このブログを読んでいる人のほとんどは、
「こいつは他人のせいにしたがる」、
「極論ばかり言いやがる」、
「変な奴」、
と、批判か笑うかのどちらかであろう。
確かに私は外罰的と言われても仕方がない文章を連ねている。
今の本性がそうである、と言われれば、そうかもしれない。
しかし、私は元々、内罰的であった。
それがいつの間にやら、自分ではなく「外部」に対して原因を求め始めた。
それでもまだ内罰的なところがなくなったわけではない。
内省を全くしない、なんてことはない。
ただ、こういうネット空間に於いて、好き勝手にものが言えてしまうご時世、
「自分には責任がない」といった「正当化」が行われるのも、
「無責任さを伴った攻撃性」がお手軽に公に出来てしまうことで、
「外部への攻撃性」へと転嫁していくのも、自分としては、
客観的に見ても、道徳心はないかもしれないが、
「人間として取り得る行動(言論)の一つ」、
と思えるのである。
そして、春から学び始めることになる高等教育に於いて、
私の言論が変わる可能性が、皆無、とは言えない。
実際、ことばあそび、と捉えられているかもしれないが、
今度は、無罰的、になりつつあるような気配もある。
科学的に物事を考えていくようになれば、
内罰的な内省も、外罰的な攻撃も、無罰的な言論も、
無くなる可能性がある。
実際に、テレビ番組について、好意的な発言をしているエントリもある。
逆に特定団体に対してむき出しの攻撃性をぶちまけているエントリもある。
初心に立ち返ってみると、ここはそれほど無道徳なものが許されるような場所ではない。
「批判」はあったとしても、「攻撃」と取れるような言葉を連ねるような場所ではない。
ここは、公、であることを、まず意識していなければならない。
どうも、私的な考えを思いついては書きなぐっている、としか取れないブログである。
そして、意外とそういう方がアクセス数も、訪問者も、多かったりする。
もちろん私は多数派ではないだろうから、少数派のなかでも、「突飛な」文章を書いた方が、
「意外と人々の興味を惹く」、ということに慣れてしまった、
あるいは、満足してしまっている、と言えるのかもしれない。
ちょっと現在の自分を、客観的に見てみた。
まだまだ外罰的な文章を書く事があるかもしれないが、
最低限の「道徳心」といったものは失わずに書いていきたい。
「こいつは他人のせいにしたがる」、
「極論ばかり言いやがる」、
「変な奴」、
と、批判か笑うかのどちらかであろう。
確かに私は外罰的と言われても仕方がない文章を連ねている。
今の本性がそうである、と言われれば、そうかもしれない。
しかし、私は元々、内罰的であった。
それがいつの間にやら、自分ではなく「外部」に対して原因を求め始めた。
それでもまだ内罰的なところがなくなったわけではない。
内省を全くしない、なんてことはない。
ただ、こういうネット空間に於いて、好き勝手にものが言えてしまうご時世、
「自分には責任がない」といった「正当化」が行われるのも、
「無責任さを伴った攻撃性」がお手軽に公に出来てしまうことで、
「外部への攻撃性」へと転嫁していくのも、自分としては、
客観的に見ても、道徳心はないかもしれないが、
「人間として取り得る行動(言論)の一つ」、
と思えるのである。
そして、春から学び始めることになる高等教育に於いて、
私の言論が変わる可能性が、皆無、とは言えない。
実際、ことばあそび、と捉えられているかもしれないが、
今度は、無罰的、になりつつあるような気配もある。
科学的に物事を考えていくようになれば、
内罰的な内省も、外罰的な攻撃も、無罰的な言論も、
無くなる可能性がある。
実際に、テレビ番組について、好意的な発言をしているエントリもある。
逆に特定団体に対してむき出しの攻撃性をぶちまけているエントリもある。
初心に立ち返ってみると、ここはそれほど無道徳なものが許されるような場所ではない。
「批判」はあったとしても、「攻撃」と取れるような言葉を連ねるような場所ではない。
ここは、公、であることを、まず意識していなければならない。
どうも、私的な考えを思いついては書きなぐっている、としか取れないブログである。
そして、意外とそういう方がアクセス数も、訪問者も、多かったりする。
もちろん私は多数派ではないだろうから、少数派のなかでも、「突飛な」文章を書いた方が、
「意外と人々の興味を惹く」、ということに慣れてしまった、
あるいは、満足してしまっている、と言えるのかもしれない。
ちょっと現在の自分を、客観的に見てみた。
まだまだ外罰的な文章を書く事があるかもしれないが、
最低限の「道徳心」といったものは失わずに書いていきたい。