或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

岩波文庫版「イワンのばか」

2011-03-31 22:26:20 | 日記
全9編が収録されているのだが、

「鶏の卵ほどの穀物」を読み終わったところ。

トルストイは、原始キリスト教に立ち返って、

自らの教義を作り上げたという。

「人はなんで生きるか」で示されたところに私は惹かれてしまったのだが、

「鶏の卵ほどの穀物」はごく短い作品ではあるが、

レーニンが愛読者であったという事や、

ロシア帝国が倒され、ソビエト連邦になってからも厚遇されたのがよく分かる一編である。

明らかに原始共産制社会を賛美していると言えるからである。

それはトルストイが農本主義へと入っていった一歩として、よくわかる。

しかし、トルストイが夢見た社会はやってこなかった。

そのあと、明らかに共産主義から逸脱し、

一党独裁制の帝政と大して変わりのない、いや、もっとひどいかもしれない社会へと変わっていった。

共産主義、イコール、一党独裁帝国主義、ということになってしまった。

トルストイが語るように、「モノ」を捨て去った原始共産主義、こそが元々の目的地ではなかったのか?

他の共産主義、社会主義を標榜する国家も、殆どはそうである。

中国は「特例として」資本主義を受け入れるという、訳のわからない方向へと走っている。

崩壊したソ連を構成していた各国も、共産主義、社会主義から脱している。

北朝鮮は、いわずもがな、帝政である。

中国も「皇帝治下」の歴史が長いゆえに、「新しい帝政」と言えるかもしれない。

「資本主義」の反対語は、「社会主義」ではなく「共産主義」であり「計画経済主義」である。

「モノ」を捨て去ってはいないのである。というよりも、今の世で、「モノ」を捨て去って生きていくことなど、

到底不可能なのである。

では「社会主義」の反対語は何かと言えば、「自由主義」である。

これが何を意味するか?

それは、以前ある識者が言っていたように、

「日本は資本主義ではあるが自由主義ではなく、「緩やかな社会主義」である。」

ということなのである。

しかし昨今、「緩やかな社会主義」が崩壊し、「自由主義」へと変わりつつある。あるいは既にそうなっている。

これは少なくとも、日本にとって本当によかったことなのかどうか。

ようやく日本は「自由競争主義」となり、「一億総中流」ではなくなった。

「一億総中流」と言う言葉こそ、まさに、「社会主義」であり、「共産主義」ではないだろうか。

一体、日本にとって、どちらが「幸せ」なのであろうか。