出エジプト記12章1節から13節までを朗読。
13節に「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」。
今お読みいたしました12章の記事は、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生涯から、救い出される大きなきっかけとなった「過ぎ越し」の出来事について語られた一節です。イスラエルの民は、ヤコブの時に、エジプトに寄留する民となりました。息子ヨセフが、その時エジプトの総理大臣と言いますか、支配者になっていました。父や兄弟の家族が住むカナンの地方に飢饉があったために、食べるものに窮していたのです。お父さんや兄弟たちが、皆エジプトに移ってきました。エジプトの王様も実に寛容であり、またヨセフのゆえに、ヤコブの全家族を大切に扱ってくれました。ところが、段々と年月が経ってまいりまして、王様が次々と替わってきます。事情を知らない王様になると、何故イスラエルの民、異国の民が自分たちの国にいるのだろうかと疑問が湧いてくる。やがてイスラエルの民を他国民として、冷たくあしらうようになり、ついには奴隷としてこき使うようになりました。イスラエルの人々は、エジプトの国にいましたが、生活は厳しくなり、労働が過酷になって、日々の生活も大変な困難を極める事態となりました。その時、イスラエルの民は、自分たちの神でいらっしゃるエホバの神、主に救いを求めて祈りました。やがてその祈りが神様に届いて、神様は時を定めて、ほぼヤコブが移住してから四百数十年くらい経った時に、一人の指導者モーセを立てられたのです。モーセは本来イスラエルの民でありました。当時のパロ王様はイスラエルの民が増えるのを好まないので、男の子は生まれると直ぐに皆殺せと言う命令を出しました。
で、モーセが生まれた時も、殺さなければならなかったのですが、あまりにも可愛くて、殺すに忍びなく、両親はモーセをパピルスで編んだ籠に入れて、ナイル川に流しました。その流れた籠が、たまたま水浴びに来ていたパロ王様の娘の目にとまり、拾われました。彼は養子となって、生活し、成長いたしました。モーセはやがて自分の氏素性、出生の秘密を知るようになります。パロ王様の王宮に住んではいますが、どうも自分はそうじゃないみたいだと。よくよく調べてみると、奴隷としてこき使われているイスラエルの流れの者、血を継ぐ者である事を知ったのです。彼は自分の同胞であるイスラエルの民を解放しようとして、殺人まで犯します。ところが、その事が大変な事件になりまして、とうとうエジプトの国を逃げ出して行ったのです。ミデヤンという所に落ち着き、一人の女性と結婚して、羊を飼う生活をしていました。この世から離れて、静かに余生を送りたいと思ったのです。40歳くらいから80歳になるころまで、ミデヤンで静かな生活を送っていました。しかし、神様は既にモーセを捕らえていたのだと思います。ある日、羊を飼いながら、羊の牧草地を求めて進んでいた時、一つの出来事に出会いました。それは燃える柴です。よく山火事というものがありますが、このイスラエルの地方も乾燥した所ですから、自然の力で燃える事もあるでしょう。モーセも、いつものような山火事だと思って近づいて行ったところ、普通でしたらパーツと勢いよく燃えて、すぐにシューッと、自然に消えてしまうものです。ところが、見ているとその柴はなかなか燃え尽きない。一体これはどうした事かと思っていた所に、神様はモーセに声をかけて、「あなたの立っている場所は聖なる地だから、あなたの足からくつを脱ぎなさい」と。続けて神様は「あなたはこれから出かけて行って、あなたの民イスラエルを救いなさい」とお命じになった。彼はとんでもない、そんなことは出来ませんと、何度となく拒みました。青天の霹靂と言うか、予定もしない、考えもしない、思いもしないことでしたから。しかも、自分でやってみて失敗して、逃げ出してきた自分である事を良く知っています。一度挫折していたのです。自分の力で、人間の力で救い出そうと偉そうなことを考えてしたことでした。ところが、神様は、今度は私があなたを遣わすからと。本当にしつこく彼は拒みましたけれども、とうとう神様に説得されて受ける事になります。
兄のアロンと一緒に彼らはエジプトのパロ王様の所に遣わされます。「私たちの神様が、“我が民を去らしめて、我に事(つか)ふることをえせしめよ”」と。イスラエルの民を、このエジプトから解放するように求めておられると伝えました。パロ王様が、すんなりと「ああ、良かった、良かった。さぁ、出て行きなさい」と言う筈がない。繰り返し、繰り返し、モーセはパロ王様と交渉しました。いろんな不思議なわざも行いました。しかしパロ王様の心が頑なになるのです。繰り返し、繰り返し、モーセは裏切られます。その時、神様が一つの事をご計画して下さった。それは神の霊、力が、エジプトの国を行き巡って、全ての初子、家畜も人も最初に生まれたものを全部殺すというのです。それによって、パロ王様は心を和らげて、イスラエルを去らして下さるに違いない。神様がエジプトに住んでいる人々に災いを下すと。唯、エジプトに住んでいても、この事をしたものだけは…、という約束を与えたのが、今読みました12章1節以下であります。
この3節に「あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない』」。その月の十日に、父の家ごと、父系家族ですから、一家族毎に子羊を一頭用意しなさいと言うのです。
4節に「もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれない時は、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない」。家族が少なくて、一頭では少し多すぎる、夫婦だけで子供がいないという時は、隣の人と人数を合わせて、ある程度のものを取りなさいと、実に、神様は懇ろな方ですね。決して無理無体な事をおっしゃいません。ちゃんと彼らに配慮して、子羊を取って置く事をお命じになりました。
5節には「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない」。しかも、その取るべき羊は、傷のないもの、足が曲がっているとか、身体にどこか傷があるとか、或いは不具合な所があるものを取ってはいけない。言い換えると、自分の群れの中で一番良いもの、最高のものを取りなさい。しかもそれは「一歳の雄でなければならない」と、神様は求められたのです。そして6節に「そしてこの月の十四日まで」、10日にそれを用意して、それから14日まで、4日間、その子羊をちゃんと守って置く。そして、月の14日、「これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり」。先ず14日の日がきたならば、その日の夕暮れにこの子羊を屠って、7節に「その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない」。で、羊を殺して、その血を先ず取る。そしてその血を自分の家の入り口の玄関の柱と横のかもいに、全部紅く塗りなさいと言うのです。
8節に「そしてその夜」、その晩には、その屠った羊の肉を「火に焼いて食べなさい」。焼いて食べるのです。しかも、一緒に食べるのは、「種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない」。9節に「生でも、水で煮ても、食べてはならない」。必ず焼かなければならない。生で食べても、水で煮てもいけない。焼いて、9節に「その頭を足と内臓と共に食べなければならない」。言い換えると全部食べなさいという事です。良い所だけ食べるのではありません。頭から足まで内臓も全部食べなさい。
そして10節に「朝までそれを残しておいてはならない」。その日のうちに全てを終えなさいと言うのです。残るような事があるならば、「火で焼きつくさなければならない」。焼き尽くして完全に無きものにしてしまいなさい。こうやって、その食事が終わって、11節に「あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない」。食べる時にも、ちゃんと旅装束をして、くつを履いて、手に杖を持ち、出かける準備をして、荷物をからげてたべなさいと。
12節に「その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべての初子を打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である」。ここで神様は、その晩わたしが裁きをする。エジプトの家畜から人にいたるまで、生けるものの初子を全部滅ぼし、そして、エジプトの人々が拝んでいる偶像である神々を全部滅ぼすとおっしゃるのです。「これは主の過越である」と。これが神様の裁きであり、また、イスラエルを救い出される大切な時なのだと言うのです。13節に「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」。エジプトの地にいるもの全てでありますから、それは、イスラエルの人だから良いと言うわけではない。イスラエルの民であっても、主が言われた過越の指示に従って、子羊の血をかもいに塗っていなければ、全て滅ぼされる。私は先祖代々イスラエルの民だからいいでしょうとはならない。神様のご命令に従って、かもいに血を塗った者だけには災いが及ばない。その血を見て、「我汝らのために記號(しるし)とならん 我血を見る時なんぢらを逾越(すぎこ)すべし」と。神様は災いをあなた方の所から過ぎ越させて下さいます。
これがイスラエルの民の過越の祭の始まりであり、大きな恵みでした。この過越の祭の子羊こそが、実は、主イエス・キリストだったのです。今も私たちが神様の恵みに与って救われる道筋は、かもいに血を塗る他はないのです。その子羊は何処から来るか。私たちは別に羊飼いではありません。皆さんのお家に羊を飼っているという事はないと思います。毎年、羊を屠ってその血を塗っておきましょうと言われても、それはできません。じゃ、どうするか。だからこそ、神様はひとり子であるイエス様をこの世に遣わして下さいました。
ヨハネの福音書1章29節
29節に「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」とあります。ここに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。私たちは、今、神様の滅びから免(まぬが)れて、永遠の命の生涯に移されていく、その災いが過ぎ越していく道筋は、この過越しなのです。入り口にキリストの血を塗るという事は、子羊の血を塗るんですけれど、その塗るべき子羊は、動物の血ではありません。それでなくて、イエス様御自身が、私たちの一切の罪を取り除いて下さる、あの過越の子羊となって下さったのです。私たちにとって、イエス様が十字架に御自分を捧げて、胸を槍で突かれ血を流して下さった、その血潮の故に神様の呪いを取り除かれて、生きるものとされるのです。
嘗て、イスラエルの民がエジプトを出て行く時に、穢れも傷もない一歳の雄の子羊を取れとおっしゃった。私たちの罪の贖いとして、神様が求められる子羊を捧げる方法は、私たちにはありません。自分の身を以ってしても、私たちは穢れたものであり、欠けだらけの者であり、箸にも棒にも掛からない、何の取り得もない者ですから、これを捧げたところで神様の宥(なだ)めの供え物となる値うちはありません。しかし、私たちに替わってイエス様が、全き贖いの子羊となって下さった。神の御子でいらっしゃる御方が、神の子羊となって、十字架に御自分を捧げてくださったのです。
エジプトを出た時に、神様が災いを取り除いて下さった恵みに感謝し、記念して、毎年過越の祭を行ったのです。あの最後の晩餐は「過越の祭」を守るためでした。その時は子羊を屠って、皆で食事をしたのです。今はそういう目に見える形の動物としての子羊を捧げる必要はありませんが、イエス様の十字架がかもいに塗った子羊の血となって下さったのです。イエス様の十字架によって、「我血を見る時、なんぢらを逾越(すぎこ)すべし」と、神様が滅びから私たちを救い出して、エジプトの地からカナンの地への生涯、天国の生涯へ移して下さるのです。
ですから、29節以下に「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。バプテスマのヨハネが、「わたしよりも、もっとすぐれた方がこられる。この方こそ、世の罪を取り除く」と言われた、「世の罪」とは誰の罪の事でしょうか。私の罪であり、皆さん、一人一人の過去現在未来に亘る全ての罪です。私たちが自分の罪を認めて、イエス様の十字架の贖いによって、それらの罪を赦されたと信じるなら、滅びから救いへと移していただけるのです。主が私のために命を捨てて、清い者、義なる者として下さったと信じて、神様の前に立つ時、神様は私たちに下そうとした刑罰を、滅びを取り除いて下さる。イエス様が私の贖いの子羊となって下さった。この事を深く心に止めておきたいと思います。
マタイによる福音書27章11節から18節までを朗読。
これは、イエス様が総督ピラトの前に立たせられて、裁きを受けた時の記事です。この時、民は様々な不利な証言をして、イエス様の罪状を並べ立てました。しかし、イエス様は一言もお答えにならない。ピラトがどんなに調べても、イエス様には罪がない。この人を処罰する理由が見当たらないと彼は答えています。イエス様は罪なき御方、傷のない完全な人となり、私たちの贖いの犠牲となられました。私たちの罪の贖いとなるためには、私たちよりも優れた者が犠牲を払わなければ何の効果もありません。それと同じで、私たち人間が、どんなに立派な人間と言われようと、世間で評判が良い人であろうと、或いは、誰からも誉められる人格高潔にして、品行方正な人であっても、何処か叩けば埃が出る。何処かほじくれば、必ずぼろが出てきます。だから、そんな人がいくら神様の前に、私が犠牲になりますからと言ったところで、それは何の贖いにもなりません。過越の祭に定められたような、傷なき一歳の雄の子羊を以ってして贖う他はない。それとても、動物ですから限界がある。だからこそ、神のひとり子を、敢えて人の姿、イエス様としてこの世に送って下さった。
私はその事をよくよく考えてみる時、神様は、なんと深い慮(おもんばか)りと言いますか、御計画をもって、私どもを顧みてくださっているかと思わざるを得ません。人間の中で一番優れた人を選んで、お前ちょっと皆の身代わりになって、十字架にかかってくれと言うわけではない。それどころか、神様は完全な贖いとなるべき犠牲、生贄として、神の子羊として、イエス様を私たちの所へ遣わして下さった。ですから、総督は非常に不思議に思ったと14節に記されています。しかも15節以下には、祭の度毎に、囚人を許してやる慣例があったとあります。と言うのは、「過越の祭」というのは、今申し上げましたように、滅びから免れるという祭りであります。だから、その当時、恩赦と言いますか、毎年過越の祭の時には、民衆が求める一人の囚人を許してやろうというのが慣例となっていました。その時、「バラバと言う評判の囚人がいた」とあります。別の福音書には「暴動と殺人のかどで」という、極悪非道の人であったとも記されています。そのバラバを許せと民衆は言うわけです。もう一度ピラトは、民衆に尋ねたのが17節、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。ピラトは何としてもイエス様を許したいと思ったのです。というのは、罰すべき理由がない。いくら調べても、何処にもその刑に値するものがないのです。だったら、特赦をもってイエスを許してやろうではないかと提案しました。しかし、彼らは同意しませんでした。
マタイによる福音書27章22、23節を朗読。
民衆はイエスを十字架につけ、バラバを許せと求めたのです。ついに彼らの声が勝って、イエス様は十字架につけられ、バラバが許される事になりました。これは、極めてイエス様の十字架の真髄を証詞した出来事です。イエス様が、極悪非道の犯罪者であるバラバの身代わりとなって、彼が本来つくべき十字架に、イエス様がかけられ、バラバが許されて…。これはイエス様の十字架によって、どんな罪の人でも、赦しが与えられるという証詞でもあります。また、私たち自身、バラバである者が、イエス様の十字架によって赦され、今日も神様の顧みの中に置かれ、また、永遠の命の生涯に導かれているのではありませんか。イエス様は鞭打たれて、十字架につけるために兵士たちに引き渡されました。イエス様は、ゴルゴタの丘に連れて行かれまして…。
その先のマタイによる福音書27章45節から52節までを朗読。
これは、イエス様の十字架での最後の場面です。ゴルゴタの丘、されこうべと言われるその処刑場に連れて行かれ、両脇に犯罪者が立ち、そして真ん中にイエス様の十字架が立てられ、多くの人々はそのイエス様の姿を見て、嘲り、罵り、悪口を言いました。イエス様の着ていたものまでくじ引きで分け合って奪われてしまい、茨の冠を被せられ、両手両足を釘つけられて、しかも胸を槍で刺されて十字架の上で息絶えて下さいました。
その記事が今読みました45節にありますね。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。父なる神様との交わりをも断たれてしまって、神様から処罰を受けて下さいました。そのイエス様の上に、一切の私たちの罪が負わせられて、イエス様と共に滅ぼされたのです。あの「過越の祭」の時に、エジプトに在ったイスラエルの民が、その子羊を屠って、その血をかもいに塗り、その子羊を全部食べてしまった。そのように、イエス様を私たちが食べてしまわなければならない。唯、かもいに血を塗るだけではなくて、イエス様を私たちのものとしてしまう事です。
ですから、ヨハネによる福音書6章52節から56節までを朗読します。
イエス様はここではっきりと、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とおっしゃる。この時、イエス様が語られたこの言葉の中に、明らかにあの過越の祭で屠った子羊を全て、頭も足も内臓もひっくるめて、全て食べてしまうと言う事が暗示されています。ものを食べると、食べたものは私たちの内で消化して、取り込まれていってしまいます。それは私たちの肉となり、血となり、骨となり、何処に何があるかわからないけれど、私たちの中に沁(し)み込んでいく。それと同じように、私たちの罪の贖いの供え物となって下さったイエス様を、私たちが食べてしまう。と言って、姿形があるわけではありませんが、どうやって食べるかと言うと、イエス様の御言葉を全て丸まま食べて、心の中に受け入れる事です。イエス様のお言葉をそっくりそのままに、感謝して戴く時、私たちの魂の内に留まります。気がつかない内に、どこにその御言葉が生きているか、働いているか、わからないけれど、私たちの生活の隅から隅まで、イエス様の御思いが行き渡っていきます。知らず知らずのうちに、私たちはイエス様の思いを踏み、歩んでいく者と変えられるのです。53節に「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と。自分の家の玄関口に、赤い血をバーッと塗るようなことはしません。嘗て、イスラエルの民が、あのエジプトの国から救い出される時は、そのように具体的に建物の入口にしたのです。しかし、今は、動物ではなく、イエス様が贖いの子羊となって、十字架に血を流して下さった。その血による贖いを信じて感謝し、主の言葉に従ううちに、清められたものとなるのです。これが、かもいに血を塗るという事です。イエス様の十字架の贖いを、私たち一人一人が、私のためであった。私のためにイエス様が命を捨てて、愛して下さっていると信じていく。これは私たちから滅びが過ぎ去っていく、唯一つの道筋だからです。神様の備えられたこの道を歩んでいく時、私たちは父なる神様の許に近づくことができます。私たちはもう一度、イエス様がどんな御方として、私たちのために来て下さったか、私のために何をして下さったのか、はっきりと知って、感謝したいと思います。神様が私たちの罪の贖いとして、ひとり子を世に送り、滅びが過越すようにと血を注いで下さった。この事を感謝していきたい。
先だっても、ある方が一つの問題を持って、息子さんのために嘆いておられる。事情を聞いてみると確かに、大変気の毒だなと思う事がありました。しかし、お母さんに、神様はあなたのためにひとり子を遣わして、十字架に命を与えて下さった。それほどまでにあなたを愛して下さっていらっしゃるじゃありませんか。それと同じように、息子さんのためにも、神様はイエス様を与えて下さった御方ですよ。あなたが息子さんのために思い煩っている以上に、神様はもっと息子さんの事を、どんなに心に掛けていらっしゃるか分からない。その神様の御愛を信じてくださいと申し上げました。
私はこの家族、この人のために、或いは、自分のために、私が一番心配していて、誰も分かってくれる人はいないと思う。実は神様は私たちの全てを知っていらっしゃって、私たちを愛して下さっている。そして、何とか安心を与えたいと願っていらっしゃる。それに私たちは気がつかないでいるのです。どうぞ、自分自身が神様の顧みの中に、御愛の中に置かれていると信じると同時に、私たちの家族一人一人も、イエス様の過越の血潮によって贖われ、その人のためにもイエス様は命を捨てて下さったのです。そして、私たちが思う以上に、皆さんの気掛かりな事柄のために、神様の方が心を砕いておって下さいます。
ですから、もう一度、出エジプト記に戻りますが、ここに、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」、「わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」。神様は十字架の血潮の故に、私たちの罪を赦し、災いを遠ざけて下さった。今日も私たちを神様の御国に迎え入れようと、熱心になって、私たちを顧みて下さっていらっしゃるのです。その神様に、私たちはどれ程感謝しているでしょうか。主の備えて下さった、この御愛と恵みをしっかりと確信して、主の手に自らを捧げて行こうではありませんか。神様は、私たち一人一人をかけがえのない命として、愛して下さって、ひとり子を給うほどに、今日も、「父よ、彼等を許し給え」と、執り成して下さっています。私たちはその血によって、「災いなんぢらを逾越(すぎこ)すべし」と、今日も赦され生きているのです。心から感謝していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
13節に「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」。
今お読みいたしました12章の記事は、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生涯から、救い出される大きなきっかけとなった「過ぎ越し」の出来事について語られた一節です。イスラエルの民は、ヤコブの時に、エジプトに寄留する民となりました。息子ヨセフが、その時エジプトの総理大臣と言いますか、支配者になっていました。父や兄弟の家族が住むカナンの地方に飢饉があったために、食べるものに窮していたのです。お父さんや兄弟たちが、皆エジプトに移ってきました。エジプトの王様も実に寛容であり、またヨセフのゆえに、ヤコブの全家族を大切に扱ってくれました。ところが、段々と年月が経ってまいりまして、王様が次々と替わってきます。事情を知らない王様になると、何故イスラエルの民、異国の民が自分たちの国にいるのだろうかと疑問が湧いてくる。やがてイスラエルの民を他国民として、冷たくあしらうようになり、ついには奴隷としてこき使うようになりました。イスラエルの人々は、エジプトの国にいましたが、生活は厳しくなり、労働が過酷になって、日々の生活も大変な困難を極める事態となりました。その時、イスラエルの民は、自分たちの神でいらっしゃるエホバの神、主に救いを求めて祈りました。やがてその祈りが神様に届いて、神様は時を定めて、ほぼヤコブが移住してから四百数十年くらい経った時に、一人の指導者モーセを立てられたのです。モーセは本来イスラエルの民でありました。当時のパロ王様はイスラエルの民が増えるのを好まないので、男の子は生まれると直ぐに皆殺せと言う命令を出しました。
で、モーセが生まれた時も、殺さなければならなかったのですが、あまりにも可愛くて、殺すに忍びなく、両親はモーセをパピルスで編んだ籠に入れて、ナイル川に流しました。その流れた籠が、たまたま水浴びに来ていたパロ王様の娘の目にとまり、拾われました。彼は養子となって、生活し、成長いたしました。モーセはやがて自分の氏素性、出生の秘密を知るようになります。パロ王様の王宮に住んではいますが、どうも自分はそうじゃないみたいだと。よくよく調べてみると、奴隷としてこき使われているイスラエルの流れの者、血を継ぐ者である事を知ったのです。彼は自分の同胞であるイスラエルの民を解放しようとして、殺人まで犯します。ところが、その事が大変な事件になりまして、とうとうエジプトの国を逃げ出して行ったのです。ミデヤンという所に落ち着き、一人の女性と結婚して、羊を飼う生活をしていました。この世から離れて、静かに余生を送りたいと思ったのです。40歳くらいから80歳になるころまで、ミデヤンで静かな生活を送っていました。しかし、神様は既にモーセを捕らえていたのだと思います。ある日、羊を飼いながら、羊の牧草地を求めて進んでいた時、一つの出来事に出会いました。それは燃える柴です。よく山火事というものがありますが、このイスラエルの地方も乾燥した所ですから、自然の力で燃える事もあるでしょう。モーセも、いつものような山火事だと思って近づいて行ったところ、普通でしたらパーツと勢いよく燃えて、すぐにシューッと、自然に消えてしまうものです。ところが、見ているとその柴はなかなか燃え尽きない。一体これはどうした事かと思っていた所に、神様はモーセに声をかけて、「あなたの立っている場所は聖なる地だから、あなたの足からくつを脱ぎなさい」と。続けて神様は「あなたはこれから出かけて行って、あなたの民イスラエルを救いなさい」とお命じになった。彼はとんでもない、そんなことは出来ませんと、何度となく拒みました。青天の霹靂と言うか、予定もしない、考えもしない、思いもしないことでしたから。しかも、自分でやってみて失敗して、逃げ出してきた自分である事を良く知っています。一度挫折していたのです。自分の力で、人間の力で救い出そうと偉そうなことを考えてしたことでした。ところが、神様は、今度は私があなたを遣わすからと。本当にしつこく彼は拒みましたけれども、とうとう神様に説得されて受ける事になります。
兄のアロンと一緒に彼らはエジプトのパロ王様の所に遣わされます。「私たちの神様が、“我が民を去らしめて、我に事(つか)ふることをえせしめよ”」と。イスラエルの民を、このエジプトから解放するように求めておられると伝えました。パロ王様が、すんなりと「ああ、良かった、良かった。さぁ、出て行きなさい」と言う筈がない。繰り返し、繰り返し、モーセはパロ王様と交渉しました。いろんな不思議なわざも行いました。しかしパロ王様の心が頑なになるのです。繰り返し、繰り返し、モーセは裏切られます。その時、神様が一つの事をご計画して下さった。それは神の霊、力が、エジプトの国を行き巡って、全ての初子、家畜も人も最初に生まれたものを全部殺すというのです。それによって、パロ王様は心を和らげて、イスラエルを去らして下さるに違いない。神様がエジプトに住んでいる人々に災いを下すと。唯、エジプトに住んでいても、この事をしたものだけは…、という約束を与えたのが、今読みました12章1節以下であります。
この3節に「あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない』」。その月の十日に、父の家ごと、父系家族ですから、一家族毎に子羊を一頭用意しなさいと言うのです。
4節に「もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれない時は、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない」。家族が少なくて、一頭では少し多すぎる、夫婦だけで子供がいないという時は、隣の人と人数を合わせて、ある程度のものを取りなさいと、実に、神様は懇ろな方ですね。決して無理無体な事をおっしゃいません。ちゃんと彼らに配慮して、子羊を取って置く事をお命じになりました。
5節には「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない」。しかも、その取るべき羊は、傷のないもの、足が曲がっているとか、身体にどこか傷があるとか、或いは不具合な所があるものを取ってはいけない。言い換えると、自分の群れの中で一番良いもの、最高のものを取りなさい。しかもそれは「一歳の雄でなければならない」と、神様は求められたのです。そして6節に「そしてこの月の十四日まで」、10日にそれを用意して、それから14日まで、4日間、その子羊をちゃんと守って置く。そして、月の14日、「これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり」。先ず14日の日がきたならば、その日の夕暮れにこの子羊を屠って、7節に「その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない」。で、羊を殺して、その血を先ず取る。そしてその血を自分の家の入り口の玄関の柱と横のかもいに、全部紅く塗りなさいと言うのです。
8節に「そしてその夜」、その晩には、その屠った羊の肉を「火に焼いて食べなさい」。焼いて食べるのです。しかも、一緒に食べるのは、「種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない」。9節に「生でも、水で煮ても、食べてはならない」。必ず焼かなければならない。生で食べても、水で煮てもいけない。焼いて、9節に「その頭を足と内臓と共に食べなければならない」。言い換えると全部食べなさいという事です。良い所だけ食べるのではありません。頭から足まで内臓も全部食べなさい。
そして10節に「朝までそれを残しておいてはならない」。その日のうちに全てを終えなさいと言うのです。残るような事があるならば、「火で焼きつくさなければならない」。焼き尽くして完全に無きものにしてしまいなさい。こうやって、その食事が終わって、11節に「あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない」。食べる時にも、ちゃんと旅装束をして、くつを履いて、手に杖を持ち、出かける準備をして、荷物をからげてたべなさいと。
12節に「その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべての初子を打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である」。ここで神様は、その晩わたしが裁きをする。エジプトの家畜から人にいたるまで、生けるものの初子を全部滅ぼし、そして、エジプトの人々が拝んでいる偶像である神々を全部滅ぼすとおっしゃるのです。「これは主の過越である」と。これが神様の裁きであり、また、イスラエルを救い出される大切な時なのだと言うのです。13節に「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」。エジプトの地にいるもの全てでありますから、それは、イスラエルの人だから良いと言うわけではない。イスラエルの民であっても、主が言われた過越の指示に従って、子羊の血をかもいに塗っていなければ、全て滅ぼされる。私は先祖代々イスラエルの民だからいいでしょうとはならない。神様のご命令に従って、かもいに血を塗った者だけには災いが及ばない。その血を見て、「我汝らのために記號(しるし)とならん 我血を見る時なんぢらを逾越(すぎこ)すべし」と。神様は災いをあなた方の所から過ぎ越させて下さいます。
これがイスラエルの民の過越の祭の始まりであり、大きな恵みでした。この過越の祭の子羊こそが、実は、主イエス・キリストだったのです。今も私たちが神様の恵みに与って救われる道筋は、かもいに血を塗る他はないのです。その子羊は何処から来るか。私たちは別に羊飼いではありません。皆さんのお家に羊を飼っているという事はないと思います。毎年、羊を屠ってその血を塗っておきましょうと言われても、それはできません。じゃ、どうするか。だからこそ、神様はひとり子であるイエス様をこの世に遣わして下さいました。
ヨハネの福音書1章29節
29節に「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」とあります。ここに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。私たちは、今、神様の滅びから免(まぬが)れて、永遠の命の生涯に移されていく、その災いが過ぎ越していく道筋は、この過越しなのです。入り口にキリストの血を塗るという事は、子羊の血を塗るんですけれど、その塗るべき子羊は、動物の血ではありません。それでなくて、イエス様御自身が、私たちの一切の罪を取り除いて下さる、あの過越の子羊となって下さったのです。私たちにとって、イエス様が十字架に御自分を捧げて、胸を槍で突かれ血を流して下さった、その血潮の故に神様の呪いを取り除かれて、生きるものとされるのです。
嘗て、イスラエルの民がエジプトを出て行く時に、穢れも傷もない一歳の雄の子羊を取れとおっしゃった。私たちの罪の贖いとして、神様が求められる子羊を捧げる方法は、私たちにはありません。自分の身を以ってしても、私たちは穢れたものであり、欠けだらけの者であり、箸にも棒にも掛からない、何の取り得もない者ですから、これを捧げたところで神様の宥(なだ)めの供え物となる値うちはありません。しかし、私たちに替わってイエス様が、全き贖いの子羊となって下さった。神の御子でいらっしゃる御方が、神の子羊となって、十字架に御自分を捧げてくださったのです。
エジプトを出た時に、神様が災いを取り除いて下さった恵みに感謝し、記念して、毎年過越の祭を行ったのです。あの最後の晩餐は「過越の祭」を守るためでした。その時は子羊を屠って、皆で食事をしたのです。今はそういう目に見える形の動物としての子羊を捧げる必要はありませんが、イエス様の十字架がかもいに塗った子羊の血となって下さったのです。イエス様の十字架によって、「我血を見る時、なんぢらを逾越(すぎこ)すべし」と、神様が滅びから私たちを救い出して、エジプトの地からカナンの地への生涯、天国の生涯へ移して下さるのです。
ですから、29節以下に「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。バプテスマのヨハネが、「わたしよりも、もっとすぐれた方がこられる。この方こそ、世の罪を取り除く」と言われた、「世の罪」とは誰の罪の事でしょうか。私の罪であり、皆さん、一人一人の過去現在未来に亘る全ての罪です。私たちが自分の罪を認めて、イエス様の十字架の贖いによって、それらの罪を赦されたと信じるなら、滅びから救いへと移していただけるのです。主が私のために命を捨てて、清い者、義なる者として下さったと信じて、神様の前に立つ時、神様は私たちに下そうとした刑罰を、滅びを取り除いて下さる。イエス様が私の贖いの子羊となって下さった。この事を深く心に止めておきたいと思います。
マタイによる福音書27章11節から18節までを朗読。
これは、イエス様が総督ピラトの前に立たせられて、裁きを受けた時の記事です。この時、民は様々な不利な証言をして、イエス様の罪状を並べ立てました。しかし、イエス様は一言もお答えにならない。ピラトがどんなに調べても、イエス様には罪がない。この人を処罰する理由が見当たらないと彼は答えています。イエス様は罪なき御方、傷のない完全な人となり、私たちの贖いの犠牲となられました。私たちの罪の贖いとなるためには、私たちよりも優れた者が犠牲を払わなければ何の効果もありません。それと同じで、私たち人間が、どんなに立派な人間と言われようと、世間で評判が良い人であろうと、或いは、誰からも誉められる人格高潔にして、品行方正な人であっても、何処か叩けば埃が出る。何処かほじくれば、必ずぼろが出てきます。だから、そんな人がいくら神様の前に、私が犠牲になりますからと言ったところで、それは何の贖いにもなりません。過越の祭に定められたような、傷なき一歳の雄の子羊を以ってして贖う他はない。それとても、動物ですから限界がある。だからこそ、神のひとり子を、敢えて人の姿、イエス様としてこの世に送って下さった。
私はその事をよくよく考えてみる時、神様は、なんと深い慮(おもんばか)りと言いますか、御計画をもって、私どもを顧みてくださっているかと思わざるを得ません。人間の中で一番優れた人を選んで、お前ちょっと皆の身代わりになって、十字架にかかってくれと言うわけではない。それどころか、神様は完全な贖いとなるべき犠牲、生贄として、神の子羊として、イエス様を私たちの所へ遣わして下さった。ですから、総督は非常に不思議に思ったと14節に記されています。しかも15節以下には、祭の度毎に、囚人を許してやる慣例があったとあります。と言うのは、「過越の祭」というのは、今申し上げましたように、滅びから免れるという祭りであります。だから、その当時、恩赦と言いますか、毎年過越の祭の時には、民衆が求める一人の囚人を許してやろうというのが慣例となっていました。その時、「バラバと言う評判の囚人がいた」とあります。別の福音書には「暴動と殺人のかどで」という、極悪非道の人であったとも記されています。そのバラバを許せと民衆は言うわけです。もう一度ピラトは、民衆に尋ねたのが17節、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。ピラトは何としてもイエス様を許したいと思ったのです。というのは、罰すべき理由がない。いくら調べても、何処にもその刑に値するものがないのです。だったら、特赦をもってイエスを許してやろうではないかと提案しました。しかし、彼らは同意しませんでした。
マタイによる福音書27章22、23節を朗読。
民衆はイエスを十字架につけ、バラバを許せと求めたのです。ついに彼らの声が勝って、イエス様は十字架につけられ、バラバが許される事になりました。これは、極めてイエス様の十字架の真髄を証詞した出来事です。イエス様が、極悪非道の犯罪者であるバラバの身代わりとなって、彼が本来つくべき十字架に、イエス様がかけられ、バラバが許されて…。これはイエス様の十字架によって、どんな罪の人でも、赦しが与えられるという証詞でもあります。また、私たち自身、バラバである者が、イエス様の十字架によって赦され、今日も神様の顧みの中に置かれ、また、永遠の命の生涯に導かれているのではありませんか。イエス様は鞭打たれて、十字架につけるために兵士たちに引き渡されました。イエス様は、ゴルゴタの丘に連れて行かれまして…。
その先のマタイによる福音書27章45節から52節までを朗読。
これは、イエス様の十字架での最後の場面です。ゴルゴタの丘、されこうべと言われるその処刑場に連れて行かれ、両脇に犯罪者が立ち、そして真ん中にイエス様の十字架が立てられ、多くの人々はそのイエス様の姿を見て、嘲り、罵り、悪口を言いました。イエス様の着ていたものまでくじ引きで分け合って奪われてしまい、茨の冠を被せられ、両手両足を釘つけられて、しかも胸を槍で刺されて十字架の上で息絶えて下さいました。
その記事が今読みました45節にありますね。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。父なる神様との交わりをも断たれてしまって、神様から処罰を受けて下さいました。そのイエス様の上に、一切の私たちの罪が負わせられて、イエス様と共に滅ぼされたのです。あの「過越の祭」の時に、エジプトに在ったイスラエルの民が、その子羊を屠って、その血をかもいに塗り、その子羊を全部食べてしまった。そのように、イエス様を私たちが食べてしまわなければならない。唯、かもいに血を塗るだけではなくて、イエス様を私たちのものとしてしまう事です。
ですから、ヨハネによる福音書6章52節から56節までを朗読します。
イエス様はここではっきりと、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とおっしゃる。この時、イエス様が語られたこの言葉の中に、明らかにあの過越の祭で屠った子羊を全て、頭も足も内臓もひっくるめて、全て食べてしまうと言う事が暗示されています。ものを食べると、食べたものは私たちの内で消化して、取り込まれていってしまいます。それは私たちの肉となり、血となり、骨となり、何処に何があるかわからないけれど、私たちの中に沁(し)み込んでいく。それと同じように、私たちの罪の贖いの供え物となって下さったイエス様を、私たちが食べてしまう。と言って、姿形があるわけではありませんが、どうやって食べるかと言うと、イエス様の御言葉を全て丸まま食べて、心の中に受け入れる事です。イエス様のお言葉をそっくりそのままに、感謝して戴く時、私たちの魂の内に留まります。気がつかない内に、どこにその御言葉が生きているか、働いているか、わからないけれど、私たちの生活の隅から隅まで、イエス様の御思いが行き渡っていきます。知らず知らずのうちに、私たちはイエス様の思いを踏み、歩んでいく者と変えられるのです。53節に「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と。自分の家の玄関口に、赤い血をバーッと塗るようなことはしません。嘗て、イスラエルの民が、あのエジプトの国から救い出される時は、そのように具体的に建物の入口にしたのです。しかし、今は、動物ではなく、イエス様が贖いの子羊となって、十字架に血を流して下さった。その血による贖いを信じて感謝し、主の言葉に従ううちに、清められたものとなるのです。これが、かもいに血を塗るという事です。イエス様の十字架の贖いを、私たち一人一人が、私のためであった。私のためにイエス様が命を捨てて、愛して下さっていると信じていく。これは私たちから滅びが過ぎ去っていく、唯一つの道筋だからです。神様の備えられたこの道を歩んでいく時、私たちは父なる神様の許に近づくことができます。私たちはもう一度、イエス様がどんな御方として、私たちのために来て下さったか、私のために何をして下さったのか、はっきりと知って、感謝したいと思います。神様が私たちの罪の贖いとして、ひとり子を世に送り、滅びが過越すようにと血を注いで下さった。この事を感謝していきたい。
先だっても、ある方が一つの問題を持って、息子さんのために嘆いておられる。事情を聞いてみると確かに、大変気の毒だなと思う事がありました。しかし、お母さんに、神様はあなたのためにひとり子を遣わして、十字架に命を与えて下さった。それほどまでにあなたを愛して下さっていらっしゃるじゃありませんか。それと同じように、息子さんのためにも、神様はイエス様を与えて下さった御方ですよ。あなたが息子さんのために思い煩っている以上に、神様はもっと息子さんの事を、どんなに心に掛けていらっしゃるか分からない。その神様の御愛を信じてくださいと申し上げました。
私はこの家族、この人のために、或いは、自分のために、私が一番心配していて、誰も分かってくれる人はいないと思う。実は神様は私たちの全てを知っていらっしゃって、私たちを愛して下さっている。そして、何とか安心を与えたいと願っていらっしゃる。それに私たちは気がつかないでいるのです。どうぞ、自分自身が神様の顧みの中に、御愛の中に置かれていると信じると同時に、私たちの家族一人一人も、イエス様の過越の血潮によって贖われ、その人のためにもイエス様は命を捨てて下さったのです。そして、私たちが思う以上に、皆さんの気掛かりな事柄のために、神様の方が心を砕いておって下さいます。
ですから、もう一度、出エジプト記に戻りますが、ここに、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」、「わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」。神様は十字架の血潮の故に、私たちの罪を赦し、災いを遠ざけて下さった。今日も私たちを神様の御国に迎え入れようと、熱心になって、私たちを顧みて下さっていらっしゃるのです。その神様に、私たちはどれ程感謝しているでしょうか。主の備えて下さった、この御愛と恵みをしっかりと確信して、主の手に自らを捧げて行こうではありませんか。神様は、私たち一人一人をかけがえのない命として、愛して下さって、ひとり子を給うほどに、今日も、「父よ、彼等を許し給え」と、執り成して下さっています。私たちはその血によって、「災いなんぢらを逾越(すぎこ)すべし」と、今日も赦され生きているのです。心から感謝していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。