或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

急転直下

2011-05-26 22:08:05 | 日記
帰り道に、ふと思った。

「仏教も集金機械の一つではないのか?」

今更な考えなのではあるが。

信仰に入ってしまえば、そんな考えはまず出てこないとは思うのだが、

私の心の中では、この文言が繰り返された。

極論を言えば、国家や暴力団も集金機械の一つである。

この世、今の世では、まずカネがないとはじまらない。

ここでトルストイ的に転回する。

宗教をアヘンであるとした共産主義でさえ、実質は宗教的であり、

原始共産主義的なトルストイも、その目指したところへはたどり着いてはいなかったはず。

Iwan der Narrの王国がその目指すところだったと思われるのだが、

まずそれは、殆ど無理であると言える。

ところで、私自身の仏教観がどうなったのかと言えば、

「集金機械」であり、「葬式仏教」としての存在ではあるが、

極私的に、いいとこどりをして、「仏教徒」たらんと欲するところである。

トルストイへの回帰は行わない。私はキリスト教ではなく、仏教に依っていく。

ただ、トルストイのように、キリスト教への造詣を深め、さらなる極私的な新たなる境地に達する、というところまではいかない。

古文、漢文、サンスクリット、などを習得して、自らによる教義を打ち立てるところまでは、

流石にこの私には無理である。

だから、少しずるいかもしれないが、上述のように、いいとこどりの仏教観の中、これからの人生をおくってゆく。

勤行も今夕から行わないことにした。だから、勤行寺・宗派、がなくなり、

檀那寺・宗派、参拝寺・宗派の2ヵ寺・2宗派をもっていくことになる。

一つだけ具体的なことを言っておくと、帰依する仏様は、大日如来さまと愛染明王さまである。

しかし、なぜこんなときにこんな考えが巣くったのであろう?

これもまた、大日如来さまの巡りあわせによるものであろう。