或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

現在の宗教的立脚点。だけど雑文もあるか

2011-07-16 00:46:56 | 日記
まぁ誰が見ても分かるように、最近のエントリは、宗教についての事が多い。

まだまだ各宗派の経典などをちゃんと読みこなしたわけではないので、

これから方向性が変わることも多々あるかもしれないが、

今のところの、私の宗教的土台を記しておこうかな。

まず、Tolstoi。一応ある程度は読みこんだものの、キリスト教からは離反した。

ただ、あるサイトにまとめてあった、トルストイ主義、の抄は現在でも私の中に生きている。

基本二つなのだが、もう一つは入れようかどうしようか迷っているところではある。

まず、「悪に抗うことなかれ」。つづいて、「戦うことなかれ」。あと微妙なのが、「怒るなかれ」。

最後のがちょっと引っかかっているのではあるが、仏教にも「不瞋恚」というものがあって、共通している。

うむ。一寸まだ考えておこう。

続いては仏教。自己的密教、と言ってもいいものなので、密教の本質である師資相承とはかけ離れてしまっているし、

経典だけで、実践が伴っていない。まぁ、それもまた自己流だからいいかな、なんて軽く受け流してしまっているところもあるが。

まずは、「愛染信仰」。続いて、「理趣経信仰」。最後に、「現世浄土主義」。

どっぷりと現世利益にハマってしまっているが。

最後の「現世浄土主義」は、TBS系列の「世界遺産」で放送された平泉の回を見て、

「これは六道が現世に起こる様々なことで、皆の目指すべきは、現世での極楽浄土、ではないか」と思えたから。

実際に「修羅」なんてちょくちょく見かけるしね。

そして、儒。

今までは一切興味を持ったことがなかった。だからなんとも思わなかったし、読むこともなかった。

何きっかけか忘れてしまったが、「大学」、「論語」ときて、ここで中断。何かわからんようになったから。

ただ、そこまでの間では、「修己治人」と「恕」が共感できた。

ただ「修己治人」の場合、自分的には「格物致知」「修身」が目指すべきところだと感じた。

そんな「治国」や「平天下」何て大仰なことは、私には関係の無い事だと思える。

「恕」は実は書籍から得た知識ではない。NHKの「論語講座」に出てきたのを、

「あ、これは必要やな」と思えたもの。言い換えると「思いやり」になる。

まぁなかなか難しいんやけどね。何か変にえぇことするのって、こっぱずかしい気がせんでもない。

扨、最後は老荘思想。

昔、何度か挑戦したことはあったものの、全て玉砕していた。

今回はまぁなんとか行けそうな感じがする。

今のところまだ老子の途中までしか読んでないけど、

一つ共感したのは、「無為自然」。実際には政治的な意味じゃなくて、「ありのままの姿、生き方」のようである。

これはちょっと前から心がけているものに近かったので、

「こんな昔からこういうことがあって、似たような解決策を考えついてたんやなぁ」と思った。

ま、今のところはそんな感じかな。

また、大転回、とかあったりして。あ、あと、「無為自然」は、確かに人工的なものは排除できないが、

できるだけ少なく、自然に満ち溢れたところに行ってきたことも影響している。

自然って、いいなぁ。でもそこで生活するとなると大変なんやろうなぁ。

人工物の中に閉じ込められてはいるものの、生活と言えば、やはり都会の方が便利やね。

でもやっぱ、人生の終焉は自然の中で迎えたいね。