いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(32)「神様の住まい」

2013年10月23日 | 聖書からのメッセージ
 コリント人への第一の手紙3章16節と17節を朗読。

 16節「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」。
「救い」は自分のためにあるものだと思われます。この世での生活の悩みや悲しみや苦しみを少しでも和らげる、そういうものから解放されること。それを抜きにして、「救い」を考えられないのは確かです。毎日の生活に生きる苦しみがあります。病気が治るように、或いは、経済的な困難に遭わないように、人間関係が上手くいくように、家族が仲良く楽しく過ごせるようにとか、老後が平安であるように、いろんなことを願って、神様に求める。神様はそれに応えて下さる事を知って、喜びまた望みを抱く。これが私たちの思い描く救いです。確かに、イエス様の救いによって、幸いを得ることができます。「何事も思い煩ってはならない」とイエス様が言われるように、思い煩いのない生活、平安な生活、望みと喜びのある生活を具体的に与えて下さいます。事実、私たちもそういう体験をしてきました。イエス様に救われ、力に満たされて、いろんな問題の中で、喜びをもって、感謝しつつ乗り越える。これは大きな恵みです。

しかし、もう一つ、神様が備えている事がある。それは私たちを神の民として下さることです。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」とあるように、神の子、神の民、神の家族として下さる。聖書を読みますと、「イスラエルの民」、或いは、「ヤコブの民」と呼ばれています。旧約聖書には、イスラエルの歴史が記されています。イスラエルと私たちとは関係がないように思われます。確かに、よほど歴史に興味のある人なら別ですが、そうでない人にとっては「何でこんな…?」と思います。しかし、旧約聖書は、人間が神と共に生きるためのモデルと言いますか、そこから学び取るべき模範です。殊に、イスラエルというのは、神に選ばれ、神に召された民、言うならば、救いに与った民です。

イエス様の十字架の贖いを信じて、罪を赦され、神の民としていただいている。神の民だと自らを自覚するならば、この世の中の多くの人々、神様を知らないで生きている人々と、自分たちとはどこか違う筈です。旧約聖書に何が違うかはっきりと語られています。イスラエルの民は、他の民と違っていました。エジプトでの奴隷の生涯から解放され、カナンを目ざして荒野の旅をしていた時、神様はモーセに戒め(十戒)を与えるために、山に登るよう命じました。モーセが山に入ったきり、暫く音沙汰が無いから、山の麓で待っていたイスラエルの民は、モーセが死んだと思ったのです。そのため、アロンを指導者に立てて、自分たちで金の子牛の神を造りました。神様は、モーセに「早く下りて行きなさい」と言われた。下って行くと、とんでもないことを民がやっていた。あまりの出来事にモーセは激怒して、神様から戴いた戒めを記した石の板を投げ捨てたところ、人々に神様の怒りが降った。その時、神様は、「このイスラエルの民は、どうにも頑なで、言う事を聞かない。こんな者たちと付き合っておれない。あなた方と一緒に行くのを止めよう」と言われた。モーセは神様の前に立って、民のために執り成したのです。「あなたがわたしたちと共にいらっしゃらなかったら、この私たちと、他の民との違いが何処にありますか」と言って、神様に迫りました。このイスラエルの民と、他の民と違う点があるとすれば、それはただ一つだけ、「神様、あなたが私たちと共にいらっしゃるという事ではありませんか」と。この事は、今、クリスチャンと言われ、救いに与った私たちも同じことです。私たちは、信仰によって神の子とされています。神の子、神の民と言われている私たちにとって、他の人との大きな違いは、神様が私たちと共にいて下さる事です。では、その神様は、一体何処にいるのでしょうか。それは、イスラエルの民の場合と同様に、私達の中に住んで下さるのです。

出エジプト記25章8,9節を朗読。

ここで、モーセに対して、神様はイスラエルの民の中にわたしのための場所を用意しなさいと命じました。それを聖所と言います。8節に「わたしが彼らのうちに住むためである」。神様が、イスラエルの民の中に一緒に住んで下さるとおっしゃる。これがイスラエルの民が他の民と違う最大の理由です。
今、私たちにとってもそうであります。確かに、私たちは、自分のための救いだと思います。それもその通りですが、それ以上に、神様が私たちに求めておられる事、願っていることは、私たちを神様の民とすることです。イスラエルの民のように、神御自身が住んで下さる場所として、私たちを選んで下さった。これは大変な事です。神様が宿って下さる場所として、私たちは救われた。その結果、事情境遇が良くなった、願い通りになった、或いは祈りに応えられたというばかりでなく、もっと大きな喜びがある。それは、神様が私たちの内に宿って下さっていることです。イスラエルの民が他の民と違っている点は、そこに神様が宿る聖所が備えられていることです。イスラエルの民が、荒野の旅路を進んで行く時、宿営する度毎に聖所をきちんと設けました。その聖所は、必ず神様の言葉の通りに造らなければならなかったのです。

旧約聖書、殊に出エジプト記などをお読みになると、アカシヤ材とか、じゅごんの皮とか何とか、3行読んだら大抵眠くなるという経験があるでしょう。どうしてこんな細かいことまでしなければいけないのかと思います。実は、神様のおっしゃる通りに従うことが大切なのです。一分一厘違わない、面倒くさいからこうしとこう、いや、こうするよりこうした方が便利に違いないとか、こっちの方が日持ちする、いい材料があるとか、そういうことは許されない。神様の聖所を造るには、神様が言われた通りにする事が大切です。神様に従う事を求められたのです。だから、神様はこういう材料を使い、こういう方法でこういう形のものを造るようにと命じました。それの一つ一つに何か特殊な意味があるのかどうか、そうすることが何か特別な効能があるのかどうか、それは良く分かりません。じゅごんの皮に何か特別な意味があるのか、或いは、アカシヤ材でなくて他の木では駄目なのかどうか、そんな事は幾ら詮索しても分かりません。これは神様の為さることですから。ただ、私たちは、それがどういう理由か分からないけれども、神様がおっしゃるところに従うこと、これが聖所の大原則、聖なる神の宮となるべき基本です。私はこの記事を読む度に、襟を正す思いがします。と言うのは、そこまで細かく神様の言い付けに従えない自分であることを思います。こんなに細かな寸法、縦も横も高さもありとあらゆることが、神様の定められた通りにしなければならない。御心に適うものとなるように、それを求められている。もし、「わたしはあなたの所に住むから、定められた規格にぴたっと合う者に成れ」と言われて御覧なさい、私たちは成りようがありません。神の聖所として幕屋を造る細かいルールが記されているのは、取りも直さず私たちが神様の前にどれほどいい加減であるかを計る尺度です。

建物を建てる時、大工さんのする仕事を見ていますと、柱が真直ぐに立っているかを確かめるには、垂直の下げ振りという、錘をつけた糸を垂らします。柱がその糸に平行に立っていれば、これは真直ぐに立っていることになります。もし測るものがなくて、ただ目測だけで見ていたら、「これは真直ぐに立っている」と思っても、実際に尺度を当ててみると随分曲がっている、或いは歪んでいる、そういうことが良く分かります。

口では言いませんが、「私ほど心の綺麗な人間はいない」と思っています。「私のような罪深い者は…」と言いますが、内心はあの人よりも立派だ、この人よりも立派だと、お互いにそう思っている。でも、本当にそうであるかどうかは、人が見ても分からない。まして自分が見ても分かりません。聖書の言葉の中に自分を置いてみる時に、如何にいい加減であり、駄目な者であり、本当に穢れたものであり、どうにもならない自分であることが良く分かります。旧約聖書の律法の書を読んで御覧なさい、細かい、細かい規則が記されています。これを守らなければ、神様の怒りにあうとするならば、私どもはとっくに滅び去っています。

神様が求められるのは、もっと厳しいものです。イエス様は人を憎いと思ったらそれは人殺しだ。或いは欲しいと思ったら、盗んだと同じだと言われます。神様の前に揺らがない、一分一厘隙がない姿勢が、旧約聖書に描かれています。現実の私たちは、その通りには出来ません。しかし、聖所を造る時、神様が求められた標準に合うように造らなければいけないことは、今も変わることのない事実、求められる事です。何百年も何千年も経ったんだから、神様いい加減に緩くなったかと思いますが、緩くなりません。きちっとしたことを求めている。
8節以下に「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない」。この幕屋が神様の御言葉通りに造られること、幕屋で用いられる器も神様がおっしゃった通りに造らなければいけない。人の思いが入っちゃいけない。人間の合理主義とか、自分のご都合主義が入ってはいけない。これはなかなか難しい。

家内がよく料理の本を見て、「これを作ろうか」と言う。私は写真を見て、「これは美味しそうだから作って」と頼みます。出来上がったのを見ると似ても似つかない。これはあの写真の料理かなと思う。よく聞いてみると、「この材料は無かったから、これに替えといた。これも無かったからこれにしておいた」と、全部材料が言われた通りになっていない。だから、家内に「これ作ろうか」と言われた時に、私は前もって「書かれた通りにやってよ」と言うのです。書いている通りにというのはなかなか難しいのです。切り方はこう切ってという。特に長年主婦をやっていると、「それはそうでもいいけれども、こっちの方が早い、これにしとこう」と、チャッチャチャーとやっちゃう。すると、出来がりが写真とは大違いになるのです。

神様が求められるのは、そこです。どうしても何処かで自分の我が入ってくる。自分の思いが入ってくる。神様は、わたしの住まいはそれじゃ駄目だ、それでは神様の宮である聖所は出来ない。だから、9節に「すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って」、「従って」と求められています。神様は、大雑把に概略を示して「概ねこのように造って。材料は任せる」と言う方ではない。あくまでも、神様は主である事を貫徹される。神様でいらっしゃる事を徹底するために、このように求められたのです。大体スケッチだけして、モーセに「良きに計らえ、こういう感じで一つやってくれ」という事はしない。何故なら、神様は初めから終わりまで御自分が主でいらっしゃる。全てのことを支配している。それに対してイスラエルの民は、主に仕える者である。このことを徹底しようとなさる。これは私たちと神様の関係の大原則です。そして、神様はそこに聖所を造らせて、「わたしが彼らのうちに住むためである」と言う。

そればかりではなく、もう少し先の所を出エジプト記29章42節から46節までを朗読。

 神様は、ここで語っているように、会見の幕屋、すなわち聖所を何のために設けたか。それは神様がそこに住むためであると言うのです。それと同時に、42節の後半に「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう」。その会見の幕屋で人々が神様の前に、燔祭、罪祭、素祭など献げ物をもって、神様に会う場所を設けておく。神様に会って、神様と語り合うことが出来る場所。これは驚く事です。神様が被造物である人と共に住んで下さるばかりでなく、私たちと共におる、私たちに語りかけて下さる、会見して下さる。だから、「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう」と。イスラエルの民と、神様は語ってくださるといわれる。これがイスラエルのイスラエルたる所以であり、それが唯一のイスラエルの存在目的です。私たちもそうなのです。46節にありますように「わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう」。イスラエルの民を、あのエジプトの奴隷の生涯から導き出したのは、何のためであったか、それは彼らのうちにわたしが住むためにと。

これを今の私たちに当てはめるならば、皆さんが、イエス様の救いに与って、神様の民とされたのは、神様が皆さんをこの世から引っ張り出して、神様が住む場所とするためです。私たちを神の宮として下さる。そして、神様がイスラエルの民の主となり、神となって下さる。今、私たちにとっても同じ事です。私たちの主でいらっしゃる方は、イエス様であり神様です。その神様が、私たちの内に住んで下さる。私たちを聖なる宮として、イスラエルの中に設けられた聖所として、聖なる所として私たちを召して下さっている。これはどんなに大きな恵みであるか分かりません。勿論、旧約時代、イスラエルの民にとっては、神様の会見の幕屋と言うのがあって、そこに出かけて祭司によって執り成して貰って、いろいろな定められた子羊であったり、子牛であったり、或いは、家鳩であったり、いろんな動物の生贄を捧げて、そこで初めて神様と会う、会見する場所だったのです。それだって他の民と比べると、はるかに大きな恵みでありました。ところが今、私たちはそんな場所に行くわけでもない、既に私たち自身が、神様によって選ばれて、贖われて、買い取られて、神の宮として下さって、神様が私たちの内に住んで下さる。

嘗てイスラエルの民は、アロンや神に仕える祭司たちの仲立ちによって、初めて神様の前に近づいたのですけれど、今はそうじゃない。そういう事なしで直接に神様とお話が出来る、お会いすることが出来る。と言っても、勿論父なる神様の右に、イエス様が祭司となって、取りなして下さっているのです。どうしてそんなことになったのか。これはイエス様の働きなのです。イエス様が私たちを贖って、尊い十字架の血潮によって、私たちを潔い者として下さった。この旧約聖書に定められた聖所の作り方、様々な細かい指示に従って造らなければならない聖所を、既にイエス様が、私たちを潔めて、律法に定められた形に合格するものと変えて下さいました。今私たちはそういう身分であるという事を、もう一度自覚して、感謝したいと思うのです。

もう一度初めのコリント人への第一の手紙3章16節に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」。ここで「知らないのか」と問われています。「そういえば知らんかった」、それでは困る。イエス様が私たちを贖ってくださった目的は何か。それは私たちを潔めて、私たちの内に神様が住んで下さる。それは神の御霊が、御霊なる神様が私たちの内に住んで下さることです。神の宮として、神様の住むべき場所として私を選んで、救いに与らせて下さった。イエス様を信じて事情境遇が良くなった程度だったら、世間にも沢山います。だから、よく言われるんです。教会に通っていてもどうしてあんな悩みに遭うんでしょうか。あんな苦しいことが次々に起こって、事故にも遭うし、病気にもなるし、こんなんじゃキリスト教の神様を信じても、あまりご利益がないじゃないかと。家内がしょっちゅう肩が痛い、腰が痛いと言っているもんですから、整形外科の先生が、「あんたのとこの神様はご利益がないね」と言われる。その先生は庭に小さなお祠を建てているので、そっちの方がご利益があるのかも知れません。そういう意味では。

しかし、世間の人よりも、人一倍不幸が多くても、私たちが救われていることにかわりはない。なんと言っても、神様が住んで下さる場所であることが大切なのです。私たちは、世間の人以上に不幸に遭ったとしても、そんなことが問題ではない。私たち一人一人が神の宮である。神様が私たちを住まいとして、聖なる宮として贖って下さいました。選んで救い出して下さいました。

 17節に「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。もし、神の宮である私たちが、自分を破壊するなら…と。だから、思い出すのですが、亡くなった津留崎兄が、ズーッと以前ですけれども、私にお話になった。それは、津留崎兄が、直腸でしたか、癌の手術をいたしました。お医者さんから、これは手術しなければいけないと聞いた。その時に悩んだ。「私は神の宮である。この身体は神様のもの、そこへメスを入れて切り裂くということは、神様の宮を破壊するのではないかと。それで私は随分悩みました」というお話を伺いました。「どうしました」、「それで一生懸命にお祈りをしました。そしたら、神の宮というのは、確かに身体もそうであるけれども、もっと大切な心の中、魂がそうであると教えられました。この病気も神様の御用のためならばと、信じて手術を受けました」とお聞きしました。恐らく津留崎兄は、自分が神様の宮として、大切な者としていただいたことがどんなに大きな恵みであるか、自覚しておられたと思います。身体一つ傷つけることも、これは神様の宮を破壊することではないかと怖れたくらいに…。必ずしも我々が手術を受けたり、怪我をしたりすることが神様の宮を破壊することではありませんが、しかし、ある意味では、受けている恵みが、どんなに貴重なかけがえのないものであるかと言うことです。

神の宮であって、神の聖霊を宿している。だから、私たちは、健康に気を付ける事も大切です。勿論、神様の宮だからです。そのために節制をすること。暴飲暴食、夜更かしなどをして身体を壊さないようにすることも、大切です。それは、自分の健康第一主義ではありません。自分が長生きしたいから健康を大事にするのじゃなくて、尊い神様の宮として、神様が宿って下さる聖なる場所であるから、身体を大切に用いる。これが本来の人間の健康のあり方です。大酒を飲んで、身体をアルコール漬けにしては申しわけない、神様の宮なんですから。或いは、タバコの煙で燻して、神様をコホン、コホンと言わせちゃいけないから、そういうものを慎むのも勿論です。その他、いろんなものを食べたり飲んだりすることについてもそうです。だから、エペソ人への手紙に言われているように「酒に酔ってはならない、それは乱行のもとである。むしろ御靈に滿たされ」と言われている。私たちの身体は神様の霊に満たされる器、神様が必要として下さる存在であることを、決して忘れてはならない。だから、16節に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っている」。今、私たちの内に神様の霊が、神様御自身が宿って下さって、イスラエルの民と共に歩んで下さったように、今も私たちと共に歩んで下さっている。神様が住んで下さるに相応しい者へと、私たちを絶えず整えて下さる。

イザヤ書57章14節から16節までを朗読。

15節に「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者」とあります。これは取りも直さず、神様御自身を紹介したものです。「わたしは高く、聖なる所に住み」、神様はいと高き方、聖なる方だから高い所、聖なる所に住み給うというのは、これは当然です。ところがその後に「また心砕けて、へりくだる者と共に住み」とあります。これは私たちへの大きな福音です。神様は、聖なる所、いと高き所に住んで、下々のことは我関せずという方だったら、到底救われることは出来ません。しかし、「心砕けて、へりくだる者」、私たちが絶えず神様の前に自分の心を低くして、心砕けた者となって、自分の心を神様に献げていく時に、その者と共に神様は住んで下さる。「へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」と。神様の前に本当に砕けて悔いた心を持って出ていく。罪大きい者、箸にも棒にも掛からないような者、滅ぼされて当然の、頑なな、神様を主と信じながらそれに従えない自分であることを認めて、そして悔い改めて、神様の十字架の贖いを信じて、感謝して、喜んで生きる時、主は私たちを住まいとして下さる。

 ですから、私たちが先ずすべきことは、主に仕える者となること。日々に私たちの内に宿って下さる聖霊なる神ご自身に、全身全霊を献げて従っていく者となりたいと思います。聖別し、その所に神様の栄光を現すと、イスラエルの民に語って下さいました。聖所を通して、神様の臨在を鮮やかにして下さいました。だから、私たちを通して、神様は御自分の栄光を現そうとして下さるのです。ただに私たちの思いが叶い、願いが実現することばかりではなくて、もっと大きな神様の御計画の中に、神様の御思いの中に、私たちが選ばれ召され、そして潔められて、神の住まいとせられていることを自覚してください。主の御声に従って、一つ一つの歩みの中から、言葉、手の業、全ての業の中から、神様の栄光を拝する者となりたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。