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ドラマチックに学ぶこと、ベストを尽くす生き方(学習の仕方)

2009-02-15 11:33:24 | 考え中
最近、また勉強することが楽しくなってきた。きっと本来の意味にあるような強いられた知的作業でなく、欲求の赴くままに自分から求めていることが大きな要因だろうな。何か新しいことを知ると脳が目覚めるような刺激を感じて、視界がくっきりと開けたような気持ちになる。その感覚というか手応えが、仕事の方にも好影響を与えている。新しいことを知るのは全て勉強だ。そしてきっと勉強は死ぬまでずっと続く。どうせ終わりのない知的作業なんだから効率的に継続させたいと、自分に合った学習方法について、絶えず迷い続け、考え続けている。

学歴とコネと大学の価値を書いたときにも感じていたことだけれど、「アメリカの高等教育理念」(日米教育委員会 制度1 A. 日本との制度の違い)に示されているような、価値観を誰もが当たり前のように持っている社会を目の当たりにして、そこから多分に影響を受けていることは否めない。


<近道じゃなくて早道>
学校の講義から離れて久しいけれど あの頃よりも、面白かったと感じるレクチャーにたくさん出会うようになった。楽しいと感じられるのは、情報の取捨選択をするゆとりができたから、出来る限りの情報を正確に記憶することが目的ではなくなって自分を楽しませるのに必要な情報を手がかりに話題をゆったり聞くことができるようになったからかなと感じてる。情報を取っておくスタンスから、すぐに自分で使うスタンスにシフトしてきている。自分の仕事にどうやって活用できるだろう、生活にどうやって関わるだろうかと、批判的に考える楽しみも分かってきた。学生時代からそんな風に考えられたらなんてよく思うことだけど、多分そうじゃなくて、いろいろ思い通りにならずに回り道してきた経験が、盲目に情報を頭に詰め込んで失敗した体験として、今の自分に効果的に活きているのだろう。

効率的な学習法を探す時、ついつい手早くて簡単なものに惹かれてしまう。でも、最短距離でゴールに辿り着けることが、必ずしも最適な解ではなくて、最速であること、労力を使わずに済むこと、辿り着く先が常に見えていること、楽しめることなど、勉強はゴールに辿り着くためだけでなくて、いろいろな目的があってそれに見合った学習法があるはず。例えば受験のため、単位の為に勉強していた退屈さを、今は旅行を楽しむように、自分のペースで歩いている。効率的な学習には、自分の感情をきちんと掴むことが大切で、そこから自分がどうしたいのかを見極めるのがいい。

なかなか物覚えが悪くって、出来の悪い自分がもどかしくなる、もっと性能が良かったらなあなんて思う。でもそういう性能の乗り物にのってしまった以上、上手な乗りこなし方を考える方が得策だ。燃費の悪い車に乗るならば、高速道路で燃費を節約するのが良いのか、適宜ガソリンの補給が出来る一般道が良いのか、はたまた道の途中なら、どこで切り替えの判断を下すと良いのか。ガソリンが切れそうなときには、最短距離でも混雑していて、ガス欠になるかもしれない。坂を上るよりは下る方が燃費には良いかもしれない。行き先だって自由に選べるはずなのだから、ちゃんと乗り物の性能が活きる場所を目指せば良い。

そういった効率化を図ることは大事だし、その考え方を知っておくことは生きていく上で必要不可欠だけれど、実際には、学問に限ったことじゃなく、人生は何もかも計画通り、思い通りにならないことばかりだから難儀する。より早く辿りつけるように、とにかく先に進むことに気を取られて、いつの間にか単なる近道探しに陥ってしまって、行き詰ったり、やりなおす羽目になったりする。

<ドラマチック言語>
そのような思い通りにならないもどかしさこそ、学習法として取り込めないものだろうかと考えている。それは、頭に残るのではなく心に残る記憶の作り方を知ることではなかろうか。例えば、歴史が好きな人は、年号なんかよりも、どういった経緯で、誰がいつどこで何をした結果、こういう事件が起こった、これがこのときあったから、後々このようなドラマが生まれたという因果関係をドラマチックに読み取って楽しんでいる。そのわくわくした感情を込めていきいきとした「物語」を聞かせてくれる。語り手、情報を伝える人が何よりドラマを感じていることが、歴史の面白味を伝染させているように感じる。蘊蓄の面白さは淡々とした箇条書きでは伝わらない。

そんな人達から学んだことは、歴史を古い方から学んでいくだけでなく、遡っていくやり方もありなんだなということ。歴史を学ぶとき、古い出来事から順を追っていくのは確かに、過去の因果が未来の歴史に影響していることを無駄無く説明できるので道理に適っているように見えるけれど、感情に驚きと納得が伴わない、いや、そのような解説をすればよいだけのことなのだけど。逆に歴史を遡っていく方が、現在の自分の境遇にもっと密接にリンクしたところから始まるので、感情を励起させ易いに違いない。「あのときこうしていれば」という実体験に近い。もっと自由に、どこからでもいい、自分の好奇心、半径一メートル、暮らし、年代……手の届く範囲にある現実に到った経緯を繙いていく学習法こそが、なにより実感として心に残る学習になる。ちょっとしたアクシデントで一時的に記憶が飛んだ友人の為にレポートを仕上げる手伝いをしたことがあるが、そのときの内容は、その友人との思い出とともに鮮明に蘇らせることができる。また別の、入院していた友人を楽しませるために、ふざけたコメントを付けながらまとめた講義ノートなどは、自分でも楽しみながら、より深く記憶に残っている気がする。

<記憶回路の作り方 感情タグの共有>
情報はインプットしても埋もれてしまっては役立たない。大切なのは、必要な時に適切な記憶が引き出せること。必要な時とは困ったとき、疑問が湧いたときのこと。困ったときの感情とそれを乗り切ったときの気持ちは有用に活用されるべきもの。そのためにも、感情とリンクさせた記憶のタグ付けをしておきたい。効果的な学習には、もっと知りたいという欲求が伴うもの。このもっと知りたいというもどかしい感情をどの方向に向けると満たされるのか、これを知っておくことは、原因追及の仕方、情報の発展的なアウトプットの仕方を知るということ。自分が何にどのような順序で疑問を抱くのか、観察してみると面白い。情報をインプットされた時の感情と、それを整理してアウトプットしたときの手応えをセットで体に覚えさせておくのだ。

<メモを取らせる話し方>
インプットはアウトプットにリンクする。その知識を愛することで、感情を込めた語り方が自然と洗練されていくようだ。まず相手の心に残すキーワードは感情にリンクするタグ。手順を指導する立場に立った時、マニュアルを作るのがよいだろう。でも、マニュアルがあったとしても強調する所とそうでないところがあるはず。人である以上失敗は避けられないという前提があるとして、そのとき出来る限り失敗を回避するための要チェック項目があって、そこで救致命的なトラブルを回避する。そのポイントこそ、メモに残して貰いたい部分。自分がその失敗通して、あるいは失敗を回避したことで、誰がどのように感じたのか、それをまず言葉にして伝えておく。学習の基本要素は、「なぜという疑問、なぜならという答え、それならばという発展(新しいなぜ)」手順の説明もトラブルチェックもこの形式。論理的な展開であることが自然。手順が論理的に構成されているなら、伴う感情も共有し易い。しかしそれでも、体験がない人、体験に伴う感情を共有できない相手では共感を得られない。ならばどうするか。まずは、相手と共有できる感情のタグ付けを狙う。楽しい、便利、楽、危なかった、助かった、失敗した……そういう感情を表現するキーワードを常に説明に織り込むことで、感じ方を摺り合わせていけたら良い。仮に違う感性の持ち主でも、語り手がどう感じるだろうかを予想させる手がかりにはなる。つまりはトラブルをトラブルと認知させることが必要で、そのためには動機となる感情の説明は欠かせない。でも、人には気持ちがトラブルに負ける弱い部分もある、特に慣れていない新人に取ってはひと際。そこでトラブルとその対処と解決の感情までをセットで提供することで、思い通りにならなかったとしてもなんとかなるという体験に昇華しておくのがきっと効果的。

<人事を尽くす>
「思い通りにならなくて良かった」
常にベストを尽くしている人の言葉だとつくづく思う。そういえる人生を送りたい。自分の人生にドラマを感じると、それがモチベーションに繋がるように、思い通りにならなくて良かったといえる、そういう体験を体に記憶させることが、なにより学習の継続に繋がるように思う。自然体でいられること、惜しみなく自分を発揮して、褒められもすれば、非難されもして、時には自分を育てたり、時には自分を受け容れてもらえる場所を探したりしながら、そうやって自分にフィットする環境に次第に近づいていくのだろう。まずは自分に出来ることをやり尽くすことが自然だと思う体質作りをしていきたい。

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