フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

大学を義務教育にするべきか?

2006-10-26 14:13:29 | 政策
なんだか最近体調がよくない。胃腸がこわれているようで、痛みをかかえて寝込むことも多い。
だけど薬を飲んだたら快方に向かっている。
寝込んでいては取材はできないけれど、これまでの貯金をもとに書こう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大学を義務教育に

以前オフ会で、ある労働組合の活動家がこんなことを言っていた。

「大学を義務教育にしたほうがいいと思う。」

わたしは、この提案を受けて、すぐさま意見を言えず、押し黙ってしまった。

それは自分自身、二つの考えに引き裂かれたからだった。

ひとつは、なんてひどい、ということ。これまで日本では、準義務教育とも言える高校を卒業できない人間を労働市場から追い出すか、もっとも条件の悪いところに閉じ込めてきた。
それは中等教育のカリキュラムにあわない人間を労働市場からはじき出し、冷遇する仕組みだった。
それを大学にまで拡張すれば、学校があわないタイプの人間はどこまでムリを重ねればよいのだろう。
職人的な仕事の価値は、今以上におしこめられ、強制的に通わされる大方の人たちは鬱屈を重ねるだろう。
そこは収容所独特のいやがらせの温床となるだろう。また、各大学各学部が今以上に細かくランキングされ、画一的な価値と文化のもと、多様性が圧殺されるだろう。
個人が払うにせよ、国が支払うにせよ、学費もいくらかかのだろうか。
とてもムリな計画としか見えない。
たとえばわたしのような、一生学校や大学に行きたくない、行かなくてもいいと考えているグループはどうすればよいのか?


子どもの権利か労働者の権利か

しかし、もうひとつの考えがそのとき脳裏をよぎったのも事実だった。
子ども・若者、それに学位のないものをずっと学校・大学に社会的に隔離すれば、
失業率が下がる。それに賃金が上がる効果も期待できる。
組合活動家なら、子どもや若者を学校や大学に閉じ込めることになったとしても、失業率を下げ、賃金を上げることを優先するだろう。
そこにあわない個人は、社会的に隔離されることを拒否しているにもかかわらず、
「社会生活能力が低い」「コミュニケーション能力がない」ということにされる。
今でもその傾向はあるが、大学を義務教育にすれば、それよりも長く学校に通わなかったものは、ますます社会的に排除されることになる。

自分の答え


さあ、大学を義務教育にするべきか、しないほうがいいのか。
ひどく難しい問題であり、簡単に正解は出ないだろう。

わたしの答えを書いておこう。
不登校出身ということもあり、わたしはこの活動家の案には、反対することにした。
子どもだから(若者だから)失業と社会的隔離の憂き目にあって当然というのは、労働組合の中の家父長制である。これは改善されてしかるべきだ。失業の痛みは、各年代ごとになるだけ平等に負担すべきだ。
また、低学歴者だから労働市場から排除されても仕方がないという考えにも反対する。
学歴が低くてもできる仕事は世の中にたくさんある。また、そうした発想のもと、ムリに高校に通うと、小さいころ自分がやりたかった仕事のイメージが薄れたり、中産階級中心の学校文化のなかでマイナスのイメージを作られたりして、途方にくれる例も報告されているからだ。
そもそも、大学を卒業さえすれば安定した職があるとは限らない。
あまり伝統のない私立文系の大学のなかには、卒業の一年も一年半も前にすでに就職をあきらめている人もいる。大学側も、そういう学生が大学にやってくることを嫌うムードさえあるという。大学としては世間体が悪いのか、どう扱っていいのかわからずとまどうのかは知らないが、実際そのようなものである。
にもかかわらず、望まない者まで一律に、大学の中に封じ込めるような政策を支持するわけにはいかない。

大学の帝国

かつてキリスト教は「ひとつの信仰、ひとつの教会、ひとつの司教制度」という方針をかかげた。それは統一をめざすローマ帝国にとって好都合なイデオロギーだった。
それと同じように、「ひとつの教育、ひとつの学校、ひとつの教員制度」を労働組合が目指すべきなのだろうか?
働いたり、失業したりしながら学ぶことは、社会的排除の条件にしなければならないのだろうか?
学校教育や大学教育だけが教育なのではない。学校や大学の外で学ぶこともたくさんある。それを企業にも評価するようにねばりづよく訴えるべきだとわたしは考える。
学校や大学の中にも外にもいろいろな教育が、学びのルートがあることこそ、多様性の観点から見てのぞましい。
また、教師や教授から教わらなければ何も学べないわけではない。自らの内なる目覚め、気づき、師匠について学ぶこと、口伝、インターネットを使った学習など、他の多彩な教員制度も尊重されなければならない。

したがって、提案をした直後に活動家のように「いまどき大学出ていないヤツなんて~」というのは、まったくの筋違いだ。

(念のめに言い添えると、ここでわたしが言う多様性は縦ではなく横の多様性だ。
分極化を賞賛し推進するのではなく、分極化を和らげる多様性だ。)

以上の理由によって、大学は義務教育にしないほうがいいとわたしなら考える。読者はどうだろうか?

追記1:先ほど睡眠から目覚める寸前の意識の中で気がついた。
こちらの記事で紹介した労働組合活動家は、旧「帝国」大学・元国立大学を中退したと別のところで本人の口から聞いたことがある。
旧大日本帝国の「天皇の下、国民は平等」という統一理念を、彼は「大学教育の元、国民は平等」という統一理念におきかえていたのである。
しかし、それは学歴による身分制を招く。その学歴は金で買うものである。
親が貧しければ子は学歴をまず買えない。しかも、イリイチら指摘するように、「自分が学校で努力しないか能力がないから自分は大学を出らなかった。就職できなくても仕方がない」という論理のもとで、自己否定を強いられる。
これは、天皇陛下の「大御心」の堕落した形態である。
知らない間に勝手に「臣民」扱いされ、不本意にも「救済」されかけた一人として、抗議しておこう。
ずっと大学から乳離れできない象徴的な赤ちゃんの状態がいいとは思わない人間、それが苦痛でかなわないと感じるタイプもいるのだ。
世の中には学者以外の人間も必要だ。「学者子ども」タイプ以外はすべて社会不適応にしてしまうような「救済計画」は、ある種の人間を選択的に殺傷する毒ガスを地下鉄にまくようなものである。
















最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
学歴社会 (ost_heckom)
2006-11-01 23:41:25
受験競争の激化のあまり、「親や生徒の希望に応えようと」必修科目である世界史を履修させなかった高等学校がたくさんあったし、虚偽報告をしていた学校もあった、という問題をめぐって、大学全入によって、受験競争が緩和されるというような意見があるようです。この意見は真剣に考えてというよりは、単に「狭き門」を無限に拡張すればよいという反省論理から導出されたもののようですが、ワタリさんの記事は厳しい反論になっていますね。(拙ログにて一部引用・紹介させていただきます)
返信する
大学からの自由を求めて (ワタリ)
2006-11-16 02:58:06
ost_heckomさん、いらっしゃいませ。

メールもいただき、ありがとうございます。

わたしは大学は、みなが行くようなところではないと思います。

実はこのあいだ、この記事に出てきたアクテイヴィストからメールがやってきました。
自分は大学義務教育化とは言った覚えはない。大学の学費を無料化したうえで、失業者に学籍を与えるという矢部という評論家の話に言及したと言うのです。

これはわたしのほうの記憶と食い違います。が、テープ録音などの証拠がないためいまさら確認のしようもなく、主観的な解釈の違いということにするほかないでしょう。

これに関して自分としては、大学は中等教育の成績が上のほうの15%の特別な人たちが行くところだと思うのです。そのくらいしかアカデミックなカリキュラムには向かないでしょうから。

残りの大半は、行かなくてもいいのではないですか。

かなりの割合のものが大学に行くと、大学以外の文化がやせ細ってしまいます。
大学進学率の低い沖縄になぜあれほど伝統的な音楽や踊りが残っているかといえば、大学という地元文化を破壊する悪が沖縄には少ないからです。
みなが大学に入れるという幻想ができると、競争の都合上、大学に行きたくない人たちまで「行きたい」といわざるをえない状況に追いやられてしまいます。
今の日本にもその状況は部分的には成立しています。
それは大変よくないと考えています。

一生大学なぞに行かなくてもさほど不利ではない政策が必要です。
大学の学費無料化など必要ありません。
むしろその費用を初等中等教育の学費無料化・文房具費や給食費の無料化、奨学金などに当てるべきです。
高校までの学費を払える家庭のみを救済する大学の学費無料化などあとまわしでいいのです。

人は大学に頼らなくても生きていけます。日々の仕事や生活の中から学ぶことができます。
そこを(半)強制的に大学に行かせようとするのは間違っています。

もし大学全入が実現すれば、今度は大学間の横の序列が徹底化されるだけではなく、いい大学院または留学先をめぐる競争が熾烈になるでしょうね。
そこまでの受験負担と学費負担増には、個人も国家も耐えられないでしょう。
今求められているのは、大学への自由よりも大学からの自由です。
もちろん、人生を殺すことがないように、中等教育における自由化・民主化と、実務中心の職業訓練の充実は必須です。

すべての人が、大学の授業・テスト・教科書といった典礼を通じてのみ賢くなり救済されるという「大学真理教」に入信しない自由は誰にとっても大切です。これからも言葉を出したりひっこめたりしていきたいと思っています。







返信する
補足 (ワタリ)
2006-11-16 03:04:21
以前ちょっとハラナさんのブログでも書いたことがあるんですが。

初等・中等教育における制服・学校指定のバッグ・帽子・くつ・文房具セットなどを、団体割引とは思えない値段で購入させる慣習は廃止されてしかるべきです。
自分で手にいれられない子には、支給または貸し出しをすればいいのです。
教育市民運動やジャーナリズムが言うように、教員へのリベート・マージンも絡むため、抵抗する向きもあるでしょうが、ここは家計の苦しい人たちを優先するべきでしょう。それこそ社会的連帯というものです。

なお初等教育・中等教育における学校に行かない権利は当然守られねばなりません。
これ以上戸塚ヨットスクールのような、教育と治療のために殺人さえ行う施設を「必要」にしてはいけないのです。
返信する