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気配りの仕方

2008-11-06 10:12:29 | 考え中
予めおことわりしておきますと、特に気配りの秘訣が書かれているわけではありません。何らかの見解や主張が先にあって、そこに向かって文章を書いているわけでもありません。書きながら、何かしら今の自分を反映する考え方が見えてくることを期待して、ゴールを定めずに筆を進めています。

気配りについて初めて意識したのは、小学校高学年の頃。母が私のある友人を指して、「あの子のように気を使える人間になりなさい」と言われた時だと記憶している。

確か、自転車を貸してほしいと頼んだら、私が抱えている荷物を見て、自転車を貸してくれるだけでなく、自転車に据え付けられているカゴを開いて(当時は後輪の脇に取り付ける折りたたみ式のカゴがあったのだけれど、今もあるのかな)くれた行動を指してのことだったと思う。

それまでは、指示されたことを指示通りに行うということしか頭になかった。指示通りにこなせば相手も満足するものと思っていた。教室の掃除をしなさいといわれれば、指導されたとおりの手順で、床を掃き、雑巾で拭き、机を並べるだけであったし、テストであれば100点満点が目指すべきもので、満点以上の知識を得ようという発想も欲求も全くなかった。与えられた範囲内でできることをやるだけだったが、そのとき初めて、指示されていないことを行うこと、自分で考え判断することの価値を示されたように思う。

最も、このときはまだそれをどうやって実践すれば良いのかなんて全く見当も付かなかったし、当然、気が利くなんてところから程遠いレベルで、日々の経験値を積んでいた。自分のノルマをこなすだけでも精一杯で、他人を思いやる余裕なんてなかったのが実情だけれど。

自分が初めて気が利く人間だと評価されたのは大学進学後しばらく経ってからのこと。上下関係と礼儀作法にやかましいサークルに参加して、そこで作法や常識として指導されたことがあって、たとえば、それは酒の注ぎ方だったり、席順であったり、挨拶であったり、そのようなレベルの話。ナンセンスといわれればナンセンスなものであっただろうし、まあそれはそれとして。結局そのような振る舞いだって、自分としてはあくまでこなすべきノルマとして身に着けてきたものだったのだけれど、それがそのサークルを離れた場でも当然習慣として出てくるわけで、サークル内では当たり前であっても、外では気が利くように見えたようだ。で、その振る舞いに感心されることがあって、嬉しくなったのがきっかけだったように思う。気配りすることに初めて意義を見出して、心がけるようになった。

できることをしただけなのだけれども、それが誰かに喜ばれることが分かると、当然、それをもっと発展させたくなるわけで。そのときから、相手が何に喜ぶのか、観察して記憶するようになった気がする。「分かってるねえ」という言葉が鍵だった。自分が理解されていることが伝わることが相手に安心感を与えるらしいと分かった。とても些細なことでも、相手に関して知っていることを伝えると相手は喜ぶらしいと知った。その人の誕生日を覚えているとか、どのような料理を好むかとか。それまでは相手を不快にさせるかどうか、自分が叱られるかどうかが重要だったのが、相手が安心できるかどうか、喜ぶかどうかという捉え方をする余裕が出てきた。叱る基準、不満に思う基準って、実は結構共通していて、世の中や社会、所属する集団が持っている基準値を超えるかどうかなので、境界線(最低限のレベル)が分かりやすいのだけど、それに比べて、喜ばせる基準ってかなりまちまちだ。だから、自分がされて嬉しいことを基準にしたり、この年代のこの性別はこういうことが好みであるという程度の認識だとうまくいかない。そこで、次第に、一人一人個別の趣味嗜好や行動パターンを認知するようになってきた。その流れで、もっと相手の情報を得るために、相手に話しかける、無用に思える情報も極力引き出しておこうとするようになった。意識的なものじゃなく、自然とそういう行動ができるようになっていた。相手に話しかけるのは自分にとって非常に恥ずかしくて抵抗のある行為だったのだけれど、後でその人をプロファイリングする上で、それなりのメリットがあることを体験的に知ったので、他愛もない目的もない会話にも抵抗がなくなって気軽にできるようになった感がある。それでも、躊躇いなく相手にコミットできる人なんかが世の中には大勢いて、その振る舞いを見ると、自分なんてまだまだだなと思うのだけれど。そういう人を見ると、自分には「余計なお世話」と言われることを恐れる気持ちがブレーキをかけている気持ちがまだ残ってるなと思う。

お前は予知能力者か? なんて偶に言われることがあるが、当然そんなことはない。実は必要以上にいろんなハプニングを想定して準備をしている。その中から、相手の需要に応じて提供出来るものをタイミングよく差し出しているだけである。その陰では、準備されても使われること無く朽ちていくものが山ほどあるだけのことである。子供が望むか望まないかに関わらず、親はいつだってご飯のお代わりを用意してくれているようなものだ。ただしそこで自分が専門家になり、その手順に習熟してくると、今現在相手が何をしていて、次に「いつ」「どの段階で」「何を」したいと思うのか、どのようなミスが起こりやすいのかがわかるようになり、用意できるものが増え、無駄は減る。これらは自分が経験することで予測できるようになるが、相手が意識するより早く相手の欲求を先読みして動けるようになるには、自分がどういうペースでやるかじゃなく、どれだけ相手の手順を見ているかということも大事だし、その相手の心理も併せて理解している必要がある。最終的にそれを意識せずに行えるようになる段階では、相手に共感しているのだろうと思う。シンクロさせているというか。

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もう少し、経験からいつどうやって何を学んでいるのかとか、相手が意図していないことを読み取ることのメリットデメリットだとか、適応力とか応用力といった一般化された考察に向かうかなと思ったのだけれど、どうもそういう方向に思考が向かっていかないようなので、ここで一旦切り上げ。

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