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「日本人」という病

2008-11-23 23:30:36 | 感想
「何も選ばない」生き方のすすめ:NBonline(日経ビジネス オンライン)
この記事を読んで「日本人という病」、という言葉が頭に浮かんだ。これをテーマにここしばらく考えていたことについて何か書いておきたいと思ったのだけど、なんとなく予感がして検索してみたら案の定、とっくに語られていた。河合隼雄はとても有名な方なので、名前はもちろん知っていたし、その思想にもとても興味を惹かれていたにも関わらず著書を拝読したことがない。とりあえず今は、恐らく先人達に考察され尽くされているとしても、自分なりに考えたところまでまとめておきたい。いずれ著書を読む時に、答えを合わせをするようなつもりで。
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<病んでいるのは誰なのか>
病には先天的なものと後天的なものがある。ここでは、自覚できるものと自覚できないものと言うべきだが、医者(観察者)の立場と当事者の立場では、その意味する所が違ってくる。後天的なものは、自分が知っている通常の状態と比較して何かしらの変化を認知するし、それゆえ自己の異常を受容できるものである。それに対して、先天的に持って生まれたものは、それが病であっても当事者にとっては、物心ついた時に自らに既に与えられた条件であり、それが当たり前の状況なのである。自分と他者を比較するなり、第三者の意見として何かが違うと認められたときに、何が違うかは認知できないまま、自分の異常を知らされる。周囲と異ならなければ、周囲が気付かなければ、それは病とは看做されない。しかし、じゃあ一体誰が病んでいるのかという問いを突き詰めれば、多数派工作と異分子排除のメカニズムが生理反応レベルで染み付いている人間の本質が露になるのだろう。ああ、それが、自分がより優位に生きる環境を求める生物として、正常な人間である証なのか。

上の記事のインタビューで、日本人は、
●時間に正確でないことが
●理由のない(論理的でない)行動が
●責任の所在がはっきりしないことが
●自分の価値基準が周囲と異なる(皆と違う)ことが
フラストレーションになっていると指摘されている。つまり、より時間に正確で、つねに正当な根拠に基づいて行動し、責任感を持って、皆と協調して生活することが正常だと感じていることになる。どこか見覚えのある「症状」だ。

これは、病んでいる人が、より症状の進行している人を病人扱いすることで安心する構図だ。現実には広い範囲に違ったレベルで分布する何ら境界を持たない集団なのであるが、それでは病める者と正常な者を区別することができない。そこで、極端な領域を切り分けることで、多数派と少数派に二分し、多数派をノーマルとするのである。それは実に統計学的なやり口である。しかし、マジョリティとマイノリティの境界線を、一体何が分けているのか、誰が分けることを望んでいるのか。

ここで別の記事を読んで気付いた。以下引用、

 通常、この制度にあっては、目標の価値と達成度で評価される成果が部署なりグループなりの中で相対評価されて、その相対評価に応じてボーナスなどで「差を付ける」仕組みになっている。しかもボーナスは、会社が事前に払ってもいいと思っている程度の金額を配分するものであり、仮に大いに成果を上げても、その絶対額は大きなものにならない。

 外資系の会社の報酬制度を経験すると、日本の会社が強調する「同期でも、上下に数十万円、場合によっては、数百万円の差が付くのだ」というポイントは、「たかだか、そんなものか」「しょぼい」という印象になる。支払いが「しょぼい」くせに、成果・報酬の優劣をあたかも人の優劣の差であるかのように強調するから、雰囲気が何とも「陰気」なものになる。Business Media 誠:山崎元の時事日想:給料に不満を感じる理由――日本に根付く“陰気な成果主義”とは?


そうか、逆に見れば、本来誰一人何もかも同じ人等いないにも関わらず、団結していられるは、互いの差が小さいから仲間意識を保てているだけなのだ。皆それぞれ個性的ではあっても、その差が「しょぼい」から、誰も集団から離れるリスクを取れないんだ。

多数派であることはアドバンテージだ。それだけで権力にもなる。「常識」はそれが通用するコミュニティにおいてのみ、信用コストや判断コストを下げてくれる。脳を使わせないで済む環境は、経済的なコスト以外に、心理的な圧力も軽減する。常識を共有していない者にとって、それは圧力になる。厄介なことに、多数派は常に境界線を引いているわけではない。自己と他者の差をできるだけ「しょぼい」ものとして扱えるように、基準値なり理論式を都合良く組み替えているだけである。それは、より大勢を自陣に引き入れようとする力である、しかし極端の領域にいる者にとって、「常識」という中央値ははるか遠くにあって容易に受けれがたい。そこに見えない圧力を感じ取ってしまうことになるのではないか。境界線は実は少数派によって引かれているのではなかろうか。

<多数派を分断する>
境界線を引かなければ、あるいは線の引き方によっては、勢力の分布を変えることができる。さて、ではどうすればよいか。多数派が多数派であることを疑わせればよい、少数派に近い領域を自陣に取り込めば良い。多数派の仲間意識を分断することが必要である。少数派が突くべきは、自分達とその他大勢の差ではなく、自分達の均質性に対する多数派のばらつきであろう。「自分はAなのに、あなた達はBであるのはなぜか」ではなく「自分達はAなである。ところが、あなたはBであり彼はCであり、あの人はDである。これはなぜか」と問い続けていくことがポイントである。このばらつきの指摘が、単一グループを複数に分けることになる。その中から自分達の基準に近いグループを取り込んでいけば良い。

しかし,一旦生じた仲間意識の分断は容易ではない。これは利害関係でもあるからだ。多数派であることのアドバンテージを誠実さだけで放棄するのは人間の本能に反する行為だろう。そこで、より戦略的には、グループの再編成によるコストの削減、多数派であることの経済的損失を指摘するのである。

<コストに含まれるもの>
合理的であるかどうか、その判断基準は、持っている情報量やその種類によって異なる。論理的、経済的に合理的であることが全てではない。当事者にとっての判断は、常に合理的である。それが不条理なものに思えるならば、あなたに見えていない情報がそこに介在しているというだけである。ギャンブルがなぜ成立するかといえば、経済や論理以外に消費するコストを所有する人が居るからである。

常にロジカルで経済的な判断を下せる人は存在する(参考記事:People With Autism Make More Rational Decisions, Study Shows)。これは、そういう能力をヒトが持ちうること、人体の取り得るシステムとしてそういう適応が可能であることを保証する。しかも巷では、「適応」といえば「機械モード」思考回路の構築を意味する(参考記事:取り違え回避のやりかた - レジデント初期研修用資料)。お役所仕事などというのはその典型だ。

一般的に、生体のエネルギー消費もコストに含まれる。体を動かすことは疲れることである。脳みそを使うことは疲れることである。継続する作業の中で判断力は劣化する。だから、考えること、判断を下す過程をシンプルにすることはコストを下げることになる。それは、効率を上げるだけでなく、均一条件における行動の精度をあげる。とりわけ、常識を共有するもの同士ではその効果は倍増する。しかし、相手と前提を共有しない場合、人間の誤作動によるトラブルが引き起こされる。

基本的に、四六時中隙間無くヒトはストレスに晒されている。そのような環境下では、機械モードで判断する行為はコスト的に見ても合理的な判断なのである。

ストレスとは抵抗である。何の抵抗もなしには流れは何ら変化を生じない。何らかの抵抗が介在したときに、流れの早さや向きが変化し、それが五感(第六感も含むか)によって知覚される。感覚とは、人間が何らかの情報を感知することであるが、それは抵抗を感知することである。つまり、情報とはストレスそのものである。情報を提供することはストレスを与えることなのである。

情報を提供するにあたっては、与えるストレス以上にコストを削減するものであるか、もしくは、今すでにそれ以上に無駄なコストを費やしていることを相手に伝えなくては相手は耳を貸さないだろう。

さて、ここまで書いてきてなんだが、肝心の脳みそを使うコストを節約する例示を思いつく前にエネルギーが尽きてしまったようで、思考は一旦ここまで。

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