるでしょう。しかし、その思いをよく探っていくと、人ではなく、自分が満足を得たい。自分が生活の中で喜びたいと言うのです。言うならば、自分本位の思いであります。社会の為とか、人の為とか言いますけれど、突き詰めていくと、自分が求めているものが充足すること、満たされることを願っているだけです。そこには、私たちを造り生かして下さる神様が、何を求めていらっしゃるかということは、一つもありません。神様が私に何を求めているだろうか。神様が喜んで下さることはどういうことなのかと問わないで、ただ、毎日が日曜日で、することが無いから、何か自分が値打ちが無い人間、価値のない人間に思えて、生きていても退屈だし、何とか喜んで生きて行けるようになりたい。喜んでということは、自分の思いが充足されてということです。私たちが、喜ぶ時というのは、何を喜んでいるかと言うと、願いが叶い、思いが叶った時、人は喜ぶのです。それはあくまでも、肉の、いわゆる、神様を離れた人の思いでしかない。ところが、そうである限り、それは何時までも、土で造られた、土人形の様なものです。そこへ、命の息を吹き入れられなければ、人は生きられない。その命の息というのは、先ほど申し上げた様に、神様のことを思うことです。そして、神様の喜んで下さることは何か。神様が、私に御計画して下さっていることは何かを知って、そのために力を尽くし生きること、これが命です。その時、私たちは、肉体が健康であろうと、あるいは、不幸にも寝たきりになろうと、置かれた所で、私たちは、神様の御用をしているから、感謝して生きることができる。これがなければ、人は本当に生きているとは言えません。
もう一度初めのところに戻りますが、ヨハネによる福音書6章63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。「人を生かすものは霊であって」と記されています。この霊と言うのが、神様から私たちの内に、注がれる命の息であります。そして、それはどうやって注がれるかと言うと、イエス・キリストを信じて、御言葉に信頼していく時に、神様の思いが私たちの心に満ちて来る。だからその先にあります様に、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と、イエス様ははっきり語っています。人を生かすものは、イエス様が語って下さる御言葉である。何故ならばイエス様は神の御子、神なる御方でありますから、神様の思いを知っておられる。私たちが、聖書の言葉を絶えず、咀嚼(そしゃく)して、味わって食べる。だから、イエス様はここで、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」とおっしゃったのは、正にこのことなのです。イエス様の体を切り刻んで、それをステーキにして食べるというのではありません。イエス様がお語りになった言葉、聖書の言葉を、私たちがしっかりと味わって、それを丸のまま食べること、信じるのです。素直に受け入れて、従っていく時に、御言葉は私たちの魂を喜ばせ、また私たちの思いを導いて、神様に従う幸いを味わわせて下さいます。
だから世の中には二つの喜びがあると私は思います。一つは先ほど申し上げました様に、自分の思いを満たされて喜ぶ喜び、「病気が治った」、願っていたことが実現した喜びがあります。もちろん、それも決して悪いことではありません。しかし、もっと永続する喜びがある。それは、私たちの造り主である神様に従うことができた時の喜びです。人というのは、誰かに喜ばれたいという思いは常にありますが、何よりも、造り主である神様に喜んでいただいたと確信ができたら、これほど幸いなことはありません。そこが私どもの命なのです。
63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。ここにはっきりと、「肉はなんの役にも立たない」、言い換えると、ただ自分の感情や、情緒や、あるいは自分の欲求を喜ばせること、楽しませることで満足して喜ぶだけでは、人は生きることができない。生きている様に見えますが、それはあくまでも仮の姿です。本当に生きるというのは、命であるイエス様の言葉、霊によって人は生きる。イエス様の言葉を、絶えず味わって、神様の御心に従っていく。その時、御霊に従う喜び、聖霊の喜びを味わうことができます。これは、一度味わったら止められません。肉を喜ばせる喜びは、自己満足と言いますか、自分がカーッとなって、喜んで終わります。まるで、花火の様に、パーッと一瞬輝いて、シューとなり、寂しさが来ます。
もう20年位前ですけれど、私の知人の娘さんが私どもの家へ良く遊びに来る。何時も家へ来ると、「ああ、つまらない、つまらない」と言うのです。「どうしたの?」「何にも面白いことは無いし、楽しい事も無い」「毎日、こうして健康だし、神様が与えて下さった生活があるから、これを喜んで、楽しんでいれば良いじゃないですか」「いや、だって、毎日同じことの繰り返しで、こんなのちっとも楽しくない」と言うのです。ある時、ニコニコしてやって来た。びっくりして「どうしたの」と尋ねると、「いや、今度2泊3日で神戸に行く」とのこと。先ず神戸に行って、買い物をして、ホテルに泊まって、夕食に有名な料理を食べて、翌日は宝塚に行く。その娘は宝塚の大ファンなのです。宝塚の誰々さんと言うスターがいて、そのファンなのです。だから、舞台を見て終ったら、その人が楽屋から出てくるのを待って、プレゼントをあげるのだという。それから約一ヶ月くらいは、来るたびに、いろんなプランを錬って楽しむ。いよいよ出発、「行ってらっしゃい」と送り出す。で、お土産を持って帰って来た。「どう、楽しかったでしょう」「つまらんかった」「楽しかったでしょう、あんなに願っていたのだから」「それは良かったのだけど、もう、終ったからつまらん。もう何にも楽しいことが無い」と言うのです。その時は、楽しくて、バッチリお化粧をして出かけるのですが、帰ってきたらシュンとなって、心が萎えているのです。皆さんもそういうところがあるでしょう。息子が来るとか、孫が来ると言って、楽しみにしていて、帰ったらシュンとして、「また何時来るかしら…」。そういう楽しみだけで生きている。だから、私は彼女のことを「行事追っかけ症候群」という病気だと思いました。常にイベントを作らなければ…、日本の社会がそうなのです。愛知万博、次は何をしよう。オリンピックにしようか、何にしようか、常に安売りのセールをしなければ立っていかない。私たちの生活でも、気が付かない内に、肉によって生きる生活となってしまいます。そこにある様に、「肉はなんの役にも立たない」というのは、このことなのです。肉の喜びは、今申し上げた様に、その瞬間は喜ぶのです。その代わり、後はシューンと寂しさが倍加してきます。また次なる喜びを、まるで、興奮剤を打つように求めていくのです。
ところが、霊によって生きる時、神様の注いで下さる命の息によって生きる時、カーッとなるような喜びは無いに違いない。もちろん、そういう嬉しい喜びが満ち溢れますが、もっともっと持続した、変わることのない、暖かい喜びが続くのです。これは確かです。皆さんが、こうやって集会に来て、御言葉に触れて、主の霊に満たされてきた時、私たちの魂は生き生きとして、何の行事があるというわけではない、いつもと同じなのだけれども、喜びと、安心と、望みが湧いて来るじゃありませんか。それは、神の霊の働きです。私たちの内に、御言葉を通して注がれて来る神様の命の息です。
私は何時もそのことを味わいます。「あぁ、主がこんな者を顧みて下さって」、聖書にある様に、「限りなき愛をもって愛しているよ」と言って下さる。主の御言葉を信じて、それを丸ままに受け入れていく時に、どんな境遇に置かれていようとも、そこに肉の喜びは無くても、魂の平安、望み、喜びを、御霊によって味わうことができる。どうぞ、その喜びを、絶えず戴いて行こうではありませんか。ただ、この世の中の楽しみに自分を委ねるのではなく、絶えず、主を慕い求め、主の霊に満たされて、喜び感謝するものでありたいと思います。
私は集会でこうやって、皆さんのお顔を見てお話をしている時に感じることですが、会堂に入って来て座った時は、ちょっとうつむき加減で、はぁ、くたびれたという顔をしています。しかし、集会が終わる時には、皆さんが、上を向いて、青白かった頬が、紅く昂揚している。暖房のせいではありません。神様が、皆さんを整えて、魂に命を注いで下さっているのです。集会に出るということは、神様の御言葉に触れて、心に主の霊が注がれ、魂が喜びに輝き、命に受けることができるからです。集会に出ることは、もちろん大切なことで、また幸いなことです。そればかりでなく、皆さんのご自宅で、お家にいて、御言葉を絶えず味わい、そこに望みを置いて、「主がこんなに私を愛して下さる。アルパでありオメガであるとおっしゃる主が、今日もこのことを始めて下さった」と信頼していると、私たちの内に命が輝き、気が付かないうちに、心を高くして下さいます。顔を上に向けさせて下さいます。下向きであった、沈んでいた心に命を与える。その命は消えることなく、日ごとに新しく注がれます。
目の前に行事が有る無しにかかわらず、自分の欲求が、自分の感情が満たされる喜びとは違う喜び、その命を与えて下さる神様の霊に、心を支配していただきましょう。その為に、
私どもは何時も御言葉を信頼して、主を食べる者になり、イエス様を心に置いて生きようではありませんか。神様は、私たちのする業、語ること一つ一つ、私の為に備えて下さった。神様は私を愛して、この道を歩ませて下さっている。私に今このことを求めていらっしゃるから、あなたに従って行きますと、見えない主に心から信頼して従っている自分であることを自覚するのは、これは大きな力です。どんなつらいこと、苦しいことでも、その命に生かされる時、どんなことがあってもその喜びを奪うことはできません。私たちは、何ができる、できないじゃないないのです。今日こうやって主に生かされている自分であることを味わい喜ぶ、ここに命に輝く、生きる人生があるのではないでしょうか。どうぞこの御言葉にあります様に、絶えず「人を生かすものは霊であって」と、自分を生かして下さるのは、神様の御霊によるのだと確信して、主の御心に、何としても従って行こう。御言葉を心に置いて、揺るがないで信頼していく日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
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