相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

明治100年、昭和100年        (連載―第554号)

2024年05月11日 | 経験・体験
昭和になって明治百年目はいつ頃だろう。江戸時代は長―い鎖国の時代が過ぎ、ペリーの黒船来航は1853年、浦賀に来航して、日本が欧米諸国に遅れをとっていることに気づき、近代国家、明治維新が始まった。
岩倉具視を団長に伊藤博文、大久保利通、木戸孝允(剣豪:桂小五郎)、山口尚芳ら総勢百名を超える使節団でしかも、2年余りも国を開け、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信らが日本を守った。
 江戸時代の幕末に結んだ欧米の国々との不平等条約の改正が目的だった。
一行は欧米との文明の遅れを痛感したのだろう調査の旅となった。
 薩長の重心を中心として2年も日本を開け、海外視察に出かけられたのも他国から侵略されないだろうと確信したのか西郷隆盛に任せたのだろうかそれとも他国は、日本を侵略する価値もないのだろうかと私は思った。
 日本の留守をまもった西郷、板垣、大隈らに感謝したい。
 明治百年は、文明文化の激動の変化もあり、大正3年から大正7年は第一次世界大戦があった。
その間、ロシア革命もおこり、日本は、米国の仲介で、かろうじて日露戦争に勝った。
  明治天皇、大正天皇のご崩御
もあり。
大正12年の関東大震災で、多くの尊い命が奪われ甚大な被害を被った。このとき、内閣総理大臣の加藤友三郎が死去したばかりだったため、外相の「内田康哉」が臨時兼任。日本は「首相不在」という状態で災害を迎えることとなったのです。まさに、天と地がゆらゆらと揺らいだ明治100年の時代だった。

 昭和100年、何のことだと嫌われそうだが、昭和は64年、平成が31年、令和は今年で6年、そうすると昭和100年は過ぎた計算になる。
  昭和14年から昭和20年までの6年間、日本、ドイツ、イタリアの同盟国とイギリス、フランス、中国、ロシア、アメリカの連合国との戦いの第二次世界大戦が起きた。
 昭和20年、8月15日は玉音放送で日本は終戦を迎えたが海外では、9月2日に公然と第二次世界大戦の終結となっている。
9月2日、午前9時すぎ神奈川県横須賀沖、米戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に重光葵外相が調印した。
即時発効されたと書かれているが解釈の違いで終戦が8/15なのか9/2なのか、違うよ8月15日だよと主張しても敗戦国の意見など聞き入れられない。解釈の違いだ。
9月7日、サンフランシスコでサンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説でさえ英語に変えて演説する予定だったが、急きょ、日本語で演説したと聞いた。それだけ、日本は連合国側、特にアメリカに気を使ったのだろう。
  閣下(かっか)は、誰のことを指すのだろうと聞かれたが黒いステッキとハットを被った偉いさんのお人だと応えておいた。
天皇は陛下と呼ぶ、天皇陛下以下の偉いさんを閣下と呼ぶんだろう。
閣下のご命令とあれば、黒を白と言わなければならない時代に生きていないが、威圧的だ。
現在の世では、時には、面白がって閣下と呼び、ごちになることもある。
昭和の100年は、高度経済成長(朝鮮特需、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気、日本列島改造、バブル景気)も、1961年から10年間、池田勇人の所得倍増政策あり、浮く者もあり、沈む者もいた。
経済成長で光化学スモッグ公害で、空気が悪いからよく駅などに胆つばをはく入れ物が備え付けられていた。立ち小便をするものも見かけた、小便横丁ってね。いい時代だった。
川や海などに工場排水を流すから魚を食べた人間は、病気になった。


黒四【くろよん】黒部ダム(くろべダム)は、富山県の北アルプス立山連峰の黒部渓谷にダムを作って下流地下200メートルの所に黒部第4発電所を作る予定で関西電力が関西地方の慢性的な電力不足で関西電力の命運をかけて厳しい建設に取り掛かった1956年から7年の歳月をかけて取り組んだ。
何と171人の殉職者を出した。それほど、険しい山に阻まれ寒さと多量の水との戦いだったようだ。
小学校の頃、よく映画で工事を見た。工期に迫られ山を両側から発破をかけて掘り進めた。山の中に多量の雪解け水が出水して犠牲者もでた。戦後の電力不足を解消するには、この選択しかなかった。
 1ドル360円の固定相場制(壱円、一周が360度だから360にしたとは冗談かな?)
その当時にしてみれば、現在は円安どころか、円高だ、株も高い。円安というから輸出には良い。ある企業では最高の利益を計上していると聞く。外国観光客も多い。今や海外の方が物価が高い、お米を持参で海外に行かれると言う。
「もはや戦後ではない」と1956年に宣言した。戦争に敗れて、立ち直った。まさに、日本人の勤勉と使命に東洋の奇跡と呼ばれた。
 幼い頃、洗濯機・テレビ・冷蔵庫と「三種の新器」をそろえるのが夢だった。洗濯は、はじめは川で足で踏んで洗濯をし乾燥は河原に干した。  
洗濯機はローラーの付いた絞り器。テレビはよその家で見せて頂いた。冷蔵庫は買えなかった。
現在のようにオール電化ではなかった。大きけりゃいいと「巨人・大鵬・卵焼き」と流行った。
初代ドイツの首相であった怖い顔をしたビスマルクは島国日本と陸続きの欧州とは根本的に違いを言っていた。「座ればわかっている」「言わなくても相手はわかっている」との考えは世界には通用しないようだ。
新渡戸稲造が太平洋の架け橋にと奥様メアリーとアメリカに渡り「武士道」を書いて世界に日本人を知らせた。
 
新渡戸稲造は札幌農学校(現:北海道大学)の初代校長で「青年よ大志を抱け」と名言のクラーク博士がいた学校だ。新渡戸稲造さんは、5千円札に肖像が載っている。
 阪神淡路大震災、熊本地震、東日本大震災と津波、能登大地震、気象のレーダーが捉えた線状降水帯、来年は何人の人柱がいるのか、今年も真っ黒い雲が重そうにおなかを抱えて北に上っていた。
正月から、能登地震にあい、お一人残された方の悲鳴が耳に残っている。
天災は各地に広がっている。人災もかたちを変え人間様をコントロールしてくる。
AIとは人工知能(Artificial Intelligence)機械であるパソコンが学ぶことを知っているから将棋でも同じ手は通用しない。連敗続きだ。
速い乗り物を利用すれば、便利に田舎に帰れるのに、持ち合わせがないので、遅い乗り物を利用する選択をした。遅い乗り物が何かを教えてくれるだろう私の一人旅。
体調がよくないので、秋に延ばしたいがもう日程は変えない。
AIにバレルから

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