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「宮廷画家ゴヤは見た」
(原題:"Goya's Ghosts")
監督 ミロス・フォアマン
出演 ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン
2006
(IMDb)
エル・グレコ、ベラスケスとともに「スペイン三大画家」に数えられるゴヤ。
「わが子を喰らうサトゥルヌス」や二枚の「マハ」(「裸のマハ」と「着衣のマハ」)などで知られるこの画家は、まさに巨匠と呼ばれるにふさわしい。
40台半ばに聴力を失った画家は、以降、より研ぎ澄まされた目で時代を捉えてゆく。
大げさにいえば「ジャーナリズム」的ともいえるまでに、画家は「真実」から目を背けることなく、世界を描き出す。
時代の真実を見つめる姿勢は、ゴヤの画家人生における重要な要素であると同時に、本作「宮廷画家ゴヤは見た」を貫く主題のひとつでもある。
その意味で、(例外的といってよいのか)この映画に関しては、英語による原題よりも、邦題の方が的を射た表現になっているように思う。
(最後まで"Ghosts"の要素に関してはよくわからなかった)
スペインとアメリカの合作によるこの映画は、終盤の「粗さ」こそ若干気になるものの、全体としては非常に完成度の高い作品であるように感じた。
単純に画家の人生を追ったものではなく、極めて多面的な見方を許容する作品となっている。
ゴヤに視点を合わせてみれば、「芸術」とは何か、何を表現すべきなのかといった問いが生じ、時代情勢に目を移せば、「正義」とは何なのかといったことを考えさせられる。
ナポレオンの侵攻や、異端審問の是非など、政治的・宗教的な視点でみることもできる。
この映画における画家の立ち位置は、「中心」というよりは、むしろそこから一歩引いたところにいる。
いうならば「オブザーバー」的な視点から時代を見つめるゴヤのこうした立ち位置は、DVDのパッケージにも表れている。
この記事のトップに貼り付けたものにせよ、英語版のWikipediaに掲載されているものにせよ、三人のなかでゴヤは一番小さく映っている。
「見る」ということが、この画家を語る上で不可欠な要素なのだ。
余談になるが、この映画の8分30秒あたりから、ゴヤが「手」を描くことについて語るシーンがある。
以前、「手」の描き方に画家の力量があらわれると聞いたことがあった。
映画のなかで、ゴヤも同様のことを言っていた。
だから、モデルの神父に対し、画家は、手を描くかどうか事前に尋ねている。
手を描くのは難しいため、「追加料金」が発生するとの由。
閑話休題。
絵画に興味のある人、ゴヤについて知りたい人、歴史や宗教に関心がある人。
正義とは何なのか。
芸術とは何なのか。
「宮廷画家ゴヤは見た」はこうした根源的な問いを少なからず生じさせるのみならず、ひとつの映画としても、多くの人にとって、十分楽しめる作品となっている。
おすすめの一本である。
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