最近よく生徒にパズルをやらせている。
パズルと一口に言ってもいろいろなものがあるが、塾で使うのはいわゆるペンシルパズル...紙と鉛筆だけで解くシンプルなものである。
使うのは、以前にも少し触れた宮本哲也氏作のもの、ネットで探したもの、新聞から拾ったものなど。
小学生はもちろん、中学生にもウォーミングアップ用に使ったりしている。
もっとも、ときに妙に難しい問題があり、ウォーミングアップに時間を食いすぎてしまうこともあるのだが...。
パズルをさせる狙いは3つある。
1つは集中力をつけること。
勉強だと10分も集中力が続かない子でも、パズルとなるとけっこう長い時間一つのことに取り組んでくれる。
2つ目は試行錯誤の体験を積ませること。
算数の勉強で、わからないと何もせずボーッとしている子がいる。
見かねた大人(=私)が救いの手を差し伸べてくれるのを待っているのだ。
こういうとき、私は放っておく。
「何か書け」と言う。
何でもいいから手を動かさない限り、決して教えない。
まずは見当はずれでもいいから、自分で「ああでもない、こうでもない」「こうやってみたらどうか?」と考えてほしいのだ。
これを実践させるのにパズルは最適だ。
初めは当てずっぽうでいろいろやってみるしかない。
考え方をつかむまでは試行錯誤あるのみだ。
もう一歩で完成というところまで行って、やっぱり違っていて一からやり直し...。
机には消しカスばかりが山のように溜まっていく...。
これがいいのだ!
3つ目は、この試行錯誤にも関連するが、粘り強さを養うこと。
何回も消しては書き、書いては消しを繰り返し、何分も何十分も格闘しても解けない...。
悔しいからと家に持って帰ってやる子もいる。
次の学習日に回す子もいる。
で、次のときにやってみると案外あっさりできたり...。
教科の学習ではなかなかこうは行かない。
どの教科でも、知識や理解度は、少なくとも小中学生よりは私の方が上である。
どうしても彼らは「生徒」の立場になってしまう。
意識するとしないに関わらず、正解なり、やり方なりを教えてもらう立場に立ってしまうのだ。
もちろん私は、上にも書いたように簡単に教えることはしないが、正解もそこへ至る解法も模範的なものがすでに用意されている。
教科書や参考書、辞書を見ればすぐにわかる問題も多い。
最後まで自分の頭で考えなくても、逃げ道はいくらでもあるのだ。
パズルではそれがない。
正解はあるが、何かを参考にすればわかるわけではない。
私に助けを求めても無駄である。
第一、ちょっと難しくなると私だってすぐには解けないものばかりなのだ。
せいぜい一緒に悩むくらいしかできない...。
「わからない」のは決して悪いことではない。
むしろこれは大切な体験であろう。
これがなければ「わかろう」とする気持ちも起こらない。
わからない状態を経験させまいと、先回りして手取り足取り教えるのは最悪である。
助けを求めてきたからといって、すぐに教えるのも禁物。
結局は一人では何もできず、すぐに人に頼る人間を育てることになる。
問題はそのあとだ。
今まで私は、「わからないときになんとか自分の力で調べることができる」ということを指導目標の大きな柱の一つにしてきた。
しかし最近、それは少し違うんじゃないかと思い始めた。
疑問は本当にすぐ解決するのがいいのだろうか?
ずっとそれについて考え続けることも必要なんじゃないだろうか?
たちどころに答が見つかってはつまらないんじゃなかろうか...?
もちろん自力で調べられる力があることは素晴らしい。
自分で調べもせず、人から聞いたことを丸飲み込みするだけの輩よりはずっと好ましい。
しかし、だからといって、難問にぶつかったらすぐに調べればいいではいけないのではないか...。
特に、大した労力をかけずとも何でも即座に疑問を解消してくれるインターネットは曲者(くせもの)である。
ホイホイ調べてわかったつもりになり、スイスイ忘れてしまいそうだ。
それなら、わからない状態のままずっと考え続けている方が、まだマシではないか...。
懇切丁寧な参考書やフォローたっぷりの問題集なども、使い方を誤ると危険な気がする。
そんなことまで書いちゃったら自分で考えるところないじゃん!という代物も存在するのだ。
教材作りでも、丁寧に説明すべき所とヒントに留めておく所、答だけ書かない所、中には答も載せない所など、微妙な匙加減で調整する必要がある。
誰でも使えるようにという「親切」な教材は、自分であれこれ考えたり、これはなぜ?という疑問を持ったりする貴重な機会を奪う教材でもある。
あえて不親切な部分を残す教材を作ってみたいと思う。
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パズルと一口に言ってもいろいろなものがあるが、塾で使うのはいわゆるペンシルパズル...紙と鉛筆だけで解くシンプルなものである。
使うのは、以前にも少し触れた宮本哲也氏作のもの、ネットで探したもの、新聞から拾ったものなど。
小学生はもちろん、中学生にもウォーミングアップ用に使ったりしている。
もっとも、ときに妙に難しい問題があり、ウォーミングアップに時間を食いすぎてしまうこともあるのだが...。
パズルをさせる狙いは3つある。
1つは集中力をつけること。
勉強だと10分も集中力が続かない子でも、パズルとなるとけっこう長い時間一つのことに取り組んでくれる。
2つ目は試行錯誤の体験を積ませること。
算数の勉強で、わからないと何もせずボーッとしている子がいる。
見かねた大人(=私)が救いの手を差し伸べてくれるのを待っているのだ。
こういうとき、私は放っておく。
「何か書け」と言う。
何でもいいから手を動かさない限り、決して教えない。
まずは見当はずれでもいいから、自分で「ああでもない、こうでもない」「こうやってみたらどうか?」と考えてほしいのだ。
これを実践させるのにパズルは最適だ。
初めは当てずっぽうでいろいろやってみるしかない。
考え方をつかむまでは試行錯誤あるのみだ。
もう一歩で完成というところまで行って、やっぱり違っていて一からやり直し...。
机には消しカスばかりが山のように溜まっていく...。
これがいいのだ!
3つ目は、この試行錯誤にも関連するが、粘り強さを養うこと。
何回も消しては書き、書いては消しを繰り返し、何分も何十分も格闘しても解けない...。
悔しいからと家に持って帰ってやる子もいる。
次の学習日に回す子もいる。
で、次のときにやってみると案外あっさりできたり...。
教科の学習ではなかなかこうは行かない。
どの教科でも、知識や理解度は、少なくとも小中学生よりは私の方が上である。
どうしても彼らは「生徒」の立場になってしまう。
意識するとしないに関わらず、正解なり、やり方なりを教えてもらう立場に立ってしまうのだ。
もちろん私は、上にも書いたように簡単に教えることはしないが、正解もそこへ至る解法も模範的なものがすでに用意されている。
教科書や参考書、辞書を見ればすぐにわかる問題も多い。
最後まで自分の頭で考えなくても、逃げ道はいくらでもあるのだ。
パズルではそれがない。
正解はあるが、何かを参考にすればわかるわけではない。
私に助けを求めても無駄である。
第一、ちょっと難しくなると私だってすぐには解けないものばかりなのだ。
せいぜい一緒に悩むくらいしかできない...。
「わからない」のは決して悪いことではない。
むしろこれは大切な体験であろう。
これがなければ「わかろう」とする気持ちも起こらない。
わからない状態を経験させまいと、先回りして手取り足取り教えるのは最悪である。
助けを求めてきたからといって、すぐに教えるのも禁物。
結局は一人では何もできず、すぐに人に頼る人間を育てることになる。
問題はそのあとだ。
今まで私は、「わからないときになんとか自分の力で調べることができる」ということを指導目標の大きな柱の一つにしてきた。
しかし最近、それは少し違うんじゃないかと思い始めた。
疑問は本当にすぐ解決するのがいいのだろうか?
ずっとそれについて考え続けることも必要なんじゃないだろうか?
たちどころに答が見つかってはつまらないんじゃなかろうか...?
もちろん自力で調べられる力があることは素晴らしい。
自分で調べもせず、人から聞いたことを丸飲み込みするだけの輩よりはずっと好ましい。
しかし、だからといって、難問にぶつかったらすぐに調べればいいではいけないのではないか...。
特に、大した労力をかけずとも何でも即座に疑問を解消してくれるインターネットは曲者(くせもの)である。
ホイホイ調べてわかったつもりになり、スイスイ忘れてしまいそうだ。
それなら、わからない状態のままずっと考え続けている方が、まだマシではないか...。
懇切丁寧な参考書やフォローたっぷりの問題集なども、使い方を誤ると危険な気がする。
そんなことまで書いちゃったら自分で考えるところないじゃん!という代物も存在するのだ。
教材作りでも、丁寧に説明すべき所とヒントに留めておく所、答だけ書かない所、中には答も載せない所など、微妙な匙加減で調整する必要がある。
誰でも使えるようにという「親切」な教材は、自分であれこれ考えたり、これはなぜ?という疑問を持ったりする貴重な機会を奪う教材でもある。
あえて不親切な部分を残す教材を作ってみたいと思う。
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