いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(14) 「恵みを受けるため」

2013年10月05日 | 聖書からのメッセージ

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ヘブル人への手紙4章14節から16節までを朗読。

16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」とあります。キリスト教であれ、何々教と言われる宗教であっても、神様とか仏様を、人間と同じものと見なすことはありません。どういう信仰であろうと、「神様を信じる」と言う時の神様は、人よりも優れたもの、人よりももっと大きな力、存在である。神様というと、あだやおろそかにできない、あるいは神様にそむいたら罰を受ける、という意味でも、神様は怖い方だというのが、世間での一般的な通念です。世間の人は、神様という方は、尊敬をするけれども、あまり身近に居られても困る。と言って、居ないのも困る。身勝手なもので、だから、適当な距離を置いてお付き合いしていくものである。まあ、年に一度か二度、あるいは時には三度くらい、お正月になったら、一年の家内安全、無事息災を祈って、何か神様のご加護を願うため、いろんな神社仏閣に行きます。そこでお祈りをします。それで一年間は一応義理を果たしたと言いますか、お恵みを戴けるに違いないと考えるのです。後は七五三で、あるいはお盆であるとか、命日とか、そういう時には思い出すということです。

年末に、理髪店に行きました時、ご主人といろいろな話をしました。私がキリスト教の牧師であることをよく知っていますから、「先生とこも、正月は忙しいんでしょうな」「どうしてですか」「いや、初詣に来られる方が沢山いらっしゃるでしょう」「ええ、まぁ、そう言う意味ではですね、結構お正月も忙しいですよ。うちでは三日間も特別な集会をします。」「それは、まあ、他所の宗教よりも熱心ですなぁ」と言うのです。それからいろんな話をしまして、今の世の中は、いわゆる宗教心が無い。だから若い人たちがいろいろと問題を起こす様になってきたという話から、そのご主人は、子供の頃仏教で育ち、いつも毎日、毎朝、仏壇にお供えをして拝まされ、事有る度にお寺にお参りをするという生活をしていた。だから、何が良くて、何が悪いか、なにをすべきか、なにをしてはいけないかということを、知らず知らずの内に身に付けてきたけれども、最近の子供には、そういう場が無くなってしまっている。だから、今の様な社会問題が多くなったと。

私も彼の言う事には賛成でした。普段からそう思いますので、「その通りですよ、ただ今の多くの宗教は、ただ、形だけになってしまっている。本当に信仰心というものは、無いじゃありませんか」。そう言った時に、「確かにそうです。自分も仏教徒だけれども、お寺に行ったのは何時だったか記憶にないくらいです」と言う。「先生の所はどうですか」と言われたから、「キリスト教の場合、毎週毎週、礼拝があって教会に来ますよ」「毎週ですか。その他ウィークデーには何かあるのですか」「はい、ウィークデーには、ちゃんと
聖書を学ぶ集会がありますし、夜には祈祷会もあります」「そういう所に皆さん出て来るのですか」「熱心に皆さん来られますよ」「感心ですなぁ」「これが信仰というものでしょう」と言ったのです。そして「私たちは、信仰と言うのは、神様を尊び、敬い、そして神様と共に生きることが大切ではないでしょうか」と、そんな話をしました。

事実、私たちが神様をこれほど身近に、絶えず意識し、感じて生きていることは、世の中の多くの人にとって、信じ難いようです。朝起きて、まずお祈りをする。食事をする度にお祈りをする。何処かへ出かける時にもお祈りをする。あるいは、事がある度に祈る。その時、神様がいらっしゃることを絶えず自覚します。片時も忘れることができません。たまに、昼間は忘れて、夜になると思い出すということもありますが、それだって、一日に一回なり、二回なりとも神様に心を向けます。過ぎて来た一週間の生活、自分の生活を振り返って御覧なさい。神様のことを思わなかった日は無かった。その回数や長さはどうであれ、必ず、毎日毎日、心に神様のことを思い、また自分を反省し、神様の求めることが何であるか、一瞬でも考えることをします。これが私たちの日々の生活です。

こんなに神様を親しく呼ぶことができ、近づくことができるとは不思議ですね。世間一般の神様は、あまり身近には居ない。年に一回か二回、人によっては、十年に一度かもしれない。普段の生活の中で神様に触れることはありません。家の片隅にある神棚に目をやることはあっても、心に神様を思うことはありません。けれども、神様とは、そういうものかなとも思います。というのは、神様は天地万物の創造者であり、人と神様とは次元が違うと言いますか、本来親しく、友達や家族のようになれる間柄ではありません。できるだけ尊敬して、大切にして、たて祭って、何処か奥の方に隠しておくべきもの。あまり真相を皆に知られてしまうと有り難味が無くなる。だから、御本尊が何であるかは隠しておく。そういう宗教もあります。神様という方の実体はあまり見せない。見せてしまったら、皆が、あれか、じゃ止めとこうとなるから隠しておくのです。そして何か有りそうだ、何か知らないが、どうもこれは何か不思議がありそうだと、何時も人に思わせる為に、麗々しく、仰々しく、金ピカに飾って、奥の方に囲い込んでしまうのです。神社に行きますと、奥の方に御簾が掛かっていたり、あるいは、ひらひらと飾ったものがあって、一般の人が来て拝む場所と区別されたところがあります。何が有るのかなぁと思って、覗いて見たのですが、少し階段があって、その先が見えない。何か扉らしいものがある。どうも、そこに神様がいるということだろうと思います。しかし、それがどういう姿であるか、御神体を見た人は居ません。だから、惹かれて行くのです。扉が開かれてこれが全てですと言われたら、二度と誰も来ないでしょう。

大切なものはできるだけ隠しておく、それが有り難い。見てしまったらおしまい。子供の頃、まだイエス様を知らなかった時に出会った神様とか、仏様とかいうものは一体何なのか。よく見ると単なる金で造った像であったり、何か分からないものだったりします。だから、イザヤ書に、人は木で像を作り、それを拝むけれども、その木を薪にして、ご飯を炊いて食べているではないかとあります。なるほど、そうだと思います。そのものの中身を知れば知るほど、馬鹿馬鹿しくなってくる。だから、できるだけそれを隠すのが、世の中の神様に対する考え方。人間でもそうですね。友だち同士でも、相手の全てが分からない、何か謎めいている人というのは魅力がある。でも、そういう人に近づいて、四六時中接してみると、しょうもない人だとなってしまう。テレビなどで見るアイドルとか、スターでも、普段の生活が見えないから、理想を描いて、あるいは想像を逞しくしてありがたいものになるのです。

ところが、聖書で語られる神様は、隠れていません。神様はありのままに接して下さる方です。聖書を読めば、神様がどういう方でいらっしゃるか明記されています。そればかりでなく、神様は私たちの身近に居てくださる方です。考えてみたら、これはびっくり仰天ものです。本当にこんなことってあるだろうかと思います。しかも、私たちは、その神様を「天のお父様」とか、「イエス様」と呼び求めることができる。神様の傍に近づくことすら、本来だったら、許されない筈です。しかし、神様は私たちを招いて、わたしの所に来なさい、わたしをもっと良く知って欲しいと願っていらっしゃる。神様は、私たちを何とかして恵んであげたい。私たちを愛して、何とか祝福をしてあげたい。良きことをしようと願って下さる。これは驚くべき事です。

それに対して、私たちは、神様は遠ざけておく、近づいてとんでもないことをされたらと恐れる。あるいは自分を振り返って、私のような者が神様を親しく友だちの様に、あるいは家族の様に、接することができるだろうかと、躊躇します。神様が私たちと同じ様に、何処か抜けた所があり、失敗だらけ、欠けだらけで、神様もあんな失敗するのか、良かった、良かった、安心だと言える関係だったら、友だちの様に接してもいいですが、神様はパーフェクトで、欠けた所のない方、罪を犯したことのない清い方、聖なる方、光のような方であると言われている。そのような方の前に出て、親しくするのは、恥ずかしい、むしろ、怖いことです。

春や秋に皇居で園遊会というものが催されますが、出席する人たちは、普段着たこともない様な上等の衣服を着て行きます。それは、お目に掛かる相手が、天皇陛下や皇太子や、高貴な方々で、下々の者とは違って、天上人であるという意識がある。もちろん、今は神様とは思わないけれども、少なくとも自分たちとはちょっと人種が違うなと思う。だから、そういう人の前に出ようとするだけでも、大変なことです。もし、明日にでも宮内庁から園遊会の招待状を貰って御覧なさい、どうしますか。悩みますよ。それにふさわしい着るものがない、先ずそれを心配する。どうしようか、出席は断ろうということになるに違いない。家族に相談したら、「お母さん、駄目よ、そんな顔をして、もっと若ければいいけれど…」と言われたりして、結局、断ることになります。

まして、宮内庁どころではない。天地万物の造り主である神様が私たちを招いて下さる。16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。さぁ、わたしの所に帰って来なさい。神様を求めて、神様を知りたいと近づいて欲しいと願っています。ところが、招かれる私たちは到底その値打ちが無い、資格が無い、そんな柄ではない、身分ではないなど、いろいろなことがあって、なかなか神様に素直になれない、何処か突っ張ったものがある。そういう私たちの為に、神様は一方的に独り子イエス・キリスト、神御自身が人となって、この世に来て下さった。そして、あの十字架の刑を受けて下さった。神様の前に死んでお詫びすべき存在である私たち、罪の塊である私たちの為に、イエス様が身代わりとなって、わたしはあなたの為にこうやって、命を捨てたよと、とりなして下さる。私たちの身代わりとなって、神様の呪いと刑罰を受けて下さったのです。イエス様が私たちの身代わりとなって下さったことを信じているから、「天のお父様」と、神様の前に絶えず出ることができるのです。今日、私たちは共に礼拝を守っておりますが、これはこの所で共に神様を求めて、信仰をもって心を一つにして、語って下さる御声を聞きたい。自分の思いを捨てて、神様と親しくお話をし、御心を知りたい。神様を喜び感謝し、恵みを満たしていただく、そういう願いを持って集っているのです。

神様が私たちに親しく近づいて下さる。この大きな恵みのきっかけは、イエス様が私たちの罪を許して、神様の前に立つことができる様に、清めて下さった。現実の私たちを見ると、まだ清くないところ、穢れたところがあります。私たちの心の隅から隅を見るならば、神様の前に、私は清い者、綺麗な者ですと言うことはできません。しかし、イエス様を信じる信仰によって、神様は私どもを罪なき者、義なる者として受け入れて下さったので、私たちはこうやって神様を求めることができます。

14節に、「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」。ここに「大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」とあります。これは私たちに対する大きな励ましであり、後ろ盾です。ここに「大祭司」とありますが、祭司とは神様に仕える人のことです。旧約聖書を読みますと、神様は嘗てイスラエルを、自分の民として選んで下さいました。そして、神様はこの民と共にあることを証しする幕屋を、この民の中に置いて下さった。幕屋というのは、これは天幕(テント)ですが、後に神様を礼拝する神殿に変わっていきます。神殿(幕屋)は、神様の臨在、神様が今いますことを象徴する場所でもありました。その限られた場所、建物に神様がいらっしゃるのではなく、神様はどんなところにでもいらっしゃる方で、全てのものを御手に握っている方ですから、ここが神様の居られる場所ですとは言えません。教会の建物を見て、ここは神様がいらっしゃるところとならない。日本の宗教ですと、お寺とかお宮とかそういう場所に行けば、ここが神様のいらっしゃる所だなとわかりますが。

聖書が語っている真の神様は、そんな小さな祠や、建物だけに、住んでいるのではありません。私たち全てが、神様の中に存在し、生き動いているとパウロは語っています。だから、どんなところに居ても、神様はそこにいらっしゃるのです。しかし、イスラエルの民に、彼らと共に神様が一緒ですよということを証明すると言いますか、それを象徴するものとして、神殿を設けました。そこは神様に祈る場所として、神に仕える祭司たちがいたのです。彼らは、民の祈りや願いを神様に執り成し、神様との間を繋(つな)ぐ役割。民の罪の贖いの供え物を捧げたり、願いや祈りをとりなしたり、そういうことをするのが、祭司の役割だったのです。人は祭司を通して神様と接していました。

しかし、イエス様がこの世に来て下さって、私たちの罪の供え物として御自分を差し出して、十字架に命を捨てて下さった結果、14節にあります様に「大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」と。今私たちの目には見えませんけれども、私たちの為に、今日もとりなして下さるイエス様が祭司となって、私たちと神様との間を結び付けて下さっていらっしゃる。だから、私どもはお祈りをする時に、「主イエス・キリストの名によって」と祈ります。それは、イエス様が私の為に、この祈りを父なる神様、真なる神様に取り継いで下さる、とりなして下さっていると信じるからです。ですから、神様にお祈りをするのは、祈る権利があるとか、義務であるとかいうのではありません。ダニエル書(9:18)にあるように、私たちが神様に祈ることができるのは、神様が憐れんで下さるからです。私たちは、神様に祈るだけの値打ちも資格もありません。私たちが祈ったからと言って、神様が祈りを聞かなければならない義務も責任もないのです。では、祈っても意味がないと思いますが、主イエス・キリストが、私たちと神様との間にとりなして下さっているから、聞いていただくのです。とりなすというのは、どうぞこの人の祈りを聞いてやって下さいと、仲立ちをして下さるということです。愛する独り子であるイエス様、しかも、十字架の死に至るまで、父なる神様の御心を完全に全うされたイエス様が、どうぞ榎本の為に、この祈りを聞いてやって下さいと、今日もとりなして下さっている。神様は聞かなければおれないのです。

だったら、私たちは何を躊躇することがあるでしょうか。自分が穢れているとか、私は神様にこれまでお付き合いも無かったとか、神様に対して今まで盆暮れの付け届けもしていなかったから、これは聞いて貰えないのではとか、こんな身勝手なお祈りをしても大丈夫だろうかと、私たちが躊躇するならば、それは大きな間違いです。私たちに功績があり、値打ちがあるから、祈りを聞いてあげようというのではない。ただ、独り子イエス・キリストのとりなしによるのです。だから、なんと感謝なことでしょう。

ローマ人への手紙8章31節から34節までを朗読。

イエス様は、あの十字架に死んで墓に葬られましたが、三日目の朝、よみがえられ、それから40日間にわたって、弟子たちや多くの人々に御自分が甦ったことを証しされた後、弟子たちの見ている前で天に帰って行かれました。今イエス様は、「父なる神の右に座して」下さってとあります。神様と共にいて、私たちの為にとりなして下さっているのです。私たちがどんな状態であっても、どんなに穢れた者であり、罪の大きい者であっても、イエス様が今日もとりなして下さっている。「とりなす」とは、間に立って、宥(なだ)めることです。お父さんが子供を叱る時に、お母さんが、「まぁ、まぁ、お父さん、そう言わないで、この子も反省しているから、許してやって下さい」と言う。そうすると、叱ろうとしていたお父さんも、フッと怒りを飲み込んでしまう。私は、子供の頃、本当に気が弱くて、臆病で、怖がりだったのです。一つ年上の兄は、非常に元気で、私と正反対で活発でした。だから父から叱られる回数も、多いのです。何かいたずらをしては叱られる。ところが、私たちは年子で、まるで双子の様に一緒に成長しましたから、兄が叱られると、自分が叱られている様な気分になるのです。小学校の頃、父から兄が叱られると、私も傍に座っていて、先に私の方が泣きはじめ、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言う。後になって、父からよく「お前がそんなに言ったから、叱るに叱れなかった」と言われました。父としてはやり叱りづらいと思うのです。確かに、とりなすというのは、横で「この者の為に」となだめる。そうすると、振り上げた拳を引っ込める。これは大きな恵みです。私たちの為に、イエス様が今日もとりなして下さっていらっしゃる。自分を振り返る時に、神様から捨てられて当然、叱られて当然、私の祈りなんか斥けられて当然、ところが、こういう私たちの祈りを、今日もイエス様は、神の右に座してとりなして下さる。だから、私たちは遠慮なく、神様の前に近づくことができる。

ですから、ローマ人への手紙8章26節も読んでおきたいと思います。

集会に出て話を聞いていると、自分勝手な祈りをしてはいかんとか、御心に叶う様に祈りなさいとか、あるいは、神様の御旨に叶う祈りでないと聞かれないと言われる。すると、今お祈りをしているけれど、これは神様の御心に叶うだろうか、こんなお祈りをしていいのだろうかなどと不安になります。時に尋ねられますが、「先生、どんなことでも祈って良いのでしょうか。実は、便秘をしておりまして、これは、御心のままに便秘でおるべきでしょうか、それとも、便秘を治してもらいたいと私は願うから、それを祈ったらいいのでしょうか。どうでしょうか」「祈っていいのですよ、あなたが気になるなら祈ったらいい」「こんなことでもいいんでしょうか」「こんなことって、あなたが、心に今悩んでいらっしゃることがあれば、それを何でもことごとく言いなさいとおっしゃるから、お祈りしたらどうですか」「それでいいでしょうか」と。良いも悪いも、聖書にある様に、私たちはどのように祈ったら良いか分からないけれど、祈ったことについて、御霊が切なるうめきをもってとりなして下さる。御霊というのは、これは言いかえると、イエス・キリストと考えていただきたい、あるいは、神様ご自身なのです。イエス様が、私たちが祈る祈りをとりなして下さる。また、祈った祈りを神様は聞いて下さると確信を持つことができる。それは、私たちの為に、命まで捨てて、愛して下さったイエス様が、今日も私たちの祈りを父なる神様の前にとりなして下さるからです。

ですから、もう一度初めのヘブル人への手紙4章15節を朗読。

この15節に「この大祭司は」、言い換えますと、主イエスキリストは「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。これは大きな慰めです。とりなして下さる方は、私たちの思いを全て知っていらっしゃる、私たちの弱い所も足らない所も、欠けだらけであることもご存知です。もし、イエス様がそういうことが分からない方だったら、私たちとは縁がなくなります。私たちと同じ人間となって、この世に来て下さった。悲しみの人であり、病を知っていたとイザヤ書に記されています。イエス様は私たちの病を知り、弱さを知り、悲しみを知っていて下さる、担って下さる。ですから、どんな悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、弱きを覚えている時でも、それを身近に自分のことの様にイエス様は感じて下さっている。このことを信じていただきたい。私の思いは誰も分かってくれない、私のことは誰も知らないと思っているかもしれませんが、祈る祈りに対して、主は言葉にならないうめきをもって、私たちの思いを知って下さって、父よ、この者を憐れんで下さいと、とりなして下さっている。もしそうでなかったら、私たちはこの方を信じても意味がないです。ところが、ここにあります様に、「すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。私たちと同じ生活をして、体験して、そこを通って下さった。

「同病相哀れむ」という言葉があります。病気をした者はその同じ病気をしたものでないと分からない悩みと悲しみと不安と恐れがある。私もそう思いました。人は「癌」の宣告を受けた時に、どういう思いになるか、今まで想像してはいましたが、自分の身に覚えることができなかった。しかし、今はそうじゃありません。やはり自分自身の病気を通して、あぁ、本当にこういう悩みの中にあるのだな、こういう悲しみの中にあるのだとよく分かります。それと同じ様に、イエス様も私たちの弱さを知り給う方、悲しみを知って下さる方、苦しみと絶望をも知って下さる方です。

だから、この16節に「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるため、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。「はばかることなく」、遠慮しないで、躊躇しないで、ためらわないで恵みの御座に近づく。神様を呼び求めて、主のみ前に自分をさらけ出して行こうではありませんか。神様の前に祈って、主に一切を空け渡して、神様の恵みと憐れみを体験したいと思います。16節にあります様に、「あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために」と。本当に「時機を得た」、ドンぴしゃり、今という時に必要な助けと憐れみを受けることができるように、躊躇しないで、憚らないで、主に祈り、主に求め、また、神様の前に近づいて、主を深く知りたい、また、主の憐れみと恵みを体験する者となりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。