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フォンテーヌの家  わたしのつぶやき

横浜市南区で趣味の会[フォンテーヌの家」 

辛いことも 過ぎてしまえば 想い出に

2014-07-02 19:52:02 | 想い出
7月2日 水曜日 晴れ

良いお天気。お日様の下では暑かったけれど、家の中は爽やかな風が入り暑さを感じない。
2階の窓を開けて空気の入れ替えをする。
気持ち的には2階の部屋を片付けたいと思っていたのに、身体がついてこない。

一昨夜、久しぶりに傷みに襲われほとんど眠れなかったのが今日になって出てきた。
以前は傷みに襲われたら痛み止めを飲むように、いつも処方して頂いていた。
それを飲めば、痛みが軽くなったり痛みが無くなったりしたので、常備薬に。

ところが、痛みが治ってからその後、気怠さと浮腫に襲われるのが常なので、
この頃は痛みに襲われる回数が少なくなったし、自然に直ることが解っているから、
薬を飲まない様にしている。

ただ、仕事をしていた頃は一晩中痛みと戦うと翌日の仕事に差し障るので、
それを避けるために痛み止めを使わざるを得なかった…。
今は、仕事をしていないし、迷惑をかけることが無いので痛み止めを飲まずにいる。

昨日は、日中ずっと眠気に襲われ困ったけれで足下に気をつけて何とか過ごした。
眠気覚ましにリコーダーを吹いたけれど眠気は消えなかった…。
転倒しないように、それだけに神経を集中させて動いていた。

何が原因でこうなるのか、30歳台に随分病院で調べたが解明出来ず終い。
自律神経失調症なのだろうから、精神科に行くようにとも内科の医師から言われ、
更に、癌や結核の事はかなり解明するけど、自律神経系の追求はしていない、とも。

当時、娘たちは幼稚園と小学生低学年だったし、わたしも仕事を持っていた・・・。
病名が解らず、痛みに襲われ苦しみながら病院行きは辞め、医院から痛み止めを戴き、
体調のコントロールに神経を使って過ごすことに。当時を想い出すと今でも辛くなる。

娘たちに辛い顔を見せない様に気をつけていても、身をよじるほどの痛みに襲われたときなど、
幼い娘たちに介抱をさせてしまった…。
押し入れから毛布を取り出せないほど小さかった娘達が、二人で押し入れから引っ張り出し、
悪寒に襲われたわたしにそれをかけてくれた…。辛いけれど懐かしい想い出に。
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十代より 恩師の側で 半世紀 

2014-06-17 20:13:48 | 想い出
6月17日 火曜日 晴れ時々曇り

今日は春の生涯学習の最終日。
大学時代の恩師の講座を、朝日カルチャーや生涯学習でかれこれ30年くらい聴講している。
この歳になってもまだ恩師の近くに居られる幸せをずっと感じていた。
でも、それは今日でお終いになる…。

講座が終わり、部屋を出る前に「単発で講座がありましたら、お声をかけて下さい」とお願いした。
先生も「そうしますよ」と。

理科系を希望していたわたしが、高校時代身体を壊し文系にしか行かれなくなり英文科で入学。
その時の担任が国文学の先生…、今日の生涯学習の講師…。
2年になるとき、転科試験を親に内緒で受け国文科に籍を置き、ずっと先生のご指導を受けている。

生活を楽しむ術を、先生から教えられた…。
一冊の本を読んでいても、気になることがあればそれを調べる。
それは学問だけでは無く、料理や洋裁などいろいろな面に応用されて来ている。

無駄をしない。コレも先生の教えの一つのような気がしている。
虫喰いだらけで本として用をなさなくなった本の、良いところだけを切り取り栞を作ったりなさる。
わたしも何枚か戴き、今も大切に使っている。

あるとき、ご自宅の研究室に、無造作に帯がクルクルっと巻いて置いてあった。
それは、わたしの好きな色合いのたつむらの名古屋帯。
「これは?」と先生に質問すると、「本の表紙にするつもりで買って来た」と先生のお返事。

本の表紙にするために、この帯を切ってしまうのは勿体ないと思ったので、そのままを言葉に。
二千万円の本の表紙だから勿体なくないでしょう、と先生はおっしゃた。
わたしが帯として使えば、娘の代までも帯として使えるのに、とわたし…。

それから、数ヶ月して先生から「あの帯を譲るから、近々来なさい」とお声がかかる。
早速、あるじと一緒に伺い、帯を譲って戴く。嬉しかった…。
表紙にしようとするけれど、「帯として使える」と言うわたしの言葉が気になって駄目なのだとか。

その帯は今でも大切にわたしが使っている。
昨年も「先生ご夫妻を囲む会」の、パーティーにそれを締めていった…。
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辛きこと 時の経過が 様変えるか

2014-06-11 19:01:19 | 想い出
6月11日 水曜日 雨時々曇り

朝からどんよりした梅雨空。陽気のせいか今朝は異様に気だるくベッドで微睡む。
珍しく、ラジオの声を聞きながら、ベッドでうだうだ…
ベッドに横になりながら、当時のことをいろいろ想い出していた…。


毎朝お風呂に入るようになったのは、店を営業しはじめてからのこと。
それは異常なほど低い血圧を上げて、お店には行って直ぐ動けるようにするため。
お風呂に入る時間を作るために、4時頃には起きていたと思う。

お風呂から上がっても、身体の火照りがある程度と取れるまで乾布摩擦をし体操をして、
体温の調節が出来るようになってから店用の衣類を身につけ、風を引かないように心がけていた。

血圧が低くても一度お店に入ると、そのような事を考慮する余裕は無い。
住宅地で早朝から営業して居る店は、手作りパンとケーキの店「フォンテーヌ」だけ。
早朝から、てんてこ舞いは当然で、睡眠時間を削っても血圧アップの入浴は削れなかった。

シャッターが開くと直ぐ、朝練の子供たちのお弁当用のサンドイッチ、朝食のパンが求められる。
早朝はパートさんも入っていないので、特に忙しい。
店が開く前に「子どもが行くので準備して置いて欲しい」と言う電話が入ったりもしていたし。

要望にあわせてサンドイッチを作るのがわたしの仕事だったので、低血圧とは言っていられない。
お客を裁きながらサンドイッチを作るのも大変だったし、独り住まいのお客とのひとしゃべりも…。
振り返って見ると、忙しかったけれどそれなりに充実した日々だった。

この頃の天候不順で、当時を想い出したりする。
フェーン現象になるとパンの生地が変化するので、気温、水温には随分神経を使っていた。
当時は辛かった事も何年か経過したこの頃は、懐かしい想い出になっているから不思議。


ヨガに行くとき通る公園にタチアオイが咲いていたので、写した写真。



このお花が全部咲ききると入梅が開ける、と祖母が言って居たけれど今年はどうなるか…。
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東京は 湿度が高く 蒸し暑し

2013-08-30 20:47:44 | 想い出
8月30日 金曜日 晴れ

お昼前に家を出て、品川から山手線で新宿へ。新宿から中央線の快速で4分で中野駅到着。
声がつぶれたとかで劇団を辞めて居た中学時代の友人が芝居の案内を送ってきた
演目は以前読んだ事の有る小説で、彼女が出演すると言う
昨年も案内を戴いたが、予定が重なって見に行かれず終い。

新宿駅から中野駅までの間、子供のように窓から外を見ていた。すっかり様変わりしている
学生の頃は高円寺や荻窪までも古本屋巡りをして居たが、それから半世紀も経過
10年一昔と言うけど、その5倍も過ぎているのだから変化があって当たり前

中野駅南口から徒歩5分の所にある定員100人強の小さな劇場
狭いからか、補助椅子を出すほどの満席状態。
原作はタイムスリップを何度もして居た記憶があるので、
それを芝居にすると、ストーリーの運びも舞台装置も難しいと思い、興味津々。

席は前から3番目くらいのところだったけど、舞台が低いので役者の表情もよく見え
懐かしい友人と対面しているような、そんな気持ちで舞台を見ていた。
小さな劇場なので、大道具は一例だけでそれを上手に使っているし、舞台から降りての演技もあった。

タイムスリップするときの効果音も随分工夫をしたのでは、そう思いながら見て居た。
その内、友人から裏話を聞いてみたいと思っている。
彼女の時間に余裕が出るようになったら、食事をする約束をしているので、その時聴いてみる。
芝居で楽しみ、友人に会えて嬉しい日になり、大満足。

ただ、久し振りの東京の蒸し暑さ、これには閉口。
中野駅に降りたとたん、まさに蒸し風呂に入ったような熱くて湿っぽい空気がまとわりつく
横浜も暑いけど、このような不快感はまだ一度も経験していない。

大森の父の会社へ行っている頃、弘明寺に降りた瞬間の空気が違って居た事を想い出した。
降りた瞬間、大森では感じられない爽やかさを感じていた。
秋になって弘明寺駅で降りて歩き始めると、沢山の虫の声を聴いたものだ。
今年は暑さがきついので東京方面に行かないようにしているので、その違いを忘れていたけど
中野駅の構内もだけど改札を出た瞬間、熱風の中に入ったようなあの空気は酷かった。

体調を崩していたので、今日を気にしながら調整をして居た。何とか間に合ったわけ。
エネルギッシュな友人の演技に脱帽。凄い!
久し振りの東京、暑いし疲れた。でもちょっとだけ彼女から元気を戴いてきた。
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ピクニック 気分を楽しむ 朝ご飯

2013-07-14 22:25:51 | 想い出
7月14日 日曜日 晴れのち曇り

今日は日曜日。
店の営業を始める前の日曜日は大好きでした。
娘たちが小学生の頃、直ぐ近くの児童公園が良い遊び場で

わたし独り早起きして台所で頑張って
サンドイッチやおにぎりは勿論、鶏の唐揚げなど
娘たちの好物をバスケットに

準備がほぼ出来たところで、寝室へ。
あるじと娘たちに起床号令。そしてお出かけ準備に。
前夜、児童公園行きは承知していても起きて来ない家族。

お弁当のバスケットを見つけて大喜び、娘たちは元気いっぱい
あるじも敷物、遊び道具のボールや縄跳びなど車に積み込み
最後に味噌汁を入れたアラジンの魔法瓶を持って戸締まりを
車なら5,6分で到着。

早朝の人がほとんど居ない公園で陣地を決め、荷物を広げてまずは朝食に。
公園での朝食は美味しかったようで、食の細い次女も良く食べ
味噌汁は最高とあるじは大喜び。苦手な長女もカップで味噌汁を。

当時のあるじはほぼ毎日、真夜中に帰宅
近所の児童公園での簡易ピクニックでも喜んで
食後は娘たちとボール遊びをしたりバトミントンをしたり
時には娘たちに鉄棒で逆上がりの指導をしたり。

お昼頃には人が多くなって来る。その頃には帰り支度を。
荷物をまとめて駐車場へ。駐車場は車がびっしり。
わたしたちの車が出れば喜ぶ人が居そう、そんな感じ。

家に帰って全員お風呂で汗や汚れを洗い流し、お昼寝タイム。
湯上がりにあるじはビールを飲む。ますます幸せそう
ビールでまっ赤になった顔が緩んでいて仰向けで目を閉じていても幸せそう。

懐かしい良い想い出。
でも想い出しながら胸がきゅんと締め付けられる。
時には涙がぽろぽろ落ちてきてしまう。でもやっぱり幸せ。


明日、独身時代の教え子3人が尋ねて来ると言う。
彼女たちへのお土産に思いつきでティッシュカバーを
3つお揃いで作ってみた。
急な事で少々雑な刺し方になってしまったが許して頂く事に。記念撮影。



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今更、わたしの高校時代

2013-04-21 19:49:30 | 想い出
4月21日 日曜日 雨のち曇り
冷たい雨が朝から降って居ました。まとまった雨は久し振りです。
いつもでしたら嫌な雨と思うのでしょうが、藤の木のことを思いますと良いお湿りになりました。
ホースで水をまいても、自然の雨水の方が良いに決まっています。

今日は昨日より体調は楽でした。自己流の体操を毎朝するのですが、昨日は休みましたし、
今朝も体全体を動かさずに軽く腕の運動するだけにしました。もう一日我慢する事にしました。

ぼんやりしながら、この春から高校生になった孫息子の事を考えて居ました。
彼の学校では英語の時間は日本語を使って居ない、と2,3日前、娘から聞いたのです。
もう半世紀以上前のことですが、わたしの高校もそうだったのです。想い出してもぞっとします。

中学の英語の教師は、まさに「ジャパニーズ・イングリッシュ」、その言葉通りでしたから、
流暢な英語を話す高校の先生の発音には全くついて行かれなかったのです。
クラス全員が理解出来ていたのかどうかは解りませんが、わたしは理解出来ませんでした。
生徒も英語で質問をして、それにたいして先生は違う表現の文章に直して答えてくださるのです。

困ったわたしは、遅まきながらお茶の水のアテネ・フランセの英会話のクラスに通いました。
イギリス人の先生が、面白おかしく日本語を英語で説明し、個人的にも話しかけて下さいましたが、
学校の授業の英語を理解するのは大変で、生まれて初めて英英辞典を使って頑張ったものです。

ただ保健室から転校要請があったわたしですし、良い成績を欲しいとも思いませんから適当でした。
英語の教師が担任でしたし、頑張りすぎて転校するのは最悪ですから落第しなければ良し、でした。

いまは懐かしく良い想い出になって居ますが、数学にも苦労しました。
前後と廊下側の側面と3面の黒板があり、一度に15人が黒板に回答を一斉に書くのです。
生徒の書いた回答を使って説明がありましたが、1問1問先生が説明をするより時間短縮です。
どうかすると、回答を書く順番が2度も廻ってくることもありましたから、予習が大変でした。

幾何の問題で、どうしても解けずに徹夜をしてしまったこともありました。
体調も気になりましたが、黒板の前で立ち往生するのも嫌でしたから頑張ったのでしょうね。
卒業して大分年数が過ぎた頃、友人達が「アンチョコ」という回答書を持っていたというのです。
ショックでした。そのような物が有る事も知りませんでした。困ったときはそれを見たそうです。

わたしの高校生活のスタートは大変でしたが、孫息子は英語も数学も困らずにいるようなのです。
この年になって可笑しいのですが、そんな孫息子が羨ましくちょっとねたましい・・・。
小さい頃から娘は孫息子達を英会話のお教室に通わせていました。娘と孫の努力の賜です。

今までわたしは、何をするにも体調と相談しながらずっと生きて来ました。
孫息子にはわたしの様にならない事を願うだけです。思いっきり運動でも勉学でもして欲しいです。
覚えても覚えても直ぐ忘れてしまう昨今、それでも挑戦しなければ最悪状態になるだけですしね・・・。
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祖母の人生哲学

2013-02-22 19:38:37 | 想い出
2月22日 金曜日 晴れ

風も無く、お日さまが庭中に春を持って来てくれた様な一日でした。
あるじが庭のあちこちに植えました水仙が風でゆらゆらし、ヒヨドリが柚子の実を啄みに来ています。
何とも長閑な景色を食堂からぼんやり眺めて居ました。

のんびり一人でお茶を飲みながら、希望通りの高校に合格した孫息子のことを思い出していました。
2歳4ヶ月違いで弟が生まれる前のことですから、まだまだ本当に幼い頃の事です。
彼は袋を持って歩くのが好きでしたので、公園用に赤い皮の円筒形の袋を彼にプレゼントしました。
青や緑が好きな子でしたが、赤い袋も気に入って、公園に飲み物等を入れて持って行ったようです。

何時も帰る時、彼は「お土産」と言いながら自分の袋に欲しい物を入れるのです。
ジュースだったりお菓子だったり色々でした。ビニール袋や紙袋に入れては自分で持ち帰るのです。
わたしも「今日のお土産は何にするのかしら?」と面白がって眺めて居たものです。

彼に弟が生まれた頃にも、忘れられないことがあります。
母親のお膝は何時も「彼のもの」でしたのに、弟が生まれてからは当然ですが独占出来なくなったのです。
それが幼い彼には大きなストレスになったのです。

わたしも娘も気を付けていたのですが、それでも彼には辛かったようです。寂しかったのでしょうね。
一時ですが、母親の言うことを聞き分け出来なくなり、娘を手こずらせてました。
弟が生まれるまでは母親も父親も彼だけのものだったのですから、仕方が無いのです。

その時、おばぁちゃんとしてわたしが動いた記憶があります。
幼い彼が、弟の存在を認める様になってくれるしか無いのです。彼が理解するしか無かったのです。
一時のことで、まもなく弟を可愛がる優しいお兄ちゃん役が出来るようになり、ホットしたものです。

夏になりますと藤棚の下にビニール製のプールを置き、仲良く二人で水遊びをしたものです。
少し前までは、じゃれ合う子犬のように何時も小競り合いをして居ましたが、それも無くなってきてます。
それだけ彼らが大人になった証拠、わたしとしてはちょっと寂しいですね。

子供の頃、じゃれ合って小さな諍いをして居た方が、成人後の兄弟関係が上手くいく、と聴いていました。
本当かどうか解りませんが、祖母の言葉です。
”物は無くなるが、自分の身につけたものは無くならない”と子供の頃に祖母に言われました。
そんな”祖母の人生哲学”を何となく信じたいです。
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あるじと関白宣言

2013-01-22 18:56:51 | 想い出
1月22日 火曜日 雨のち晴れ

「雪が降ったら行かない」と昨夜長女から電話がありました。22日にやって来る予定にしていました。
8時過ぎた頃、雪では無いのでやって来ると電話してきました。
その時、彼女が「大失敗して今朝は長男に起こされた」と言うではありませんか。驚きました。

娘婿殿は何時も6時台に娘が駅まで送っているのです。「○○さんはどうしたの?」と思わずわたし。
もう出かけて居なかった、と言うのです。丁度今、「起きた?」とメールが入ったと言うのです。
婿殿は起こしたのだそうですが起きなかったとか。わたしには考えられない事でしたのでびっくり。

起こしに来た長男からも、「時々お母さんは起こしても起きないときがある」と言われたとか。
驚きながら羨ましくなりました。わたしには有りえない事でしたから・・・。

ずっと以前、「関白宣言」という歌が流行ったことがありました。
その歌の歌詞には「自分より先に寝ては駄目」などと、夫から妻への要求が色々並べられているのです。
でも最後に「出来れば・・・」と言う言葉が小さな声で入って居ました。

わたしはあるじから「あなたの寝顔は見たく無いから」とか、「お弁当は毎日作って欲しい」とか、
僕の給料だけで生活して欲しいとか、新婚旅行の帰りの電車で色々言われました。びっくりしました。
歌の歌詞のように”・・・出来れば・・・”、などと言う補助の言葉は有りませんでした。

その歌が流行ったとき、出来れば・・・と言うのですから、この人は関白では無いと思いました。
まだ若かったあるじにその事を言いましたら、「歌だからでしょう」とケロリとしていましたね。
あるじのわがままな関白振りの話の種は、今でも尽きることが事がありません。

今では懐かしく良い想い出になって居ます。
その関白振りの思い出話は、どれもこれも笑いが絶えないのですから、それも凄いです。
わたしの友人達が「良い人だったわね」とか「楽しい人だったわね」と言ってくださるのです。

その友人たちは、「でも奥さんにしてみれば、大変だったと思うわよ」と必ずその一言が付け加えられます。
確かに大変でしたが、結構娘達にもわたしにも笑いの種を提供してくれていたことは確かです。
今頃、あちらの世界でわがままを言いながら、上手に周りを自分のペースに巻き込んでいるのでしょうね。
娘の朝寝坊が、わたしにあるじの昔々の事を思い出させてくれ、娘と楽しい一時を過ごしました。
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昔々のちょっと寂しい想い出

2012-09-30 17:33:46 | 想い出

9月30日 日曜日 晴れのち雨

昨日の疲れで、身体が言うことをきいてくれません。
今日も作品展やら友人たちの踊りの舞台を視させて頂くつもりで居ましたが、すべてお断りしました。
ぼんやり横になって居ましたら、昔の事が思い出され何となく書きたくなりました。

お彼岸を迎える頃から、朝夕は秋の気配になって来ましたが日中の陽射しの強さは健在です。
この時期なりますと、いつも何故か昔々の事を思い出すのです。

涼風が吹き始めるこの頃を、わたしは高校時代から苦手としていました。
わたしの高校は2期制でしたので、9月に期末試験でしたから集中出来ず往生したものです。
16,7歳の友人たちは元気いっぱいでしたが、わたしは血圧低下になりそれに伴ってでしょうか、
目眩が酷かったです。

もっと嫌だったのは、身体の柔らかい所に出てくるバラ色湿疹でした。
名前は綺麗なのですが直径3㌢くらいの綺麗なピンク色の湿疹です。
衣類で覆われているところには余り出来ませんでしたが、時には首筋や膝裏に出来たりしました。

それに胃が弱かったからでしょうか、食欲も無く無理して食べますと気持ちが悪くなったりで、
手の施しようも無く成り行きに任せるだけでした。
でも、元気な友人たちと同じ行動をしたくて、随分頑張りました。
元気そうに振る舞う術はその頃に習得したのでしょうね。

丁度そんな時期に、六大学の野球の試合を見に行こうと高校時代に友人に誘われたときの事です。
大学生ですから、もう着る物は大人と同じデザインの洋服を着ていました。
何月の事か忘れましたが、暑い日でしたので首元が少し空いているワンピースを
着ていこうと思ったのですが、その時もバラ色湿疹が首の周りにいくつか出来ていたのです。

誰もが、「これ何?どうしたの?」と言いたくなるような状態の湿疹でした。
結局、首の周りを隠すような洋服を着ていきますと、汗で酷くなり痒みが出ますので、
お誘いをお断りするしか無かったのです。
残念だったその時の気持ちは忘れられませんね。

今はバラ色湿疹は出来ませんが、それでも小さな湿疹はこっそり出て来てわたしを悩ませて居ます。
昨年あたりから特に酷くなり、皮膚科との縁が切れません。
もしかしたら今の湿疹は以前とは違って「老人性」のものなのかもしれませんが・・・。
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