或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

ホントは書く必要もないんやろうけどね(追記有り)

2013-11-21 01:05:14 | 日記
瞋恚はおさまった。だから、

書く必要なんて、どこにもないんやろうけどね。

あの時点でも、ちゃんと、「瞋恚」、と確認できていて、

「貪瞋癡」、という三毒である事は分かっていたわけやし。

一応、収束する時間が短くなってきた気がする。全てに於いて。

病気の症状もね。

でもまぁ、「異常性」、が発現することに変わりはないわけで。

一般生活でも、精神病由来にしても。だから、

「障害者」、なわけで。

まだまだそこは変わりない、というか、変われない、というか。



あと、神田橋さん、という精神科医がいる。

この方の著書の中にもあるが、


「精神病」=「精神」「こころ」の病気、


と捉えがちになってしまうのは、間違い、とのこと。

正しくは、


「精神病」=「脳」の病気、


とのこと。

他の臓器の病人と、何の変りもない、

単に、「脳」、という臓器の病変を抱えている、

というだけ。


「こころ」、

というものの捉え方が、どうしても、

「特別扱い」、

されてしまっているのが、おかしい、と。

腎臓病で、人工透析が生きていくために必要なように、

糖尿病で、食餌制限や、各種の薬が必要なように、

骨折で、「寛解」のため、患部を正しく接合させるためにギプスで固定し、リハビリするように、

「精神病」と呼ばれているものは、単に、「脳」という臓器の病気であって、

薬といったものが必要となり、

「脳」という臓器の治療法としての、心理療法や、リハビリが必要であり、

「寛解」がその目指すところ、だと言える。


仏教ではどうとらえているか。

それほど通暁しているわけではないし、

「こころ」をどうとらえているのか、

一般社会と同じなのか、時代的に変わりはないのか、

そういったところまでは、ちゃんと知っているわけではないが、

基本中の基本、というところの、

「六根」、

は知っている。

これは意外と知っている人も多い、と思う。

あるいは、そうとは知らずに、頭の中に入っている人が多いかもしれない。

六根とは人間を構成するものであり、よく、

「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら霊山などを登る人も多いだろう。

よく読誦や写経される「般若心経」にも出てくる。

この「六根」とは、人間に迷いを生じさせる、感覚器官や意識、の総称である。

「眼耳鼻舌身意」がそのすべて。

視覚器官、聴覚器官、嗅覚器官、味覚器官、触覚器官、などと並んで、

意識・精神作用も同列に挙げられている。

ここに私は、仏教では、「精神病」も、俗説的な、

「業」ではなく、「六根のうちの一つの不調」、

と捉えられている、と考えている。


ただまぁ、「差別しやすい」から、「差別する」人間たちが多いだけで、

本当のところは、一年前に書いた、「被差別民」と同じように、

何のいわれもない「差別」である。他の「病気」と同じく、

単に、「一つの臓器」が不調なだけなのだから。


ちょっと精神病論の梗概のようになってしまったが、

別に論文とかを、書くつもりはない。


ただ一つ言えることは、「瞋恚がおさまった」ということだけ。

ただ、あのオバハンには、ちょっと対抗措置をとるかもしれないけどね。

実際には、最近、私への接客としてのレジにさえ、

出てこなくなってはいるが。

別にこれ以上責める気はない。ちょっと私の気が済むまで、

「対抗措置」、

をとるだけのこと。



これにて、一件落着。


(追記)

「統合失調症」については、ウィキペディアに詳しい。

しかも、どんどん内容が充実していっている。

意外と私がその一因になっていたりするのならば、

「広告塔的」存在意義、があると言えるのかな。


ちなみにちゃんと、私はこのブログの今のタイトルに、

「或る、」との一語を添えている。

「統合失調症患者」全員が私のようではない、との宣言でもある。

まだまだ未知の病気であり、

「十把一絡げ」、

の感がある病名なので、患者によって、様々ではある。


「差別する人」は、自分に自信がない、とか、いわゆる「負け組」だと自認している、とか、

単に、「自分の事情」で、「俺よりも下の奴らがいる」、

と決めつけて、自己満足に浸るしか、自らを肯定しえない、

まさに仏教的に言えば、「慈悲」の対象、「いつくしまれ、あわれまれる」人々、

なのだろう。