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安保法案「憲法の許容範囲」…首相、批判に反論 ”グレーを白とみるか黒とみるか”

2015-07-30 10:18:27 | 社会
http://news.goo.ne.jp/topstories/politics/80/2d565ee6badfce10b1d91ceb2907b54b.html(読売新聞)

 安倍首相は29日の参院平和安全法制特別委員会で、野党が安全保障関連法案を「憲法違反」と批判していることについて、「法整備は憲法の許容する範囲内であり、憲法改正が出来ないから解釈変更を行うものではない。最高裁判決の範囲内だ」と反論した。

 首相は北朝鮮の核ミサイル開発などへの懸念を表明する一方、「自衛の措置としての武力の行使は最後の手段であり、紛争の平和的解決のために外交努力を尽くすことが前提だ」と強調した。さらに、南シナ海の埋め立てなど中国の海洋進出について、国際会議などで批判してきたことを挙げ、「国際社会の理解が中国の政策的な変更につながっていくことを期待したい」と語った。

 また、首相は維新の党が参院に対案を提出した場合の対応について、「(与野党)協議で合意が得られれば、 真摯 ( しんし ) に対応したい」と述べ、修正協議に期待感を示した。安保関連法案のうち自衛隊法など10の現行法改正案をまとめた「一括法案」を野党が批判していることについては、「バラバラでは分かりにくい。総合的に判断してもらうことが適当と判断した。10本にばらして再提出する考えはない」と述べた。

感想;
グレー(灰色)を白色と主張しているのが安倍首相の自民党と公明党です。それは黒と主張しているのが野党です。
国民はこのグレーをどう見るかなのだと思います。憲法は国民の安全と幸せのために存在しています。

今回の集団自衛権が、国民の安全と幸せに貢献するのが、逆にリスクを高めるのかの判断と、法的な手続きの問題の2つがあります。
法的な手続きについては、以下の点を考慮して判断することのように思います。
1)歴代の内閣の解釈
2)憲法学者の解釈
3)元最高裁判事の解釈
そうしないと、内閣が変わると、勝手に憲法を変えてしまい、ドイツのワイマール憲法下のヒトラーの独裁を許してしまうようなことが起きてしまいます。
今回の事例は1)、2)、3)とも、集団自衛権は違法との解釈が大多数をしめています。

次は集団自衛権が国民の安全に貢献するかです。
首相は安全を高めるため、平和のためを力説しています。
米国は第二次世界大戦終結後の70年にたくさんの戦争を行っています。一方、日本は戦争に関わっていません。
集団自衛権は米国が攻められたら、日本が参戦する法律です。ということは、日本は戦争に巻き込まれるということが歴史からも明確です。
どう考えても、この70年の安全を破ることははっきりしていると思えるのですが、いかがでしょうか?
後方支援の兵站も議論されていますが、兵站を攻撃するのは常套手段です。実際、兵隊を協力している海外の軍隊で死亡者が出ています。
昨日の国会の安倍首相の答弁は、「イラクで犠牲者がでなかったから今後も安全だ」を主張されていました。
それは集団自衛権がない時代の話です。集団自衛権での状況は誰もわかりません。リスクが高くなることは予測できます。

参議院の論戦で問題点を明確にして、国民が意志表示をしなければならないのだと思います。
新国立競技場の2,500億円も、安倍首相は見直ししないと断言されていましたが、あまりにも国民の反対が強くなったので、「ゼロベースで見直す」と発言されました。あれ?前は今から見直しは間に合わないと断言されていたことは、嘘だったの?と思ってしまいました。ゼロベースで間に合うか間に合わないかを十分確認されずに重大な決断をされていたなら、これからの決断が本当にしっかり確認されて行わるのかとても不安になりました。この集団自衛権も同じような判断なのではと思ってしまいました。








「会津藩始末記 -敗者の明治維新」 永岡慶之助著 ”歴史に翻弄された会津藩”

2015-07-30 01:22:56 | 本の紹介
会津藩は新政府に完膚なきまで攻撃されました。白虎隊など多くの若い人々が犠牲になりました。新政府に降伏したのに、それが許されずに攻撃されました。それは蛤門の変で、長州の優秀な人びとが討たれてしまったことを、長州が根に持っていて許さなかったと言われています。
昭和3年の秋、松平容保(かたもり)の孫娘勢津子姫が、秩父宮家に入輿されてようやく、維新時の「朝敵」の汚名から逃れることができたとのことです。
幕府から、京都の警護に松平容保が君命を受け辞退したが受け入れられず、任務に就きました。まさに京都は攘夷派が天皇側と接触し流動的な企ての場でもありました。

孝明天皇は松平容保を信頼し、三条実美らのグループを追い出しました。まさにそのグループが朝敵だったのです。蛤門の変では長州が天皇を味方にせんと戦いを挑みましたが、薩摩藩が会津藩側につき、長州を退けました。その結果が7卿の都落ち、長州に落ち延びて行きました。

孝明天皇が崩御されると(天然痘で亡くなったとのことだが、噂では岩倉具視が毒をもったとのうわさも流れた)、14歳の天皇(明治天皇)になったが、まだ若く祖父が実権を握り、その祖父と岩倉具視が手を結んだことで、それまで天皇に恭順で信頼の厚い松平容保が朝敵になり、それまで朝敵だった公家たちが復活しそれを策略したのが岩倉具視とのことである。また、それまで長州に敵対していた薩摩が長州と手を結んだ。

岩倉具視は正式な手続きを経ずに徳川幕府を倒せとの勅命(その勅命には会津藩と津藩を亡ぼすようにとの命もあり)を長州、薩摩に与えた。攻撃をしようと立ち上がろうとする直前に土佐藩の山内容堂が徳川慶喜に大政奉還を提言し、それを受け大政奉還をしたために幕府を倒す口実を失ってしまった。

そこで西郷隆盛は江戸に人を送り、豪商から金を掠奪するなどして騒動を起こし、幕府がその騒動に乗ってくるようにした。幕府はついにその手にのり薩摩藩邸を攻めた。これにより、新政府は西郷隆盛を先駆隊とする兵を江戸に向けて進撃した。その後の西郷隆盛のイメージと大きく異なっている。

米沢藩上杉斉憲は松平容保の窮状に深く同情を寄せ、新政府側のやり方がひどく奥羽越列藩同盟を立ち上げ(31藩が参加)会津藩を救援しようと立ち上がったが、新政府への願いもかなえられず、会津藩は悲惨な最後を迎えた。降伏を示している会津藩を討伐しなくてもよいのではないかとの意見もでたが、長州の恨みが強く、討伐派が主導権を握った。

感想;
幕府の命を受け、京都の治安に尽力を就くし、孝明天皇からも信頼を得ていたのが、孝明天皇崩御後一変して朝敵になり、討伐までされてしまいました。会津では長州の人との結婚は反対されていたとのことをきいたことがあるが、その理由もわかるように思います。真面目に仕事をして恨みを買い、上が変わったら賊にまでされてしまい、討伐されたのですから。
明治政府は主に薩長が指導権を握りました。そのために新政府に参画できなかった藩では多くの苦難があったものと思われます。
まさに歴史は征服者が創り、征服者の思う社会になっていくのだと思います。