ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

「愛国心」について考える

2006年06月05日 | 学習一般
教育基本法の「改変」について様々な意見がある。
(ここでは「改正」や「改悪」など価値判断が含まれた言葉ではなく、あえて「改変」で行く。)
特に注目が集まっているのが「愛国心」を明記するという点である。

さて「愛国心」とは何か?
文字通りに解釈するなら「国を愛する心」というだけだが、この定義が論者によってバラバラであるところに議論がかみ合わない主因がある。

「君が代」を歌い「日の丸」に敬意を表するのが愛国心?
日本の言動をすべて正当化し、他国を目の敵にするのが愛国心?
国の政策に反対せず、黙々と「お上」に従うのが愛国心?
伝統的な芸術に積極的に触れ、日本の心を再確認するのが愛国心?

すべて違う。
「君が代」を歌う、歌わないで愛国心のあるなしを判断されてはかなわない。
日本のやることには間違いないという盲目的な愛は危険である。
わび・さびの世界が性に合わないだけで非国民呼ばわりされてはたまらない...。

よく言われるように、愛郷心や愛国心などというものは強制されて身につくべきものではない。
都会で暮らせば故郷が恋しくなるように、外国へ行けば日本の良さが再確認できるように、自然に育まれているのがこれらの愛情ではないか。

まして「国を愛する態度」を評価しようとすれば、歴史解釈についての意見も政策に対する主張も、自由に言える空気は学校現場になくなってくる。
能や歌舞伎を見て、本当は退屈で仕方ないのに、評価を気にして「素晴らしかった」「日本の心に触れることができた」と感想を書く子が増えるのではないか。
それで愛国心が育っているとは到底思えない。

そもそも、国の言動に肯定的だあるだけが「愛する」ということではなかろう。
それでは溺愛して子どもを甘やかす親と同じである。
日本を愛するが故に批判的になったり怒ったりしなければならないときもある。
国を憂うることは国を愛することと同義ではないか...。

「愛の反対は無関心」という言葉を読んだのは、どなたかのブログでだったと思う。
「嫌悪」や「憎しみ」は、相手に関心があるからこそ生まれるものであり、興味がなければその感情さえ生まれない。
相手が何をしようが関係なし、というのが愛のない究極の形であろう。
真の「忠誠心」とは、ときに上司を諫めることではないだろうか...。

最近の日本人は実におとなしくなってしまった。
どんなにおかしいと思う政策があっても、どんな不祥事が明るみに出ても、表立った反対の声は一部の国民からしか上がらない。
特に若者のあきらめムードは甚だしい。
ことの善し悪しは別として、他の国のように政府の方針に反対して若者の暴動が起こることなど、今の日本では考えられないだろう。
いつから日本人はこんなに飼い慣らされてしまったのか...。

今、教育で重要なのは、子どもたちに闇雲に「国を愛せ」と迫ることではなく、まず「自分たちの国」という意識を強く持たせることである。
国の行く末に関心を持たせることである。
そして日本のことを真剣に自分の頭で考えられる、必要があればノーと言って行動を起こせる、そんな本当の「愛国心」を持った人間を育てることである。

そのためにまずは、歴史も地理も哲学も科学も、多くのことを学ばせる必要がある。
ひとり一人が自分の意見を持ち、議論を戦わせたり文章として表現する練習も不可欠であろう。
そして為政者にだまされず、盲従せず、国の将来のために責任を持った主張や行動ができるよう、民主主義教育を徹底すべきである。

それこそが教育の使命であり、「なぜ勉強するのか」の一つの答であると思っている。

もっとも今の日本を見ていると、「国を愛する心」より先に「親を愛する心」「子を愛する心」を何とかしなければいけないのかも知れない。
共同体の最小単位である家族が崩壊状態では、愛国心どころではないだろう...。


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