或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

「共通語」の功罪

2013-01-16 04:57:44 | 日記
前のエントリで、「共通語」、を悪しざまに言っているように捉えられているかもしれない。

しかし、何事にも良い面と悪い面があるように、

「共通語」にも良いところはある。

それは、日本人、というか、日本の教育を受けてきた人たちは、

意思の疎通が簡単に行えるようになった、ということである。

江戸時代、よそ者を見分けるために、その地の言葉を分かりにくくした、

という経緯がある。

だからよく、「方言」、というと、「他の地域の人にはわかりにくいもの」、

というイメージができた。

それが「共通語」教育によって、垣根が低くなった、と言える。

ただ、そういった「功」の部分は、現代に於いて、「当然」とされてしまっている。

これは、放送通信技術の発達により、各家庭の中に、

メディアによって「共通語」が入り込んできた、ということによる。

つまり、これは「罪」の部分になるのであるが、

各地の「地の言葉」がすたれ、「共通語」で日常会話も行われるようになってきてしまっている、

ということである。

各地の特色が無くなり、言葉の文化が平板化してしまう危険性がある。

だが、さすがにみんながみんな、わかりやすく「共通語」に日和っているわけではない。

減っていく傾向にあるとはいえ、地の言葉の語彙、というものが、

まだ何とか残ってはいる、というところである。

前のエントリで書いたように、アクセントやイントネーションが、

完全には「共通語」通りになっているわけではない、

というのも一つである。

「共通語」を理解し、使えてはいても、

普段は、地の言葉の色を帯びた「共通語もどき」や、

地の言葉のまま、だったりすることもある。


前のエントリで結んだように、言葉は進化する。

日本画一の言語、文法、などといったものが作られ、教えられたとしても、

ある程度、地の言葉は残り、また新しい言葉が作られていく。

文法だって「共通語」とはかけ離れていくかもしれない。

そうなれば、その時点での「最大公約数の言葉」が新しい「共通語」となるだろう。