フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

「社会とのかかわり」という心理主義

2005-11-24 19:54:18 | Weblog
「 鎌倉時代の1232年、鎌倉幕府制定の貞永式目の追加の条目というのがあります。これはある問題で争っている二人がいて、決着がつかない場合にはどうするか。二人とも偽りの申し立てをしないことを宣誓した起請文を書いて、14日間神社にこもるんですね。その期間中に、次のいずれかの不都合が起こった場合、その人の起請文は偽りだとされたのです。
 これが面白いんですが、鼻血が出た場合、起請文を書いたあと病気になった場合、あるいは鳥などにおしっこをかけられた場合、あるいはねずみに衣服を齧(かじ)られた場合、身体から下血↓場合、これには注がありまして、楊枝で歯の間をほじくっている時に出血した場合と痔が悪い場合は除くと書いてあります。それから、近親に支社が出た場合、父子に罪人が出た場合、飲食の際むせんだ場合、乗馬の馬が倒れた場合という9つの条目があげられたおりまして、こういうことが起こったらば、その本人の起請が偽りだということになります。(中略)
 これは「世間」というものの性格をうまく言い当てていると思うんですね。「世間」にはこういうところがあります。偶然にせよ、変な目にあわないためには、常に謙虚に、慎ましやかにおとなしく暮らし、一木一草といえども大事にし、要するに、鼠に衣服をかじらえたりもしないし、ゴキブリだからといって追い回したりしないというふうなことがないと、何かの恨みをかう。そういうふうな関係がここにある。これは、本人の道徳的価値評価ではない。自然界とうまく交わっているかどうか、ということが、日本人の人格評価の基礎にあったのですね。」

」(阿部謹也「日本社会で生きるということ」朝日文庫2003:40-42)

↑ のような人間観・世界観は、今日ではみられない。ただし、そのままの形では見られないという意味だ。
 今日では、自然とのかかわりは問題にされない。たとえば犬にかまれたり、鳥のフンを落とされたりしたことで、人格を疑われたり、普段のこころがけが悪いとされることはない。
 ただし、中世の自然を社会におきかえると、どうだろうか? もうひとつ、自然でもなく社会でもなく自己との関わりが、「心の商品化」と平行して、過度に重要視され監視にさらされていやしないか?
 ふだんから、社会との関係、言い換えれば人間関係が大切だ。あるいは、コミュニケーションとかプレゼンテーションがヘタなのはダメだ。それは、怠惰だ、就職できない、将来大変なことになってしまう、どこか心理的に病気なのではないか・・・・・・。
 そうしたまなざしが、個人の自由で自然発生的な人間関係を通じた人格形成を、かえってゆがめてはいないだろうか? また、そのことを通じて、「無為の権利」とでもいうのか、人がただそこにあればいい権利への圧迫となっていないだろうか? 問題を解決することをあせるあまり、問題を隠蔽したり、誤認したりすることが日常化しているとしたら? 
 個人の社会環境とのかかわり、それを決定するのは個人の内面である。このテーゼから自由になるには、どうしたらいいのだろうか?
 近代化のなかで達成してきた、独立した個人、社会は個人の外面はともかく内面を裁かないといった原則は、「心のケア」を起点とし終点とする個人への統制として、社会に拡散している。
 そろそろ話をこのブログの主題にリンクさせよう。あなたが失業がいやなのに失業しているのは、暗い・いけないことだと単純に決めつけらえてしまう。あなたが失業しているのは、心に問題があって、社会とうまく関われないからだとされる。そうして、心をいじることによって、社会との関係を見直せとの指示/誘導が、カウンセリングや治療的なまなざしを病院以外の社会にもたらす。そして、個人の心の問題とくれば、自己責任の掛け声まではあと一歩である。
 そんなことをしているかぎり、問題をはぐらかしたりごまかしたりすることの繰り返しになるだろう。
 問題は、すぐには解決しない。あえて苦しみのなかにとどまり、問題を解決するのではなく、問題とつきあう発想こそ、今もっとも必要なのではないだろうか?

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6 コメント

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問題とつきあう発想 (Cun)
2005-11-24 22:20:18
こんばんは



>問題は、すぐには解決しない。あえて苦しみのなかにとどまり、

>問題を解決するのではなく、問題とつきあう発想こそ、今もっとも必要なのではないだろうか?



「問題を解決するのではなく、問題とつきあう発想」具体的にはどういうことですか?

抽象的過ぎてわかりません。。お願いします。





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Unknown (g2005)
2005-12-24 23:15:28
こんばんは。



>「問題を解決するのではなく、問題とつきあう発想」具体的にはどういうことですか?



ワタリ@管理人さんがどうお考えかは存じませんが、私は以下のように解釈します。差し出がましいと思いますが参考までに。



例えば、身の毛もよだつような凶悪犯罪が報じられています。その対策として、地域が団結し、治安維持のために警官を増強し、出所者をトレースし、捜査上必要とあらば盗聴も容認するような論調です。

こうした対応はまさに「問題を解決する」ような行動でしょう。

 一方で、警察権力というものの本質から考えて、盗聴などをいったん認めてしまうと、どんどんやり出すことが考えられますし、その結果余計暮らしにくい世の中になるでしょう。出所者のトレースも更正した人にとっては良い迷惑です。地域の団結だって、人付き合いの煩わしい人や、めちゃくちゃ忙しい人にとっては、カンベンして欲しいところでしょう。そうしたことを踏まえながら、安パイと思われる選択肢を選択していくのが「問題と付き合う」思想と思いました。

 現実には、とりあえず手を打っておいて、より根本的な対策はじっくり考える、というのが妥当でしょう。学校に男が侵入し、多数の生徒が死傷した事件で、都市部の小学校では校門にガードマンを立たせるようになりました。ああいった、「とりあえず」的な対応をしつつ、「子どもの安全を守るためにはどうしたらいいか」「そもそもなぜ子どもを殺すような事件が起きるのか」といったことを考えていく、と。



 あるいは、既に歴史が教訓として我々に教えてくれている場合もあります。国家の発展につながることを信じて大運河を建設した隋の煬帝。その負担から結局隋は短期間で滅びました。聖武天皇は、鎮護国家思想に基づいて大仏や国分寺を建てさせました。その結果は?経済成長こそが唯一の善と信じて工場を稼働させ、その結果、軽症の被害者まで含めたら何万人いるかすら分からない水俣病を、もう忘れてしまったのでしょうか?今我々が正しいと思っていることは、本当に正しいのでしょうか?



 森達也の「A」を評論した宮台真司が、何が正しいことか分からない現代社会では、素早く判断していくことが重要に見えて、実は判断を保留し立ち止まることも重要である、みたいなことを言っていましたが、そんなかんじでしょうか。



全然違ってたらごめんなさい。
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Unknown (ゆーじん)
2005-12-30 17:03:47
ずいぶん前ですがトラバしていただきありがとうございました。

管理人様の考えと異なるかもしれないので違っていたらすいません。問題解決ではなく問題を抱える発想というのは、個人的には以下の様なことかなと考えています。



(働けないではなく)働かない人たちは働くように言われる。だから働く、というのは問題解決的。働かない苦しみの状態にありつづけることで働くことの意味をとらえようとするのは問題と付き合うということ、ではないかと。



あと、昨今の精神疾患たとえばうつやパニック障害はもちろん治療されうるものなのですが、薬を飲んだら即回復というものではない。どうしても時間がかかる。そういう時に、すぐに治そう(解決しよう)というのではなくて、時間はかかるけどちょっと腰を据えて病と付き合っていく(がんばりすぎないようにするとか)という発想が出てくるんじゃないのかなあと。不登校もすぐに解決できるものじゃない場合があるから、やっぱり本人も周囲の人もじっくり付き合っていこうという姿勢が必要になってくるんじゃないかなと思います。ただこの例では「あえて」と思ってしんどさの中に留まってるわけじゃないと思いますが…
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迷信としてのカウンセリング (ワタリ)
2006-01-01 20:30:28
みなさん、いらっしゃいませ。

レスが遅れてしまい、ごめんなさい。親類の通夜・葬儀とその前後の数日間は、主観的な時間が止まったみたいになっています。自分的にはまだクリスマスかなーと思っていたら、もう大晦日、お正月です。



まとめレスで失礼します。



>Cunさん



いい質問です。どこが分からないかハッキリしていますね。説明が下手でごめんなさい。



この記事では、カウセリングとカウンセリング・マインドと呼ばれる一般人がカウンセリング学んで実務に生かす方法に「待った」をかけています。



たいていの場合、カウンセリングやカウンセリング・マインドは、問題を解決できません。労働とか失業の問題を、個人的な心の問題に還元することはできません。

労働環境の悪さ、長時間労働とそれを強いる低賃金、いつでも会社の都合で首を切る不安定な雇用などなどの問題を解決しなければ解決ではないのです。



労災や職業病やうつや過労死・過労自殺が増えている。だったら従業員の心のケアのために産業カウンセラーを導入する。だけど、実際には、カウンセラーを使ったらその時点で「リストラしてください」と言っているようなもの。ある大企業に派遣で勤務したときに、カウンセリング室がありました。だけど、誰も利用しないどころか話題にも昇らない。そんなところに行けば首か村八分です。そして、従業員の人たちは、そこに行っても個人的な問題を指摘され、懐柔されたり責められたりするだけだろうと予感しているのではないか、と思わせるものがありました。



フリーター、またはニートについても、個人の心や生活態度などに問題があると見なして〝治療〟しようとする動きがあります。すでにニート対策は予算もついて政策として動き出しています。

それらは、おまじないのようなものです。何かいっしょうけんめいにいつもと違うようなことをやれば、何とかなるだろうという発想の、非現実的な呪術的な儀礼です。それは、安部さんのおっしゃった中世の日本の裁判とも似ています。フリーターが「わたしは悪くない、低賃金労働が、不安定雇用が悪い」と申し立てれば、ふだんから社会に迷惑をかけないように静かに謙虚にしていなければ、自業自得、訴えは却下ということです。ちょうどDestroyerの言い立てたように「hステリーで被害妄想ぎみで自分の能力を過大評価しているあなた(がた)が悪いんでしょ」ということです。

それは、五穀豊穣をねがって鉦を鳴らすようなものです。いや、一部ではそれを通り越して、不作をもたらす魔女をつかまえて、「自分はニートで、周りに迷惑をかける未熟な存在です。それを情けなくろくでもないと考え、直すためにがんばります!」と否定的な自己認知をさせ、改心する(と社会の代理人たる監督者が判断する)まで教育・訓練の中に閉じ込めるという行いにまで達しています。その奇妙な論理の中では、正社員にならなければ、キレイな心、社会に害を与えない存在になれないというわけです。

そんなことはやめるべきだというのがわたしの考えです。



フリーターや「下流」の人たちが、コミュニケーションが苦手だというのも心理主義の変種です。週に40時間働いても自活できない賃金を受け取りながら、どうして自信をもって人とつきあえるのでしょう。甘えている、サボっている、楽をしていると羨望されたり、軽蔑されたりしながら、どうやって社交の楽しみを満喫できるでしょうか。もしそんな立場に立たされたら、正社員だって人と交わるのが苦痛になったり、社会というものに不適当感を覚えるのではないでしょうか。



そこを、「あなた個人はもっとやる気と自信をもって~」「(自分で自活できるだけの賃金を手にしよう、各種の社会保険・健康保険に入りたいなどというのは)自分の能力を過大評価しすぎ。だから正社員になれないんだ!(例えば内田樹やDestroyer)」「あなた、被害者的になってはダメだよ!(Destroyer)」と

「こころ」の問題にすりかえても、しようがないのです。



おかしいことに、冷酷に人を使い捨てている企業主とか派遣会社の人たちは、「心の問題」扱いされない。また、投資・投機だけで食べている不労所得の人々ーー時には政治ともからんで経済をパニックにおとしいれるーーに心の問題があるかどうかもマスコミ等で話題にされていない。

矛盾を下部・周辺部にしわよせして、個人から経済的・社会的のみならず最後の心理的な肯定という抵抗の基盤を打ち砕く。家族からも友人からも失業・社会的排除という問題は自己責任とされ、ネオコンに完璧にひれ伏した状態で死に至る。それは肉体の死のみならず、精神的な自由の死、思想・信条の自由の切り崩しにほかならない。



「それは問題解決をあせるところから来るのではないか?」 というのがここでの問題提起です。

ならば、今すぐ問題を解決するためにニート塾や、フリーターへの「高望みを捨てろ」といった道徳的な説教をやめよう。今すぐ正社員になれなくても、低賃金・長時間・使い捨て労働であっても、その痛み・苦しみに耐えようではないか。カソリックの教義も言うように、苦しみはまったく価値のないものではない。苦しみの中にこそ、その人の存在があり、尊厳がある場合だってあるのです。



でなければ、問題「解決」ではなく、問題の「解消」がもたらされるかもしれません。

つまり、たとえばアルバイトの雇用を禁止することによってフリーター問題を解決する、なんて案が現実のものとなる。それでも、必要悪としてよくない条件の仕事で、なんとか貯金が減るスピードを遅らせている人々はどうなるのでしょうか?

半失業がいやだからといって、失業すればよいとでもいうのでしょうか?

それに、実際には企業は都合のよい労働を求め、社会にも焼肉の鉄板を洗ったり、荷物をトラックまで運んだり、コンビニでレジを打ったりする人たちは必要です。すべてを今すぐ機械化できないですから。

すると、ヤミの派遣会社がアルバイターを雇って、今よりももっと問題の多い条件で働かせ、残酷にこき使い、過労死も闇の中になるでしょう。



そういった事態を防ぐためにも、問題の解決をあせらない、問題とつきあう発想がもっともっとクローズアップされてしかるべきだと思うのです。



長くなるのでいったん切ります。













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迷信としての教育・訓練・心理主義 (ワタリ)
2006-01-01 20:55:58
>g2005さん



いらっしゃいませ。



いやー、全然違ってなんかいません。ぜんぜん当たっています。g2005さんはカンがいいですね。具体的な例まであげて説明してくださって、感激です!



>宮台真司が、何が正しいことか分からない現代社会で>は、素早く判断していくことが重要に見えて、実は判>断を保留し立ち止まることも重要である、みたいなこ>とを言っていましたが、そんなかんじでしょうか。



ええ、そう。そんなかんじです。



Cunさんへのお返事のなかでも触れましたが、問題の「当事者」を探し当てて、「何が原因なの? 結局アンタが悪いんだろ!!!」と時にハードに時にソフトに説教する動きが流行しています。その原因のひとつに、即座に苦痛を除去し、問題を解決しようとする傾向があげられます。



あなたの例にあげた水俣では、ボロボロの家にすみ、米も買えず唐芋(さつまいも)と魚を常食にしている漁民たち、娘を身売りすることもあった人々が、近代的な工場、それとセットになる学校や病院の設立を喜んだ。ところが、それは生態系を破壊するものだった。待ちに待った病院は、水俣病の原因を隠し、国の方針に沿って患者を認定したりしなかったり、人を県境材料扱いしたりするところだった。



フリーターやニートを〝治す〟と言い張る心理治療や教育・訓練は、下積みの労働者や失業者たちのかかえる問題を理解したり支援したりするつもりです。しかし、その善意はうまく生きることはない。むなしく空回りするのではないか。失業ゼロ、下積み労働ゼロの社会が可能か? それはよいことなのかどうか?

そういった問いとねばりづよく向き合う姿勢こそ、最強の支援ではないかと思うものです。



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つきあう思想 (ワタリ)
2006-01-01 21:07:27
>ゆーじんさん



いらっしゃいませ。



ゆ-じんさんも私の言おうとしていることを、ニュアンス的によくつかんでいらっしゃいます。



労働問題・失業問題は、社会問題です。で、社会問題というのは、個人とか小さなグループの努力だけでは何ともならないという意味です。政策を実行に移させるまでに、時間がかかるでしょう。1年や2年で社会が大きく変化することはないからです。



>すぐに治そう(解決しよう)というのではなくて、時>間はかかるけどちょっと腰を据えて病と付き合ってい>く(がんばりすぎないようにするとか)という発想が>出てくるんじゃないのかなあと。



個人的にある程度ゆとりがなければ難しいですが、そういうことです。労働問題・失業問題という「病」(あくまでもたとえです。)とあえてつきあうといいますか。派遣会社から連絡があるまで自宅待機している息子・娘を家族の方はどうか責めないでやってほしい。目の前の個人の心のもちようの問題ではないのだから。ひどい職場に当たってしまい、1日で辞めた人、数ヶ月つとめてもうこりごりと二度とその会社の面接には行かないことにした人たちを、高望みしすぎだとか、自己愛・プライドが高すぎるだとか、万能感だといった決め付けをやめるべきです。もっと、低賃金をどう上げるか、アルバイトの労働組合や人権擁護NPOをどう作るか、その運営ノウハウなどについて討論すべきです。それこそが、この記事の中でわたしが「あえて苦しみの中にとどまり、問題とつきあう発想」と述べたことなのです。







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