「 鎌倉時代の1232年、鎌倉幕府制定の貞永式目の追加の条目というのがあります。これはある問題で争っている二人がいて、決着がつかない場合にはどうするか。二人とも偽りの申し立てをしないことを宣誓した起請文を書いて、14日間神社にこもるんですね。その期間中に、次のいずれかの不都合が起こった場合、その人の起請文は偽りだとされたのです。
これが面白いんですが、鼻血が出た場合、起請文を書いたあと病気になった場合、あるいは鳥などにおしっこをかけられた場合、あるいはねずみに衣服を齧(かじ)られた場合、身体から下血↓場合、これには注がありまして、楊枝で歯の間をほじくっている時に出血した場合と痔が悪い場合は除くと書いてあります。それから、近親に支社が出た場合、父子に罪人が出た場合、飲食の際むせんだ場合、乗馬の馬が倒れた場合という9つの条目があげられたおりまして、こういうことが起こったらば、その本人の起請が偽りだということになります。(中略)
これは「世間」というものの性格をうまく言い当てていると思うんですね。「世間」にはこういうところがあります。偶然にせよ、変な目にあわないためには、常に謙虚に、慎ましやかにおとなしく暮らし、一木一草といえども大事にし、要するに、鼠に衣服をかじらえたりもしないし、ゴキブリだからといって追い回したりしないというふうなことがないと、何かの恨みをかう。そういうふうな関係がここにある。これは、本人の道徳的価値評価ではない。自然界とうまく交わっているかどうか、ということが、日本人の人格評価の基礎にあったのですね。」
」(阿部謹也「日本社会で生きるということ」朝日文庫2003:40-42)
↑ のような人間観・世界観は、今日ではみられない。ただし、そのままの形では見られないという意味だ。
今日では、自然とのかかわりは問題にされない。たとえば犬にかまれたり、鳥のフンを落とされたりしたことで、人格を疑われたり、普段のこころがけが悪いとされることはない。
ただし、中世の自然を社会におきかえると、どうだろうか? もうひとつ、自然でもなく社会でもなく自己との関わりが、「心の商品化」と平行して、過度に重要視され監視にさらされていやしないか?
ふだんから、社会との関係、言い換えれば人間関係が大切だ。あるいは、コミュニケーションとかプレゼンテーションがヘタなのはダメだ。それは、怠惰だ、就職できない、将来大変なことになってしまう、どこか心理的に病気なのではないか・・・・・・。
そうしたまなざしが、個人の自由で自然発生的な人間関係を通じた人格形成を、かえってゆがめてはいないだろうか? また、そのことを通じて、「無為の権利」とでもいうのか、人がただそこにあればいい権利への圧迫となっていないだろうか? 問題を解決することをあせるあまり、問題を隠蔽したり、誤認したりすることが日常化しているとしたら?
個人の社会環境とのかかわり、それを決定するのは個人の内面である。このテーゼから自由になるには、どうしたらいいのだろうか?
近代化のなかで達成してきた、独立した個人、社会は個人の外面はともかく内面を裁かないといった原則は、「心のケア」を起点とし終点とする個人への統制として、社会に拡散している。
そろそろ話をこのブログの主題にリンクさせよう。あなたが失業がいやなのに失業しているのは、暗い・いけないことだと単純に決めつけらえてしまう。あなたが失業しているのは、心に問題があって、社会とうまく関われないからだとされる。そうして、心をいじることによって、社会との関係を見直せとの指示/誘導が、カウンセリングや治療的なまなざしを病院以外の社会にもたらす。そして、個人の心の問題とくれば、自己責任の掛け声まではあと一歩である。
そんなことをしているかぎり、問題をはぐらかしたりごまかしたりすることの繰り返しになるだろう。
問題は、すぐには解決しない。あえて苦しみのなかにとどまり、問題を解決するのではなく、問題とつきあう発想こそ、今もっとも必要なのではないだろうか?
TB用URL http://d.hatena.ne.jp/kizimuna/
これが面白いんですが、鼻血が出た場合、起請文を書いたあと病気になった場合、あるいは鳥などにおしっこをかけられた場合、あるいはねずみに衣服を齧(かじ)られた場合、身体から下血↓場合、これには注がありまして、楊枝で歯の間をほじくっている時に出血した場合と痔が悪い場合は除くと書いてあります。それから、近親に支社が出た場合、父子に罪人が出た場合、飲食の際むせんだ場合、乗馬の馬が倒れた場合という9つの条目があげられたおりまして、こういうことが起こったらば、その本人の起請が偽りだということになります。(中略)
これは「世間」というものの性格をうまく言い当てていると思うんですね。「世間」にはこういうところがあります。偶然にせよ、変な目にあわないためには、常に謙虚に、慎ましやかにおとなしく暮らし、一木一草といえども大事にし、要するに、鼠に衣服をかじらえたりもしないし、ゴキブリだからといって追い回したりしないというふうなことがないと、何かの恨みをかう。そういうふうな関係がここにある。これは、本人の道徳的価値評価ではない。自然界とうまく交わっているかどうか、ということが、日本人の人格評価の基礎にあったのですね。」
」(阿部謹也「日本社会で生きるということ」朝日文庫2003:40-42)
↑ のような人間観・世界観は、今日ではみられない。ただし、そのままの形では見られないという意味だ。
今日では、自然とのかかわりは問題にされない。たとえば犬にかまれたり、鳥のフンを落とされたりしたことで、人格を疑われたり、普段のこころがけが悪いとされることはない。
ただし、中世の自然を社会におきかえると、どうだろうか? もうひとつ、自然でもなく社会でもなく自己との関わりが、「心の商品化」と平行して、過度に重要視され監視にさらされていやしないか?
ふだんから、社会との関係、言い換えれば人間関係が大切だ。あるいは、コミュニケーションとかプレゼンテーションがヘタなのはダメだ。それは、怠惰だ、就職できない、将来大変なことになってしまう、どこか心理的に病気なのではないか・・・・・・。
そうしたまなざしが、個人の自由で自然発生的な人間関係を通じた人格形成を、かえってゆがめてはいないだろうか? また、そのことを通じて、「無為の権利」とでもいうのか、人がただそこにあればいい権利への圧迫となっていないだろうか? 問題を解決することをあせるあまり、問題を隠蔽したり、誤認したりすることが日常化しているとしたら?
個人の社会環境とのかかわり、それを決定するのは個人の内面である。このテーゼから自由になるには、どうしたらいいのだろうか?
近代化のなかで達成してきた、独立した個人、社会は個人の外面はともかく内面を裁かないといった原則は、「心のケア」を起点とし終点とする個人への統制として、社会に拡散している。
そろそろ話をこのブログの主題にリンクさせよう。あなたが失業がいやなのに失業しているのは、暗い・いけないことだと単純に決めつけらえてしまう。あなたが失業しているのは、心に問題があって、社会とうまく関われないからだとされる。そうして、心をいじることによって、社会との関係を見直せとの指示/誘導が、カウンセリングや治療的なまなざしを病院以外の社会にもたらす。そして、個人の心の問題とくれば、自己責任の掛け声まではあと一歩である。
そんなことをしているかぎり、問題をはぐらかしたりごまかしたりすることの繰り返しになるだろう。
問題は、すぐには解決しない。あえて苦しみのなかにとどまり、問題を解決するのではなく、問題とつきあう発想こそ、今もっとも必要なのではないだろうか?
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