幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「生きるための経済学 <選択の自由>からの脱却」安冨 歩著 ”自愛がベースに”

2020-11-05 21:52:25 | 本の紹介
・標準的市場理論の二つの支柱
1) 最適化原理;人々は実行可能な範囲の中から最も望ましいパターンの消費を選択する。
2) 均衡原理;財の価格は需要量と供給量とが等しくなるまで調整される。

・「実行可能な範囲のなかから望ましいパターンの消費を選択する」という仮定は、「人々は可能な選択肢のなかでもっとも望ましいものを選択する能力がある」ということを暗に前提としている点である。

・社会心理学者 エーリッヒ・フロム(「人生と愛」)
ヒトラーは、意識的には、ドイツにとって最善のことを望んでいると信じていた。・・・
彼がつねに自覚していたのは、自分の行為がドイツを救うという願望によるものであること、運命の名において、人種の名において、神意の名において、歴史の法則を実現するためであること、であった。ところが彼は、自分が破壊の欲望を持った人間であることを意識していなかったのである、彼は斃れた兵士たちや破壊された家庭を直視しえなかった。それゆえ、第二次世界大戦中、けっして前線に行かなかった。個人的な臆病さからではない。むしろ、自分の破壊欲の具体的な結果を目のあたりにすることに耐えられなかったのである。・・・ヒトラーは、自己の破壊欲の実態を見ようとはせず、それを抑圧し、自分の善意のみを体験していたのである。

・エンデ「自由の牢獄」
「ある扉の向こうには、血に飢えたライオンが待ち構えていて、おまえを引き裂いてしまうかもしれぬ。また、別の扉の向こうは、かぎりない愛の歓喜をおまえに与えようとする妖精で一杯の花園かもしれない。三つ目の扉の後ろには、大男の黒人奴隷が不気味に光る剣をかまえ、おまえの首を打ち落とそうとしているやもしれぬ。四つ目の扉の影には深淵が口を開けていて、おまえはそこに落ちるかもしれぬ。五つ目の扉の後ろには金や宝石が一杯入った財宝庫があり、宝はおまえのものになるかもしれぬ。六つ目の扉の向こうには、恐ろしいいグール(食人鬼)がおまえを食わんとして待ち構えているかもしれぬ、といった具合だ、必ずしもそうだとは言わぬ。だが、そうかもしれないのだ。いいか、ここで、おまえはおのれの運命を選ぶのだ。良き運命を選ぶがよい」
この111の扉には鍵がかかっておらず、それゆえこの男は閉じ込められているわけではない。しかしこの扉は、一つを開けた途端に他の扉はすべて閉じられる。しかも、どの扉もまったく同じで何の手がかりもない。

・扉を開けた結果に責任を受けろと言われても、それはできない相談である。これを強制されるなら、それは、「自由の牢獄」にはかならない。

・フロムは次のように利己主義者を観察する。
よく観察すると、利己的な人は、いつも自分自身のことを心配しているが、けっして満足することはなく、つねに落ち着かず、十分に得ていないのではないか、何かを失っているのではないか、何かを奪われているのではないか、という怖れに、いつも追い立てられている。自分より多く得ているような人への嫉妬で、身を焼かれている。さらによく観察すれば、特にその無意識のダイナミクスを見ると、この種の人は基本的に自分のことを好んでおらず、それどころか自分自身を激しく嫌っていることがわかる。
利己主義は、まさにこの自愛の欠如の反映である。利己的な人間とは、じつは自分を愛しておらず、むしろ自分を嫌っている人間なのだ。自分を好まない人間は、自分の価値を認めることができない。そのために、自分の価値を自分自身に言い聞かせるべく、自分のためにあらゆるものを獲得しようとして、貪欲な目を光らせることになる。

・スミス「道徳感情論」
スミスは、他人にどう見られるか、すなわち虚栄こそが近代的個人の「人生の大目的」であり、その虚栄心を満たすことが「利点のすべて」だと断言している。
「道徳的感情論」という書物は、「自分の感情が、当事者でない他人から見てどのように受け取られるか」を考えて自分の感情を調整する、という個人を想定して議論を展開する。

・宗教改革者ルターの自由観は「キリスト者の自由」の観念に集約される。・・・キリスト者の自由は、神にたいする実存的個人の全面服従と罪からの解放を共存させる点で、「自由と服従」の逆説を特徴とし、それゆえ神以外のものには究極的な服従の基盤をもたず、しかも「良心の自由」の概念を・・・先駆的に含んでいる。

・フロム
我々の社会では、一般に感情は望ましくないものとされている。・・・「感情的」であることは、不健全で錯乱していることの言い換えになってしまった。この基準を受け入れることで、個人は大幅に弱くなり、その思考は貧困で平板になった。

・日本では“tachit knowing”の訳語として「暗黙知」という言葉が定着している。
それは誤解である。“knowing”は動名詞であるから、私は、これまで「暗黙に知ること」と訳してきた。

・暗黙知という過程はは、よくわからないものに依拠し、よくわからない方法で統合し、よくわからないものを獲得する、という謎の過程なのである。
つまり、科学的知識は、暗黙知の行動によって獲得される。以上が、ポラニーの暗黙知論の骨子である。その上で、ポラニーは話を進化にまで拡張し適応度を上昇させるようなたんなる探索過程と、これまでに存在しなかった機能を生命が見出す過程を区別し、後者を「創発」と呼ぶ。

・創発と暗黙にについての興味深い例
医者の卵が胸部のレントゲン写真を見ても何が何だかわからなかったものが、多くの写真を見て、先輩医の話を聞くうちに、なんとなく結核や肺ガンの病巣が見分けられるようになる自邸がある。

・フロム
生への衝動と破壊への衝動は、相互に独立な要因ではなく、逆の相互依存関係になっている。生への衝動が阻害されれれば阻害されるほど、破壊への衝動は強くなる。生が実現されればされるほど破壊性の強度は低くなる。破壊性とは、生きられなかった生の結果なのである。

・組織マネイジメントの根幹は、マーケティングとイノベーションである。マーケティングとは、その組織が外部から何を求められているのかを察知し、それに組織の作動を適応させることである。この適応のために、自分自身を常に変えることが、イノベーションの本質である。

・創発を阻害するものとは何か。それは個人の内面について言えば「自己欺瞞」であり、コミュニケーションの観点から見れば「ハラスメント」である。これらは同じコインの両面の関係になっていると私は考える。

・フィンガレット著「孔子」
孔子の思想に「選択」という概念がない、という重大な指摘をする。
「論語」には「選択」を迫られるような比喩は一つもない。「論語」においては道は分岐せず、またどこに辿りつくのかもわからない。

・自愛により利己心を乗り越え、自分自身に立ち戻ることにより、自律的でありつつ孤立しない、積極的自由を達成しうる。

・フロム
自発的な活動こそが、人間が自我の統合を犠牲にせず、孤独の恐怖を乗り越える、唯一の道である、なぜなら、自我の自発的実現のなかで人は、改めて自分自身を世界と-つまり人と、自然と、自分自身-統合するからである。

・私の親は」よい学校を出れば、将来、何をやりたいと思っても、何でもできるのだ」と説得した。私もなるほどそれはよい考えた、と納得した。
私はせっせと勉強して進学校に合格し、さらに京都大学に潜り込んだ。大学を卒業して、20年以上経過した最近になってようやく、「選択肢が広がる」ということが、大きなまやかしであることに気がついた。

・アダム・スミスの考える虚栄による秩序
自動人形⇒虚栄⇒人の目⇒相互作用⇒秩序化

・自我を喪失し、社会的自我によって乗っとられた人は、自己嫌悪に陥る。なぜなら、自分の真の姿が、社会的自我の要求に合致していないため、それが価値のないものに思えるからである。

・家庭でハラスメントを受けているだけで、当時の私はいつも自殺を考えており「自殺、自殺」とよく独り言をつぶやいていた。どうしても我慢ができなくなればその手があると思うことで、かろうじて我慢していたのである。それゆえ、ベストセラーとなった「完全自殺マニュアル」を読んで非常に共感した。・・・。いつでも死ねると思うことではじめて生きることができる、というこの本の主張は、「自殺、自殺」とつぶやいて辛うじて生きていた当時の私の姿と一致している。
もしもあのとき、私がもう少し人間らしい人間であり、仕事依存症になって業績を積み上げることができず、家庭ばかりでなく職場でもハラスメントを受ける側に回っていれば、この完全マニュアルを活用して本当に自殺したのではないか、と感じている。そうなれば私の親や配偶者や同僚は、「自殺するようなそぶりはまったくなく、理由にも心当たりがない」といって嘆いてみせたこであろう。

・自立した人間には、フロムの言う積極的な意味での自由がある。「自由とは、円熟し、完全に成長し、生産的な人のもつ性格構造の一部ともいうべき態度」のことであり、「自由人とは愛情深い、生産的な独立人である。この意味での自由とは、二つの可能な行為から特定の一つを選択することとは何の関係もなく、むしろその人の有する性格構造と関係がある。そしてこの意味では『悪を選択する自由をもたぬ』人は完全な自由人である」
こうした自由を実現したならば、その人の思考、行為、コミュニケーションには、創発が満ち溢れる。暗黙の次元の作動は妨げられず、柔軟でなめらかに生きることができる。ある人の創発は別の人の創発を惹起しうる。

・子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。

・自愛⇒自分自身であること(忠恕)⇒安楽・喜び⇒自律・自立⇒積極的自由⇒創発

・「自由とは、円熟し、完全に成長し、生産的な人のもつ性格構造の一部ともいうべき態度」

感想
選択の自由があるといっても、それを正しく選択できる能力がないと、自由がないのとおなじなかもしれない。常によくない選択肢を選んでしまうかもしれない。
また、無意識の力が選択に影響を与えていることもあるかもしれません。

自愛が先ず第一歩とのこと。
自愛があるから他者に心を配ることもでき、自由な選択もできるのでしょう。

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