いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(24) 「実を結ぶ生涯」

2013年10月15日 | 聖書からのメッセージ
 ルカによる福音書13章1節から5節までを朗読。

 これは、イエス様の所に皆がやって来て、一つの事件、事故が起こったことを知らせました。それは総督ピラトが、ガリラヤ人をどういう理由であったか分かりませんが、犯罪か何かでしょうか、処刑をして、その血を採って、ユダヤ人が非常に大切にしている燔祭の生贄とか、神様の前に捧げる血に、それを混ぜたと言うのです。このガリラヤ人は、気の毒なことに、わきまえのない指導者、暴君と言いますか、総督によって、命が奪われたのです。イエス様は、2節にありますように、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」と問われました。

いろいろな災いに遭い、困難に遭い、悩みに遭い、苦しい事に出遭うと、「ばちあたり」と言いますか、悪い事をしたから、あの人はあんな目に遭ったのだと言うのが、世間一般の考え方です。私たちにも何処かそういうところがあり、ふとそういう事を感じたりする。自分の事で、思いがけない事件や事故に巻き込まれたりすると、ひょっとして私は何か悪い事したのだろうか、こんな酷い目に遭うとは、私に悪いところがあったに違いないと、自分を責めます。しかし、イエス様が言われたのは、そうではありません。3節に「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。この記事を読みますと、悔い改めなかったから、そのガリラヤ人たちは滅んでしまったのだというような理解ができます。しかし、イエス様は、2節に、その人たちが他の人より一層罪が深かったから災難に遭って死んだのではないと語っている。それなのにイエス様は、「悔い改めなければ」と言われるのです。一体これはどういう事でしょうか。よく読んでみますと、イエス様はもっと深い事を語っているのです。

先の日曜日に思いがけない地震に遭いました。この八幡での礼拝でも、結構揺れましたから、びっくりしまして、一瞬言葉を失って、身動きできませんでした。しかし、福岡の方はもっと揺れが激しかったようです。その後、ニュースや報道を見ていますと、思いがけない所で大変な災難を受けている。町の中を歩いてみましても、何とも無い所もあれば、非常に激しく倒壊し、破壊されている所もあるのです。今度の地震を通して、いろんな事を考えさせられました。先ず一つは、福岡や北部九州では地震が無いというのが多くの専門家が考えていた事です。しかも前例が無かったのでから、何が起こったのかよく分からなかったのです。今、ニュースや新聞を見ますと、大変な事態になっている場所が映っています。そのために遠くに離れている方々は、絶えずニュースで「福岡市中央区」と言われるものですから、わが家も潰れているのではないだろうかと、お電話やお見舞をいただきます。ある方は今から救援に行きましょうかと言われました。本当に神様の憐れみで、家はなんともなかった。食器が幾つか壊れた事や、高い所に置いていたものが、ちょっと落ちてしまったという事、冷蔵庫が動いて場所が変わった程度で、幸いに建物が壊れたという事もないし、人が怪我をしたという事も一切無かった。本当に神様の憐れみを受けて、助かったと思います。一方、ニュースを見ていると、能古島では、崖の上から大きな岩が落ちてきて、家の居間の中にドンと座っている。あの姿を見たら、本当に気の毒としか言いようがない。では、あんな酷い目に遭ったのは、彼等が私たちよりも悪いことをしていたのかと言うと、決しそうではない。イエス様は「他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」と言うのです。そうじゃないですね。私たちも彼等も同じ、そういう目に遭うべき存在、神様の目からご覧になったら同じ罪人であり、また、同じ滅ぶべき者なのだという事です。イエス様は、「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と。

この度の地震では幸いに死傷者は多くなかった。無いわけじゃないけれども、阪神大震災の時のような、多くの死傷者は出ていません。先だって大阪集会にまいりましたら、皆さんが本当に心配して下さいました。丁度十年前に自分たちも大震災に遭った。その体験から身に沁みる思いがするとおっしゃっていました。福岡の地震と阪神の地震とは規模が殆んど同じなのです。マグニチュードが福岡は7.0ですけれども、阪神の場合は7.3です。震度6というのは、阪神もそうでしたし、福岡も同じなのです。どこが違っていたか。福岡の場合は、震源地が市街地から離れて海底であったことです。ところが、阪神の場合は、あの長田町や神戸市内の真下で断層がずれて、地震が起こってしまったのです。だから、もし震源地が私たちの住んでいる中央区の真下で起こっていたら、天神地区はただガラスが割れて落ちたで終わらない。もっと大きな被害が起きて、もっと多くの人々の命が奪われていたかも知れない。阪神大震災の時は全部で約6千5百人以上の人が亡くなっています。たまたま福岡の場合はそれが昼間であった事、しかも食事時間から離れていた。10時54分でしたか、朝食とお昼時の間くらいで、火災が起こらなかった。神戸の場合は、一気に火災が起こった。しかも明け方の5時頃で、冬場でしたから、暗くて何がどうなったか分からない中、ガスが出っぱなしになって、燃え始めたという事がありました。或いは、北九州は福岡と大分離れておったから、揺れるには揺れたけれどあのくらいで済んで良かった。これで私たちは助かったというだけで、終っていいのだろうかと問われているのです。それを思う時、私たちは「助かった、良かった、ラッキーだった」と言うだけで済ませる事が出来るでしょうか。いろんな条件を考えてみたら、福岡があれだけで済んだというのは、ただ単に、ラッキーだけではない。

4節に「また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない」。この時「シロアム」の大きな塔が倒れて、18人が即死したと言うのです。まるで地震が起こって、人が死んでしまった。あなたがたもみな、同じように滅ぶように定められているではないか。今、助かったと言っているのは、それはただ一方的な神様の憐みがあるからだと。しかも、その憐れみは何のためであったか。「あなたがたも悔い改めなければ」と言われているように、私たちが、悔い改めるべき時を、神様が残して下さったのです。

しかし、何を悔い改めましょうか、何処が悪いのでしょうかと思われますが、イエス様が言われる「悔い改める」は、私たちが自分の生き方、生活の中に、神を神として尊び、神様の御旨に従っているかを反省し、御心に適う歩みをするように、悔い改める事です。私たちはイエス様の救いによって、他の人よりも早く、イエス様を知るものとしていただきました。イエス様が私たちの罪の贖いとなって、罪を赦して、父なる神様を「アバ父よ、天のお父様」と信頼する者としていただいた。しかも、日々神様の守りの御手に支えられて生きています。地震はあったけれど、これも神様が守って下さって、良かった、良かった。なるほど、神様が守って下さったから、良かったと感謝しますが、他の人たちは神様が守って下さらなかったのか。被害を受けた人たちを神様は放っておかれたのか。イエス様を信じていたから、神様が守って下さって良かったという、自己中心の思いに留まっているならば、大きな間違いです。今日も私たちが災いに遭わないように、神様が憐れんで下さった目的は何だったのか、あなたがたはよく考えて御覧なさいと、イエス様はここで語っておられる。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と言うのはこの事なのです。ここでシロアムの塔が倒れて、18人の人が死んでしまった。ところが、それに遭わないで生き残った人がいる。その人たちが「あんな酷い目に遭わなくて良かった、ラッキーだった」ではなくて、それは神様が許して、その時を与えて下さった目的がある。それはこの置かれた地上の生涯にあって、神様の御心に適う者になるように求められているのです。

イエス様の救いによって、神の子として生きている私たちが、地震で滅びないで、或いは、何か災いに遭わないで、今日も許されて生きるのは、「ラッキー、良かった」で終るためではなく、悔い改める、言い換えると、自分自身の生き方を、もう一度点検して、神様の御旨に適う生き方をしているかどうか、その事をよくよく考えてみるためです。自分の行いを改め、生活を、考えを、思いを変えて、神様の御心に一歩でも半歩でも、何としてもお従いしていこうと、自分の生活の切り替えをしていく。これが悔い改める事なのです。ラッキー、良かった、神様有り難うございました、助かりました。後は自分でしますから、私の好きなように生きていきますからと言うために、時間が与えられ、命が許されているのではない。

ルカによる福音書13章6節から9節までを朗読。

イエス様が、「あなたがたも悔い改めなければ」と言われた直ぐ後に、この譬えを語っている。この譬えとその前の記事とは深い繋がりがあります。イエス様が、悔い改めなさいとおっしゃったのは、実は、この6節以下に読みましたように、私たちが悔い改めるのを待って、猶予して下さる方がいる事をこの譬えを通して語っているのです。ぶどう園を持っている主人が、その一角にイチジクの木を植えました。イチジクの木はご存知のように、枝を張って、葉が良く茂ります。場所を多く取ります。ぶどう園の主人にとって見れば、少しでもぶどうを多く収穫したいから、できるだけ沢山ぶどうの木を植えたいでしょう。でも、できればイチジクも食べたいと願って、とりあえず植えてみました。ところが3年経っても実がならない。葉ばかり茂って、見た目には実がありそうに見えるが、格好ばかりです。これは私たちの事です。イエス様を信じて、救いに与って、クリスチャンだと言いながら、形は「らしく」見えるけれども、その実が無い。実は何かと言うと、それは私たちが神様の御心に適うものと変わっていくこと、イエス様が、あの十字架の死に至るまでも従順に、父なる神様の御旨に従って、ゲツセマネで祈っているように、神様の御心を求め、「私の思いではなく、主よ、あなたの御心をなさって下さい」と、御自分を捧げきって、十字架の道をも厭わないで進んで行く、この生き方です。私たちが、選ばれ召されたのは、実を結ぶためです。

ぶどう園に植えられたイチジクの木は、ただ葉が茂って青々としています。しかし観賞用に主人が植えたのではない。主人の意図したところ、願っている目的があった。それはイチジクの木から実を取ることです。ところが実が実らないで、格好ばかりでは、「もう邪魔だから切ってしまえ」と言うに違いない。それに対して、園丁は8節に「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから」。この園丁が主人をなだめています。執り成しています。これは、父なる神様と御子イエス・キリストとの関係です。そしてイチジクの木である私たちに、実が実るように、後一年猶予して下さいとイエス様が取りなしておられる。

地震にも遭わなかった、こうやってぴんぴん生きておれるから、あそこへ行って、こうしてああしてと、楽しみを求め、神様をそっち退けにして、自分だけの人生を生きているとするならば、滅び去る他ありません。やがて悔い改めるべき時が終わる。これが今、私たちの置かれている状況です。この度の地震を通して、私はその事を教えられました。こうやって命を与えられたのは、何のためであったか。この地上にあって、家族円満、楽しく、そして、自分の夢を実現するためではなくて、日々、神様の御心に適う者となるためです。

ヨハネによる福音書15章16、17節を朗読。

ここの16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。イエス様が私たちを選んで下さった。それには目的がある。「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」、私たちの実が実るためと言うのです。その実とは、神様の御心に従って歩む私たちが、神の霊に導かれ、神様の栄光を現す者へと変えられること。私たちが生活の全てのことに、神様の実を結んでいく者となる。それは自分のしたいことをし、自分の好きな事をし、自分の嫌な事は避け、自分の行きたくない所を避けて、自分本位に生きていては、実が実りません。そうではなく、自分の生き方を悔い改めて、自分を捨てて、イエス様がそうなさったように、「己が十字架を負ひて、我に従がへ」と。イエス様の御足の跡を踏み従って、私たちが置かれた所、与えられた場所で、父なる神様の御心をしっかり求めて、主が私をここに導いて下さった、神様がこの事を私にさせて下さっていらっしゃると、はっきり信仰に立って生きることです。神様が私たちに注いで下さる御愛と恵みに、いつも喜び、感謝して、何としても主の御心に従いたいという思いを、一途に持ち続けて、生きる所に実が実ってきます。神様は私たちにこの事を求めているのです。これが「悔い改め」という事です。私たちは明日があるから、来年もあるからと怠惰に過ごしている。もし一瞬にして、私たちの命が断たれたならば、もはや、悔い改めるべき時がないのです。シロアムの塔で18人の人が死んでしまった。突然に死んだことが悲劇ではなく、神様の前に立ち返って、新しい命に満たされて生きる、神様の使命を果たすべき時間が消えてしまった。これが悲劇なのです。

ところが、私たちには今その時が残されている。そのためにイエス様が今日も執り成して下さっている。「もう一年待って下さい、肥料をやってみますから…」と。イエス様は、そうやって私たちのために執り成して、実が実る者となるように願っておられます。だから、ここ16節にありますように「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。なんと素晴しいことではないでしょうか。イエス様の名によって、私たちが求めるものは、何でも父なる神様が与えて下さるのです。何故ならば、私たちが父なる神様の御旨に従っていこうとする限り、神様はどんな事でもして下さいます。御心である事を信じて歩んで行くならば、神様はどんな事でも備えて下さる方です。だから、「父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる」というのは、その通りです。ところが案外と、私どもは神様が求めていることを、主の思いを忘れて、自分勝手に生きていながら、「わたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」と言ったじゃないかと、この部分だけを取り上げて、「神様、私の祈りを聞いてください!」と言う。これは身勝手ですよ。勝手過ぎます。私たちが神様の御心に従って歩んでいく時、主は求めることに何でもこたえて下さるのです。今、私たちが災いに遭うことなく、健康を与えられ、この地上の命が与えられているのは何のためであるか。主の御心が何処にあるかを、いつも真剣に求める生き方をしようではありませんか。それが「悔い改めなければ」と言うことです。もう、終るべき時が近づいているからです。

ペテロの第二の手紙3章8節から10節までを朗読。
 
9節に「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない」。やがて主イエス・キリストが、再臨の主、世の終わりの時に裁き主として、私どもの所に来て下さる。その終わりの時は間近だと言われながら、いつまでも来ないではないかと、神様を信じない人たちは、そう言ってクリスチャンを迫害したのです。「何だ、もう世が終る、もう、終わりだ」と言いながら、まだ終わっていないじゃないかと非難されていた。それに対してペテロが、神様の御思いは「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み」とある。滅ぼす事が御心じゃない、何としても多くの人々が、全ての人々が、悔い改めに至ることを願っている。「悔い改め」というのは、先ほど申し上げたように、私たちの生活を、生き方を変えてしまう。私たちが、死んで甦った方のために生きる者と変わること。イエス様のために生きていくこと、これが悔い改めた生き方です。神様はそうなるようにと長く忍耐しておられるのです。

だから、私たちの一日の生活、一つ一つの業をこれは主のためにしている、イエス様のためにさせていただいているのだと、主に献げてします。どうですか、皆さん、昨日一日のご自分の歩みを振り返って、イエス様のためにと尽くしたことがどれ程あるでしょうか。殆んど自分のためばかりだった。私はあれを食べたい、これは食べたくないから嫌だと。イエス様のため、主のために生きること。これが悔い改めた生き方です。イエス様が、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と言うのは、正にその事です。悔い改めてイエス様のための生涯に変わる。そこに実が実るのです。それ以外に無い。何故ならば、ヨハネの福音書15章にありますように「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と言われる。私たちがイエス様のためにと、生き始めた時に、そこに実が実り始める。どうぞ、朝から晩まで、「私は今、イエス様のために生きているのだ」と…、自分の感情や情欲に流され、或いは世間に流されて、或いは自分の利益を求め、或いは面子を求め、など、そういうことのために生きているのではない。絶えず祈って、私は主のために生きている者ですと主に捧げる。

ペテロの第二の手紙3章9節に「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」10節に「しかし、主の日は盗人のように襲って来る」。そうです。世の終わりの時は、何時どうやって来るか分かりません。しかし来ることは確かです。その日その時は誰も知らない、子でさえも知らないとイエス様は言われる。父なる神様だけがその時を知っていらっしゃる。地震どころじゃない、もっと大きな世の終わりの時、「その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」。天も地も、全てのものが崩壊していく、バラバラに、粉々に砕け散ってしまう。「大音響をたてて消え去り」と。だからと言って、世の終わりが来たら困るからどうしようかと、来ないうちから、恐がって、怖れて、びくびくして、心が落ち着かなくなるのは、神様の御心じゃありません。終わりの時、神様は約束されているように、生きたままで、私たちは、天に携え上げられるかも知れません。約束です。或いは、それよりも先に、私たちが召されるかも分かりませんが、いずれにしても、どんな死に方をするかと心配して、今日を送るのではなく、主が許し、執り成して下さっている恵みの時、救いの日に、悔い改めて、自分の生き方を、キリストのためにと変えるのです。どうぞ、何時どんな時に召されても、主の前に喜んで立つことができるように、今は恵みの時、今は救いの日であるとありますから、悔い改めようではありませんか。

ルカによる福音書19章28節から35節までを朗読。

これは、イエス様が、十字架におかかりになる前、過越の祭を守るために、エルサレムへ入ってこられた時の記事です。エルサレムの少し手前の所で、弟子たちに向こうの村に行って「ろばの子」を引いてきなさいとお命じになりました。弟子たちが行きましたら、「おい、なぜ解くのだ」と言うのです。それはそうですよ。人のものを黙って引っ張って行こうと言うのですから、持ち主が止めたのです。その時に「主がお入り用なのです」と答えると、「あ、そうか」と許してくれた。このろばの子は、神様の御用のために召されたのです。先ほどお読みいたしましたように、このろばの上にイエス様が乗って下さる。栄光の王として、エルサレムに入る素晴しいイエス様のご生涯の一部分に、このろばの子は加えられました。ろばの子は何もできないのです。ただ荷物を引くためだけの使役に使われるろばです。しかも子供のろばですから、もっと役に立たない存在です。それを「主がお入り用なのです」と、イエス様が選んで下さった。私たちもそうです。私たち一人一人、ろばの子と言ったら、失礼かも知れません。ある人は、私はサラブレッドに近い、もうちょっと役に立つと思われるでしょうが、しかし、イエス様からご覧になったら、皆、ろばの子です。そんなものを「主がお入り用なのです」と選んで下さった。イエス様が私たちを必要として下さっている。それは私たちがイエス様を持ち運んでいく者となるためです。

イエス様を乗せるって、私は腰が痛いし、どれくらいの重さかしらなどと心配ご無用。別にイエス様をおんぶして行くわけではありません。主のために、イエス様のために生きるという事が、イエス様を持ち運ぶことなのです。あちらこちら出掛けて行って、イエス様の事を言いふらすわけではありません。日々の生活の、一つ一つの事の中に、今日も主に仕えて、御用に用いていただいている自分であることを認めるのです。家族が何と言おうと、その置かれた所で主に仕える者となる。イエス様のために生きること、これが私たちの実を実らせる生涯、そして私たちに時を猶予して下さった目的です。

だから、もう一度初めに戻りますけれど、ルカによる福音書13章5節に「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ」と。ただ、悔い改めると言うと、「ごめんなさい、私、あんなことをして悪かった、こんな事をして悪かった」というのが、悔い改めのように思いますが、ここでイエス様がおっしゃる悔い改めというのは、実を実らす者となることです。この地上の生涯を、「今日も一日、イエス様、あなたのために生きることができました」と、感謝して終わる事ができる一日一日を積み重ねていく。すると、どんな時に終わりが来ようと感謝です。これで使命が終った。私は果たすべき事を果たしたと、パウロが語ったように、走るべき行程を走り尽くして生きることができます。「義の冠が私を待っている」と、心から感謝して終わる事ができるのです。そのような勝利の生涯を生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。