『老いる準備』(上野千鶴子・著、学陽書房)
ここ数年、老いというものを意識するようになった。とくに昨年あたりからは、その意識が加速してきているように思う。それは生理的な現象や、心理的な面でも衰えをかなりはっきりと自覚し始めているからだろう。たとえば、視力にだけは自信があったのだが、メガネを必要とする場面がめっきり多くなってきた。テレビでよく見ているタレントやアイドルの顔は思い浮かぶのに名前が思い出せない、などということもめずらしくなくなってきた。使いなれているはずの専門分野の用語を忘れてしまったり、思いちがいをしてしまうことも最近増えてきた。実は、上野千鶴子さんもこの本で同じようなことを書いている。「教室で黒板に文字を書きながら、念頭にある書名や著者名が出てこなくて立ち往生することがしばしばになった」そうである。「漢字が出てこないこともある」そうで、そんなときは学生に自分で漢字変換するように言ってごまかすという。あの上野千鶴子さんにしても、そうなのである。老いのスピードには相当な個人差がある。しかし、老いは誰の上にも平等に訪れるのはやはり確かなようで、上野さんには悪いがほっとさせられた。
とはいえ、老いは新たな体験でもある。いままで持っていた自分の常識が通用しない、いわば異文化体験ともいえるだろう。上野さんも同様の感慨を記しているが、自分が二十代、三十代のころは、いわゆる高齢者どころか、四十代、五十代の人の気持ちや身体の状態など想像できなかった。考えたことがなかったという意味ではなく、実感として思いが至らなかったのである。自分にはすぐできることが、中年の人やお年寄りにはなぜできないのか、どうしてあんなに反応が鈍いのか、自分にはわからなかった。健常者にくらべて体力が相当劣っていた内部障害者の自分であっても、老いや加齢はやはり異文化だった。今日できることが明日できなくなるのが老いなのである。そのとき周囲の世界は異なった様相を示し始めるということだ。
この本を読もうと思ったきっかけは、数ヶ月前に『身体をめぐるレッスン2』を買ったことだ。この本のなかに「<鼎談>女が老いる、ということ」(西川祐子、上野千鶴子、荻野美穂)という一章が収められていて、上野さんを「今では女性学の上野ではなくて、ケアと老いの上野と呼ばれつつあります」と紹介されていた。そこで、この『老いる準備』や『当事者主権』が紹介されていたことによる。上記の本はまだ全編を読んでいないのだが、この<鼎談>には自分の問題として引き寄せられるものを感じた。同時に、近年上野さんが女性の問題から老いの問題に重心を移しつつあることをうすうす知っていたので、フェミニズムの上野さんが今度は老いについてどのようなことを語っているのか興味があった。
自分にとって―そして、たぶん多くの人にとっても―日本のフェミニズムと「上野千鶴子」の名前は同義か、それに近い意味をもっている。そんな上野さんが、なぜ老いに関心を持ち始めたのか。上野さんは「あとがき」で「わたしにとっては、何の不思議もない。わたし自身が老いたからである。女の問題をほったらかしにしたのではなく、老いた女の問題にめぐりあったのだ」と書いている。第1章で「向老学」なるものが取り上げられている。誤解を恐れずに解釈すれば、向老学とは老いと主体的に向き合う学問・立場といえるだろうか。向老学とフェミニズムの目指すところは同じであると、上野さんは主張する。フェミニズムが要求してきたのは、女も男なみに“強い”のであり、だから男と同様の待遇を望んできたのではなく、女は“弱い”が、そんな弱者が弱者のまま尊重される社会の実現を望んできたのだという。向老学も同様に、お年寄りの社会的価値が失われても(すなわち弱者になっても)、お年寄りが尊重され、人間としての尊厳が保たれる社会を構築していくことに目標が置かれねばならない。未読だが、この『老いる準備』に先立って書かれた『当事者主権』(障害者である中西正司さんとの共著)にも同様の主張がなされているのではないかと思う。いずれにしても、異論はあるにせよ、日本のフェミニズムに大きな貢献をしてきた上野さんの経験が老いの問題でも活かされているように思う。
具体的な問題としては、介護保険についても多くのページが割かれている。たとえば、介護保険を使うならば「官・民・協」のうちで「協」(市民事業体)が良いという指摘もされている。実際に―自分であれ、親であれ―介護保険を使う段になれば参考になる提言であると思う。しかし、自分の琴線に触れたのは、具体的な提言ではなく、上野さんの老いの捉え方だった。われわれは老いを積極的に捉えようとすると、ついつい「生涯現役」などという言葉に惑わされてしまう。そして、食品であれ美容であれ健康法であれ「アンチエイジング」に精をだし、逆にストレスを抱え込むことにもなる。年配者に対する「まだまだお若いですよ」という言葉も、悪意はないにしても、強迫になることもある。上野さんは「あとがき」で次のように書いている。
わたしの人生は、下り坂である。人生は死ぬまで成長、生涯現役、というかけ声に、わたしは与しない。そんな強迫に鞭打たれて駆けつづける人生を、自分にも他人にも、強要したくない。老いるという経験は、昨日できたことが今日できなくなり、今日できることが明日できなくなる、という確実な衰えの経験であることは、五〇歳の坂を越えてみれば、骨身に沁みる。
だが、それにしても、かつて味わったことのないこの変化は、新しい経験にちがいはない。それなら新鮮な思いでこの経験を味わい、自分の新しい現実をありのままに受け容れたい。
この言葉は、いまの自分にとって何よりの励ましである。団塊の世代である上野さんよりは少し若いが、上野さんのいう「ニューシルバー」の世代に準ずるといっていいだろう。ただ、ニューシルバーのように資産(これもフローとストックのちがいなどの問題はあるが)はない。(ちなみに、フローにしろストックにしろ、自分には資産はない) しかし、時間はまだ(一応)ある。とはいえ、若い頃にはおよそ考えが及ばなかったほど、残りの時間は少ない。残り少ない大事な自分の時間を、これからは可能な限り“わがまま”に使おうと思う。それが、いまの自分にとっての下り坂へ向けての想い―「白秋への想い」―である。
ここ数年、老いというものを意識するようになった。とくに昨年あたりからは、その意識が加速してきているように思う。それは生理的な現象や、心理的な面でも衰えをかなりはっきりと自覚し始めているからだろう。たとえば、視力にだけは自信があったのだが、メガネを必要とする場面がめっきり多くなってきた。テレビでよく見ているタレントやアイドルの顔は思い浮かぶのに名前が思い出せない、などということもめずらしくなくなってきた。使いなれているはずの専門分野の用語を忘れてしまったり、思いちがいをしてしまうことも最近増えてきた。実は、上野千鶴子さんもこの本で同じようなことを書いている。「教室で黒板に文字を書きながら、念頭にある書名や著者名が出てこなくて立ち往生することがしばしばになった」そうである。「漢字が出てこないこともある」そうで、そんなときは学生に自分で漢字変換するように言ってごまかすという。あの上野千鶴子さんにしても、そうなのである。老いのスピードには相当な個人差がある。しかし、老いは誰の上にも平等に訪れるのはやはり確かなようで、上野さんには悪いがほっとさせられた。
とはいえ、老いは新たな体験でもある。いままで持っていた自分の常識が通用しない、いわば異文化体験ともいえるだろう。上野さんも同様の感慨を記しているが、自分が二十代、三十代のころは、いわゆる高齢者どころか、四十代、五十代の人の気持ちや身体の状態など想像できなかった。考えたことがなかったという意味ではなく、実感として思いが至らなかったのである。自分にはすぐできることが、中年の人やお年寄りにはなぜできないのか、どうしてあんなに反応が鈍いのか、自分にはわからなかった。健常者にくらべて体力が相当劣っていた内部障害者の自分であっても、老いや加齢はやはり異文化だった。今日できることが明日できなくなるのが老いなのである。そのとき周囲の世界は異なった様相を示し始めるということだ。
この本を読もうと思ったきっかけは、数ヶ月前に『身体をめぐるレッスン2』を買ったことだ。この本のなかに「<鼎談>女が老いる、ということ」(西川祐子、上野千鶴子、荻野美穂)という一章が収められていて、上野さんを「今では女性学の上野ではなくて、ケアと老いの上野と呼ばれつつあります」と紹介されていた。そこで、この『老いる準備』や『当事者主権』が紹介されていたことによる。上記の本はまだ全編を読んでいないのだが、この<鼎談>には自分の問題として引き寄せられるものを感じた。同時に、近年上野さんが女性の問題から老いの問題に重心を移しつつあることをうすうす知っていたので、フェミニズムの上野さんが今度は老いについてどのようなことを語っているのか興味があった。
自分にとって―そして、たぶん多くの人にとっても―日本のフェミニズムと「上野千鶴子」の名前は同義か、それに近い意味をもっている。そんな上野さんが、なぜ老いに関心を持ち始めたのか。上野さんは「あとがき」で「わたしにとっては、何の不思議もない。わたし自身が老いたからである。女の問題をほったらかしにしたのではなく、老いた女の問題にめぐりあったのだ」と書いている。第1章で「向老学」なるものが取り上げられている。誤解を恐れずに解釈すれば、向老学とは老いと主体的に向き合う学問・立場といえるだろうか。向老学とフェミニズムの目指すところは同じであると、上野さんは主張する。フェミニズムが要求してきたのは、女も男なみに“強い”のであり、だから男と同様の待遇を望んできたのではなく、女は“弱い”が、そんな弱者が弱者のまま尊重される社会の実現を望んできたのだという。向老学も同様に、お年寄りの社会的価値が失われても(すなわち弱者になっても)、お年寄りが尊重され、人間としての尊厳が保たれる社会を構築していくことに目標が置かれねばならない。未読だが、この『老いる準備』に先立って書かれた『当事者主権』(障害者である中西正司さんとの共著)にも同様の主張がなされているのではないかと思う。いずれにしても、異論はあるにせよ、日本のフェミニズムに大きな貢献をしてきた上野さんの経験が老いの問題でも活かされているように思う。
具体的な問題としては、介護保険についても多くのページが割かれている。たとえば、介護保険を使うならば「官・民・協」のうちで「協」(市民事業体)が良いという指摘もされている。実際に―自分であれ、親であれ―介護保険を使う段になれば参考になる提言であると思う。しかし、自分の琴線に触れたのは、具体的な提言ではなく、上野さんの老いの捉え方だった。われわれは老いを積極的に捉えようとすると、ついつい「生涯現役」などという言葉に惑わされてしまう。そして、食品であれ美容であれ健康法であれ「アンチエイジング」に精をだし、逆にストレスを抱え込むことにもなる。年配者に対する「まだまだお若いですよ」という言葉も、悪意はないにしても、強迫になることもある。上野さんは「あとがき」で次のように書いている。
わたしの人生は、下り坂である。人生は死ぬまで成長、生涯現役、というかけ声に、わたしは与しない。そんな強迫に鞭打たれて駆けつづける人生を、自分にも他人にも、強要したくない。老いるという経験は、昨日できたことが今日できなくなり、今日できることが明日できなくなる、という確実な衰えの経験であることは、五〇歳の坂を越えてみれば、骨身に沁みる。
だが、それにしても、かつて味わったことのないこの変化は、新しい経験にちがいはない。それなら新鮮な思いでこの経験を味わい、自分の新しい現実をありのままに受け容れたい。
この言葉は、いまの自分にとって何よりの励ましである。団塊の世代である上野さんよりは少し若いが、上野さんのいう「ニューシルバー」の世代に準ずるといっていいだろう。ただ、ニューシルバーのように資産(これもフローとストックのちがいなどの問題はあるが)はない。(ちなみに、フローにしろストックにしろ、自分には資産はない) しかし、時間はまだ(一応)ある。とはいえ、若い頃にはおよそ考えが及ばなかったほど、残りの時間は少ない。残り少ない大事な自分の時間を、これからは可能な限り“わがまま”に使おうと思う。それが、いまの自分にとっての下り坂へ向けての想い―「白秋への想い」―である。