帰り道に、ふと思った。
「仏教も集金機械の一つではないのか?」
今更な考えなのではあるが。
信仰に入ってしまえば、そんな考えはまず出てこないとは思うのだが、
私の心の中では、この文言が繰り返された。
極論を言えば、国家や暴力団も集金機械の一つである。
この世、今の世では、まずカネがないとはじまらない。
ここでトルストイ的に転回する。
宗教をアヘンであるとした共産主義でさえ、実質は宗教的であり、
原始共産主義的なトルストイも、その目指したところへはたどり着いてはいなかったはず。
Iwan der Narrの王国がその目指すところだったと思われるのだが、
まずそれは、殆ど無理であると言える。
ところで、私自身の仏教観がどうなったのかと言えば、
「集金機械」であり、「葬式仏教」としての存在ではあるが、
極私的に、いいとこどりをして、「仏教徒」たらんと欲するところである。
トルストイへの回帰は行わない。私はキリスト教ではなく、仏教に依っていく。
ただ、トルストイのように、キリスト教への造詣を深め、さらなる極私的な新たなる境地に達する、というところまではいかない。
古文、漢文、サンスクリット、などを習得して、自らによる教義を打ち立てるところまでは、
流石にこの私には無理である。
だから、少しずるいかもしれないが、上述のように、いいとこどりの仏教観の中、これからの人生をおくってゆく。
勤行も今夕から行わないことにした。だから、勤行寺・宗派、がなくなり、
檀那寺・宗派、参拝寺・宗派の2ヵ寺・2宗派をもっていくことになる。
一つだけ具体的なことを言っておくと、帰依する仏様は、大日如来さまと愛染明王さまである。
しかし、なぜこんなときにこんな考えが巣くったのであろう?
これもまた、大日如来さまの巡りあわせによるものであろう。
「仏教も集金機械の一つではないのか?」
今更な考えなのではあるが。
信仰に入ってしまえば、そんな考えはまず出てこないとは思うのだが、
私の心の中では、この文言が繰り返された。
極論を言えば、国家や暴力団も集金機械の一つである。
この世、今の世では、まずカネがないとはじまらない。
ここでトルストイ的に転回する。
宗教をアヘンであるとした共産主義でさえ、実質は宗教的であり、
原始共産主義的なトルストイも、その目指したところへはたどり着いてはいなかったはず。
Iwan der Narrの王国がその目指すところだったと思われるのだが、
まずそれは、殆ど無理であると言える。
ところで、私自身の仏教観がどうなったのかと言えば、
「集金機械」であり、「葬式仏教」としての存在ではあるが、
極私的に、いいとこどりをして、「仏教徒」たらんと欲するところである。
トルストイへの回帰は行わない。私はキリスト教ではなく、仏教に依っていく。
ただ、トルストイのように、キリスト教への造詣を深め、さらなる極私的な新たなる境地に達する、というところまではいかない。
古文、漢文、サンスクリット、などを習得して、自らによる教義を打ち立てるところまでは、
流石にこの私には無理である。
だから、少しずるいかもしれないが、上述のように、いいとこどりの仏教観の中、これからの人生をおくってゆく。
勤行も今夕から行わないことにした。だから、勤行寺・宗派、がなくなり、
檀那寺・宗派、参拝寺・宗派の2ヵ寺・2宗派をもっていくことになる。
一つだけ具体的なことを言っておくと、帰依する仏様は、大日如来さまと愛染明王さまである。
しかし、なぜこんなときにこんな考えが巣くったのであろう?
これもまた、大日如来さまの巡りあわせによるものであろう。