平成24年10月26日 金曜日
「バスケが自由に出来ること…2012」
日本の国民というか…一部の若者というか、政権争いをしている人達も
自分達のことしか考えていない。
この国の将来をひとごととしか思えない…
そうした国策としての教育政策が、『公』をないがしろにするような、教師とは言えない輩を産み
すべての教師が、そのような人達ではないが、
教師とは言えない、それらの者が、子供達の心に育むべき大事な意志を教え導くことをしていない。
子供達に、この国を受け継がなければならないという想いを教え導かなければならないのに、逆に削いでいる。
この国は…そして私達が、今あるのは、
私達の親、祖父母、先人の方々がこの祖国を築き…
それを守り、豊かにしてくださったこと
そして私達は…そのようなこの国を受け継ぎ、次代の子供達に受け渡していかなければならない。
これは、国のためではなく…この国に住まう者の為すべきことだと思うのです。
自然のあるべき想いです。
あのエジプトさえ国民は国政に対して正統性を認めないから立ち上がったのでしょう…
国民の政府とは、国民の権利を委託したものです。
その政府を認めるか、認めないかは…それは基本的な国民の権利としてあるものです。
政府に対して愚痴ったり、あきらめたりする前に、政府の行うことを、知らぬこととしていることが…
この国の国民であることを放棄しているとしか思えない…のです。
今のこの国のかたちを考え…この国のかたちの有り様を考えなければ、国際社会を生き抜いて行けない。
政権保身しか考えられない者は、この国のまつりごとを行う者ではないのです。
我が国の安全と平和を維持するのは…この国が生存していくための国益を判断して利害得失の収まり処をみて、
大国と渡り合うことができる外交家であり…最終的に我が国の安全を担保できる防衛力であり、
これらを支える技術力であり、経済力であり、その原動力となる『人』にあるのです。
この国は今…国の体を成していないのです。
そんな思いから話しが飛躍しますが…バスケが自由に出来る今を当然と思う前に、バスケが自由に出来るのは何故か
そんな環境にあることを感謝したいと思います。
そんなことを、たまには、真剣に考えてみてもいいと思うのです。
「バスケが自由に出来ること…2012」
日本の国民というか…一部の若者というか、政権争いをしている人達も
自分達のことしか考えていない。
この国の将来をひとごととしか思えない…
そうした国策としての教育政策が、『公』をないがしろにするような、教師とは言えない輩を産み
すべての教師が、そのような人達ではないが、
教師とは言えない、それらの者が、子供達の心に育むべき大事な意志を教え導くことをしていない。
子供達に、この国を受け継がなければならないという想いを教え導かなければならないのに、逆に削いでいる。
この国は…そして私達が、今あるのは、
私達の親、祖父母、先人の方々がこの祖国を築き…
それを守り、豊かにしてくださったこと
そして私達は…そのようなこの国を受け継ぎ、次代の子供達に受け渡していかなければならない。
これは、国のためではなく…この国に住まう者の為すべきことだと思うのです。
自然のあるべき想いです。
あのエジプトさえ国民は国政に対して正統性を認めないから立ち上がったのでしょう…
国民の政府とは、国民の権利を委託したものです。
その政府を認めるか、認めないかは…それは基本的な国民の権利としてあるものです。
政府に対して愚痴ったり、あきらめたりする前に、政府の行うことを、知らぬこととしていることが…
この国の国民であることを放棄しているとしか思えない…のです。
今のこの国のかたちを考え…この国のかたちの有り様を考えなければ、国際社会を生き抜いて行けない。
政権保身しか考えられない者は、この国のまつりごとを行う者ではないのです。
我が国の安全と平和を維持するのは…この国が生存していくための国益を判断して利害得失の収まり処をみて、
大国と渡り合うことができる外交家であり…最終的に我が国の安全を担保できる防衛力であり、
これらを支える技術力であり、経済力であり、その原動力となる『人』にあるのです。
この国は今…国の体を成していないのです。
そんな思いから話しが飛躍しますが…バスケが自由に出来る今を当然と思う前に、バスケが自由に出来るのは何故か
そんな環境にあることを感謝したいと思います。
そんなことを、たまには、真剣に考えてみてもいいと思うのです。